コンドームをつけた上でセックスをすれば、妊娠の可能性は下げられる。ただ、射精する以上、その可能性はゼロとはならない。体内に精子が存在し続ければ、「予期せぬこと」が起こる可能性があり、それにより時に、他人の身体や人生までを大きく変えてしまうこともある。そのことを私は、決して望んでいない――そう考えて、パイプカット(精管結紮術)に臨むことになった評論家の荻上チキさん。しかしそこに至るの道のりは決して平坦ではなかったようで……?
男らしさ、孤独、性愛、セルフケア……中年男性として新たな親密圏とアイデンティティの構築に七転八倒する、新感覚の社会評論エッセイ連載がスタートです!
第5回は、玉袋に穴が開いている、と訴えたところ、医師に睨まれるチキさん… はたして…?
医師がこちらを睨んでいる。
「お願いします」とこちらが言い、「お待たせしました」と医師が言う。それから医師は、次のようなことを一気に述べた。
「えーーーーっと。長いことやってるんだけど、こういう患者さん、初めてなんだよ。傷がくっつかないって言ってる人ね。使ってる糸も同じだし、切り方も全く同じだし。開いてくるっていうことは、何かしら、すごくテンションがかかる日常生活があるってことなんで」
決して早口ではないが、強い調子で断言する。私の股間は、他の人と異なる状態にあるのだと。
しかし、テンションとはなんだろう。私の股間には、他の人にはないほどの緊張や張力がかかっているということか。
「しっかり縫ってる。毎回。24時間あなたにくっついてペニスばっかり見てるわけじゃないから。わからないよ。あなたも寝てる間のことはわからないだろうから、それはなんとも言えないけど。いわゆるサービスしときますよっていうのは、我々の世界では、ない。治療費はかかる」
あれ。僕は会計や手術の前に、まずは患部の状態を見て欲しいと伝えたのであって、治療代を無料にしろなどとは言っていない。どうも齟齬が生まれている。そこで改めて、先に説明を受けたかったという意図を説明する。
ーー前回、「切開するかもしれないですね」ってお話されていたので。今日の施術の説明を受けたくて。
「4、5日経ってて、もう傷がもう完全に乾燥しちゃって、上皮化って言うんだけど、 そういう風になってたら、はっきり言って切って縫う意味がないわけよ。にも関わらず、あえて閉じてくれって言われると、傷を切り直して縫うわけ。そういう状態じゃないですよって言っただけ」
ーーええと、今回は見なくても、その状態であることは確認できるんですか。
「できますね」
ーーなるほど。じゃあ、縫うのみで、今回の対処も同じっていうことですね。
「切って縫うってことになると、値段かかりますよ、ほんとに。前よりもかかるから。準備もあるしね。現実的じゃないじゃないですか。あと、あなたにちょっと言っておきたいんだけど。この傷に関しては、海外だと縫わないです。このぐらいの傷だと。 縫わない先生の方が圧倒的に多いんだよ。液だとかそういうものが出ても気にしない人の方が多いわけ」
ーーあ、健康に特に差し障りがないから、本来は縫う必要はない?
「縫う必要はないとは言わないけど、縫わないで済むぐらいの小さい傷だし、部位的にもそうですよっていうとこなんだよ。しっかり縫ってるにも関わらず開くっていうのは、何かしらある。 何で、その、何かしら。わからない。ただ、縫ってほしいって希望があれば僕はやりますけども。でも、 これって絶対大丈夫なのか、大丈夫って言え、てめえ、この野郎みたいなこと言われたら、治療はしない」
私の穴は、縫う必要がないのか? 縫ったとしても、また穴が開く可能性があるのか? 縫った上で「テンション」がかからないように生活するにはどうすればいいのか? 疑問が次々と湧いてくる。
「ちょっとお付き合いできない。やるならやる。やらないならやらない。他の病院に行って縫ってもらいたければどうぞ。そんなとこですよ。傷が開くっていうのは、縫合不全ではないんだから。 縫合不全ではないです。縫合不全だったらいきなり開いちゃってるから。縫合不全はないし、糸の強度が足りないってこともないわけ。むしろ裂けちゃってるわけ。裂けてるってことは、不要にテンションがかかってる。この前も見てそうだったから。そういうのがあるのよ。で、それは注意してもらわなきゃいけないし、注意したにも関わらずって言われてもどうしようもないよ僕は。あなたにくっついて入院して、 手足縛って管理してるわけじゃないんだから。そこまではちょっと面倒見きれないから。翌日、また、裂けたと。で、すぐは来なかった、と。連絡もなかった。さあ、今日きてどうすんだ? という話だよな? どうする? 切って、縫い直す? どっちでもいいと思うけど? 切って縫ったところで100パーセント大丈夫とは言えないよ? 決めて? 傷、見てみようか?」
ここまでの医師の主張を総合すると、①縫合の失敗ではなく患者側の要因、②放っておいてもよい傷だがすぐ来院しなかったという「落ち度」がある、③再手術してもくっつく保証はない、となる。そしてその語調から、この患者めんどくせえな、と思われているように感じる。なお、私の痛みについては、医師は一切、聞いてこない。
医療は、やっかいである。医師は多くの医療情報を持つが、患者側は不十分な情報しか持ち得ない。縫ったほうがいいのか、放置したほうがいいのか、どれが適切なのかはわからない。自分の体のことは自分で決めると言っても、判断材料が不十分であれば、決断は困難なのだ。
「金玉を握られる」という慣用句がある。弱みを突かれるという意味だ。今、まさにそんな気分である。私の股間の健康は、医師の機嫌にも左右される。
とはいえ、穴が空いたまま放置するのも恐ろしい。「金玉が縮み上がる」という言葉の通りである。少なくとも、体に良いことはないだろう。だから、さっさと穴を塞いで、安心したい。「金玉の皺を伸ばしたい」という言葉だってある。ああ、なんでこんなに今の状況にぴったりな諺だらけなんだろう。
とりあえず、状態を見てもらったうえで決めたほうがいいだろう。その旨を伝えると、医師は次のように返してきた。
「俺がな。俺が決める」
医師が、一際強く、睨んで来る。そして、ここでズボンを脱ぎ、診察台に上がるように促される。安心が確保されない環境で服を脱ぐのは、なかなかにしんどい。
患部をみた医師がいう。
「切らなくて大丈夫そうだね。縫えますね」
縫える。なるほど。では、これは縫ったほうが良いのだろうか。そう尋ねると、「縫った方がいい」という答えが返ってくる。「では、お願いします」と縫合を依頼する。
「あなた仕事何してるの」
だしぬけに、医師から問われる。「物書きです」と答えると、「椅子にずっと座ってるの」と更問いがくる。
一般的な会社員と同じくらいの時間だと思います。でも、座りっぱなしも良くないっていうことですか? そう尋ねると、医師は「いえ、聞いただけ。聞いただけ。特別な意味はないです」とそっけない。
その後は、これまでと同様の流れである。
会計を行った後、手術室がある建物まで移動し、消毒をし、部分麻酔をし、縫合する。医師はひときわ無口であったが、心なしかこれまでより縫合作業が細かい気がする。
手術が終わり、看護師に促され、起き上がる。医師はすでに手術室から退出していた。術後についての注意点なども特にない。服を着て病院を後にする。
とにかく穴よ、塞がってくれ。もはや自分の健康のためというより、「あの病院にもう関わりたくない」という気持ちの方が強くなっている。
消毒は痛かったし、麻酔が切れた後の縫合箇所も痛い。しかしそれ以上に、診察室でのやりとりの方がダメージであったと感じている。
後日、別件でかかりつけ医のところに行った時、本件についても共有させてもらった。その医師は、「酷い目に会いましたね。傷が開くことは珍しくはないです。もし塞がらなかったら、知り合いの外科医の紹介状もかけますからね」と言ってくれた。主治医、優しい。
念の為、知己である医師数名にも話を聞いてみた。糸が解けたり傷が開いたりすることは、玉袋より動かないような他の部位でも、割にあることだと一致していた。「とにかくお大事に」。その言葉がありがたく感じられた。
人生で無数の怪我を経験してきた親友のKちゃんは、「傷口なんてザラに開くよ」とキレていた。実際に、何度か開いたことがあるらしい。
「診察室には権威勾配がある」
「安全とか命とか将来を人質に取られてる感あるよね」
「そのことに医者が無自覚だとクソッタレ」
Kちゃんの憤りの言葉には、経験に裏付けられた強みがあった。
***
さて、パイプカットについては、WHO(世界保健機関)も、効果的な避妊方法であると位置付けている。2011年に書かれたレビュー論文(https://linkinghub.elsevier.com/retrieve/pii/S0010782410004828)においても、この手術は、男性が利用できる最も効果的な避妊法であると同時に、男性が利用できる唯一の「長時間作用型避妊法」であると位置付けられている。
パイプカットは女性の不妊手術と比較して、より効果的で、費用対効果が高く、合併症の発生率も低い。逆に女性不妊手術は、費用がかかり、侵襲性が高く、全体的な健康リスクが増加する。
こうした利点の差にも関わらず、アメリカではこの方法が好まれており、全体の15歳から44歳までの女性の約17%が卵管結紮を受けている。一方、避妊のためにパイプカットを受けているのは6%に過ぎない。
ちなみに、日本での利用率は、0.1%である。先の記事でも触れたが、厚労省によって把握されているパイプカット手術は、年間で数十件程度である。ただ、これはおそらく、全件集計されたデータではない。
例えば、国内病院のウェブサイトや報告書に目を向けると、「当院の診療実績」といった形で、それぞれ年間数十件から数百件のパイプカット実績を表示している。私がかかった病院でも、パイプカット手術を受けた別の患者を見かけた。つまり、実数についてはもっと多いのだろう。それでも、割合として低いという事実は変わらないだろうけれど。
なおアメリカの状況は、ここ数年で変化の兆候もみられている。
1973年に出されたロウ対ウェイド判決は、人工中絶を違法としていたテキサス州の法律を違憲と認めた判決であり、堕胎する選択の自由を保障するものであった。しかし2022年、トランプ前大統領が指名した保守派判事らのもと、この判決が覆される(ドブス判決)。その後は、州政府ごとに中絶禁止を行うことが可能となった。つまり、「中絶の権利」が脅かされることとなった。
ここで、思わぬ影響が現れる。ドブス判決後、パイプカットを希望する男性が増加し、しかも有意に若くなったのである。
もちろん、その増加数は全体からみれば少なく、独身男性の希望率には変化がない。また、長期的な影響も未知数であり、一過性のイベントで終わる可能性もある。ただ、パイプカットという手段が、相対的に注目されることになったのは間違いない。
ドブス判決は、特に女性の「リプロダクティブ・ライツ(reproductive rights)」と「からだの自己決定権(their bodily autonomy)」を制限する問題として注目されているが、男性にも影響のあるものでもある。判決後、精巣などを持つ者の一部は、妊娠可能性を自律的に考える必要性へと直面した。予期せぬ妊娠に対する対処策が制限されれば、ひとまずは他の手段が模索されることも不思議ではない。
パイプカットは、その成功率の高さでも知られている。先進国でもその利用可能性を高めることが推奨されている手術の一つである。
だが、ここで身をもって知ったことがある。日本のように手術率が少ない社会では、医師を選ぶ方法も少なくなってしまう。あくまでフラットな表現に努めるならば、「医師と患者のミスマッチ」があったとしても、代替手段が選びにくくなるわけだ。患者が多くなければ、医療機関も増えない。しかし医療機関が増えなければ、患者の満足度も下がりうるのである。
とりあえず、三度目の縫合を終えた私には、次の試練が待っている。射精を30回した後に、無精子状態を確認せねばならぬのだ。
【参考】
・WHO:Family planning/contraception methods
・Shih, Grace et al.Vasectomy: the other (better) form of sterilization Contraception, Volume 83, Issue 4, 310 – 315(2011)
・Bole, R., Lundy, S.D., Pei, E. et al. Rising vasectomy volume following reversal of federal protections for abortion rights in the United States. Int J Impot Res 36, 265–268 (2024).
筆者について
おぎうえ・ちき 1981年、兵庫県生まれ。評論家。「荻上チキ・Session」(TBSラジオ)メインパーソナリティ。著書に『災害支援手帖』(木楽舎)、『いじめを生む教室 子どもを守るために知っておきたいデータと知識』(PHP新書)、『宗教2世』(編著、太田出版)、『もう一人、誰かを好きになったとき:ポリアモリーのリアル』(新潮社)など多数。