史上2番目の若さで松本清張賞を受賞した新鋭・波木銅による待望の長編連載がスタート!
大きな原発のある田舎町で小説家を目指していた高校生の私。数年後、念願叶って小説家としてデビューした私は、かつて同じく小説家を目指していた馬車道ハタリ、マイペースな友人ハスミンと3人で過ごしていた青春時代を振り返りつつ私小説を書き進める……が、事態は急転する。
【第一章 リニューアル】
彼女は混み合ったモスバーガーの店内に入り、カウンターへと進む。都内の主要駅付近にあるのに、昼飯どきでもぜんぜん混んでいない。
店員から紙袋三つぶんの商品を受け取って外に出る。配達用のリュックにそれらを詰め込んで、店先に止めておいた自転車にまたがる。
自転車に取り付けたスマホの画面に表示された目的地に向かって、彼女は自転車を走らせる。駅前にある店から自転車で十分ほど走り、富裕層が住んでそうな高層マンションへと辿り着く。エレベーターに乗って、二十六階へと登っていく。
「たけーところに住みくさりやがって」
自分以外誰も乗っていないエレベーターの中で、彼女は直接声に出して言う。
玄関から部屋の中が見える。ダイニングのテーブルの上に、大きめの箱がレンガのように積み上げられていた。側面に印刷された商品名が見える。プレステ5だ。
プレステ5をこんなにたくさん持ってるなんてすごい!
「暑い中いつもご苦労さまです! お仕事がんばってください!」
注文者が何かを手渡してくる。塩飴だ。
エントランスに塩飴を投げ捨てて、馬車道は外に出る。次の注文を受け取るために、待機場所としている駅前まで戻る。
ペガサスデリバリーは昨年から急激にシェア率を伸ばし、フードデリバリー業界の最大手となった。
配達員が注文者に公開することになる名義は本名でなくてもいい。ペガサスは書類審査が非常にゆるいことで有名で、すべてネットで完結するし、口座さえ登録すればほぼ誰でもギグワーカーとして働ける。
本名を使いたくはないが架空の名前を考えるのが煩しかった彼女は、昔使っていた本名とは別のもうひとつの名前を再利用することにしている。今はもう誰からも本名では呼ばれない。
馬車道ハタリ。それが彼女の名前だ。名前にするような言葉じゃない組み合わせなのが良いと、自分でも気に入っている。この名前を思いついたのは十年以上前のことだから、由来は思い出せない。
馬車道。乗り物は偉大だ。とくに車輪がついてて、エンジンを使わない乗り物は……。
馬車道は大学を無事に卒業して新卒で入った運送会社に半年間しかとどまっていられなかった。新人研修で自分にフォークリフトの操縦を教える上司を殺しかけた。操縦をミスり、タイヤで上司の脚の骨を踏みつけて砕いた。それだけならまだしも、上司から叱責に逆ギレし、もう片方の脚の骨をも砕こうとした……。
人間的にどっかおかしいことを自覚している。だから、誰とも協力せずに進められる仕事をすることにした。正社員のときより収入はずっと減った。今はまだ、家賃や生活費を払うことはかろうじてできている。
タイ料理店でフォーを受け取って、注文者の一軒家へと向かう。インターホンを押す。置き配指定だ。ドアの前に商品を置いて、配達完了のメールを送る。
食い物を運んで行ったり来たりの繰り返しだ。地元の田舎のさらにどん底のほうに住んでいた祖父母が、家畜にエサを与えて回っていたときの姿を思い出す。やってることはそんなに変わらない。
昼食どきを過ぎると、注文は少なくなっていく。いったん自転車を駐輪場に停めて、しばらく休憩することにする。注文が少ないときに無理に働くより、休めるときに休んだほうがいい。この仕事は誰からも邪魔されないが、誰からも助けてもらえない。
駐輪場近くの駅前に喫煙所がある。大きめの駅だが、今日はさほど人だかりはない。
「あっ、どうも」
声をかけられる。馬車道は軽く手を上げ、挨拶を交わす。
喫煙所にはひとり、配達員のリュックを背負った若者がいる。同業者だ。
かつて、この若者がなくした自転車の鍵を探すのを手伝ったことをきっかけにたまに話すようになった。お互いに名前も名乗ってもおらず、たまたま会ったら軽く世間話をする以外の交流はなかったが、友人と呼んで差し支えない。
出会ったときに「いい自転車ですね」と長い間ずっと乗り回している赤い自転車を褒められて、馬車道は完全に気を許した。よくわかってんじゃん。
その若者は外見上の特徴があまりない。しかしガラムという意味不明なタバコをいつも吸っているのが個性的だ。タールの含有量がとても多く、甘いフレーバーがついている。馬車道は少し吸っただけで気分が悪くなってしまう。独特な匂いがする。
失礼だが、こっそり「ガラム」というあだ名をつけている。
ガラムはアクリルの壁に寄りかかりながら、リュックのポケットから抜き出したハードカバーの単行本を手に取った。立ったまま片手の指にタバコをはさんで両手で本を持つのは大変そうだが……それを加味してでも読みたいほど面白い本なんだな、と馬車道は思う。
「読書するんですね」
完全に偏見だが、フードデリバリーの配達員をやっている奴に読書家はひとりもいないと思っていた。
「まぁ。小説くらいですけど」
ガラムはそう言って、本から目を離してこちらを見てくる。あなたは? ということだ。
ガラムが読んでいるのが小説であると知り、馬車道は若干後悔した。正直、小説の話はしたくない……。小説のことを考えると、あまり良くない記憶がフラッシュバックする。
「私は、小説はぜんぜん……。ノンフィクションとかエッセイとかも読まないですよ! 活字なんか」
馬車道は浅薄そうに見えるように笑う。
かつては貪るように読んでいた。今はもう、家の本棚にも、キンドルのデータの中にも、小説は一冊もない。
「できれば読んだほうがいいですよ。現代人に足りないのは、他者への想像力だ」
「……なに読んでるんです」
馬車道は彼の手元にあった単行本を覗き込む。ブックカバーがついているせいで見えない。もう後半のページだ。
「最近出た、チャック・パラニュークっていう作家の新刊です。あ、パラニュークっていうのは……」
「パラニュークの⁉︎」
とっさにカバーを取ってタイトルを確認したくなる。意図的に小説の情報から目を背けていたので、もう邦訳が出ているなんて知らなかった。高校生のころ、当時としてはかなりの大金を出して絶版本を手に入れた。
「ん? 知ってるんですか?」
「ああいや、映画の原作になってましたよね。それで知ってて。あの、ブラピが出てるやつ……」
「『ファイト・クラブ』ね。好きですよ」
ガラムはそう言ってふたたび目を向けてくる。また、あなたは? っていうことだ。
『ファイト・クラブ』のタイトルがとっさに思い出せないなんてありえないのだが、馬車道はあえてわからないフリをした。詳しい奴だと思われて話を振られても困る。そういう話を嬉々としてする自分は、十代の頃にもう死んだ。今の自分は、ただ日銭を稼いで生き延びることだけを考える労働者にすぎない。
まったく別の人間に、リニューアルした。
「うーん。あんま覚えてないっていうか……私には暴力的すぎて、ちょっと」
馬車道は舌を噛みちぎりたくなりながら言う。でも、そうせざるを得ないのだ、と自分に懸命に言い聞かせる。ここで会話を打ち切らなくては。『ファイト・クラブ』に対してそんな反応をする側の人間に成り下がりたくはなかった。あれは鮮明に痛々しく暴力を描写することによって、暴力を振るうことについて、ひいてはマッチョイズムに批評的な視点を向けているのだ。そんなことくらいわかってるよ!
ガラムの顔を見る。案の定、どこかがっかりしたような気持ちが滲み出ているのが伝わってくる。
「この作者……過去作があんまり手に入らなかったんですけど、最近電書で復刻したんですよね」
「え、そうなんですか?」
「そうそう。ずっと絶版になってて、有名な作品なのに中古で買うとすごく高かったんですよ」
「『インヴィジブル・モンスターズ』も? 『チョーク!』も? 『ララバイ』も?」
「は? 知ってんじゃん」
ガラムは呆れ笑いを浮かべる。若干怪訝な様子だ。なんで知らないフリしてたの?
「あー。ほんとは好きなんですよ。パラニュークのことも、小説も……。でももう、読まなくなっちゃいました。昔、嫌なことがあって……」
どうせたまに会うくらいの仲だ。わざわざ隠し事をして消耗することもないな、と思い直す。
「それは失礼しました……」
触れちゃいけないところに触れちゃった。ガラムはそんな顔つきになって、後悔を表明しているようだ。馬車道はかぶりを振る。
「気にしないで。個人的なことなんで」
「あ、わかった。昔小説家を目指してたけど、なれなかったとか?」
ガラムは本当に気にしなかった。その気にしなさぶりに、馬車道は思わず破顔する。本当におかしかったのと、皮肉を含めた笑いがそれぞれ半分ずつだ。
「その通りかも」
かもしれない。
ガラムはにやりとする。
「実は、自分もいま、賞に応募してるんです」
「そりゃまー。がんばってください」
世の中には無数に小説があって、無数に作家志望がいる。クーンツの『ベストセラー小説の書き方』がベストセラーになるわけだ。最近は『「書き出し」で釣り上げろ』とか、ル=グウィンの『文体の舵をとれ』とか。
「で、どんな話を書いてるんですか?」
馬車道はすかさず、質問する側に回る。ガラムは若干困るそぶりを見せる。
「えーっと。SFで、ちょっと一言では説明しづらいんやけど……」
ガラムは言葉に詰まる。黙ったまま半笑いで時間をやりすごしていた。しばらくして本をリュックにしまって短くなったタバコを灰皿に捨てに行った。スマホを取り出した。
「あ。ちょっと注文入っちゃったな。行ってきます!」
ガラムは喫煙所から出て行こうとする。
「がんばって」
馬車道は声をかける。ガラムは振り返らないまま、親指を立てた。
ひとりになった馬車道は、二本目のタバコに火をつける。
煙を吐き出しながら、思案にくれた。
これまでたくさんの文章を書いてきた。字数だけで言えば、年に何冊も出すベストセラー作家と同じくらいの分量のテキストを生みだしてきたはずだ。
文藝賞の二次選考、すばる文学賞と電撃小説大賞の三次選考、女による女のためのR−18文学賞と創元SF短編賞と横溝正史ミステリ大賞の一次選考……。そのほか、下読みを突破できなかった数多の新人賞……。
もっともいい結果だったのが、J・ケッチャムホラー小説新人賞だった。はじめて最終選考まで残った。著名なホラー作家が選考委員を勤めているのが魅力的で、掲載雑誌も好きだったからなんとしても受賞したかった。あれは惜しかったと思う。
あらゆるジャンルの小説新人賞に挑戦していた。でも、いつもなにかが足りなかったらしい。
今も小説を書き続けていれば、いつかは日の目を見ることができたのだろうか? 後悔の念に駆られてどうにかなりそうになる。でも、もうすっぱりと諦めた。せっかく買ったポメラも捨てた。
小説を書くことをただ諦めたんじゃない。自分にはもう、小説を読んだり書いたりする資格そのものを失っている。馬車道はそう割り切っている。
アプリに注文が来た。
余計なことをこれ以上考えないために、さっさと自転車にまたがって次の注文を取りに行くとする。オーダーのあったインドカレー屋まで自転車を走らせる。
【第二章 ラッキー頭蓋骨】
馬車道が十代の頃に過ごしていた郊外の町の記憶。良いことが1あれば、悪いことが9起こるタイプの町だった。あまりに悪いことが起こり過ぎて、もう町そのものがなくなっちゃったくらいだった。
山岳地区に位置する地域の隅っこにある、壕戸原発で有名な壕戸町だ。その周辺の地域では、「ブチ切れて人を殺す」という意味の、「めさす」という方言がある。主に怒りを表明するときに用い、用例は「てめぇ、めさすぞ!」「あんまユウキ先輩のことバカにしてっと、めさされっぞ!」といった感じだ。イントネーションは右肩上がり。漢字では「目刺す」と書く。昔、民の目を杭で刺して失明させ、自由を奪った状態で支配していた村の長がいたことに由来する。彼に目を杭で刺されることは生きながら殺されることと同義だったから、やがて殺人そのものを意味するようになった。「ブチ切れて殺す」というニュアンスが付与されたのは近代になってかららしい。人間以外の生き物を殺すことに使うのは誤用になる。
こんな言葉があることからわかるように、全体的に病んだ町だった。そこに住んでいる人間もまた、病んでいた。馬車道も例外ではない。
壕戸町の治安は良かった。犯罪が犯罪として扱われていなかったから。
当時、悪い出来事はトイレで起こることが多かった。寂れた店にあるトイレで、死体をバラした奴がいた。営業終了後に忍び込んだとかではなく、営業中に、堂々と。
清掃員はその痕を黙って掃除する。そのほかの連中は、それを見て見ぬフリをする。
そんな町だった。
駅前の不潔で蒸し暑い公衆トイレに足を踏み入れると、そんなことを思い出す。
リニューアルして過去を捨てたはずなのに。ささいなことをきっかけに、頭が勝手に記憶を引き出してくる。はやく自転車に乗って、邪魔は思考を吹き飛ばさなければ。
個室に入ろうとしたとき、後ろから声をかけられた。
「あの!」
その口調には怒気を含んでいる。鏡ごしに顔を見てから、振り返る。怒りが80パーセント、恐れが20パーセント。高校生の頃の自分も、常にこういう顔をしていたはずだ。
「どうしました?」
「あなた、女性ですか」
「なんだよ……。いったい何が言いたいんすか」
言わなくてもわかると思うが、ここは女子トイレだ。
「あなたの骨格は女性だと思えないし、不自然な形状をしている……ここから出ていってください」
ああ。馬車道は口を閉じて溜息を吐きながら、やれやれと思う。十年以上ずっと自転車に乗り続けていただけあって脚力には自信がある。身長も平均よりかなり高い。今は髪をかなり短くしているので、男性と見間違えられることがたびたびある。
いや、かと言って何様だよお前……。めさすぞ!
「骨格て。お前眼球からX線出してレントゲン見れんのかよ」
失礼な態度には失礼な態度をぶつけるのが一番いい。萎縮して黙るのが一番よくない。
相手はややうろたえた。
相手はアンドロイド手術によりX線カメラを内臓した目をギョロギョロと動かす。ウィン、ウィン、ウィィン……ピピピピピッ! ピーピーピー、ボンッ!
機械がオーバーヒートを起こし、彼女は爆散した……。
なんてことはない。ただならぬ雰囲気を感じ、馬車道は想像上の悪ふざけをやめる。
「怖い。正統な女性であると証明できないなら、出て行って」
「ど、どういうこと? 見てわかんない? あ、わかんねーから言ってんのか!」
馬車道は両腕を広げる。そうそう、地元の友達に、外見のせいでしなくていい苦労を強いられてる奴がいた……。馬車道はうろたえながら思い出す。あれってこんな感じか。
「なんにしろ、ここってお前の私有地じゃないから」
馬車道は相手を無視して個室に入ろうとする。
「近づかないで」
相手は声を荒げる。近づいてないよ。
「え、要するに……」
馬車道は言う。
「私の身体が見たいってことなのか? 胸とか……股間を?」
馬車道はバッグからスマホを取り出す。実際にそうするつもりはないが、スマホを相手に見せることで通報の意思をちらつかせた。
相手は睨みつけることをやめない。なにをそんなに怒り、恐れているのかわからなかった。というか、そろそろ用を足したいのだが。腹が痛い。
「初対面のサイコに見せるわけないだろ。お前自分がなにしてるかわかってんの?」
馬車道はにじり寄る。
「やだ、怖い怖い怖い!」
「勝手に絡んできて勝手に他人のヴァギナを見たがって勝手に怖がるな!」
「出てけ!」
相手は叫んだ。額が汗ばんでいる。ドラッグを摂取しているのだろうか。運が悪かった、と割り切るしかないのかもしれない。
直後、なにかが部屋中に聞こえはじめる。
湯が沸く音だった。怒りのメタファーじゃなくて、本当に聞こえている。
「え?」
馬車道は目を瞬かせる。
相手はそれを気に留める様子はない。怒りと恐れに満ちた顔つきをしながら、拳を握って突っ立っている。
「ちょっと、見て! 沸騰してる!」
馬車道はためらわず、便器の前にかがみ込んで中に溜まった水に指を突っ込んだ。刺すような痛みとともに反射的に引っ込める。熱湯だ。湯気も立っている。
どういうわけか、便器の水は沸点に達している。
「お前の骨格は異常だ。異常なんだよ……」
「さっきから骨格ってなんだよ! つーか仮にそうだったとしても知らねーよマジで! いいから見ろ! それどころじゃねーんだって!」
馬車道は声を張りながら手元のスマホを操作して「トイレ 水 沸騰」と検索する。めぼしい情報はなにも見つからない。
パキリ、と陶器が割れる音がする。便器が熱に耐えられなくなったらしい。部屋中に立ち込めはじめた湯気が天井の換気扇へと吸い込まれていく。部屋の温度が上がっているわけじゃない。この中にある水の温度だけが、急激に上昇している。
もしかしたら、なんらかの理由でここらへんに通る配管の温度が急上昇しているのかもしれない。便器だけでなく、蛇口も破裂する可能性がある。
「危ないよ! そこから離れたほうがいい!」
入口付近の手洗い器のそばにいる彼女に向かって言う。
相手は目をかっ開いたまま、馬車道に指を刺す。
「善良なフリをするのをやめて出ていけ!」
この事態にいっさい動揺もしないし、興味も示していない。
「してねーよ! お前こそコカインをやめろよ」
破裂音がして、反射的に一瞬目を閉じる。なにかが床に転がってきて足に触れた。配管のボルトが弾け飛んだようだ。
つかの間、相手がきびすを返すのが見えた。用も足さずにその場から駆け出していった。
「お前が出て行くのかよ!」
ハンドバッグが洗面台に置いてある。彼女が置き忘れていったものだ。
「忘れ物……」
相手はもう戻ってこない。口が開いたままのそれを持ち上げたとき、中から一冊の文庫本がこぼれ落ちる。
馬車道はもう少しここにとどまって、この異様な一部始終を見届けたくなった。
しかし、相手が出て行ってすぐ、部屋に蔓延する音は聞こえなくなった。コンロの火を消したように、水の沸騰はしだいにおさまっていく。
「どうしちゃったんだ」
めちゃくちゃすごい現象を目の当たりにしたのに、動揺しすぎてスマホで動画を撮ることを忘れていた。思い込みや幻覚なんかじゃない。陶器はひび割れたままだし、配管の何ヶ所かは膨張したままだ。どんなワードで検索してみても、この状況に当てはまる現象は出てこない。びっくりした!
馬車道は気持ちを落ち着かせながら、相手が置いていった文庫本を拾い上げて表紙を見る。
『スケルトン占い・入門』
黒地の表紙には指紋が目立ち、よく読み込まれていることがわかる。白抜きで骸骨が描かれているもののホラー小説ではない。なので中を読んでもいい、と馬車道は結論づける。
ページにはカラフルなフセンがいっぱいついていて、角を内側に折り込んだドッグイヤーもおびただしい。本文にはマーカーが引かれていないセンテンスのほうが少ないくらいだった。切羽詰まった受験生がやりがちな失敗だ。教科書や参考書にマーカーを引きすぎて、どれがもっとも覚えるべき重要なことか、逆にわからなくなってしまう。
前半のページでは、人体のあらゆる骨の構造や名称が図説つきで解説されている。第一章は骨格について三十ページほど、第二章は頭蓋骨について五十ページほど使って説明されている。本文に「風水的」とか「幸運」とか「エネルギー」とか「ネアンデルタール人」とか「大和民族」とかの単語が頻出することからわかるように、学術的に使えるものではない。子ども向けのオモチャだ。
「ぜってーコカインやってたよあいつ。あいつの頭がおかしすぎるあまり周囲のエントロピーがさ……」
ひとりごとを漏らしながら、文章に目を落とす。
手相や血液型占いの骨格版らしい。提唱者は、整形外科医と人類学者を名乗るふたりの人物だ。骨格および頭蓋骨のかたちから潜在的なパーソナリティを判断し、運勢を占う。皮膚や顔、髪型と違って骨はたやすく変えることができないものだから、骨は嘘をつかない……なので骨格を調べれば、その人間のすべてを読み取れるのである。序章にそういうことが書いてある。
「今日のラッキー頭蓋骨は〜? 頭頂骨がやや窪んでいるあなた! 思い切っていつもと違うファッションをしてみるのが吉。思わぬ出会いに期待できるかも!」
こんなのティーンエイジャーのあいだで流行るわけがない。キモすぎるしわかりづらすぎる。骨格に良し悪しがあるとすれば骨密度の分量くらいで、吉とか凶とかはないんで……。似合うファッションを考えるのには役立つかもしれない。でもそんなのアテにしなくていい。着たいものを着ればいいんだ。着たくない服など死んでも着るな。
「乳製品メーカーのマーケティングとかなのかな?」
この本は十回も重版されているらしい。著者の名前をまったく知らなかった。知らない出版社から、知らないベストセラーが出ている。ジュンク堂とか行ったら平積みで置いてあるんだろうか?
ここまで考えて、馬車道は息を吐いて思考をやめた。沸騰のことより、とりあえず今はこっちのことを考えることにする。ふたつ以上のことを並行して考えるのが、昔から極端に苦手だ。
「骨格主義者……スケルティストめ」
馬車道は存在しない言葉を口にした。
バッグの中を見てみる。財布や日用品のほかに、もう一冊ある。「秘密の骨格」というタイトルの、同じような文庫だ。バッグを手洗い器の上に置き直す。「スケルトン占い」の文庫本とともに、その文庫も持ち去ることにした。届けてやらない。
【第三章 ジャック・ケッチャムホラー小説新人賞】
かつてもっとも入れ込んでいた新人賞を公募していた雑誌がある。小説の連載よりもカルチャー情報面に力を入れたバラエティ雑誌だが、読み物のページの読み応えも十分だ。
注文がアプリに入る前の待ち時間に、それの最新号を手に取ることにする。馬車道は小説を読むことを自分ルールで禁じているが、この雑誌の今号だけを例外とした。
馬車道はドトールコーヒーのテーブル席に座って、『OBS』の最新号をめくる。今月号はJ・ケッチャムホラー小説新人賞の受賞作が掲載される。この賞の受賞作だけはどうしてもチェックしたかった。
今年の受賞作『ペイルランナー』を書いたのは七十五歳で、歴代最年長の受賞者らしい。小説を書くのは初めての経験だというのだから驚きだ。年齢にふさわしく、「老い」の恐怖をテーマにした静謐なホラー……などではない。あらすじを読むかぎりではフリードキンの『恐怖の報酬』を思わせるような、危険な仕事に挑むことになったドライバーの話らしい。超アグレッシブでスリリングなエンターテイメントじゃないですか!
さっそく本文に目を通す。
馬車道はすぐにそれに夢中になって、思わず注文を待っていたデリバリーアプリをオフラインにした。今日の仕事はこれでおしまい。それどころじゃない!
馬車道はその小説から目を離せなくなった。書き出しから釣り上げられた。
新人とは思えないような卓越した情景描写、年寄りが創造したとは思えないようなフレッシュな人物造形。メリハリのあるプロットに、いっさい躊躇のない暴力・人体破壊。ホラーのクリシェを効果的に用いつつも、逆手に取ってくる。ユーモアも冴えている。戦慄と笑いが交互にやってくる。物語のスケールはどんどん大きくなっていき、バシッと決まる伏線回収! そして、現代の病理に切り込むテーマ。それだけ詰め込んで、中編サイズの枚数にまでソリッドに文字数を刈り込んでいる。
「面白すぎる」
馬車道は『ペイルランナー』を読み終え、頭を抱えて項垂れた。新人作家の名前は金城和というらしい。和むの「和」で、ナゴと読ませる。いいペンネームだ。もしかしたら本名かもしれないが。
小説本文に加えて選考委員たちの選評結果があり(受賞にはかなり賛否が分かれたらしい。あんなに完璧な小説なのに!)、その後ろには金城のインタビュー記事も掲載されている。ズームを使ったオンラインインタビューだ。馬車道はさっそくそれに目を通す。どうやってここまで完璧なエンタメ小説を書き上げた?
金城はスティーブン・キングやジム・トンプソン、平山夢明に楳図かずお、トビー・フーパーやダリオ・アルジェント、デヴィット・リンチらからの影響をとうとうと語る。同じようなものを読み、見てきたはずなのに、自分は彼女のような作品に昇華させることができなかった。読み解きの深みが違ったというわけか。
小説のいいところは、どのような立場であっても作ることができること。子どもでも、死にかけの年寄りでも、小説を書くことはできる。食うに困っている貧乏人だろうが、小学校も出ていない田舎者だろうが、想像力と読み書きの能力さえあれば、小説は書ける。
刑務所の中にいたって小説は書けますよね。語尾に(笑)をつけて、金城は語ってみせる。
金城は小説を書くに思い立ったきっかけを尋ねられた。長年連れ添った配偶者に先立たれ、やることがなくなったので書いてみることにした。元々ホラー小説や映画が大好きだったので、そのジャンルに挑戦した……と答える。
「なんか普通だな」
いかにも高齢女性がなにかを新しくはじめるときに言いそうなことだ。本人が自らそう語っているのに、なんか言わされてる感があって嫌だった。
まぁ、実際にそうなんだろうね。
馬車道はインタビュー記事を隅々まで読んだ。「もっとも好きなホラー作品は?」という質問に、金城は「ジョーズ」と答える。
馬車道は自分に課したルールを曲げ、このデビュー作とこれから新たに生み出されるだろう金城和作品のみに限り、単行本を所有するのを認めることにした。
今回だけは特別に、『ペイルランナー』とそれに関わったすべての人に敬意を表明する意味で、今月号の『OBS』をすべて読み通してしまうことにする。
連載小説のページがある。タイミングがいいことに、この号から連載開始の第一回だ。タイトルは『ニュー・サバービア』。
馬車道は目を見開く。これは……。著者名が目に入り、思わず息を呑む。
こいつのことを知っている。偶然手に取った雑誌で、偶然知っている名前を目にするとは。現実では多々あるが、小説ではあんまりやらないほうがいい感じの偶然だ。
ずっと小説についての新しい情報をシャットアウトしてきたから気づかなかったが、こいつも作家になっていたとは。地元で作家を目指していたときの友人のひとりで、唯一自分と同じことを……小説を書いていた奴だ。当時と同じペンネームを使っているらしい。
そっか。作家になれたんだ。よかったね。
なんてとてもじゃないが言えない。湧き上がってきたのは怒りだった。
馬車道はテーブルの上のアイスコーヒーを啜る。六秒待ってから、本文に目を通す。もしかしたら、たまたま名前が一緒なだけの別人かもしれない。
そんなことはなかった。
この『ニュー・サバービア』は私小説の体裁をとっている。著者の分身たる「私」の一人称視点で語られるその光景を、馬車道は鮮明に映像化することができた。固有名詞をほとんど用いない描写によってぼかされてはいるが、舞台となっている町は明らかに、自分たちの故郷の壕戸町だ。今はもうなくなった、なくなるべくしてなくなった、あの町……。
作中には馬車道ハタリという人物が登場してきた。自分のことだ。無断で小説に登場させられて好き勝手に描写されるって、いくらなんでもキモすぎる。
馬車道はその私小説を、嫌悪と憎しみに満たされながら読み進める。第一回は、自分をモチーフにした登場人物が語り手に手渡した、クーンツの『ベストセラー小説の書き方』が登場する。実際にあいつにあげた気がするし、そんなことしなかった気もしてくる。
原稿用紙十枚ほどの短いそれを読み終えたのち、馬車道は全身の筋肉が弛緩したかのようにだらりと椅子の背もたれにもたれかかった。
「イカれてんのか」
馬車道は声に出す。作中の出来事は著者に都合がよく改変されている。お前は絶対にこんな奴じゃなかった。もっと最悪だっただろ。
馬車道はアイスコーヒーのグラスを掴み、ストローを使わずに飲み干す。
これ以上昔のことを思い出さないほうがいい。振り切ったはずの過去が手を伸ばしてくる。
店内にある喫煙スペースに入って、頭を落ち着かせることにする。
『ニュー・サバービア』のほかに著作がないか、名前を検索してみる。一冊だけだ。それを書店で入手してから、家に帰ることにする。ルールは破るためにある。
【第四章 私小説の時間は終わり】
「殺す」
馬車道は感情が昂ったとき、場面に関わらず思ったことをそのまま口に出して言ってしまう癖があることを自覚している。頭で考えたときにはすでに、舌が動いている。そのせいで取り返しがつかなくなったことが何度もあるのに、どうしてもやめられない悪癖だった。自宅のアパートでフローリングに座り込みながら、叫んだ。
「殺す!」
衝動的に壁を殴りそうになって、寸前で思いとどまる。
『ニュー・サバービア』の作者が以前に出版していた小説、奴はこれで新人賞を受賞した。得た賞金もそれなりだ。
高校生の頃に書き上げたが、賞に応募することを断念した小説がある。
その小説を唯一読んだのが、あいつだった。あいつとは応募前の、推敲が完了していない小説を読み合って、互いに選評を交わし合っていた。素人同士の作家ごっこに過ぎなかったけど、やらないよりはやったほうが幾分マシな文章にはなったと思う。
馬車道は応募前のその小説を奴に読ませた。そこそこの自信作だったから、誰かの感想を聞きたかった。ハスミンはあまり小説の良し悪しがわからないから(あの人は優しすぎて、なにを読ませても褒めてくれてしまう)、あいつに読ませたのだった。
「正直、これじゃダメだと思う」
あいつは責任感がないから、めったに批判的な意見を口にしない。そのあいつがそう言うんだから、よっぽど最悪な小説なんだろう、と思った。
「どこらへんがダメだった?」
あいつは言葉に詰まる。
「それは……」
言いあぐねながら考え込まれてしまう。
なんにせよ失敗作はすっぱり捨てて、新しく書きはじめる。いつもそうしてきた。今回もそうするつもりだった。
「でも、また読み返したい」
ん? あいつは頼んできた。
「これ、持ち帰っていいかな? もう一回じっくり読み返してみたい」
「駄作なんじゃないの?」
「でもね、なんか、引っかかるものがあるんだよ。もちろん、悪い意味じゃなく」
そのとき自分は、奴の感性を高く買い被っていた。あいつに原稿を渡した。
そしてそのことも忘れたころ、あいつと会うことはもうなくなっていた……。
今馬車道が読み終えたその小説は、紛れもなく、そのときのそれだった。プロットをパクったとか、文章をいくつか転用したとか、そういうレベルの話ですらない。
一言一句違わず、それそのものだった。そんな大胆で雑な剽窃があるか? 著者名を変えただけだ。きっと推敲すらしていない。
どうしてこんな真似をしくさってしまうんだ。金が欲しかったのか? それとも、どんな手段を使ってでも作家になりたかった? 誰でも自由にネットに小説をアップできるこの時代に?
「殺す」
お前は作家になっていない。
怒りと失望と軽蔑で、馬車道は正気を保てなくなる。目尻が熱くなってきた。出版社に問い合わせようかとも考えたが、自分がその『馬車道ハタリ』であると公式に証明する手段がない。
著者の名前を検索すると、仕事の受注のためにメールアドレスを公開しているのが見つかる。即座にそのアドレスにメールを送信した。返事は返ってこない。十代のころに使っていたLINEはアカウントを消してしまっていたから、これが唯一コンタクトを取る手段だ。
翌日、馬車道は駅の喫煙所でガラムと会った。この作者の小説を知っているか尋ねてみる。
ガラムはあー、となにかを思い出すそぶりをしたのち、口を半開きにする。
「当時ちょっとだけ話題になりましたね。大学在学中に受賞だっけ。でもそのあと次回作を書けてないから、もうみんな覚えてないんじゃないかな」
「読みました?」
「いちおうね。でもあんまりっすね。作者の被害者意識みたいなのが滲み出てて、そういうのは好みじゃないです。あーでも、いうほど内容覚えてないな。正直どうでもいいです」
「そっかー……」
「あくまで自分の感想ですからね。つまんなくはないと思いますよ。ウチは嫌いってだけです」
馬車道は下唇を噛みながらライターを擦る。なかなか火がつかない。
「あ、もしかして、好きでした? ごめんなさい! 未読だと思って……」
「ああいや。そんなんじゃないです。気にしないで」
話したいのはそういうことじゃない。馬車道は用意してきた話題を切り出すことにする。
「その作家ですけど、そいつが今連載してる小説に、無断で私のことが書かれてるんですよ!」
ガラムはガラムの煙をふーっと吐き出す。
表情に深刻な雰囲気が浮かびはじめる。
「あの……。気ぃ悪くされたら申し訳ないんですが、しばらく仕事休んでゆっくりしはるか、カウンセリングを受けることを勧めます」
「違うんですよ、妄想に取り憑かれてるとかじゃなくて……現実との区別が曖昧になってるとかじゃなくて……」
「その作家が、あなたの頭の中からアイデアを盗んだと」
インセプションみたいに、とこめかみを指さしながらガラムは余計なことを言う。
「そう! こいつは私の小説を」
ガラムは灰皿で火をもみ消した。
「誰にだってそういう時期はあります。それを乗り越えられるかどうかが、一皮剥けるための試練でしょうね。頭を冷やすべきだと思いますよ。取り返しつかなくなる前に」
ガラムは喫煙所から出て、自転車にまたがろうとする。
「あ、ちょっと待って! もう一個話したいことが」
「なんです? オーダー来たんで、そろそろ行きますよ」
「最近すげーものを見たんですよ。あそこにあるトイレの水が急に沸騰して」
馬車道は喫煙所から見える公衆トイレに指をさす。
ガラムは答えず、自分のこめかみに人差し指の先端を当てた。頭を冷やしてください、ということだ。自転車を走らせる。ガラムの姿は人混みにまぎれてすぐ見えなくなった。
「困ったな……」
馬車道は『OBS』を購読し、例の連載を追うようになった。自分をモチーフにしたキャラクターが誇張して描かれているのを読むのは苦痛だが、背に腹はかえられない。まだメールに反応はないが、毎日文面を変えて送り続けた。
連載で、自分たちが壕戸町のカルトと接触したエピソードが書かれているのを読む。
当時は本気でビビっていたけれど、このカルトっていうのは実在しなかった、というのが事実だ。たしかに、地元民を中心に構成された新興宗教法人はある。ただそれは実のところ、よくある脱税をしているケチな詐欺集団でしかなかった。間違っても「悪の組織」的なそれじゃない。この小説では悪のカルトだったっていう体で話を進めることで、サスペンスなエッセンスを加えているのだろう。多少の脚色はアリだ。ちょっとは嘘をつかないと、あの町は退屈すぎた。
でも、陰謀論を茶化してるつもりの奴が陰謀論にハマることもある。だから小説でこういったものを軽々しく扱う姿勢には賛成できない。伏線の張り方も上手くないし……。
馬車道は苛立ちながらも、『ニュー・サバービア』の連載を追っていった。時系列の進みは鈍重だが、少しずつ未来へと向かっていっている。
まだサバービアは登場していない。タイトルにも用いているのだから、いつか絶対に出てくるはずだ。私たちの、サバービア……。
それを出すのはいくらなんでもダメじゃないか? 私小説とは名ばかりで嘘ばっかりな連載とはいえ、それを書くのは……。
季節が変わったころ、『ニュー・サバービア』の連載では大洪水で町がめちゃくちゃになったときの様子が書かれた。これは事実に基づいている。道路が浸水して、家や物が流されて、電気やガスが止まって、人がたくさん死んだ。壕戸町はとくに被害が深刻で、結局最後まで元には戻らなかった。
「この仕事、今日でやめるんすよ」
喫煙所でガラムが言う。
「そうなんですか」
そりゃあ、一生やりつづけるような仕事じゃないもんね。
「就職、決まったんで」
「おめでとうございます」
私もちゃんと仕事を探したほうがいいのかな。きっとそうなんだろうな。
「会うのもこれで最後だと思うんで、これ。どうぞ」
ガラムがなにかを手渡してくる。未開封のガラムのパッケージだ。
「どうも……」
「かなり人を選びますけど。思い出として、ね」
馬車道は素直に感謝をもってそれを受け取ることにした。
「じゃあ、私も」
くしゃくしゃになったパッケージをバッグから取り出す。新品と吸いかけ、どう考えても等価な交換ではないが、ほかに持ち合わせがなかった。
ガラムはそれを受け取ってくれる。パッケージの商品名に目を落とし、銘柄の名前を読み上げる。
「プラシーボ」
プラシーボは人気も知名度も乏しい。取り扱っている店も少ないが、馬車道のお気に入りだった。形容しがたい、変な風味がする。そのくせ割高だ。バカしか吸ってない。
「じゃあ、また」
ガラムは自転車を蹴ってどこかへ行った。もう二度と会うことはないんだろうか。
ガラムからもらったそれに火をつけて、吸い込んでみる。
馬車道はむせて激しく咳き込んだ。
【第五章 作者を殺せ】
メールを送り続けてもう半年になる。無断で著作に個人を登場させた以上、人格権を侵害している……んだよね。あんまよく覚えてないけど、あの三島が訴訟されたやつ。あれどうなったんだっけ?
嘘と誇張にまみれていたが、あの小説は少なからず事実に基づいている。文章内に馬車道ハタリとハスミン以外の固有名詞がほとんど登場しないのは、訴訟をかわすためなのだろうか。
馬車道は自宅の姿見に映る自分の姿を見て、辟易する。
壕戸町のマスコットキャラクターに、ヤギのゴートくんというやつがいる。町の名前に由来する、取るに足らないダジャレだが、都市生活者が使う電気のためにリスクをおっかぶる地元住民の性質を秀逸に表しているともいえる。いけにえのヤギは自分の立場に抗議したりしない。逃げもしない。全力で走ってそこから逃げ出せば生き残れるかもしれないのに、ヤギは……あの町の住人はそんなことはしない。未知の世界である外にひとりで逃げるより、仲間と一緒にエサをもらって小屋の中で生きて、殺されるほうがいい。
「私はヤギじゃない」
ゴートくんのデザインは自治体が町民を対象に公募したもので、数十もの(!)応募作から選ばれたのは地元の中学生の作品だった。たまたまではなく、彼は町への明確な皮肉として「スケープゴート」を連想させるデザインを忍び込ませた。馬車道はそうあってほしいと考えている。そのほうが希望がある。
今も部屋着に使っている、高校のときの部活Tシャツにはゴートくんのイラストがプリントされている。『ニュー・サバービア』に登場する馬車道ハタリは過度にファッションにこだわる人物という描写がなされていた。そういうことは実際に言っていたかもしれないが、作者はニュアンスを取り違えている。馬車道が憎んでいたのは外見のダサさではない。
このTシャツだって、部屋の中で着るぶんには別にかまわない。
ベトナムやバングラデシュの子どもや女性を非人道的に働かせて安価な商品を売る、ユニクロやギャップのようなファストファッションの搾取構造に加担したくはない。するべきじゃない。でも、一週間ぶん着られるだけのちゃんとした衣服を買い揃えられるだけの金があるわけじゃない。学生のころは古着を集めたりもしたけれど、今はもうそんな元気もなくなってしまった。妥協することに慣れたら終わりだ。
「安くて質のいいもの」はおしなべて人権を侵害することによって生み出されている。そんなものを手にしたくない。でも、それを手にしなかったら飢える。死ぬ。
自転車に乗っていないとき、自分は生きていない。馬車道は自覚している。サブスクサービスもぜんぶ解約してしまって、家にいるときは最悪な部屋着を着ながらぼーっとしているだけ。趣味なんてない。十代のころに、ああなったら終わりとみなしていた人間そのものになってしまった。
馬車道はベッドに寝そべりながら、便所の女が忘れていった『スケルトン占い』のページを戯れにめくってみる。
十種類の骨格・頭蓋骨タイプは、外見や感触から分類できるらしい。
馬車道が当てはまるのはタイプDだった。肩甲骨が浮き出ていて、撫で肩であり、骨盤があまり広くない骨格。Dの骨格の持ち主は正義感が強いかわりにカッとなりやすく、他者への共感能力に欠けていると思われる傾向がある。
「バカがよ」
毒づきながら、次の章の頭蓋骨のページに向かう。
全体的に小さめで後頭部がやや浮き出ており、上下の顎が少しずれている頭蓋骨はタイプCだ。Cの頭蓋骨は衝動にまかせて行動する、暴走型の思考を持つとされている。
「なんか気分が悪くなってきちゃったな」
充電器を差して床に置いていたスマホが振動する。
『ニュー・サバービア』の作者からメールが返ってきた。家に来てくれないか、と奴は言う。
「お前が来いよ」と馬車道は返信するが、訳あって自宅を離れられない、の一点張りだった。共有された住所を検索してみると、そのアパートの外装には見覚えがあった。何度かデリバリーを配達したことがあったはずだ。
今すぐにでも向かわなくては。ゴートくんがプリントされた部活Tシャツ、しかも背中にWADAとゴシック体で書かれてもいるそれを着て外に出るのは耐え難い恥だが、この際割り切るしかない。生憎、すぐに着替えられるような服を切らしていた。どうせ自転車に乗って汗だくになる。
「お前は伏線も回収できずに死ぬんだ」
国道に面したアパートはいつも人や車の通りが激しいが、深夜帯だけは別だ。思いのままにかっ飛ばせる。
馬車道が本を読むことと同じくらい自転車に乗ることを愛していたのは、ひとえにそれが自由な行為だからだ。ペダルを踏んでいる最中の人間を邪魔する奴はいない。誰も話しかけてきたりはしない。
高校生のときに買った自転車を、パーツを取り替えたり部品を修理したりして乗り続けている。地元から引っ越すときにも持ってきた。置いてきたほとんどのものはすべて消え去って、残っているのはこのゴートくんTシャツと自前の自転車だけだ。
奴の住んでいるらしいアパートは馬車道の自宅からさほど離れていなかった。電車を使わずとも、自転車で二十分ほど走れば辿り着く。一階のフロアには美容院が入っているらしい。デリバリーで使うリュックを背負ったまま、階段を登る。リュックには自転車の整備に使うレンチを入れてきた。これを思い切り振り下ろせば人間の頭くらいならかち割ることができる。どんなタイプの頭蓋骨であったとしても!
馬車道はインターホンを鳴らした。
しばらく待っていると、チェーンをかけたままの扉が開く。扉の隙間からが奴がこちらを覗き込んでくる。『ニュー・サバービア』の作者はじっと馬車道を見つめる。今、目の前にいるそれが本物の馬車道ハタリであると認識するのに時間がかかっているようだ。
馬車道の着ているTシャツに描かれたゴートくんを見て、合点がいったらしい。チェーンが外される。
こいつ、こんな顔してたか? いつもこの世の終わりみたいな顔をしてたにはしてたけど、こんなにも?
「死体みたいな顔だな」
呆然としてなにも考えてなさそうな目をしている。部屋に上がり込む。いちおう、靴は脱いでやることにした。
「その、説明しなきゃいけないことがあって」
馬車道の発言を先回りしようとしたのか、『ニュー・サバービア』の作者はそう言った。部屋は殺風景で、中にあるのは必要最低限の家電くらいなものだった。曲がりなりにも作家なのに本の一冊もない。とことんものを書くという行為を愚弄している。
「私は田舎の公民館みたいなスペースに住んでる奴を人間とはみなさない」
なぜか大きな空気清浄機が三台ある。なにをそんなに気にしているというのか。
「えっと、あの……」
馬車道はペガサスデリバリーのリュックからレンチを取り出した。持ち手を握り込んでから、少し考える。
「本当はここでお前をぶっ殺そうと思ってたんだけど、やめた」
馬車道はレンチを作者の頭に振りかぶる。
「そ、そう……?」
「金城和っていう作家の小説、読んだ? 『ペイルランナー』」
作者はかぶりを振った。
「だからお前はダメなんだよ。アンテナが鈍いから。私はこれから刊行されるであろう金城和の小説をすべて読まなくちゃいけない」
刑務所の中では、ホラー小説はさすがに手に入れにくいんじゃないかな。
だから、と馬車道は言葉を繋げる。
「そのかわりに、これでお前の両手を砕く。二度とキーボードを叩けないように。警察に駆け込んだら殺す。お前の家族も殺す」
「それは……」
「今さらなんだ? お前に小説を書く資格なんてない」
「そうじゃなくて、ウクレレを弾けなくなるのだけは……」
「ウクレレ?」
『ニュー・サバービア』に、洪水で流されてきたガラクタを集めるというエピソードがある。それは実話だ。あいつはそこで見つけたウクレレを、今も弾きつづけているらしい。部屋の隅にスタンドに立てかけられたウクレレがあるのが見えた。
「お前に趣味を楽しむ権利があると思う?」
「趣味とかじゃないんだ」
「え、ウクレレ奏者とかやってんの?」
「そんなんじゃないけど……あいつのために」
煮え切らない態度に辟易し、馬車道は会話を打ち切った。殺風景な部屋の奥に、黒い布がかけられた直方体の箱がある。横幅は一メートル半ほど、棺桶を想起させるような形状だ。ミニマリストのできそこないみたいな部屋の中で、異彩を放っている。
「で、剽窃でお前を訴訟することの件だけどさ」
「ごめん! どうしても、すぐに金が必要で……。思い出したんだ。あの小説の原稿をまだ持ってるって。馬車道の小説を使えば、新人賞を取れると思ったんだ」
作者は頭を下げた。
「それで賞金を?」
「いつか返すし、すぐに謝るつもりだった。でも、連絡を取る方法が思いつかなかった。だから、あの町の小説を雑誌で連載することにしたんだ。いつか君が気づくと思って」
「小説家は死ぬまで小説を書くんだよ。不当に賞を盗んだお前に、それができるかよ」
いちどは捨てた小説だ。そんなものに心残りはない。怒りの矛先は、新人賞を不正に手に入れてのうのうと生きていることそのものだ。すべての作家と作家志望と出版社への侮辱だ。原発、ギグワーク、ファストファッション、小説への冒涜、ぜんぶ同じ。
「謝れよ」
馬車道は作者を無視した。箱に近づいて、布に手をかける。作者はそれを見てもなにも反応を示さない。むしろ、馬車道がそれを覗くことを想定していたかのように、じっと静観している。
その中になにが入っているか、馬車道には見当がついていた。
うしろを振り返らず、布をはぎ取る。
その箱はガラス張りのケージだった。中にいるそれと目が遭う。
「サバービア……?」
作者はゆっくりと部屋を移動する。馬車道の背中に近づいてきているのがわかる。フローリングに足を引きずる音が聞こえる。左足をほとんど動かしていない。
これは昔からだ。『ニュー・サバービア』の視点人物は陸上部に所属していたり、なにかやっかいに巻き込まれて逃げたり走ったりする。それがいちばんの脚色であり、嘘だ。あの小説は明るいムードではなかったけれど、多分に著者の理想が反映されていた。
馬車道ハタリはあんなにチャーミングで会話不能な感じだったわけではない。なんでもかんでも口に出してしまう悪癖をカリカチュアして書かれているだけだ。ファミレスもフードコートもすぐに潰れたし、陰謀ひしめくおもしろカルトなんてないし、ハスミンは転校したんじゃなくて、死んだ。
昔……。
壕戸町の市民プールがあった。二十年近くも前に、なにもかもどうでもよくなっちゃった男がいた。あの町の住人だ。そいつは職員のフリをして中に入り、屋外のプールサイドにガラスの破片をありったけばら撒いた。
雑な犯行なのに、誰も気づかなかったらしい。もしくは、見て見ぬフリをしていたのかも。
開場と同時に、何人かの子どもがはしゃいで屋外プールへと駆け出していく。何人かが小さな破片を踏んで、泣きじゃくった。
そういう事件があった。逸脱したうえで子どもを泣かせることくらいしかできない、つまんない奴が起こした、つまんない犯罪だ。
男も想定外だったが、たまたま一枚だけ、非常に鋭利なガラス片があった。
それを深く踏んで一生ものの傷を負うことになった不幸な子どもがひとりだけいた。皮膚を貫いて、肉を切り裂きながらガラスは柔らかい肉体にめり込んだ。抜き取って消毒するための処置が遅かった。
傷は治ったが、慢性的な痛みはずっと残り続けた。介護やサポートが必要なほどではないが、全速力で走ることはままならないし、歩き方も不恰好になる。
山岳地区の田舎に住む陰気な子どもにとって、それがどれほどやっかいな足枷になるか、想像に難くない。
なんでそれを書かない?
自分だったら……馬車道は思う。捏造した思い出で私小説を書くくらいだったら、自分自身のことについて書く。それほどの不運をおっかぶったなら、そうする。それこそがリアルであり、オリジナルだ。想像力よりずっと強いパワーなんじゃないのか? 私はそのパワーを持っていない。だからいつもなにかが足りなかった。
「お前にしか書けないもの、いっぱいあったと思うよ」
だからこそ書けない?
「わかってる」
馬車道はかがんだまま、ガラスの箱をじっと見つめ続ける。こいつはカルトや洪水や原子力爆発なんかより嘘っぽいんだけど、本物だ。
馬車道のことを思い出したかのように、サバービアが口を開いた。
第四話は8月9日(水)に配信予定です。
【お知らせ】
当連載を収録した書籍『ニュー・サバービア』が待望の刊行! 全国書店やAmazonなどの通販サイト、電子ブックストアにて好評発売中です。
筆者について
なみき・どう 1999年生まれ。茨城県出身。大学在学中の2021年、茨城県に暮らす3人の女子高校生の大麻栽培を描いた小説『万事快調(オール・グリーンズ)』(文藝春秋)で第28回松本清張賞を受賞しデビュー。