今日までやらずに生きてきた
第8回

初めて貼る冷えピタ、初めて飲む龍角散ダイレクト

暮らし
スポンサーリンク

梅田の立ち飲み屋で生ビールを飲んでいて、今日から「えべっさん」がはじまったことを知る。最終日の「残戎」に出かけた。その帰り道、久しぶりに風邪をひいたなと思った。ドラッグストアで必要になりそうなものを買い物カゴに入れた。

大阪には酉の市がない代わりにえべっさんがある

梅田の立ち飲み屋で生ビールを飲んでいると、「今日は姿が見えないな」と入店時から不思議に思っていたその店の店主が、お店のユニフォームになっている黒いTシャツ姿ではなく、革ジャンを着て外から入ってきた。お店のスタッフも数人一緒にやってきて、ひとりが飾りのついた笹を手に持っている。

「“宵戎”やからそんなに混んでなかったわ」と店主がいい、厨房に立って仕事をしているスタッフが「ほんまですか! それはよかったです」と答える。外から帰ってきた店主と数人のスタッフは本当は今日、仕事が休みの日なのだが、「えべっさん」の笹飾りを買いに神社まで行って、買ったそれを店に届けに来たらしかった。

「えべっさん」とは「十日戎(とおかえびす)」という新年のお祭りのことで、大阪を中心に近畿地方のあちこちの神社で開催される。毎年、1月9日から11日までの3日間に渡って開かれるのだが、1月10日がメインの「本戎(ほんえびす)」、9日は前夜祭の「宵戎(よいえびす)」、最終日の11日は「残戎(のこりえびす)」と呼ばれる。

商売の神様として知られる七福神の恵比寿様を祀る祭礼で、「えびすさん」が関西の訛りで「えべっさん」となり、その呼び名がそのままお祭りの名として定着したようだ。えべっさんでは、「福笹」と呼ばれる笹が神社で配られていて、そこに「縁起物」と呼ばれる飾りを買って取りつけて会社や自宅に飾ることが多い。あるいは、縁起物がすでに取り付けられた状態の福笹が境内で売られていて、それを買うというスタイルもある。

大阪でいちばん規模の大きいえべっさんは大阪市浪速区の「今宮戎神社」で開催されるもので、店主もそこに行ってきたらしい。今宮戎神社のえべっさんは毎年多くの参拝客で賑わって、神社の周りに延々と屋台が続き、とても華やかだ。私は東京に住んでいる頃、毎年11月の「酉(とり)の市」に出掛けるのが楽しみだったのだが、大阪には酉の市がない代わりに、えべっさんがある。

店主とちらっと目が合うと、「あ、こんにちは!」と何度か会話をしたことのある私にも声をかけてくれた。「えべっさん、今日からだったんですね」「そうなんですよ! さっき行ってきて。ほんまは今日休みやったんですけど、えべっさんの笹って、買ったらそのままお店に持っていかんと福が逃げるらしいんですわ」「へー! それで持って来たんですね。新年のご挨拶ができてよかったです」「ほんまですね。今年もよろしくお願いします。乾杯しましょう」と、そんなやり取りがあり、店主は生ビールを1杯飲んで帰っていった。

そうか、今日からえべっさんがはじまったのか。今日は予定があるから無理だとして、明日、いや、明後日なら行けるな、と思った。そして最終日の「残戎」に行くことにした。

今宮戎神社までは大阪環状線の新今宮駅から歩いて10分ほど。毎年、駅から神社までの決まった道を歩くのだが、自分と同じようにえべっさんに向かう人がたくさん同じ道を歩いていて、通り沿いにはテーブルを出して惣菜や生ビールを売っている店があったりして、神社はまだ先なのにすでにもうお祭りの雰囲気が漂っている。

交通整理のスタッフが毎年立っている横断歩道を渡ると、もうその辺りは屋台だらけだ。コロナウイルスの影響で屋台の出店が禁止された数年間があり、その数年は静かなものだったが、今年はもう、コロナの流行前に来たときと同じぐらいの数の屋台が出ているように見える。

えべっさん、今年もなんとか来ることができた

鯛焼き、玉子せんべい、りんご飴、串カツ、焼きそば、人気ラーメン店の屋台まで出ていて、その雑多な感じが私は好きなのだが、今日はなぜか屋台にあまり惹かれない。いつもであれば、イカ下足焼きの屋台から漂ってくる匂いにたまらなく食欲をそそられるのだが、なんだか、そこまででもない。

屋台を見て歩くのは楽しいのだが

今宮戎神社の境内へと足を踏み入れると「商売繁盛で笹持ってこい! 年のはじめのえべっさん~」というような歌詞の、毎年ここで聴くお囃子が大きな音で流れていて、私はこの曲も大好きなので気分が高揚する。本殿に向かって右手のほうで笹が配られていて、たくさんの人がその前に並んでいる。「はい! 次はちょっと細いけど真っすぐに伸びた笹です! どうぞー!」などと、声をかけながら係の人が笹を手渡すのを見る。

今宮戎神社の境内へ

もらった笹は境内のあちこちにある縁起物の販売コーナーに各自が持っていって、「えびす鯛」というのや「金俵」とか「福俵」というのや、いかにもめでたい飾りを選んでつけてもらうことができる。それらの縁起物はだいたいひとつが2000円以上はするようで、たくさんつけている人はすごいなと思う。笹に飾りをつけてくれるのは「福娘」と呼ばれる女性たちで、どうやって選ばれるのか、システムはわからないが、そのなかから将来テレビアナウンサーになる人もいるような、ある種の登竜門になっていると聞いたことがある。

その人たちの前には毎年ゴツいカメラを構えた人々の姿があって、おそらく、えべっさんの福娘のファンというか、撮影することを趣味にしているのだと思うが、そのカメラマンたちの姿が今年はない。あれ? と思ってよく境内を見ると、壁や柱のあちこちに「撮影禁止」と書いた掲示物があって、今年から福娘の撮影はしてはいけないことになったらしかった。色々変わっていくものだなと思いながらお賽銭を投げてお詣りを済ませ、境内の外に出た。

全然意味のない言葉の連なりが意識を横切っては消えていく

「えべっさんが好きでー」などと散々書いてきたが、私は笹ももらわないし縁起物も買わない。酉の市のように、神社の外には鮮やかな熊手が売られているのだが、それも数年前から買わないようになった。何年か頑張って買い続けてみたけど一向に仕事が増えなくて、熊手を買う余裕すらなくなってしまったのだった。以来、私には効果がないようだと思ってお詣りだけで済ませるようになった。

来たときと同じ手ぶら状態で、さっきとは別の方面の屋台をさーっと眺める。ハリケーンポテト、豚汁、はしまき、スイカゲームのぬいぐるみ……あちこちの屋台の前で立ち止まっている人がいる。お客さんがあまり来ないのか、スマホをじっと見ている屋台の人がいる。何かを買ってもらえなくて大声で泣いている子どもがいる。車椅子を押していく人がいる。手を繋いで歩くふたり組がいる。

「焼きそば食べてや! うちの焼きそばうまいでー! そこのお姉さんたち、食べてみてやー!」「えー! 美味しそうやけど今お腹パンパンやねん。ごめんー」「持って帰って夕飯で食うたらええやん!」「あはは。言い訳通じんなぁ」

焼きそば屋台からの会話を聴きながら、なんば駅のほうへ歩くことにした。いつもなら神社の近くにある馴染みの居酒屋を訪ね、新年の挨拶がてら生ビールでも飲んでいくのだが、今日はどうも元気が出ない。駅からそのまま帰ろうと、神社からだいぶ離れてもまだまだ延びている屋台の並びと、その前を行き交う人たちと、よく晴れた空となんば近くの街並みを眺めながら歩く。少し寒気がしてきて、ダウンの前のボタンをぴっちりと閉める。

色々買い食いしたかったのにな

最寄り駅まで戻ってきて、これは確実に風邪をひいたなと思った。自堕落な生活を続けている割に、ここ最近、風邪をひいた記憶はなかった。しかし、厚着しているのにすでに体が震えるほどで、ここから悪化していきそうな気がする。咄嗟に考える。明日は人と会う予定があるが、先方に迷惑をかけてもいけないし、というか、そもそも明るい気分でお酒を飲める状態にまで回復する気がしない。ここは早めに断っておくか……。幸い予定はそれだけで、ゆっくり寝て過ごすことはできそうだな。

ここから長く寝込むことも想定し、最寄りの駅前のドラッグストアで必要になりそうなものを買っておくことにした。風邪薬、飲み水、のど飴、最近CMで見て印象に残っていた「龍角散ダイレクト」という薬と、なぜか無性に食べたい気がするコーラグミと、そんなもの買い物カゴに入れる。

部屋に戻り、手を洗って部屋着に着替えて、風邪薬を飲み、すぐに布団に入る。寒くて体はガクガクするが、窓の外がまだ明るいのに布団に入って寝ていいというのは、ちょっと幸せな気分でもある。布団が自分の体温で温まるまで寒くて辛かったが、そのうち眠りに落ちていた。

目が覚めると夜になっているようだった。なかなか咳が止まらない。ぼーっとして、顔が火照る感じがあり、熱が出はじめているようだった。トイレに行って水を少しだけ飲んで、また布団に入る。さっきまでの自分の温度が残っている。頭の中に変にリズミカルな言葉が脈絡なく、どんどん思い浮かぶ。「パラレルワールド、どストレートなプロモーション、階段どんどん落下して、国道からバイパス通って旧市街」みたいな、全然意味のない言葉の連なりが意識を横切っては消えていくのに任せ、そのうちにまた眠っていた。

次に目が覚めると体調はもっと悪化していて、体が痛い。関節も痛いし、体の内部も痛い。咳が一度出るとなかなか止まらず、苦しい。部屋着が汗で湿っているようだ。上体を起こそうとしても力が入らない。仕方なく布団からそのまま手を伸ばしてペットボトルの水を掴み、首だけ少し傾けて飲む。意識がしっかり安定せず、このまま眠るように死んだら楽だなと思う。しかしそうはならず、ちょっとだけ苦痛が軽くなったり、さっきよりもっと辛くなったりをランダムに繰り返す。今度は切れ切れにしか眠れず、辛い時間が果てしなく長く続く感じだ。

お酒と出会い直す

昔、ひとり暮らしをしていたときに風邪をひいて寝込んだことがあった。少なくとも丸一日は寝ていて、そのあいだ、ずっとキセルの『ニジムタイヨウ』という6曲入りのミニアルバムを部屋のCDコンポでリピート再生し続けていた。その少し前に御茶ノ水のCDショップで買って、それがそのままコンポの中に入っていたからという理由だったと思うのだが、そのCDは風邪をひいている状態にすごくマッチして、寝込んでいる状態でずっと聴いても苦にならないのだ。熱にうなされて目が覚めてもずっと同じ声が部屋に響いているから、安心感もあった。一体何回目の再生なんだろう。この曲をもう何度聴いただろう。途方もない時間が流れたような気がした。私はその布団の中のエンドレスリピート体験を経て、キセルというバンドがすっかり好きになり、そのCDのリリースから25年が経った今も大ファンである。

風邪をひいたときの記憶は妙にあとを引く気がする。高熱とともに脳に刻まれるのだろうか。小学生の頃、39度台の熱がずっと続いたあとに、母親に対して生まれてきたことを急に謝りたくなって「もうやめて!」と言われてもしつこく謝り続けた場面(母からしたら不気味過ぎる行動)も、学生時代に友達の家で昼夜も気にせずダラダラ過ごしているうちに具合が悪くなって、その家からいちばん近い内科に行って診てもらったらインフルエンザで、よく知らない町からふらふらと歩いて帰った時の不安な気持ちも、なぜか他の記憶より鮮やかに残っているような気がする。

風邪をひいていた色々な時代の自分の記憶を思い起こしながら、私は寒気や不快感をやり過ごそうとしていた。そうしていて、ドラッグストアで龍角散ダイレクトを買ってあったことを思い出した。CMで見て覚えた龍角散ダイレクト。そのCMには落語家の立川志の輔が出ていて、弟子に「水では飲むなよ」と言っている。その顔が妙に怖くて、「なんだか知らないが、絶対に水で飲んではいけないらしい」と、それだけは肝に銘じてある。

龍角散ダイレクトは粉状の薬で、細長い包みを切って、喉に放り込むように飲むらしい。体を起こして飲んでみて驚いた。咳がなかなか止まらずに辛かったのが、すーっと落ち着いたではないか。なるほど、粉がすぐに喉の奥で溶けて、流れずにそこにそのままいて、喉を守ってくれている感じがある。だから志の輔はあんなに怖い顔で「水では飲むなよ」と言っていたんだな。喉の奥が潤った気がして気持ちいいし、一瞬でも咳の連鎖が止まったのがすごくありがたい。

龍角散ダイレクトは一度飲んだら次に飲むまでに2時間以上の時間を空ける必要があるらしい。箱にそう書いてあった。私は次の龍角散ダイレクトを飲んでいい2時間後が楽しみで仕方なくなった。早く2時間経ってほしい。あの気持ち良さをもう一度味わいたい。

咳が落ち着いたおかげでスムーズに眠ることができ、起きたらもう2時間どころじゃない時間が経っていたので、また龍角散ダイレクトだ。志の輔がCMで見せていた角度を意識して、できるだけ、喉の奥に放り込む。すーっとして最高。本当に買ってよかった。

ただ、今度は顔の火照りが数時間前よりさらに辛くなってきた。この部屋には体温計がないのだが、熱は上がってきているようだ。なんとなくスマホの画面をおでこにつけてみると、ひんやりして気持ちいい。こんなふうにしてスマホで熱が計れたら便利だなと思い、「体温計 アプリ」と検索してみたがそれらしきものは出てこなかった。あとで冷静になって考えてみれば、スマホの画面に温度を検知する機能が備わっていなければそんなの無理に決まっているのだが、そのときはそれぐらいぼーっとしていたのであろう。

おでこの熱さが不快で仕方ないなと、そればかり考えているうち、少し古いものだが、部屋に「冷えピタ」があることを思い出した。正確には「冷えピタ」でも「熱さまシート」でもない「冷却シート」というシンプルな商品名のものだったが、同じような、おでこに貼るタイプのグッズである。私は今まで一度もこの手のグッズを使ったことがなかった。なんの根拠もないのだが、「あんまり意味がなさそう」と思っていた。仕事していて眠くなったときにちょっとは役立つかなと、それぐらいにしか思っていなかったのだが、こんな機会に試してみてもいいかもしれないなと思って封を開けた。

透明のフィルムを剥がして、おでこに近づけて……貼ってみる。思わず声が出た。おでこの熱がすーっと持っていかれるような、鮮烈な気持ち良さを感じた。これはもう、ほとんど快楽だ。こんな小さなシートが、私の熱を吸い取ってくれている。ありがた過ぎて泣きそうになる。私の体温を全部持っていってください。

熱がだいぶ高かったからか、20分もするとそのひんやり感は薄れていったように思えたが、幸い、未使用のシートがまだたくさんある。1時間か2時間おきにでも取り替えよう。取り替えるたびに、またあの気持ち良さが味わえるのだ。

龍角散ダイレクトとおでこに貼るシート、生まれて初めて私の風邪シーンに登場したこのふたつのグッズによって、辛く長い時間のなかに、小さな楽しみが生まれた。今回の風邪の記憶を、私はいつかきっと龍角散ダイレクトとおでこシートの快感とともに思い返すことになるだろう。

このふたつにだいぶ助けられたことを忘れない

丸一日寝て、翌朝にはかなり回復し、「すっかり治った!」と思って試しに缶チューハイを買って飲んでみたらそれは迂闊過ぎたようで、また具合が悪くなって寝込んだ。反省して酒を控え、胃腸に優しそうなものを軽く食べるのに留めて過ごしたところ、今度こそ元気になった。数日後、用事があってなんばまで出かけ、それを済ませた帰り道、発泡酒を買って飲んでみたら、初めて飲むかのように美味しかった。

お酒と出会い直したかのような味わいだった

*       *       *

スズキナオ『今日までやらずに生きてきた』は毎月第2木曜日公開。次回第9回は2月13日(木)17時公開予定。

筆者について

スズキナオ

1979年東京生まれ、大阪在住のフリーライター。WEBサイト『デイリーポータルZ』を中心に執筆中。著書に『深夜高速バスに100回ぐらい乗ってわかったこと』、『遅く起きた日曜日にいつもの自分じゃないほうを選ぶ』、『思い出せない思い出たちが僕らを家族にしてくれる』、『「それから」の大阪』など。パリッコとの共著に『ご自由にお持ちくださいを見つけるまで家に帰れない一日』、『椅子さえあればどこでも酒場 チェアリング入門』、『“よむ”お酒』、『酒の穴』などがある。

  1. 第1回 : 疲労の果ての酵素浴
  2. 第2回 : 薬草風呂でヒリヒリした日
  3. 第3回 : ジムに2回行った
  4. 第4回 : ホテルの40階でアフタヌーンティーを
  5. 第5回 : 打ちっぱなしから始まる知らないことだらけの一日
  6. 第6回 : ずっと放置してきた足の痛みと向き合ってみる
  7. 第7回 : 太極拳教室で膝がガクガクした
  8. 第8回 : 初めて貼る冷えピタ、初めて飲む龍角散ダイレクト
連載「今日までやらずに生きてきた」
  1. 第1回 : 疲労の果ての酵素浴
  2. 第2回 : 薬草風呂でヒリヒリした日
  3. 第3回 : ジムに2回行った
  4. 第4回 : ホテルの40階でアフタヌーンティーを
  5. 第5回 : 打ちっぱなしから始まる知らないことだらけの一日
  6. 第6回 : ずっと放置してきた足の痛みと向き合ってみる
  7. 第7回 : 太極拳教室で膝がガクガクした
  8. 第8回 : 初めて貼る冷えピタ、初めて飲む龍角散ダイレクト
  9. 連載「今日までやらずに生きてきた」記事一覧
関連商品