コンドームをつけた上でセックスをすれば、妊娠の可能性は下げられる。ただ、射精する以上、その可能性はゼロとはならない。体内に精子が存在し続ければ、「予期せぬこと」が起こる可能性があり、それにより時に、他人の身体や人生までを大きく変えてしまうこともある。そのことを私は、決して望んでいない――そう考えて、パイプカット(精管結紮術)に臨むことになった評論家の荻上チキさん。しかしそこに至るの道のりは決して平坦ではなかったようで……?
男らしさ、孤独、性愛、セルフケア……中年男性として新たな親密圏とアイデンティティの構築に七転八倒する、新感覚の社会評論エッセイ連載がスタートです!
第6回は、チキさんの玉袋の穴の経過とその後課された驚きのノルマについて。
再縫合の費用を含め、パイプカットのための費用は、トータルで10万円を超えた。陰嚢も痛いが、財布も痛い。
安物買いの銭失いとはよく聞くが、私は特段、価格が安い病院を選んだつもりはない。しかし少なくとも、口コミがマシな病院は選べたとは思う。
術後の経過がどうなるのか。人体実験をした科学者が、自らの体調をジャーナリングするかのごとく。私は日々、記録をつける。
【Day 13】
3度目の縫合手術の後、日常生活の過ごし方については特に何も言われていない。昨夜は念の為、帰宅してからのシャワーを控えた。
朝、シャワーを浴びた。傷口に貼るテープは付いたまま。テープがついているということは、寝ている時にかきむしるなどもしていないということだ。余計な「テンション」もかかっていないということだろう。
テープを剥がしていないので、患部がどう縫われているかまだ確認していない。昨日よりはタマの鋭い痛みがなくて助かっている。
【Day 15】
袋が痛い。再縫合した右側ではなく、左側である。なぜかといえば、溶ける糸のうち、表面に飛び出してる部分が、下着に引っかかる。そのため、体を動かすたびに、皮が引っ張られるのである。
「溶ける糸だから一週間でなくなる」としか説明を受けておらずだが、表面のこれはどうすればいいのか。ググると「取れることもあれば残ることも。残った時は医師に見せて」と書いてある。またあの医師に見せるのは御免である。
【Day 16】
袋が痛い。病院で貼ってもらったテープは、シャワーとともに剥がれた。そこで、絆創膏を貼ることにした。
一般的な絆創膏は、横長で、貼る面積も広い。通常は、指、腕、足などの怪我に使用されることが多いと思う。だが、玉袋はシワが多いため、ピッタリとはくっついてくれない。しかし、玉袋用の絆創膏は今まで見たこともないので、一般的なものを用いることにした。
男性の中でも無自覚な人も多いのだが、玉袋は絶えず動いている。もし見る機会があるなら、1分ほど、じっくり玉袋を見つめてみてほしい。独立した生き物のように、あるいは潮の満ち引きのように、緩やかな収縮を繰り返している。
絆創膏を貼っていると、袋が動くたびに、シワが引っ張られる感覚がある。姿勢を変えるたびに、玉たちの躍動を感じる。
パイプをなくすことで能力を手放す手術によって、「いま・ここにある陰嚢」を強く意識することになるとは。不思議なものである。
【Day 17】
玉袋が縮んでいる。薄着で外に出たためである。
玉袋は、寒いと縮み、暑いと伸びる。この自然収縮はテンションに影響ないのだろうか。
この日は仕事の都合で、珍しくスーツを着なくてはならなかった。唯一持っているスーツは、だいぶ昔の流行の、細身のもの。しかも現場に遅刻気味であったため、革靴で走らざるをえなくなり、汗だくとなった。これが相当に、玉袋を圧迫する。スーツは玉袋によくない。
【Day 18】
玉袋が痛く……ない!
キリキリした痛みもジンジンした痛みもない。チクチクした痛みはあるが、これは伸びてきた陰毛が擦れるが故のチクチクと思われる。
縫合の糸はまだ右も左もはみ出てるが、右の細部はまだ見ないでおこう。変わらず絆創膏を貼り続けている。勝手に剥がれることはなく、「テンション」もかかっていなさそうだ。
【Day 20】
玉袋が痛くない。再再縫合から1週間が経ったので、患部をじっくり見てみた。糸はバッチリ残っているが、どうやらしっかりくっついている模様。糸を少し引っ張ってみると、ちゃんと皮もついてくる。簡単に解けるようなものではなさそうだ。
えらいぞ、私の回復力。
【Day 24】
玉袋が蒸れる。冬の寒さ対策で、レギンスを履いているからである。
左側、つまり縫合がしっかりしている方の糸は、いまだにほどける気配が全くない。引っ張ってみたが、「自分の毛かな?」と思うほど、しっかりついている。これは、抜糸が必要になるやつだろうか。
右側、つまり何度も破けた方は、糸がボロボロになっている。それぞれポロリと落ちてくれればいいのだが、まだギリギリ踏ん張っている。
【Day 30】
必要射精回数を達成するための活動を持続している。「テンション」がかかっていないかを注意してみているのだが、どうなのだろう。
「TENGA」による調査では、男性のマスターベーションのメジャーな姿勢は、「椅子に座る」「仰向け」「横寝」「あぐら」「うつ伏せ」の順だという。私が行う際の主な姿勢もこの中に含まれるし、平均以上の負荷がかかっているというわけでもあるまい。
他方で、不適切な手段としては、「脚をピンとさせた状態で行う(通称:脚ピン)」「床などにペニスを擦りつける(通称:床オナ)」「水流をかける」「振動を与える」が上位にあるという。この中にはひとつ、心当たりのある手段があるのだが、それはさすがに「テンション」に影響しそうなので、控えている。
ただ、そもそも私はマスタベーションの際に、性器以外を触ることにほとんどの時間を割く。そのため陰茎や陰嚢については、人よりも「テンション」がかからないと思う。
なお、参考までに。「性医学ジャーナル」に掲載された研究では、男性大学生の52%が、乳首に対して性的興奮を感じていた。とりわけ頭頸部に注目した研究でも、シス男性の半数が舌に、3割程度が首、耳、唇への触覚刺激に反応して、性的興奮を感じると捉えていた。
その他、肩、背中、腹部、尻、太腿など、強いハグの際に触れるような部位もまた、性的満足度と関わっている。なにもペニスだけが、男性の唯一の性感帯というわけではないのである。
【Day 48】
左側の糸が、いつのまにかなくなっていた。穴などもなく、特に違和感もない。陰毛も伸びてチクチクも治まってきた。なお、必要射精回数は折り返し地点を迎えた。
【Day 58】
右側の糸がなくなった。患部をじっくりと見てみると、小さな小さな穴が残っている。針の穴ほど、ピアスの穴ほどのサイズだが、確かに残っている。
痛いわけでもなく、しげしげと見なければわからないサイズだ。これは大丈夫なやつなのだろうか。
そういえば、世の中には陰嚢にピアスを開ける人もいるんだろうな。そう思って検索したところ、睾丸だけではなく、陰茎や亀頭にピアスをつけることもあると知った。画像検索してみたら、すんごいのが出てきた。股間がヒュンっと縮み上がった。
性器周辺のピアスを契機に、性感染症にかかった患者の症例があることも知った。自分の穴にどれくらいのリスクがあるのかはわからないが、なくなって欲しい。
【Day 72】
穴が消えた。よかった。
というか、塞がるまで二ヶ月以上かかった。体の怪我の治りって、こんなものだっけ。人より治りが遅いと感じたことはないが。玉袋はシワが多く、ずっと動いているため、接着面がずれたりしやすいのだろうか。
【Day 90】
30回の射精を終えた。
振り返ってみれば、3日に1度のペースであった。普段よりコンスタントに行うことを意識したつもりであったが、数えてみると、そうでもないようだ。
なお、30-40代男性の自慰頻度についての調査を複数見てみたが、週に1回〜3回の範囲であるという回答が多かった。私の頻度もまた、一般的であるようだ。
この間に行った自慰は、普段と異なるような創造性も新奇性もない、排泄のルーティンのようなものである。目標を定めて行い続けたものの、特段の虚しさを覚えるようなものでもない。確かに回数は義務ではあったが、それは一種の口実ともなり、心身のメンテナンスともなった。
射精感覚や性欲量に、とりわけ変化は感じない。液体の色味にも、匂いにも、味にも、変化はない。なぜそんなことがわかるのか。ビフォー/アフターを知るために丁寧に観察したためである。
試験管に精液を入れ、蓋をする。病院に行き、受付に渡す。受付とは、特段のやりとりはなかった。
「パイプカット手術を受けたものですが、精液検査のために持ってきました」
「わかりました」
これだけである。
検査は病院で行われるわけではない。郵送で検査所に送られ、結果だけが患者の元に郵送されるようだ。医師から説明を受ける、とかでなくて、本当に良かった。
複数の患者が、生気が抜けたような顔でソファに座っている。どうかご安全に。心の中でそう呟き、病院を後にする。ここには二度と来たくない。
*
日本では数年前から、体外受精や顕微授精などの不妊治療の一部が保険適用となっている。この政策確定を前に、菅政権は2020年、次のような閣議決定を行なっている。
・喫緊の課題である少子化に対処し、誰もが安心できる社会保障制度を構築するため改革に取り組む。そのため、不妊治療への保険適用を実現し(…)(9月16日閣議決定)
・子供を持ちたいという方々の気持ちに寄り添い、不妊治療への保険適用を早急に実現する。(12月15日閣議決定)
不妊治療に関して政府は、「少子化対策」と「個人の選択」という二つを軸に議論を行っていた。子どもを増やさなくてはならないという政治意識は持つが、「産めよ増やせよ」と捉えられるようなスローガンは控えなければならない。そこで、「望んでいるのに妊娠できない人」に寄り添うということが目標設定が強調された。
妊娠したいという個人の選択を支援することに異論はなく、必要な政策であると賛成する。ここで確認しておきたいのは、妊娠を目標とした「不妊治療」は補助対象だが、妊娠しないことを目的とした、パイプカットなどの「不妊手術」は対象外だということだ。
パイプカットは美容整形などと並べて位置付けられることも多く、「治療を直接の目的としない手術」とされる。「妊娠できない体」は治療対象および社会問題として扱われるが、「妊娠してしまう体」はそうではないという位置付けだ。
不妊治療の保険適用は、少子化対策のためのインセンティブの一つとして位置付けられている。逆に、妊娠出産を重視する社会では、「産まない権利」はなかなか支援され難い。
もちろん、フランスなど幾つかの国で、アフターピルやコンドームの無償配布が行われているように、「予期せぬ妊娠」を防ごうという機運は高まっている。他方で、積極的不妊という選択肢がフラットに提示されるかどうかは、そのコミュニティの思想によっても変わりうる。
国民の「家族計画」は、国家の「人工計画」にも、大きな影響を受ける。
中国は十年ほど前までは、精管切除を受けた男性の人口が最も多い国となっていた。この背景には、中国が採用していた一人っ子政策の影響もある。最盛期では、年に600万件の卵管結紮術、200万件のパイプカットが行われた。この政策は、人々の「産む権利」を制限するものであった。
中国が政策転換してからは、パイプカットの件数も減少した。ワシントン・ポストの報道では、出生率の低下に歯止めをかけるとの政府方針と重なる形で、パイプカット手術を中止する公立病院が相次いだという。
ウォール・ストリート・ジャーナルのルポルタージュでも、国内での出産数を増やすため、クリニックへの認可が厳しくなったことが報告されている。中国の行政機関はこのほか、お見合いイベント、出産奨励金の配布、中絶の抑制などに力を入れているらしい。
さらに一部地域では、政府番号からの自動音声メッセージが届けられる。内容は、「あなたに甘美な恋と適齢期の結婚が訪れますように。中国の血統をぜひ続けましょう」というものだったという。うへえ。そんな電話は受けたくない。
このような状況で、中国のパイプカット希望者の一部は、海外の病院で手術をすることを選択している。日本でも決して多くはないが、そうした患者がいるようだ。人々が必要性を感じているものを闇雲に規制をすれば、そこから逃れるばかりである。
国や州などで中絶が禁止されると、他の国や州に移動して手術を受けるケースが増える。以前、国際学会の場で、中絶のための支援活動をしているフェミニストたちの話を聞いたことがある。支援者たちは中絶を希望する人たちの相談に乗り、渡航費や医療費などを援助している。彼女たちは中絶禁止について、人権と科学に反する行為だと非難していた。必要な医療へのアクセスを制限すれば、個人が抱えるリスクを増やすばかりだ。
世界の「SRHR=性と生殖にまつわる健康と権利」を巡る状況は、著しい偏りがある。人権はただ進歩するだけでなく、停止も、後退もする。「産まない権利」の確保のためにも、まだまだ多くの声がつながる必要がある。パイプカット体験の開示もまた、その一助になるだろうか。
*参考
・相模ゴム株式会社「ニッポンのセックス 2018年版」
・TENGA HEALTHCARE「オナニー国勢調査 全国男性自慰行為調査2017」
・Levin R, Meston C. Nipple/Breast stimulation and sexual arousal in young men and women. J Sex Med. 2006 May;3(3):450-4.
・J Stelmar, M Zaliznyak, D Isaacson, E Duralde, T Gaither, K Topp, S Sandhu, S Mallavarapu, S Smith, M Garcia, (101) Erogenous Zones of the Head and Neck: A Comparison Study Between Cisgender Men and Women, The Journal of Sexual Medicine, Volume 21, Issue Supplement_1, February 2024, qdae001.097,
・Ren LJ, Xue RZ, Wu ZQ, Zhi EL, Li W, Huang L, Xiang XY, Li DY, Lin XM. Vasectomy reversal in China during the recent decade: insights from a multicenter retrospective investigation. Asian J Androl. 2023 May-Jun;25(3):416-420.
・By Liyan Qi and Shen Lu「中国の出産圧力、女性が突きつける『ノー』 政府は『もっと産め』 14億人の人口、2100年には約5億人に落ち込む可能性が高い」(The Wall Street Jurnal、2024年1月16日)https://jp.wsj.com/articles/china-is-pressing-women-to-have-more-babies-many-are-saying-no-4a7a84e9
次回の更新は、12月3日(火)17時予定です。
筆者について
おぎうえ・ちき 1981年、兵庫県生まれ。評論家。「荻上チキ・Session」(TBSラジオ)メインパーソナリティ。著書に『災害支援手帖』(木楽舎)、『いじめを生む教室 子どもを守るために知っておきたいデータと知識』(PHP新書)、『宗教2世』(編著、太田出版)、『もう一人、誰かを好きになったとき:ポリアモリーのリアル』(新潮社)など多数。