その辺に落ちている言葉

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何もない“おしまいの地”に生まれた著者・こだまの、“ちょっと変わった”人生のかけらを集めた自伝的エッセイ集「おしまいの地」シリーズ。『ここは、おしまいの地』『いまだ、おしまいの地』に続く三部作の完結編『ずっと、おしまいの地』発売を記念して、シリーズ第1作目に続き、シリーズ第2作目となる『いまだ、おしまいの地』からも6つのエピソードを特別に公開します。
今回は、誰かが残した“言葉”について。

直筆の貼り紙が好きだ。

大衆食堂に入ると、壁に貼られた何気ない一言に目が吸い寄せられる。それが老いた店主による味のある直筆だったりすると、何だか得した気分になる。

「冷やし中華はじめました」「すだち蕎麦はじめました」などの「はじめました」シリーズは定番だ。店主のたどたどしい文字で季節のうつろいを知る。趣がある。

同じ「はじめました」でも初挑戦をにおわすものだと、なお嬉しい。

以前住んでいた街には「初めて」を嬉々として報告するパン屋があった。そこは、おじいさんが生地をこね、おばあさんがレジに立つ、夫婦ふたりの小さな店だった。

「塩パンやっとはじめました!」

「ティラミス成功しました!」

ただただ、よかったねえと思わせる言い回しなのだ。いまなぜティラミス? と思うけれど、疑問よりも先に祝福の気持ちが湧いてくる。

決まって、紙の隅っこに小さく「おいしいよ」と書いてある。本当は不安なのかもしれない。あんパンやうぐいすパンばかりじゃやっていけないから、若者の好みに合わせて試行錯誤したのだろうか。

そんな背景まで目に浮かんでくる。微笑ましくて、いじらしくて、「告知」が出るたびに購入したけれど、毎回こちらの期待を大きく裏切った。塩パンは歯が痛くなるほど硬く、ティラミスは馬鹿みたいに甘かった。我々の知る味ではない。きっと何かを間違えている。控えめな「おいしいよ」の意味が少しわかった。

店の個性はトイレの貼り紙にも表れる。

「いつも清潔にご利用いただきありがとうございます」という他人行儀な言葉よりも、薄汚れた居酒屋の「オシッコ飛ばさないで」というダイレクトな一言に、ぐっとくる。遠慮がない。母親の小言のような懐かしささえ感じる。オシッコ飛ばされて困っているんだなあ、大変だなあと同情した。

毎月受診している整形外科のレントゲン室には、職員による手描きのポスターが貼られている。移植した骨が消えるという不可解な症状で通院している私は、そのポスターの「骨」に、つい感情移入してしまう。

「あなたの骨、ダイジョーブ?」

げっそりと瘦せこせた骨がわんわん泣いているイラストだ。

ダイジョーブではない。痛い思いをして尻の骨を一部削り、不安定な頸椎に移植する手術を受けたものの、のちにその骨が消えてしまったのだ。医者も原因はわからないという。神隠しである。私の骨はまだ行方不明なのだ。

この隣に1枚貼らせてほしい。「私の骨、知りませんか。2015年春、忽然と姿を消す」と。尋ね人ならぬ、尋ね骨。懸賞金も用意したほうがいい。

* * *

店や公共の場に限らない。

以前、実家の神棚の下にこんな紙が貼ってあった。

「ハワイコーナーご自由に」

母の字である。ハワイ旅行のおみやげが、植木鉢の棚に雑然と並べられていた。野菜の路地販売のように。

ココナッツに象の絵が描かれた怪しい置き物、ココナッツに手足とくちばしと髪の毛とイヤリングを無理やり付けられた正体不明の生物、ココナッツチョコレート、ココナッツクッキー。母はハワイでどんだけココナッツに染まってきたのか。

余談になるが、この旅行は母がクイズ大会で獲得した副賞だった。私の家族からクイズ王が誕生したのだ。

母は雑学に詳しいわけではない。○×クイズの最中に貧血を起こし、マルのところに座って休んでいたら運よく連続でマルが正解だったという。最終問題は母と小学生男児による二人の対決。ここでようやく彼女は満を持して立ち上がった。そして「先に好きなほうを選びなさい。おばさんは余ったほうでいいから」と急に大人の余裕を見せつけて少年を促した結果、「余ったほう」が正解となり優勝した。一貫して何もせずにハワイを得たのである。こんな棚ぼた見たことがない。

* * *

先日も心をくすぐられる貼り紙に出合った。

私たちが20代のころ暮らしていた街に出掛けたときのこと。夫が「あの銭湯っていまもあるのかな」と言った。その街には昔ながらの銭湯がいくつかあり、週末になるとふたりで通った。中でも深夜まで営業していたのが「あの銭湯」だ。

スーパー銭湯が台頭する現在、あの場所は生き残っているのだろうか。

ネットで検索すればすぐに答えは出るけれど、あえて何も情報を持たずに出かけることにした。記憶を頼りに懐かしい道を歩く。20年前にはなかったコンビニや大型スーパーが建ち並ぶ中、それらの陰に隠れるように銭湯の煙突がちらりと見えた。

こんなに小さかっただろうか。老いた親戚に再会したような気持ちになった。「営業中」の札が下がっているけれど、人の出入りが見られない。少し不安になりながら足を踏み入れた。

室内のあちこちがくすんでいるものの、ジュースの自動販売機や靴箱の配置に覚えがあった。確かに、ここだ。番台に座る高齢女性の背後に目をやると「きょうのお湯は熱めです」という謎の告知があった。どういうことだろう。失敗したのだろうか。それとも「熱くしときましたよ」というサービスなのか。どちらにしても最高の貼り紙だ。

足繁く通っていた当時、営業終了の15分前になるとTシャツに短パン姿のおばさん数人が大浴場にどかどかと現れて清掃を始めるのが恒例だった。

「来た来た」と思いながら、客はみな慌てて背中の泡を流し、湯船に入る。ブラシで床をこする人、ケロリンの桶を洗う人、ボディソープを継ぎ足す人。おばさん部隊はてきぱきと作業をこなし、「はよ出て行き」と全身で発していた。部隊が背を向けている隙に早足で脱衣所に駆け込むのだが、そこもすでに雑巾を持った掃除部隊に占拠されている。身体を拭いたらさっと服を着て、秒速で退出せねばならない。連中が睨みを利かせているのだ。まるで監獄の入浴時間のように。私と夫はそんな終了間際の居心地の悪さを「急かし風呂」と呼び、その不自由さも面白がっていた。

この日の女風呂は三人だけだった。剝がれかけた壁、出が悪い上にやたらと熱いシャワー(これを警告していたのだ)、「1分30円」と書かれた有料ドライヤー。繁盛しているようには見えない。掃除のおばさん部隊を雇う余裕もないのではないか。シャワーの出の悪さとは対照的に、身体が浮くほど勢いの良すぎるジェット風呂に浸かりながら、懐かしさと憂いが入り混じった。

帰り際にロビーを見回すと、自動販売機に新たな貼り紙を見つけた。

「ジンジャエールはじめました」

このパターンは初めてである。小刻みに震えるような力ない筆圧。番頭のおばあさんの直筆かもしれない。

瓶のコカ・コーラ専用だった販売機に「ジンジャエール」と書かれたボタンが新設されていた。やはりここも「ジンジャ」である。「神社」のつもりだろうか。神社エール。声に出してみた。もうこれが正解でいいんじゃないか。

定期的に訪れよう。おばあさんの「新作」を見るためにも。

* * *

本書では、集団お見合いを成功へと導いた父、とあるオンラインゲームで「神」と崇められる夫、小学生を出待ちしてお手玉を配る祖母……など、“おしまいの地”で暮らす人達の、一生懸命だけど何かが可笑しい。主婦であり、作家であるこだまさんの日々の生活と共に切り取ったエッセイが多数収録されています。
また、こだまさんの最新刊『ずっと、おしまいの地』は絶賛発売中! ぽつんといる白鳥が目印です。

筆者について

こだま

エッセイスト、作家。デビュー作『夫のちんぽが入らない』でYahoo!検索大賞を2年連続で受賞(第3回、第4回)、『ここは、おしまいの地』は第34回講談社エッセイ賞を受賞。ほか『いまだ、おしまいの地』、『縁もゆかりもあったのだ』など。

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