観光地ぶらり
第3回

一つひとつの電灯のなかにある生活 灘・摩耶山

暮らし
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「すごくいい裏山やなと思います」

虹の駅は、標高およそ450メートルの場所にある。ここからさらに上に、ロープウェーが運行している。ただ、虹の駅の近くにも展望台のようにひらけた場所があり、神戸の街並みと海が一望できる。ここからの景色もかなり美しく感じる。

「実はここも、遺跡のひとつなんです。このあたりはコンクリートで固められて、一段高くなっていると思うんですけど、ここには昔、展望台兼喫茶店みたいな二階建てのコンクリート造りのものがあって、上島珈琲が展望喫茶をやっていたそうです。ただ、昭和30年になると、ここから摩耶山頂までロープウェーが通ったので、ここは通過する場所になっちゃったんですね。それであんまり流行らなくなって、昭和40年代ぐらいに閉業したらしいんですけど、その時代の名残で基礎だけ残っているんです」

この場所には「千万弗展望台跡」と書かれた案内板が設置されている。ここにロープウェーが開通した大正14(1925)年、摩耶山遊園地が開園したのだと書かれてある。遊園地にしてはずいぶん狭い敷地に感じられるけど、レジャーが今のように普及する前の時代にあって、「遊園地」という言葉の響き自体も違っていたのだろう。その遊園地の跡地に、昭和33(1958)年に木造の展望台が完成し、昭和45(1970)年にコンクリート造に生まれ変わったのだと書かれてある。この二代目の展望台は、結果的に短命に終わったのだろう。今は更地となったこの場所に、観光客の思い出が詰まっているのだと思うと、なんだか不思議な心地がする。

ケーブルカーの駅とロープウェーの駅は階段で結ばれている。コンクリート敷きの階段の端っこをよく見ると、また別の石段が遺されている。これもまた“遺跡”のひとつで、おそらく古い階段がそのまま残されているのだということだった。この立地でなければまっさらに均されていたはずの風景が、山の上であるがゆえに残り続け、往時の面影を今に伝えている。

ロープウェーの車体には「ひこぼし」と名前が書かれてある。このロープウェーは途中でくだりの便とすれ違うようで、そちらには「おりひめ」と書かれてあるのだと朴さんが教えてくれた。発車時刻を迎えると、係員が黒電話で連絡をとっている。ロープウェー自体のシステムは最新の設備に切り替わっているそうだが、山頂との連絡は今も黒電話を使っているようだ。

「このロープウェー、風強いと止まっちゃうんですよね」

「そう、風速15メートルで止まります」

「あと、雷雲が接近するときも止まります」

「うちに泊まるゲストさんも、山頂で足止めされる方がちょくちょくいるんです」

プルルルルルと音が鳴り、ロープウェーが走り出す。車内には神戸高校放送委員会によるアナウンスが流れ、「虹の駅の左手の山中に見えます建物は、その優美な佇まいから廃墟の女王と呼ばれています、旧摩耶観光ホテルです」と案内がある。信仰方向の後ろを振り返ると、そこに旧摩耶観光ホテルが見えた。

「この時期はまわりの木が落葉しているので、そのぶん摩耶観光ホテルがよく見えるんです」と杉浦さん。

「今日は全部見えるわ。あべのハルカスまで見える」と朴さん。

「冬の天気が良い日には、太陽の塔が見えるっていう人もいるんです。あと、高校野球で有名やったPL学園にあるPLの塔も見えるときがあるんです」

ゴンドラの中から、隣の六甲山が見える

ロープウェーから見渡す風景には、湾に沿って道路や橋が通され、ところどころに巨大な建物がある。その奥には稜線がある。関西に暮らしている人であれば、どれがなんの建物で、あれはなんという山か判別がつくのだろう。谷を挟んだ向こう側に、別の山がある。あれは六甲山だと杉浦さんが教えてくれた。

「今見えてるのは、企業の保養所や別荘がたくさん建っていたところですね」と杉浦さん。「六甲山のほうは、江戸時代から明治時代にかけて建材として木が伐られてしまって、はげ山になってしまっていたんです。今生えているのは、そのあとに植林された木が多いんですね。摩耶山はお寺があったので、『お寺周りの木を伐るとバチが当たる』みたいに思ってたんでしょうね、古い木が残ってますし、あんまり開発されてないんです。六甲山のほうは遊びに行く山という感じで、ゴルフ場があったりするんです」

六甲山は昭和31(1956)年、国立公園に指定されている。「国立公園」という概念はアメリカで生まれ、豊かな自然が残る地域を国が保護地区として管理するべく、1872年にイエローストーン国立公園が登録されている。これを手本として、日本でも昭和6(1931)年に国立公園法(のちの自然公園法)が施行され、昭和9(1934)年に瀬戸内海国立公園、雲仙国立公園、霧島国立公園の3か所が最初の指定を受けた。六甲山はこの瀬戸内海国立公園に含まれる形で追加登録されている。戦後になってレジャーが普及する時代には、全国各地の景勝地が国立公園化を希望したが、国立公園になると建物の新築はおろか改築すら難しく、六甲山は震災後に利用客が激減していたという。ただ、再活性化に向けた協議が重ねられ、2018年には「六甲山集団施設地区」が指定され、規制を緩和して利用の促進を図る取り組みが続けられている。

ロープウェーは5分半ほどで山頂に到着する。駅に設置された温度計を確認すると、この日の気温は7度だ。山頂には掬星台(きくせいだい)という展望台がある。

掬星台からの展望

「めっちゃ景色いいですよね、ここ」と杉浦さん。「ゲストハウスからここまで、1時間とかからずに来れてーーすごくいい裏山やなと思います」

ケーブルカーとロープウェーは合わせて「まやビューライン」と呼ばれている。灘にはまやビューラインサポーターの会があり、年会費として5000円支払って正会員になればフリーパスが手に入る(通常料金だと往復1560円)。ガイドの杉浦さんや「ゲストハウス萬家」の朴さんや今津さんは正会員だから、お金をかけなくともふらりと登ってくることができる。ちょっと裏山に出かける感覚でここまで遊びに来れるのだろう。ロープウェーの駅に隣接するまやビューテラス702にはカフェがあり、景色を眺めながらリモートワークをすることもできる。

「観光」はどのように移り変わっていったのか

ここから先は山下りだ。いよいよ山道に入っていく。山道とはいえ、足を滑らせそうな斜面には石段が作られている。重機が入り込めそうにもないこの場所に、参詣客が歩きやすいようにと石を運んできた誰かがいるのだと思うと、途方もない心地がする。

しばらく山を下ると、水が滴り落ちている斜面があった。その近くにコンクリートの遺構がある。そこにはかつて湧水を溜めておく貯水槽があったのだという。かつて天上寺がこの一帯にあった頃には、まだ摩耶山まで水道が通っておらず、お坊さんがここまで水を汲みに来ていたのだそうだ。摩耶山にはこんなふうにお寺の遺構がいくつか残されている。

「摩耶山はもともと、646年にインドの法道仙人という方が観音霊場を開いたところなんです。そこに806年、弘法大師が中国から摩耶夫人像を持ち帰って、天上寺を創建したと言われているんです。摩耶夫人というのは、お釈迦さんのお母さんですね。昔はここにお坊さんが3000人ぐらいいて、関西の中では高野山や比叡山に並ぶ勢力を誇っていたそうです。ここはお釈迦さんのお母さんを祀っているということで、女人高野とも呼ばれて、参詣客で賑わっていたんです。でも、昭和51年に火事があって、一夜にして燃えてしまって。麓からもごうごうと燃えているのが見えたそうなんですけど、ここには水道がないので、燃え尽きるのを待つしかなかったそうです」

火災で焼け落ちた天上寺は、同じ場所で再建を目指したが、重機や資材を運び込むのが難しく、少し離れた場所で再建されている。もとの場所には、今も基礎だけが遺構として残されている。ここから先は天上寺の参道だった道だ。しっかりした造りの石段があり、これに沿って寄進者の名前が彫られた玉垣が並んでいる。そこに記された名前には、海外から日本に渡ってきたのであろう方の名前もいくつか見受けられる。火事で唯一焼け残った仁王門を過ぎると、「ヤメア」と書かれたコンクリートの遺構があった。

「これ、右から読むと『アメヤ』で、飴湯や水飴を売っていた茶店がここにありました。冷蔵庫がなかったんで、ここに水を張って、ちゃぽんとつけて冷やし飴にして売っていたそうです。この仁王門から上はお寺の敷地だったんですけど、ここから下っていくゾーンには参詣客向けの施設がちょこちょこ出てきます」

仁王門前の茶店は「上のアメヤ」と呼ばれていた。ここから少し下ると、同じようなコンクリート造の遺構がある。そこにも昔は茶店があり、「下のアメヤ」と呼ばれていたそうだ。ここではおはぎやぜんざい、きな粉餅といった甘味が売られていた。何より名物と知られていたのは芋飴の中に炒った大豆を入れた「ネコのフン」というお菓子だ。こうした茶店があったのは、江戸や明治といった遠い昔の話ではなく、昭和30(1955)年にロープウェーが開通するまではこの道を行き交う人も大勢いて、賑わっていたのだ。

かつて庶民に許されていた「観光」は、神社仏閣をめぐる巡礼の旅に限られていた。その時代を今に伝える遺構が摩耶山にはいくつか遺されている。その時代から「観光」はどのように移り変わっていったのか、その足跡も摩耶山を通じて辿ることができる。そのひとつが、下のアメヤの近くに遺る摩耶花壇跡だ。

「花壇といっても、植え込みの花壇ではないんです」と杉浦さん。ここでの花壇とは「旅館」を意味するもので、香川県琴平町(ことひらちょう)の金刀比羅宮(ことひらぐう)門前町には江戸時代から400年続く「琴平花壇」という温泉旅館があるそうだ。金比羅山の斜面に建つ旅館には多くの参拝客が宿泊し、森鴎外や北原白秋が訪れたこともある。それに倣って、摩耶山の中腹に「摩耶花壇」が建てられたのだろう。

「摩耶山にケーブルカーが開通したのが大正14年なんですけど、摩耶花壇はその翌年にオープンしてます。摩耶山の観光的な宿泊施設のはしりとなったのが、この摩耶花壇でした。当時は地上二階建て、地下にあたる部分には展望風呂があったそうです。昭和初期に撮影された写真を見ると、着物姿の人たちが歩いてるんですけど、ここは摩耶山の銀座通り的なとこやったみたいです」

摩耶花壇は、洋風の大食堂と宿泊施設を備えたモルタル造の建物だった。2階へと続く階段窓にはステンドグラスが飾られており、大正モダニズム建築の流れを汲む瀟洒な洋館だった。当時の写真を見ると、斜面の高低差を利用して作られた地下室があり、展望風呂があったようだ。ここに「観光」の変化を感じる。信仰の場であった摩耶山に、ケーブルカーが開通したことで多くの行楽客が足を運ぶようになり、そこから見渡す眺望と、ハイカラな食堂で料理に舌鼓を打つことが旅の楽しみに加わる。だが、さらに時代が下り、ロープウェーが開通すると、摩耶花壇の前を行き交う行楽客は少なくなる。摩耶山上には奥摩耶遊園地が建設され、高度成長期にはレジャー花盛りの時代を迎える。

摩耶花壇はやがて廃業し、1960年頃に解体されている。その廃材を用いて数軒のバンガローや参詣客向けの茶店が建てられ、そこにも「摩耶花壇」と看板が掲げられていたそうだ。だが、この第二期「摩耶花壇」も姿を消し、今はコンクリート造の地下部分、かつて展望風呂があった場所だけが遺跡として遺されている。

摩耶観光ホテル

摩耶花壇は虹の駅のすぐそばにある。駅舎を越えた向こう側に出ると、樹木の向こうに「旧・摩耶観光ホテル」が見えてくる。

「ここはもともと、ケーブルカーを運営する摩耶鋼索鉄道の福利厚生施設として昭和4(1929)年に建てられました」と杉浦さん。「その当時は『摩耶倶楽部』という名前で、お風呂に入ったり、ホールで映画を観たりするレジャー施設だったそうです。戦時中にはケーブルカーの運行が中断されて、ここも休止状態になっていたそうなんですけど、終戦後には戦争で傷を負った人や家がなくなった人が住んでいた歴史もあるんです。ホテルを運営する会社がそこを買い取って、昭和36(1961)年に摩耶観光ホテルという名前で再オープンしました。ただ、昭和42年に台風で被害を受けて、ホテルとしては営業継続を断念したので、摩耶観光ホテルとしては6年間だけの営業だったそうです。そのあと、1970年代に入ってからは大学生なんかが使う合宿所みたいな施設として、『摩耶学生センター』という名前で平成5(1993)年頃まで営業してたらしいんですけど、そのあと放置されて三十何年という感じですね」

「三十何年も放置されると、こんなふうになるんですね」と朴さん。

「なるんですね。ここは結構風が強いのと、あとは不法侵入する人が多かったんです。今はセコムで警備されてるんですけど、昔はそういうのがなかったんで、不法侵入した人が窓を割ったりして、そこから風が吹き込んで、どんどん劣化している状態ですね。今日は許可をもらっているので、これから皆で建物の敷地内に入ろうと思います」

ツアーの参加者にヘルメットが配られる。いよいよ摩耶観光ホテルに足を踏み入れる。入り口となるのは建物の最上階にあたる4階部分で、まずはホールが見えてくる。ここでダンスパーティーが開催されたり、映画が上映されたりしたのだという。直線と曲線が配置されたデザインは、今見ても瀟洒に感じられる。ホールの真ん中にぽつんと椅子が置かれていて、誰かがそこに佇んでいた気配を感じる。

「この建物を設計したのは今北乙吉(いまきた・おつきち)さんという方で、神戸出身の建築家の方がデザインされてます。ここは去年、国の登録有形文化財に選ばれているんですけど、廃墟が選ばれるのは珍しいんです。そこには何個か理由があって、ひとつは建物自体の美しさがあります。今北さんのスタイルはアールデコ調だと言われているんですけど、この建物全体は船をモチーフにつくられていて、アールデコとも言いきれないいろんな要素が詰まっているんです。1階や2階は和風のつくりになっているんですけど、いろんなものをごちゃ混ぜにしながらも、それを小綺麗にまとめている。当時はドイツ表現主義の時代で、建築家の個性を出していくのが流行りだったみたいなんですけど、当時としては最先端のデザインやったそうです」

いろんなものがごちゃまぜになっていて、和風のモチーフも織り交ぜられている——その話を聞いていると、東京・九段下の九段会館が思い出された。昭和9(1934)年に建てられた九段会館(当時の軍人会館)は、アールデコを基調とした洋風建築でありながらも、城郭風の屋根を冠している。昭和初期には、帝冠様式と呼ばれる和洋折衷の建物がいくつも建設されている。

今北乙吉が設計した時点では、この建物は「摩耶倶楽部」という名前の保養所だった。ただ、歴史を紐解くと、ここが「摩耶観光ホテル」という名前でリニューアル・オープンしたのは半ば必然だったように思えてくる。

  1. 第0回 : プロローグ わたしたちの目は、どんなひかりを見てきたのだろう
  2. 第1回 : いずれ旅は終わる 愛媛・道後温泉
  3. 第2回 : 人間らしさを訪ねる旅 八重山・竹富島
  4. 第3回 : 一つひとつの電灯のなかにある生活 灘・摩耶山
  5. 第4回 : 結局のところ最後は人なんですよ 会津・猪苗代湖
  6. 第5回 : 人が守ってきた歴史 北海道・羅臼
  7. 第6回 : 店を選ぶことは、生き方を選ぶこと 秋田・横手
  8. 第7回 : 昔ながらの商店街にひかりが当たる 広島/愛媛・しまなみ海道
  9. 第8回 : 世界は目には見えないものであふれている 長崎・五島列島
  10. 第9回 : 広島・原爆ドームと
  11. 番外編第1回 : 「そんな生き方もあるのか」と思った誰かが新しい何かを始めるかもしれない 井上理津子『絶滅危惧個人商店』×橋本倫史『観光地ぶらり』発売記念対談
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