自分の席を作ることで他の人を排除したくなる気持ち
橋本 『すこし広くなった』に、「かわいい」という題の文章が収められています。新刊書店に勤められていた頃に、東北に新しい店舗がオープンすることになって、その出店準備を手伝うために出張されたときのことを書かれているんですよね。ひたすら棚に本を並べていく時間のなかに、桃色の表紙をしたかわいらしい本があって、それを見ただけで宇田さんはちょっと癒されて、「この立派でかわいい本を、殺風景なホテルに飾れたら」と思った、と。ちょうど同じ時期に、出版社のウェブマガジンから連載の依頼を受けていて、連載第1回に「桃色の本」という原稿を書かれたわけですよね。そうしたら、「あんなくだらないことを書かせてどうするんだ」と陰で批判されていたことを宇田さんは知るわけです。ただ、そこで宇田さんは、「このときばかりは言い返したくなった」と。自分を知らない相手に向かって、反論のような言葉を脳内でぶつけながら、「これからもくだらないことを書きつづけようと決めた。本屋の心あたたまるエピソードでも業界の裏話でもなく、売り場で毎日たくさんの本を手にするなかで感じたことだけを書こう。私に書けるのはそれしかないから」と思ったという話を、「かわいい」というエッセイのなかで書いている。これ、すごくキッパリした言葉だな、と。
宇田 そうですね。私にしては珍しく、キッパリそう思ったんです。
橋本 宇田さんの言葉は、いつもキッパリしてる気がします。
宇田 その連載は、「本屋で働くなかで感じたことを、自由に書いてください」と依頼されたものだったんです。そもそも連載っていうのが初めてだったし、当時は文章を発表したこともなかったんですよ。何を書いたらいいのかと思ったときに、たまたま出張先で見かけた桃色の本のことを書いたんですけど、それを批判されて、「私にはこれしか書けないのに」と思ったんです。「業界の制度はこうなるべきだ」とか、「こうしたらもっと本が売れる」とか、そういうことは何もわからないけど、本屋で働いている人にしかわからないことはいっぱいある。たとえば、つるつるした本って、重ねると滑り落ちるんですよ。普通の人は同じ本を1冊しか手に取らないから、そんなふうに感じることもないかもしれないですけど、平積みするために同じ本を何冊も抱えたり、台車に載せたり、平積みしたりすると、滑り落ちるんです。それはやっぱり、本屋で働いている人にしかわからないんじゃないか。それを書くことに意味がなかったとしても、そこにいる人しか気づかないことがあるんだったら、書いておきたい。それは今、市場にいても、同じ気持ちで書いています。
橋本 2023年の春に『そして市場は続く』が出たときに、ほんとは臨時休業だったところを、代わりに店番させてもらったことがありましたよね。あの日、「市場の古本屋ウララ」の帳場に座っていると、それまで何度となく通ったことがある場所でも、全然違う見え方をするんだなと感じたんです。たった数時間でも、そこに佇んでいると、その視点が自分の目に宿るな、と。それは『観光地ぶらり』の取材を通じて感じたことでもあるんですけど。
宇田 時間をかけて観光したほうがいいってことですかね。
橋本 そうですね。ただ、座るってことには反動もあるだろうなってことも、波照間で感じたんですよね。波照間行きのフェリーは結構混み合っていて、出航前に船員さんが「満席に近い状態ですので、詰めて座ってください」と呼びかけてまわってたんです。フェリーの椅子は4人掛けなんですけど、僕の前に座っている高齢の男性がふたりで座っていて、話の内容から察するに、波照間に通い慣れてる感じがして。そのふたりは、それぞれ隣の椅子に荷物を置いてるんですよ。船員さんが何度アナウンスしても、荷物をどかす気配はなくて、「ここは自分の居場所だ」という感じで座っていて。あるいは、波照間でお昼を食べようと思ったときにも、営業開始直後の食堂に行ってみたら、もう席が埋まっていて、店の前に行列ができてたんです。それを見たお店の人が、「ああ、すいませんねえ、相席でもいいですか?」って声をかけて、先にテーブルについてたお客さんたちに相席のお願いをしてまわっていたんです。僕の前に並んでいたのはひとり客だったんですけど、お店の人に案内されて、そのお客さんはテラスのテーブル席に通されて――そのテーブル席に座っていたのもひとり客だったんですね。席が余っているのはその席だけだったから、「ああ、僕もあの席に案内されるんだろうな」と思って待っていたら、僕の前に並んでいたお客さんが、隣の席に荷物を置いて座ったんです。ちょっと、それ、衝撃だったんですよね。さっきまでは自分も相席させてもらう側だった人が、席に案内された途端に、空いている席に荷物を置いてしまう。人はすぐに「ここは自分の縄張りだ」と思ってしまうから、定期的に席を立たなきゃいけないんだろうな、と。
宇田 縄張りの話は、身につまされます。那覇のパラソル通りがなくなった頃から、街のなかに居場所がないってことについて、すごく考えていたんです。
橋本 パラソル通りは、宇田さんのお店のすぐ裏側にある通りですね。そこにはテーブルと椅子が置かれていたけど、そこに居座ってお酒を飲む人たちが現れて、テーブルと椅子が撤去されてしまった。
宇田 今は「飲酒禁止」と書かれた公園も増えていて、外でちょっとお酒を飲みたいと思ったら、どこに行けばいいのか――。でも、最近、店の向かいのファミリーマートの前でお酒を飲んでる人たちがたまにいて、大声を出したり、通行人に声をかけたり――それがずっと視界に入ってるのがいやなんですよ。一方では「街のなかに居場所が欲しい」と思いながら、もう一方ではそうやって勝手にそこを居場所にしている人を見ると、いらいらしてしまう。自分の席を作ることで、他の人を入れたくなくなってしまうのは、たしかにあるなと思ったんです。
社会を変えたいというよりこんなふうにしか生きられないということを書く
橋本 宇田さんの『すこし広くなった』を読んで、いちばん印象深かったのは、「鰹節を削る」というエッセイだったんです。「ウララ」の向かいに並んでいる鰹節屋さんの話から、鰹節のお弁当について書かれたエッセイに、さらには第三の新人と呼ばれる作家たちに話が移っていく。「第三の新人は、その前の世代(「戦後派」と呼ばれた)に比べると小説の世界が狭い、日常的すぎるなどと批判されていたらしい。でも、私はその小さくも味のある世界が好きだ」と宇田さんは書かれているんですけど、これは宇田さんの文章にもそのまま当てはまるんじゃないかな、と。この「鰹節を削る」を読んで、そこで言及されている安岡章太郎の『幕が下りてから』という小説を読んでみたんです。
宇田 面白かったですか?
橋本 小説としても面白かったですし、今読んでおいてよかったなと思いました。ただ、宇田さんが「鰹節を削る」で触れているのは、この小説のなかで、主人公のお父さんが主人公を頼って上京してくる場面なんですよね。そこで主人公のお父さんが、“ウデ卵”を4個も持って上京する描写を読んで、「私は卵は一日一つしかたべないものだと思っていたので、ちょっと驚いた」「この食欲はなんだろう」と書かれている。もしも宇田さんのエッセイを読まずに、『幕が下りてから』を読んでいたら、小説のストーリーにばかり気を取られて、その“ウデ卵”の話は読み流してしまっていただろうな、と。
宇田 そうですか。気になりませんか?
橋本 そう、言われてみれば気になる箇所なんですよ。でも、誰かにとっては、ほとんど気にも留まらない、枝葉の部分かもしれないですよね。でも、宇田さんはそこが気になって、その箇所を読んで考えたことを書いている。それは宇田さんらしい文章だなと思ったんですよね。
宇田 でも、橋本さんの文章も、どちらかと言うとそういうところを大事にしてますよね。そのお店の人が話した内容だけじゃなくて、その人の仕草だったり、準備している様子だったりを書き留めている。だから、橋本さんもストーリーだけじゃなくて、細部を見てるんだろうなと思います。
橋本 『観光地ぶらり』は、もっと別のかたちの観光を提示したいという気持ちもあって、取材をしてまわったところもあるんです。もちろん、僕が原稿を書いただけで世界が大きく変わると思っているわけではないんですけど、少しでもよくなってほしいなという気持ちはあるんですね。
宇田 じゃあ、抗いたいって気持ちで書いてるんですか?
橋本 そうですね。観光がこのままの状態だったら、風景がどんどんひどいことになってしまうだろうな、と。宇田さんは、自分が文章を書くことと、世の中とのかかわりについては、どんなことを考えていますか?
宇田 庄野潤三や安岡章太郎といった第三の新人は、社会を変えたいというよりかは、「自分はこうやって生きている」だとか、「自分はこんなふうにしか生きられない」だとかってことをずっと書いている気がするんです。戦争体験についても書いているんですけど、何かを糾弾するような調子でもないし、それを読んでも「何が言いたいのかわからない」って人もいると思うんですけど、深刻な話もなんでもないこともあんなふうに書けるんだって、私はすごく希望を感じたんです。「ゆでたまごをいっぱい食べた」っていうだけのことでも、ああやって書けば一篇になるんだな、と。第三の新人の時代には、いろんな文芸誌があって、雑文みたいなエッセイが量産されていたんだと思うんですよね。その当時のエッセイ集を読むと、初出がいろんな場所で、1ページしかないような短い文章もあって、そういう文章も書きながら生活していたんだろうなと思ったんです。普通だったらわざわざ書かないようなことを、無理やり文章にしたりしてるのも面白いな、と。
橋本 『観光地ぶらり』の刊行記念トークイベントのなかで、担当編集者の森山裕之さんと開催した回は、雑誌とノンフィクションがテーマだったんです。いま宇田さんがおっしゃった雑文というのも、雑誌文化とともにあったものですけど、雑文を載せるような雑誌は今、ほとんどないですよね。雑文というのは明確な目的意識を持って読まれるものではないから、真っ先に他の娯楽に取って代わられて、商売として成立しなくなった。それで言うと、僕がやっていることが商売として成立しているかというと、だいぶ微妙なところがあるんですよね。時間をかけた取材を成立させるためには、多くの人に本を買ってもらうしかなくて。それに、僕の場合、誰かの言葉を聞き取って、それを活字にしているので、なるべく多くの人に届けないとって気持ちもあるんです。宇田さんは、「もっと多くの人が自分の本を読んでくれたら」と思うことはありますか?
宇田 もちろん思いますが、難しいですね。最初に出した本(『那覇の市場で古本屋 ひょっこり始めた〈ウララ〉の日々』2013年、ボーダーインク)であれば、まだストーリー性があったんですけど、今回の本をいきなり読んでも、何を書いているのかもわからないんじゃないかと思ってしまって。自分の最初の本と今回の新刊を店に並べてると、「どっちから読めばいいですか?」と聞かれることがあるんです。気持ちとしては新しい本を勧めたいけど、そっちから読んでもわからないんじゃないかと思って、「1冊目からどうぞ」と答えているんです。でも、新しい本は1冊目を読んでいる人しか対象にしていないんだとしたら、全然広がらないんじゃないか、と。
橋本 まえがきを読めば、新刊から読んでも話は伝わりそうですけどね。それで言うと、僕はフィクションを書くつもりはないんですけど、そういう部分においてフィクションが持つ力は大きいですよね。自分がまったく知らない誰かの話でも、物語の力で読んでしまう。でも、まったく知らない土地について書かれたノンフィクションに手を伸ばす人って限らてくる。
宇田 マチグヮーに興味を持っている人が私の本を読んだら、何かしら「へえー」と思うことがあるんじゃないかとは思うんですけど、そうじゃない人がいきなり読んでも、よくわからないんじゃないか。もう、わかりにくい本は出さないほうがいいんじゃないかって、最近は考えてます。雑文集みたいな本は今の時代には売れないんだとしたら、「こういう人に読んでほしい」とか、「こんな気持ちになれます」とかって効用がないと駄目なんだろうな、と。でも、そういうものは書けないし、書きたくなくて。もっと売れればいいなとは思いますけど、そのために努力しているかというと、してないんですよね。