大自然に囲まれ、娯楽も何もない“おしまいの地”で育ったこだま。人も自然もまっすぐ生きるこの場所で起きた、悲喜こもごもの出来事をお届けします。(短期連載:隔週月曜日更新)
履歴書の職歴を正確に記入しようとすると、とても欄が足りない。本人ですら把握できていない期間がある。バイト先への提出だし大雑把でいいか。そう諦めて十年くらい無職にして提出したりする。
教職を五年で退職したあと、職を転々とした。はじめから期限が決まっていたのも含めて最短で一ヶ月、長くて三年しか続かなかった。臨時教員、無職、事務所の電話番、無職、高校職員、無職、塾講師、無職、ライター、無職、家庭教師、無職……と有職と有職の合間に長めの無職を挟んできた。
職歴を埋めながら、これ何かに似てるなと思う。昔どこかで見た懐かしさを感じる。あれだ。お弁当のアルバイト時代にお馴染みだった緑色のギザギザしたやつ。おかずの仕切りに使うプラスチックのぺらぺらした草だ。
高校生の夏休みにドライブインの厨房で弁当を詰める作業をしていた時、あれがいつも手元にあった。焼き鮭、ぺら草、だし巻き卵、ぺら草、沢庵、ぺら草。どれほどあの緑を信頼しているのか、やたら差し込む店だった。司令塔となるベテラン女性が「緑はあればあるほどいい」と言うのだ。おにぎりセットを任された私もそれに倣った。鮭おにぎり、ぺら草、梅おにぎり、ぺら草、沢庵、ぺら草。最後の一枚なんて絶対いらないだろと思うが、律義に詰めていた。職歴欄の交互にやってくる「無職」を眺め、ふとあの作業が甦った。司令塔の言葉を借りるなら「無職はあればあるほどいい」になる。何度も無職と書くたびに募る情けなさをそうやって振り払っていく。
その店は母の知り合いが経営しており、人出が足りない日に呼ばれて手伝った。薄暗い店の一角に時代遅れのキーホルダーなんかと一緒に並ぶお弁当。こんな人里離れた場所で誰が買うんだとはじめは怪しんでいたけれど、昼になると長距離トラックのドライバーらが次々と訪れた。あの人工的な緑が眩しい弁当を何のためらいもなく掴んでいく。夕方には完売。山奥の貴重な食糧になっていたのだ。
勤務最短は二十代後半に勤めた小学校の臨時教員だった。地域の教育委員会から「一学期だけでも担任を持てないか」と電話で打診されたのだ。六月頃だった。そんな短期間でいいんだ。というか希望を出してないのにいきなり連絡くるんだ。四月に交代した担任が精神的な理由で休業し、代理がなかなか見つからず困っているという。「そうなんですね、大変ですね」と相槌を打つ私もまた同じ理由で退職した身であった。
懲りただろ。懲りろよ。引き受けちゃ駄目。己に警告する。でも、休業した担任がどうしてもかつての私と重なる。その人も代理が見つからなければますます自分を責めてしまうんじゃないか。
もう教員はこりごりだと思っていた。私に人をまとめる力がないのは明らかだった。これ以上まわりに迷惑をかけたくない。学級崩壊を起こして退職してから、人前に出るのが以前より苦しい。想像しただけで震えが走る。学校という場所も足がすくむ。学園ドラマも見ることができない。そんな私が毎日教室に入れるのか。担任代理の保健室登校って許されるんだろうか。
「どうでしょうかねえ。まだ体調が万全ではないとは思うのですが一学期だけでも」担当者の更なる一押しに「やります」と反射的に答えてしまった。口が勝手に動いた。「少し考えさせてください」といったん電話を切ることもできたはずなのに。「やっぱり私にはできない」と考え直すはずなのに。だけど、勢いに乗って返事をしなければ二度と恐怖を克服できない気がした。自分のためだけでなく闘病中の担任のふたり分だと思えば一ヶ月くらい乗り切れるんじゃないか。見切り発車だ。私の悪い習性が出た。
かくして突然始まった二度目の教員生活。校長、教頭、小規模校の職員総出で回していた四年生のクラスを引き継ぐことになった。「来てくれて本当に嬉しい。みんな自分の仕事だけで手一杯で」と何度も頭を下げる校長に、わたし実は崩壊させたことあるんですよ、わりと最近ですよ、とは言えなかった。
自己紹介を兼ねた最初の学活にオカリナを忍ばせて向かった。学級崩壊後、何を思ったか初心者向けのオカリナ講座に通っていたのだ。久しぶりの勤務で異常なほど緊張しているのに、そこを初舞台にするのもどうかしている。音を外し続けるたどたどしい演奏になってしまったが、子供たちの前でジブリのメドレーを披露した。意外にも「もっともっと」とアンコールの声が湧く。もしかして歓迎されている? 学級を崩壊させた私が? 調子に乗って石焼き芋のメロディを繰り返していたら、隣のクラスの担任がやって来て「授業中ですのでほどほどに」と注意を受けた。なぜこうなるのか。私のよくないところだ。どうでもいい話だが、最後の「お芋」を溜め気味に小さく素早く吹くと若干ウケる。歯止めが効かず「おいもッ」「おいもッ」「おいもッ」とスタッカートを連発させているところをドアの小窓からじっと覗かれていたのだった。一番見られたくない瞬間だった。
お芋効果というわけではないが、過去のつらさがぶり返すこともなく平和なまま一学期の終業式を迎えた。一ヶ月だけの関係だとお互いにわかっていたからだろう。来たばかりだけど、もうすぐいなくなる先生。教育実習生のような存在だったのかもしれない。私もあと三日、二日、と数えながら過ごした。終わりが見えているから「あと少し」とやり切れた。だから、放課後に校長室へ呼ばれて「二学期も継続してほしい」と頼まれた時、テーブルの下で指を折りながら二学期の長さにおののき、体調に自信がないなどと言い訳をして学校を後にした。
深い考えもなく申し込んだオカリナ教室がこんな形で私を助けてくれるとは思わなかった。講師は赤いベレー帽を被った物静かなおじいさんだった。生徒は小学生の女の子とその母親、そして私のたった三人。オカリナに触れるのも初めてだった。手のひらほどのサイズなのに、ずっしりと重みがあった。陶器の小鳥を両手で包み込んでいるような感覚だった。母娘は次第に来なくなり、静かな教室がいっそう静かになった。最終日、私はソプラノ、講師はアルトで『浜辺の歌』を合奏した。陶器を撫でながら誰もいない浜辺で何度も練習した曲だ。飛び交うオオセグロカモメ、葦原でさえずるノビタキ、何をしたいのかわからないオカリナの無職。私のやりたいことってなんだろう。働かず、子育てもせず、このままでいいのだろうか。そんな思いに取り付かれ、沖を眺める。公民館の会議室で講師とふたりで黙々と奏でる。たとえオカリナが何の役に立たなかったとしても、あの不思議な時間は当時の私にしか得られないものだった。そう今ならわかる。
同じく最短記録に並ぶのが事務所の電話番だった。もともと電話が苦手でたまらないのに、ほぼ交流のない近所の女性に「私の代わりに一ヶ月だけ働いてほしい」と突然頼まれ、つい流れで引き受けてしまった。親の介護のために里帰りしたいが、その期間だけ仕事に入ってくれる人が見つからないのだという。職種は違うものの、以前とほぼ同じパターンである。隙間埋めの人材リストに私の名前が入っているのでしょうか。家からほとんど出ないけど、ちょっと押したらやる気になっちゃう人よ。特に一ヶ月という言葉に弱いわ。試しに言ってごらんなさい「一ヶ月」と聞いたら前のめりになるのよ。そんな噂が流れているのではないか。
地域の森林環境を調査し、植生をまとめる小さな事務所だった。みんな日中は調査に出ているため、電話や来客対応さえしてくれたら何をしていてもいいらしい。世の中にはそんな自由な仕事があったのだ。朝九時には、もう誰もいなくなる。ヤクルトの人が来たら好きなものを買いなさい、と所長が小銭までくれる。私はジョアを飲みながら図書館で借りた本を読んでいた。飽きたらネット大喜利の投稿をする。なんだこれ。引きこもる場所が変わっただけではないか。夕方になって職員が戻ってくると私の当番が終わる。電話や来客がない日は、ただジョアを飲むためだけに存在しているようなものだった。
最初に「無」の天国をまとめて味わった私は、電話を取るのがかなり嫌になった。鳴っている間は耳を塞いだ。そろそろ諦めてくれと念じながら途切れるまで息をひそめて待つ。当然ながら、世の中それほど甘くない。一週間もしないうちに怠慢が明るみになった。何度も電話をかけていたのは所長だったのだ。「出てください。それが仕事ですので」と申し訳ないくらい当たり前のことを言わせてしまった。ジョアのお小遣いまでもらっていたのに。それ以来、三回に一回は電話を取るようにしたけれど、相手の名前や用件を聞きそびれたり、緊張のあまり会話の内容をすっかり忘れてしまったりした。驚くほど役に立たなかった。紹介してくれた人は「誰にでもできる簡単な仕事だよ」と言ったが、そんなわけない。私にはかなり難しかった。
今でも病院や店に電話で予約を入れるたびに思う。この人ちゃんと受け答えできていてすごいなあ。私の言ったこと間違えずに復唱していてすごいなあ。慣れていないのか、たまに緊張が伝わってくる担当者もいる。そういう人に遭遇するとちょっとだけ嬉しい。当時の自分に出会ったような気分になり、できるだけ丁寧に接する。できて当たり前とは思わない。普通にこなせる人がすごい。仕事を断れなかったおかげで気付くことも多かった。
断れないのは仕事だけではなかった。現在の私の生活からは信じがたい話だが、二十代の一時期、バレーボールの社会人チームに加入していた。私がバレー経験者だと知った地域の人から、メンバーがひとり足りなくて困っていると連絡があったのだ。週二回、夜の時間帯だという。いったん保留しろ。懲りろ。警戒音が鳴り響く中、こうなったらやってみようかと軽い気持ちで引き受けた。私はあまり学ばない。
それほど乗り気ではなかったはずなのに、いざ練習に参加してみるとのめり込んだ。小中大学とバレー部で、教員時代はバレー部の顧問だったので身体はわりと動いた。やるならば勝ちたい。めちゃくちゃ勝ちたい。小学生には「みんなそれぞれのベストを尽くせば良い」と話していたのに、競技する側になると血が騒いだ。楽しければいいよね、で終わりたくない。勝って喜びたい。矛盾している。欲深いのだ。
しばらくすると、別の団体からも誘われた。メンバーがひとり足りないという。やはり何らかのリストが出回っているのではないだろうか。こちらは主に昼間の活動だった。練習時間や試合も被らない。次の春には夫が転勤になるはずで、間違いなく今しかできない。やるしかないじゃないか。気付いたら週四日をバレーに費やしていた。生活が激変した。加えて土日に大会が入る。こんなの完全に部活である。
バレー自体は楽しかったが、飲み会に誘われるのが苦痛だった。メールのやりとりも最低限がいい。バレーだけでいいのに。それ以外でつながりたくないのに。うまく断れないまま数回に一度は飲み会に顔を出したが、転勤よりも先に病気が発覚し、どちらのチームも退会となった。今バレーをやったら、あまりの痛みに失神してしまうだろう。ボールを受け取れないほど指や手首の関節が変形している。練習に打ち込んだ数ヶ月が高校最後の夏くらい二度と戻れぬ時間となった。
「懲りろ」の声は今なお聞こえる。数ヶ月前にも聞いたばかりだ。ここでしかできないことをしたい。そう思って新たなバイトに手を出してしまったのだ。今回ばかりは本当に懲りるのではないか。そんな予兆がある。どうか私を止めてほしい。
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【本日7/12情報解禁】こだまさんの新刊『ずっと、おしまいの地』のご予約が始まりました。2022年8月23日発売予定です。どうぞお楽しみに!
筆者について
エッセイスト、作家。デビュー作『夫のちんぽが入らない』でYahoo!検索大賞を2年連続で受賞(第3回、第4回)、『ここは、おしまいの地』は第34回講談社エッセイ賞を受賞。ほか『いまだ、おしまいの地』、『縁もゆかりもあったのだ』など。