「もしかしたら、次に噴火が起きたら、復興はできないかもしれない」
橋本 今の慈さんの話とも繋がってくるんですけど、この『観光地ぶらり』はウェブで連載してたものなんですね。最終回が8月に公開されたんですけど、僕がぽやぽやしてたせいもあって、いつ書籍になるかって話が進まないまま、ちょっと時間が経ったんです。それで、編集者の方に「そろそろ打ち合わせを」と連絡をしたのが去年の年末あたりで、年明けすぐに会って話すことになったんです。そうしたら、担当編集者の方が、「この本は2024年の今、出す意味がある本だと思う」と。その打ち合わせの数日前、1月1日に能登で地震があったわけですけど、「この本の取材先として、能登が入っていてもおかしくなかった」ということを、編集者の方が言っていたんです。そこから連想したのは、最後に書き下ろしの回として執筆した、登別・洞爺の話で。その取材のなかで、昭和新山の麓で土産物屋をされている方にも話を伺ったんです。その土産物屋のすぐ近くに有珠山があるんですけど、有珠山って定期的に噴火を繰り返してる火山で、そのたびに結構な被害が出てるんですね。でも、そのたびにどうにか復興して、今がある。それで、周期的にはそろそろ噴火してもおかしくない時期らしいんですけど、「もしかしたら、次に噴火が起きたら、復興はできないかもしれない」って、土産物屋さんが言っていたんです。今はいろんな土地で災害が起きている上に、コロナ禍で国も自治体もたくさんお金を使ったから、次に噴火が起きたとしても、復興させるだけの予算がないんじゃないか、と。その言葉を、いろんなメディアを通じて能登の現状に触れるたびに思い出すんですよね。
慈 ……どうですか、平民さん。
平民 何がですか?
慈 今の話、聞いとったん?
平民 いや、聞いてましたよ。橋本さん、ちょっと、みたらし団子食べてみてください。みたらし団子にビールを合わせて飲むと絶品ですよ。兵庫区ではこのスタイルです。
慈 いや、知らんなあ。
平民 まだここらへんには広まってないでしょ。みたらし団子をつまみながら、ビールを飲む。これね、最高のツマミですよ。
橋本 平民さん、結構食事も制限されてましたけど、団子は食べてるんですか?
平民 最近、和菓子ブームなんですよ。福進堂って、新開地では有名なとこで。
慈 だいぶ痩せたよね。久しぶりに会うたから、さっき平民さんってわからんかってん。大丈夫なん?
平民 いや、もともとこれぐらいなんですよ。神戸に来てから、どんどん増えてたのを、東京時代に戻しました。やっぱり、このへんで好きなことしてたら太りますよ。知り合いの肉屋で焼き豚買って、好きなようにしてたら、どんどん増えていく。
慈 ジムとか行ってんの? それか、ハーバーランドで腕立てとか、街的な痩せ方をしてんの?
平民 「街的な」って——ああでも、須磨浦の山はずっと登ってます。
慈 旗振山(はたふりやま)?
平民 そうそう。ひと月で23日登ってました。山はええなと思って。
慈 山、いいんですよ。最近、街が嫌いになって、山が楽しくなって(笑)。「慈さん、水道筋どうなんですか?」とかって聞かれても、「いや、その話はもういいです」っていう感じでね。いや、もう、街のことは若い子らがやってくれてるから、僕はもういいんです。平民さんじゃないけどね、最近ちょっと、人と話すのが苦手になってきたんです。……ごめん、全然観光地と関係ないわ。平民がみたらし団子の話なんかするから、こないなる。
平民 橋本さん、鬱っぽくなったりしないんですか。橋本さんも、勤め人ではないでしょ。部屋に帰って、べたーって床に寝転がって、そんなふうになったりしません?
慈 橋本さん、術中にハマらんようにせんとあかんわ。平民がトークを壊しにきてるから。
橋本 今のところ、鬱っぽくなることは全然ないですね。
平民 いや、こうやってトークイベントをやるにしてもね、朝にメールが送られてきて、「今日、トークイベントに出てもらえませんか?」って言われて、そのとき元気やったら行くんですよ。でも、2か月も3か月も前から「5月何日にトークイベントを」と言われても、そのとき元気かどうかわかんないでしょ。だから、橋本さんから最初に誘われたとき、断ったんです。そういう人間って、責任感が強くて完璧主義者で——典型的なそういう人間なんです。
慈 できん約束はせえへんってこと?
平民 「この日の何時から」ってことで引き受けてしまうと、どんだけ気分が落ち込んで、希死念慮にとらわれていたとしても、「引き受けたからには」と思ってしまう。それで、壊れてしまう。……こんな話じゃないですよね?
橋本 こないだ岡山でトークイベントをしたときに、70代ぐらいのお客さんが、「観光って言葉に、少し抵抗がある」とおっしゃっていたんです。「観光っていうと、ただ眺めて帰っていくだけの傍観者みたいな感じがする」と。それはもう、おっしゃる通りで、観光客は傍観者でしかないと思うんですね。これは沖縄県本部町の水納島をテーマに『水納島再訪』って本を書いてから、強く感じるようになったことで。水納島はほんとに小さな島なんですけど、沖縄本島からフェリーで15分の距離にあって、とても綺麗な海があるってことで、年間7万人の観光客で賑わう島なんですけど、そんな島が今、無人島になる危機に瀕している。「関係人口」という言葉もあるように、島の外に暮らしている人たちが関心を持ち続けることで、ある程度改善できることもあるとは思うんですけど、島が無人島になる危機を回避するには、そこに移り住む人が現れないことには、どうにもならないんですよね。ただ、その一方で、「傍観者でしかいられないのなら、足を運んでも無意味だ」と思ってしまうのはよくないことだと思うんです。能登で地震があったときに、「わざわざ押しかけても迷惑だから、能登に行くべきじゃない」って言葉があちこちで語られて——その言葉にもある程度の正しさは含まれているとは思うんですけど、「出かけていくのは迷惑」ということが意識され過ぎた結果として、まったく復興が進んでいない現状があるし、月日が経つにつれて関心が薄まってしまっている。そのことを考えると、傍観者であることを引き受けつつ、どこかに出かけるってことは必要なんじゃないかと思ったんです。
慈 沖縄には100回近く行ってるんですけど、ただ「自然が綺麗です」「海が青いです」っていうだけでは済まないところがあるので、そこがね、自分のなかでは澱みたいにあるんです。それはもちろん、自然は綺麗ですよ? 綺麗やし、楽しいけど、しんどいところもありますよね。それは、ひとつには、自分は沖縄に住んでないっていうのも影響してるんですけど、そこは「常に気にしとく」ってことでやってるんですけどね。
橋本 それで言うと、憂鬱とは違うんですけど、取材でどこかに出かけるときにも、結局のところ傍観者でしかないということは、当然ながら引き受けるしかないと思っているところはあるんです。引き受けるも何も、勝手に出かけているだけなんですけど。『観光地ぶらり』のあとがきで、演出家の危口統之(きぐち・のりゆき)さんの言葉を引用したんですけど、危口さんは亡くなる前に「疒日記(やまいだれにっき)」を書かれていて。危口さんは2016年に、ステージⅣの癌であると公表されて、「疒日記」を書き始めたんですけど、いろんな人からメッセージが届いたそうなんですね。「何か私にできることはありませんか?」って。それに対して危口さんは、できることなんてないんだ、と。「みんな、もちろん僕自身も含め、自分がデクノボーであることに耐えないといけないと思う」と。自分は一個のデクノボーであるということを自覚して生きていかざるを得ないんだというところでは、憂鬱とはまた別の感覚だとは思うんですけど、それを抱えて生きている感じはありますね。
自分というものがすごく重たかったんですけどその荷物がなくなった感じがした
橋本 慈さんは年に何度か沖縄に行かれるという話でしたけど、おふたりとも、基本的には自分が暮らしている地域から出ることなく暮らしているわけですよね。ただ、その一方で、若い頃にはいろんな土地を旅した時間がある。そういう旅をした時間と、その記憶がどういうふうに人のなかに残っていくんだろうかってことも、『観光地ぶらり』を書きながら考えていたんです。
慈 僕はずっと灘に住んでて、「ここから出ない」と言ってるんですけど、街を客観的に見るように心がけているんです。関東に10年間おって、こっちに帰ってきてからも、ここをホームとは見ないようにしてるんですよね。「観光」とまでは言えないにしても、ちょっとよそ者視点で、斜から見る癖がついてる。「わが街、大好き!」みたいなこと言うのは大嫌いなんでね、灘のことをバーンと下げてしゃべることもあるし、摩耶山に行こうがどこに行こうが、「初めて来た」とまでは言えないにしても、いつも違う気持ちで見るようには心がけてるんです。いつも見ているものでも、旅行感覚で見たら違って見えてくるよね、と。旅行感覚で住むというかね、よそ者感覚で住む。だから僕、地元ですけど、自治会とかそういうのには一切コミットしてないですからね。「たまたまここに20年ぐらいおるんです」みたいな感じで住んでるのがラクなんです。
橋本 その感覚っていうのは、旅を通じて得たものでもあるんですかね?
慈 そうかもしれないですね。でも、僕、実際によそ者なんです。僕はもともと灘南なんで、JRより下なんですよ。そんな人間が、今は阪急より上に住んでいる。もうね、緯度が高過ぎるんですよ。だからよそ者感覚で住んでるんですけど、そしたら毎日楽しいですよ。毎日会う人にも、「新参者なんでよろしくお願いします」みたいな感じで挨拶できるしね。100メートル違ったら、空気感が違いますからね。川を渡るたびにどきどきします。「三宮まで行ったらブラジルや」みたいなん、よく言うじゃないですか。兵庫区なんか、どこの外国ですかという感じでね。そんなふうに住んでいたら、神戸が楽しいんです。
橋本 微妙に違うエリアとはいえ、広い意味では「地元」に戻ってきた慈さんに対して、平民さんは今、生まれ育ったところとは別の町に暮らしていて、その外側にはあまり出ない生活を送っているわけですよね。それは、旅をしていた頃とは全然別の時間を生きているって感覚なんですか。あるいは、今も旅の途上というか、たまたまこの町に住んでいるっていう感覚なんですか。
平民 僕ね、ぶらぶらしてたときっていうのは、景色を見るとかじゃなくて、自分の内面ばっか見てたんですね。電車に乗ってても、自分はどこから来てどこに行くのか、ずうっと自分のことを考えてた。それが、神戸に来てからはがらっと変わってるんでね。今はもう、こどものために生きてるんでね。いや、これ、なんなんですかね? 自分でもよくわかんないですね。自分っていうものがものすごく重たかったんですけど、その荷物がなくなった感じがして。ちょっと話が飛ぶけど、今、自治会とかそのへんのことで、がんじがらめなんですよ。
慈 だって、朝にコレ(通学路の旗振り)やっとんやろ?
平民 やってるし、今、PTAの会長なんですよ。ノンフィクション作家の西岡研介がPTA会長になったのを「アホやな」と馬鹿にしてたけど、今は自分が会長になってるんです。だから——「自治会とかコミットしない」っていうのは、地元民の余裕やな、と。僕は外から来てるから、そういうのに入れてもらいたいっていうのがあるんかもしれないです。持ち家の人らとか、代々その町に住んでる人に感じる余裕を、慈さんにも感じるんですよね。慈さん、お父さんもこのへんでしょ?
慈 広く言えばこのへんやけど、200メートルぐらい先やで?
平民 僕が地域のなにかにがんじがらめになってるのは、自分がよそ者やっていうのを認知してるからやと思うんですよ。これからどうなるのか、自分でもわからないですけど。
慈 神戸なんてね、もともと全員よそ者なんですよ。
平民 それはうまくまとめ過ぎ。
慈 でも、そう思えへん? このへんは特に、「代々ずっと住んでます」みたいな人、ほぼいないですよ。だって、明治の初めまでは10軒ぐらいしか言えなかったんですから。全員知らん人ばっかりですよ。
平民 橋本さんって、高校時代とかね、「俺、なんなんやろな?」みたいなこと考えました?
橋本 まったく考えなかったってことはないと思いますけど、自分の重さを抱えて歩いてきたっていう感じはない気がします。これは今でもそうですけど、自分の内側にはそこまで関心が向かないところがあるんですよね。自分の内側を覗き込んでも、そこにはなんにもないだろうな、と。
平民 ZAZEN BOYSを追いかけるパッションはどこからくるの?
橋本 なんでしょうね。最近、庄司薫の『ぼくの大好きな青髭』を読み返したんですけど、そこに「若者の時代は終わろうとしている」という話が出てくるんですね。世界は若者の情熱やエネルギーにして燃えているけれど、若者の時代はいよいよ滅びようとしていて、つまり青春というものがなくなる、と。それはすごく響く話なんですよね。若者が戦争に命を賭した時代もあれば、政治に燃えた時代もあって、カルチャーの時代があって——そういう系譜のなかに、旅の時代もあったと思うんですね。でも、若者の時代はいよいよ終わりを迎えつつある、と。そういう感覚は、僕のなかにも漠然とあったんです。高校時代とかに、ロックを聴いたりコピーバンドをやったりする同級生もいたんですけど、それに対して、「自分は今、青春時代を生きているから、ロックに情熱を注いでいる」みたいな感じがして、ちょっと違和感があったんですね。今になって考えると、誰が何を聴こうがその人の勝手だし、すごく偏狭な感覚だったなと思っているんですけど。ただ、大学生になって上京して、友人に誘われてロックバンドのライブに行ってみても、どうもノレなかったんです。盛り上がるために盛り上がろうとしているように思えてしまう、というか。でも、偶然聴いたZAZEN BOYSは、歌詞もサウンドも、何にも変え難い衝動がここにある、と思えたんですよね。ここにすべてがある、というぐらいに。これに触れるためなら、他の何をおいてでも出かけたいって気持ちになって、原付で追いかけ始めたんです。
地域がどうなっても知ったこっちゃない。僕が何かしたところでなるようにしかならない。
橋本 平民さんはnoteの日記で、公園の掃除のことを時々書かれてますよね。公園というのは勝手に綺麗に保たれているわけではなくて、そこを清掃する地域の誰かがいて環境が保たれていて、それを引き継ぐ人がいなくなったら——と。その日記を、『観光地ぶらり』の取材に出かけた先で、時々思い返していたんです。たとえば五島列島だと、観光マップにも記されている美しい棚田の風景が、今はそこを耕作する人がいなくなったことで、原野に戻りつつある。地域のことを引き受ける誰かがいなくなると、街の景色も変わっていくわけですよね。いろんな土地を旅したあとに、今はひとつの地域のなかで暮らしているというときに、その地域に関わるというのは、何が原動力になっているんですかね。
平民 僕はね、地域がどうなっても知ったこっちゃないんですよ。何かあったら、引っ越せばいいんでね。だから、「知ったこっちゃない」ってことが根底にあるはずなんですけど、自分が今やっていることって、それとは全然違うんですよね。まさに今、分裂してる状態なんです。処理しきれてないんです。「地域を良くしたい」とか、そんなことが頭をよぎることもあるんやけれども、僕が何かしたところで、なるようにしかならないんですよね。川の流れのようにね、僕も消えていくし、皆そんな感じでね。だから、自分の結論としては「何かしたところで、どうにもならない」という考え方でいるはずやのに、なんでもかんでも背負ってる状態になっている。だから、ちょっと、わかんないですね。
慈 僕はもう、地域をよくするって考え方はまったくないんですよ。自己中心的なんですけど、どういう街であったら俺がラクかみたいなところで全部行動してるんですよね。それで皆が「ああ、それはいいね」となれば、それはまちづくりなのかもしれないですけど、基本的には僕がおもろいと思うかどうかってことしかないんです。僕はたまたまここにおって、たまたまここで生きていくなかで、どう機嫌良く生きていくか。そればっかり考えてるうちに、30年ぐらい経ってるんですけどね。「慈さんはまちづくりの人」とか言われることもあるけど、もう、とんでもないって感じでね。あとはね、後ろがだいぶ見えてきたというのもあるんですよ。平民さんはまだ早いけど、死ぬ年が見えてくると、ああ、やばいやばいってなってくる。生きてるうちに、あと何ができるかな、って。自分が楽しく生きるために、何ができるか。それが今、原動力になってるんです。色々逆算していくと、「ああ、それやったらあと2年でこれやっとかんと」って。それは街のためじゃないよ。山のためじゃないよ。僕がおるうちに、こんだけ面白いことあったらいいよね、って。だからもう、完全に自分のためですね。
筆者について
はしもと・ともふみ。1982年東広島市生まれ。物書き。著書に『ドライブイン探訪』(ちくま文庫)、『市場界隈 那覇市第一牧志公設市場の人々』、『東京の古本屋』、『そして市場は続く 那覇の小さな街をたずねて』(以上、本の雑誌社)、『水納島再訪』(講談社)がある。(撮影=河内彩)