異性愛者はかわいそう? 同性愛者からみた「異性愛という悲劇」

学び
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あなたはこれからも、怠け者で思いやりに欠け、腹を割って話せる友人もおらず、セラピーにも通おうとしない、子育て並みに手のかかる、ケア目当ての男性と交際したいですか?

異性愛の経験もある同性愛者(レズビアン、ダイク)の研究者がまなざす、異性愛という悲惨な異文化の正体――話題の翻訳書『異性愛という悲劇』が好評発売中! クィアのみなさんも、異性愛者のみなさんも共感の嵐……そんな本書から、トミヤマユキコさんによる解説を試し読み配信します。

あなたは幸せな異性愛、できていますか?

「異性愛者の皆さんが心配だ」――本書の冒頭にはそう書いてある。まだ冒頭なので、なぜ心配なのかわからない……はずなのだが、この時点ですでに「ご心配には及びません!」と言い返せない自分がいる。心配されるだけの何かがありそう。いや、ある……。あなたが女性であれば、その思いはより強いかもしれない。マジョリティによって打ち立てられ、いまこの瞬間も世界にあまねく存在している異性愛体制というものが、当のマジョリティにとって実はそこまで快適なものでも便利なものではなく、それどころか、人によってはかなり疎ましいものとなっている事実に気づきながら、深く考えることも、はっきり言語化することもなくここまで来てしまった自分と直接対面させられるかようなばつの悪さがある。冒頭の一文ですでにこれだ。気合を入れてかからねばならない、と思う。しかし、それは決して嫌な感じではない。当たり前(とされているもの)が解体される予感にどきどきしながらページをめくることは、新しい世界に出会うことと表裏一体であり、悪くない気分だ。


 ここで、著者のジェーン・ウォードがどんな人物であるか確認しておこう。彼女はミドルエイジの白人女性でレズビアン。レズビアンの中では「ダイク」と呼ばれるボーイッシュなレズビアンだ。また、社会学を修めた研究者にしてフェミニストでもあり、現在はカリフォルニア大学サンタバーバラ校の教授とフェミニズム研究学科のチェア(学科長)を務めている。


 そんな彼女は、本書において、クィアである自身の経験と研究者としての知見を総動員して、異性愛という悲劇に迫ろうとしている。わたしがフェミニズム系の翻訳書を読むときいつも心躍るのは、著者の個人的な体験がたっぷり書かれている部分であり(ロクサーヌ・ゲイ『バッド・フェミニスト』(野中モモ訳、亜紀書房)、レベッカ・ソルニット『説教したがる男たち』(ハーン小路恭子訳、左右社)、リンディ・ウェスト『わたしの体に呪いをかけるな』(金井真弓訳、双葉社)といった本がわたしのお気に入り)、本書もまた個人的な体験についての記述が光る本である。


「個人的なことは政治的なこと」(第2派フェミニズムのスローガン)だから、そのような書きぶりは大いに歓迎されるべきなのだが、日本の書き手、とくに研究者を自認する書き手は、当事者研究と銘打つ場合を除けば、「私情を差し挟んではいけないのではないか?」といった気持ちに襲われがちだと感じる。冷静かつ客観的な論考にする、というか、そう読者に思ってもらう上で、書き手である自分をできるかぎり透明化するケースが少なくない。ふだんマンガの研究者をやっているわたし自身にも経験がある。正直なところ、人生どん底だった20代後半にマンガをたくさん読み、そのおもしろさに窮地を救ってもらったので、恩返しみたいな気持ちでマンガ研究の道に進んだ、という非常に個人的な事情でいまに至っているのだが、学術論文を書くときなんかは、よそ行きの顔をして「この作品/作家を論じることは研究的にたいへん意義がある」とか述べるわけである。いや、まあ、たいへん意義があるのは事実だし、噓ではないのだが、しかしその意義に気づくためには、わたしの個人史を無視することはできないよな、とも思うのだった。


 つまり何が言いたいのかというと、冷静で客観的で、ついでに透明、中立であるような論考なんてほぼ幻想の産物なんじゃないかということである。むしろ自分の立場や偏りをはっきりさせた上で論述を展開する方が、よっぽどフェアなのではないか。それで言うと、ジェーン・ウォードは自分を透明化することなく、この立場からはこの景色が見えるのだということを直截に教えてくれる。その景色を見るための展望台は、わたしたち読者にとって、いままで登ったことがないものかもしれない。けれども、そこから見える景色は、フェイクなんかじゃなく、この世界に実在する景色なのだ。わたしたちの多くはただそこへ行く方法を知らなかっただけ。未知なる(しかしクィアにとっては慣れ親しんだ)展望台の場所を教えてもらえるというだけでも、本書の存在意義は十分にあると言える。

本書では、異性愛者はクィアよりも生きやすいという前提を考え直すべきではないか、とい
う問題提起について論じていく。

本書では、クィアは異性愛者と対立するのではなく、彼らを案じて共感し、さらに理想を言
えば、彼女たちをミソジニーから解放することを踏まえた、私たちクィアと異性愛者の女性
たちとの連帯について論ずる。
異性愛者の読者に、私は皆さんのアライだと、心からの愛と連帯をもって伝えたい。


 これらを読めばわかるように、本書ではクィアの立場から異性愛のありようを検討し、最終的には異性愛者の女性をミソジニーから解放することが目指されている。社会的に見れば、マジョリティがマイノリティに手を差し伸べるべきところを、本書はマイノリティがマジョリティ(の一部)に手を差し伸べる形になっているのが特徴的である。と同時に、それって主客が転倒しているのではと感じるのは、わたしだけではないはず。マジョリティの悲劇なんて、マイノリティのそれに比べれば、ずいぶんと生ぬるいものなのではないのか。心配してくれるのはありがたいが、あなたたち自身のことはよいのか。権力勾配に敏感な読者ほどそう感じてしまうと思うが、本書を読むほどにクィアから見た異性愛のヤバさが伝わってきて、とにかく先を読まずにはいられなくなるし、この主客転倒の効果というものが、じわじわと、そして確実に諒解されるのである。


 異性愛のヤバさとしては、まず、配偶者間レイプに代表される、非常にわかりやすい形の暴力がある。男性が女性を自在にコントロールすることが男らしさの証であるかのような風潮が、異性愛の世を長らく支配してきた。これはもう、明らかにヤバいわけだが、支配/被支配の関係から逃げることを選ばない(選べない)女性たちがいる。それどころか、指南書を読み漁ったりして、もはや好きでもなんでもない男性との関係修復を模索していたりもする。本書では、恋愛・結婚に関する自己啓発書および異性愛者向け関係修復ビジネスが紹介されているが、これらの商売が活況を呈するのは、結局のところ、男性のパートナーを手に入れたければ、女性が学習し、妥協し、辛抱するしかないからである。フェミニズムの浸透と拡散によって、セルフラブの重要性が理解されるようになってもなお、異性とつがいになろうとすれば、女性がより多くのコストを支払わねばならぬ、ということらしい(つらい!)。


「異性愛者は恋愛のさまざまな局面で、ちょっと首をかしげたくなるような妥協をするので、フェミニストのクィアたちはいちいち動揺し、心配になってしまう」……ええ、はい、そうですよね、すみません。思わず謝罪の言葉が口をついて出る。これを人類の過半数が善きものとして支持しているとか、もはや意味がわからない。理不尽すぎる。そう思えてくる。たとえば世間では、長年連れ添った夫婦がぶつくさ言いながらも一緒に生活していることが美談にされたりする。が、本書を読んだ後はもう「愛ですね♡」みたいな、寝ぼけたセリフは吐けなくなる。なぜって、異性愛者(とくに女性)がさまざまな暴力に耐えたり、相手の嫌なところを見ないで済む技術を磨いた結果かもしれないじゃないか。真にお互いを思いやり、愛し合えているカップルがもはや貴重種なのだとしたら、異性愛とは実に不具合の多いシステムだと言わざるを得ない。

しかし、だからと言って、著者の所属するクィアの世界が幸せいっぱい&夢いっぱいの天国というわけではない。クィアにはクィアの困難がある。ただ、クィアであることには、困難だけでなく喜びもまたあるのだった。たとえば、子どもを持つレズビアンのカップルが「この子にはゲイになってもらいたくない」と言ったことに対し、著者が「本気でそう思ってる? クィアでいるのがあまりにつらくて、ご両親に助けてほしいって思ったことある? 異性愛者でいるほうがマシだと考えてる?」と聞くと、顔を見合わせてニヤリとしたふたりは大声で笑いながら「まさか。言いたいことはわかるけどさ」と答える。我が子が直面するであろう困難はできるだけ回避したい。でも、クィアであることをやめて異性愛者になりたいかと問われれば、決してそんなことはないというのが、彼らの本音なのだ。

「ここで大事なのは、クィアとして生きるのがいかにつらくて悲しいかというナラティブを甘受しながら、クィアの多くが、(クィアとして)生きることを謳歌している、ということだ」……繰り返すが、クィアにはクィアの困難がある。しかしそれはクィアとしての生を謳歌できないという短絡的な帰結をもたらさない。一方の異性愛者はどうだろう。異性愛者の困難を抱えながら、同時に異性愛者であることを謳歌できているだろうか。困難を上回る喜びを手に入れているだろうか。本書の中で著者が引用するさまざまな文献を見るにつけ、口ごもるしかないわたしだ。言葉を選ばず言うのであれば「誰得なんだこれは?」である。


 ただ、そんな異性愛の世界にも、変化の兆しがないわけではない。それについては、第3章を読んでいただきたい。この章で著者は#MeToo 運動に端を発するモテ講座界隈のちょっとした変化について指摘している。プロジェクト・ロックスターというモテ講座が行った「#MeToo 運動についての緊急ライブ配信」において、「ハーヴェイ・ワインスティーンと同類と思われず、女性と会話を楽しめるテクニック」が取り上げられたときの様子について、著者は「私のインターネット体験の中でも屈指のミソジニー空間」だったとしつつも、「粗は結構あるものの、この数か月で耳にした、異性愛者の男性の発言としては、かなりフェミニスト寄りだったと感じた」と評価している。配信の中では、メンバーによる「だいたいさ、男性が性的に搾取しようとしてるって、女の子たちにはバレバレだよ」「世の中を女性の視点で見たほうがいいね」といったことばも聞かれる。たしかにかなりフェミニスト寄りだ。ナンパがもともと女性を引っ掛けるためのミソジニー丸出しゲームだったことを思えば、ずいぶんと理解が進んだものだなと思う(まあ、わざわざ褒めそやすようなことでもないのだが)。


 このように女性への態度を「軟化」させることが、異性との関係構築におけるひとつの手だと男性たちが気づきつつあることは、日本の各種モテ言説を見ていても感じる。女性を支配の対象と決めつけるのはやめて、女性を思いやり、女性を軸にした考え方ができるよう、男性みずから重種なのだとしたら、異性愛とは実に不具合の多いシステムだと言わざるを得ない。がんばるべし、という主張が、書籍やSNSに散見されるのだ。代表的なところでは、恋バナ収集ユニット「桃山商事」が数多の恋バナを分析する中で、有害な男性性を解体することがヘルシーな恋愛関係にとって非常に重要であることを繰り返し指摘しているし、AV男優のしみけんが書いた『1万人抱いてわかった! モテる男の法則』(清談社Publico)でも、家族や友人のみならず赤の他人にすら優しくでき、さらには自分の弱点を晒せる男がモテると述べているのだ。女性と仲良くなりたいなら、まずは女性を人間扱いしましょう、内心バカにしたり、搾取したりするマッチョイズム丸出しの態度はダメです。そんなごく当たり前の価値観を受け入れるための段階が男性には必要で、なんだかすごく手間がかかるなあ、と思わぬでもないが、ちょっとずつでも前進してもらわないと、異性愛という悲劇が終わらないのもまた事実である。


 それにしても、異性愛者の男女が、一度は惹かれ合ったはずなのに、互いを憎むようになり、やがて差し向かいの孤独に陥るなんて、不器用すぎやしないか。マジョリティであるにもかかわらず、幸福でより安定的な関係を構築する方法を、見るに見かねたクィアに教えてもらうほどの不器用さ……。しかし、生きていると自分たちだけでは手に負えないことはある。そういうときはチームワークが大事だ。いま異性愛者がチームを組むべきは、クィアのみなさんなのかもしれない。


 その意味で第4章に出てくるクィアを自認する人々によるアンケート回答は必見だ。著者と交
流のある回答者しかいない、という偏りはあるものの、彼らの正直なことばには、異性愛者がよりよく生きるためのヒントが詰まっている。

異性愛者の人たちは嫌いじゃないです。でも、異性愛者の文化は退屈極まりない。文化です
らない。面白いことを全部取り去った残りカスみたい。

異性愛者のカップルってほんとにお互いを愛しているの? だって、そんな風にはぜんぜん
見えないんだけど。

異性愛という悪夢に絡め取られなければ、女性はもっと幸せなはずだ。男性と社会はさまざ
まな形で女性を苦しめている。


 非常に手厳しいが、異性愛を外側から観察すると本当にこんな感じなのだろうから仕方ない。抗弁しても意味がない。ここはいったんクィアに委ねよう。そう思えるのは、著者の説得的な書きぶりによるところが大きいのだが、さらに付け加えるなら、異性愛のヤバさが異性愛者の女性からクィアの女性に伝えられるケースが少なくないという事情も、本書の信頼性の高さを裏付けるものとなっている。クィアとは、異性愛者にとって赤の他人なんかじゃなく、非常に近しい隣人なのだ。そして優れた観察眼を持つこの隣人の言うことには一理ある。本書は、クィアという名の隣人から異性愛者に届けられた懇切な手紙なのだ。


 著者は本書の最後で「包容力のある異性愛(ディープ・ヘテロセクシュアリティ)」という概念について解説している。それは「性の欲望や悦び、快感を通じて培われる男女の連帯やお互いを配慮する手段として、性愛、すなわち異性愛と向き合っている」という。そして「ストレート
の男女が異性との性愛やストレートの文化を充実したものとして体験することを尊び、守ろうと
するための、また、異性愛者としての楽しさを奥深く探求するための枠組み」でもあるという。
見せかけや誤魔化しではなく、本当に愛し合うことができれば、異性愛者も平等になれる。そう
なれば、差し向かいの孤独に陥らなくて済むかもしれない。そんな未来が本当に来るのだろうか。わからないが、試してみる価値はあると感じる。この隘路を抜けた先に異性愛者の新しい世界があるのだとしたら、冒険しないのはシンプルに損である。

わたしも自分にできるところからはじめてみよう。さしあたって、恋愛ストーリーを好んで書く
大学の教え子たちに本書を紹介したい。異性愛体制をやみくもに強化するだけのストーリーはそ
ろそろやめにして、包容力のある異性愛へと歩みを進めよう。そんな呼びかけに応じる作品が増
えれば、異性愛のありようは少しずつアップデートされるだろうし、異性愛という悲劇が変質す
れば、巡り巡って、その悲劇がもたらしてきたクィア(ここには当然著者も含まれる)への抑圧
を軽減することにも繫がるのではないだろうか。そんな未来が来るのなら、心から大歓迎だ。

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