観光地ぶらり
第3回

一つひとつの電灯のなかにある生活 灘・摩耶山

暮らし
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「観光ホテル」という言葉の響き

「観光」とは、中国の四書五経のひとつ『易経』に登場する言葉だ。そこで「観光」は、「国の威光を観察する」という意味で用いられている。

日本における「観光」事業の始まりは、訪日外国人客の接遇斡旋を目的として明治26(1893)年に「喜賓会」が設立されたことにある、とされている。国際観光事業の必要性を訴えた渋沢栄一らによって設立された喜賓会は、旅行案内書を発行し、宿泊施設に設備改善勧告などをおこなっていた。この時代には、スエズ運河とアメリカ横断鉄道の開通により、世界一周旅行が容易なものとなり、イギリスを中心とした貴族階級が日本を訪れるようになっていた。こうした背景を受け、「国際観光」にひかりが当てられるようになる。明治45(1912)年、喜賓会の活動を受け継ぐ形でジャパン・ツーリスト・ビューローが設立されている。

大正5(1916)年にはシベリア鉄道が全線開通し、ヨーロッパとアジアがひとつの路線で結ばれたことで、世界における「観光」熱は増してゆく。1920年代に欧米を視察した鉄道省運輸局国際課長・高久甚之助(たかく・じんのすけ)と新井堯爾(あらい・たかじ)は、欧米における観光熱の高まりを目の当たりにし、国際観光の政策化が必要だと感じ、議会における政策立案を働きかける。そうして昭和4(1929)年、田中義一内閣の時代に建議案が提出される。帰属案に提出された建議案は「我国の事物を広く海外に紹介して相互の諒解親善に寄与する」ことを目的とした機関の設立を説くもので、満場一致で可決されている。一方の衆議院に提出された建議案は、「我国は天然の富源に乏しきに反して観光国としての無上の天恵を有す依て是を利用開発して外客を誘致して以て国交の親善に利し併せて産業国としての短所を補ふは最も肝要のことなり」と説き、こちらも賛成多数で可決されている。昭和初期と聞けば、軍靴の音が近づく暗い時代を想像するけれど、この時点では(たとえ建前ではあっても)国際親善が掲げられていたのだ。

こうして昭和5(1930)年、鉄道省に「国際観光局」が設置され、国は国際観光政策を推し進めていく。その上で海外からの旅行客を満足させうるホテルの整備は大きな課題とされ、大蔵省預金部の資金を地方公共団体に融通する形で「国際観光ホテル」が建設されることになった。協議が重ねられた結果、建設地に選ばれたのは横浜、蒲郡、上高地、琵琶湖、雲仙、唐津、富士山麓、伊東、名古屋、志賀高原、妙高高原、阿蘇、松島、日光の14か所。横浜と名古屋に都市型の国際観光ホテルも建設されているものの、戦前の日本が「国際観光」の名の下に売り出そうとしたのは、そのほとんどが自然豊かなリゾート地だ。その建築様式は、スイスのコテージ風ホテルもあればスパニッシュ風と様々ではあるものの、和風の意匠を取り入れたものが目につく。外客誘致のためにダンスホールの設置を目指し、洋風の設備を取り入れながらも、周囲の日本的景観と調和を図り、また宿泊客に日本趣味を味わせるために和洋折衷のホテルが建設されてゆく。摩耶倶楽部は当初ホテルではなかったものの、国際観光に対する機運が高まりつつあった時代に設計された建物が和洋折衷であったことに、時代の流れを感じる。

「開業当初はね、かなりハイカラな場所やったみたいなんです」。旧摩耶観光ホテルのダンスホールを前に、杉浦さんが説明してくれる。「昭和36年に摩耶観光ホテルとして開業するときに、運営する会社が結構力を入れて内装をリニューアルしたそうなんですね。そのときに、フランスの豪華客船『イル・ド・フランス』が引退後に大阪まで曳航されてきてたらしいんですけど、その中にあるシャンデリアや調度品をこのホテルに配置したそうなんです。ただ、お部屋自体はそんなに広くもなくて、お風呂とトイレも共同なんで、いうほど高級ホテルという感じでもなかったんやと思うんです。ただ、ダンスホールでは生バンドがハワイアンの音楽を演奏してチークダンスを踊ったり、夏になると屋上でビアガーデンをやったり、賑やかな場所ではあったみたいですね」

戦前に建築された国際観光ホテルは、大蔵省預金部の資金を地方公共団体に融通する形で建設されたものだから、摩耶観光ホテルとはまったく別物だ。ただ、終戦後にはこの建物もまた、多くの国際観光ホテルは米軍に接収されたが、この建物もまた米軍の将校クラブとして利用できるように改修工事が施されている。「観光ホテル」という言葉の響きには、ある時代には特別な輝きを放っていたのではないか。旧摩耶観光ホテルの4階に佇んでいると、そんなことを考えてしまう。ここは山に囲まれていて、自然の景観も楽しめる。それでいて、神戸の街並みを眺望することもできるし、その向こうには海も広がっている。

国際観光ホテルの建設地をつぶさに見ていくと、海岸沿いと高原が目につく。日本の国際観光政策において、最初に開発が検討され、いち早く新設されたのは上高地(かみこうち)ホテルだ。

観光地として上高地を「発見」したのは、イギリス人宣教師のウォルター・ウェストンである。登山を趣味とするウェストンは、日本各地の山を登り、明治25(1892)年に上高地にも足を運んでいる。彼の著書によって上高地の魅力は世界に発信された上に、ダム建設計画により上高地に至る道路が整備されたことで、多くの観光客が訪れるようになり、上高地に国際観光ホテルが建設されることになったのだ。

歴史書に記載されることのない記憶

国際観光に向けた機運が高まった1930年代には、国内でも「観光」が注目を集めつつあった。昭和2(1927)年には、大阪毎日新聞社と東京日日新聞社が主催し、「新日本八景」が選定されている。日本全国の景勝地を山岳、渓谷、瀑布、河川、湖沼、平原、海岸、温泉の八景にジャンル分けし、一般投票で新日本八景を選定しようというプロジェクトだ。ここで候補に挙げられているのはすべて自然景観だというのは印象的だ。旅行客を呼び込もうと、各地で熱烈な運動が展開され、1か月ほどの投票期間に9300万票もの投票が寄せられている。最終的には名士たちによる審査を経て、山岳は長崎・温仙岳(うんぜんだけ)、瀑布は栃木・華厳滝(けごんたき)、河川は木曾川(きそがわ)、湖沼は十和田湖(とわだこ)、平原は北海道・狩勝峠(かりかちとおげ)、海岸は高知・室戸岬(むろとみさき)、温泉は別府温泉(べっぷおんせん)が選ばれている。ここで渓谷部門に選ばれたのが上高地だった。

上高地を「発見」したウォルター・ウェストンは、日本の近代登山の父と呼ばれている。日本において、山は信仰の対象であり、修行の場であり、生活のための狩猟・採集の場だった。そこにレジャーとしての登山という概念を持ち込んだのがウェストンであり、日本山岳会の設立にも参画している。

登山は日本における国内旅行の普及にも大きな役割を果たしている。外客誘致を目的に設立されたジャパン・ツーリスト・ビューローに対し、国内旅行客向けに組織されたのが「日本旅行文化協会」であり、この協会が機関誌として発行していたのが、のちに日本交通公社から発行されることになる雑誌『旅』である。

日本旅行文化協会は、大正時代に入って急速に日本人旅行者が増加し、各地で旅行倶楽部が発足したことを受け、全国的な提携を求める声が上がったことで立ち上げられたものだ。各地で結成された旅行倶楽部には、登山やハイキングを目的とする会が多数存在した。大正10(1921)年には、日本アルカウ会と日本婦人アルカウ会が主催する「山に関する講演会」が大阪・中之島の中央公会堂で開催されている。正午から10時間にも及んだ講演会は大盛況で、特に夜の部におこなわれた幻灯機を用いて山上の美観を紹介するプログラムは評判を呼んだ。幻灯機を使った山岳講演会は各地で開催され、登山ブームを巻き起こし、各地で旅行倶楽部が結成されてゆく。大正時代に摩耶山にケーブルカーが開通したのも、山が観光地として注目されていた時代背景が影響しているのだろう。

摩耶ロープウェーからは、旧摩耶観光ホテルと、神戸の街並みが見渡せる

六甲山地の開発に先鞭をつけたのは、イギリス人実業家のアーサー・ヘスケス・グルームという人物だ。グラバー商会の出張員として来日し、明治元(1868)年に開場したばかりの神戸外国人居留地を訪れている。グルームは六甲山上にある1万坪あまりの土地を納涼遊園場敷地として借り受けると、自分の別荘を建てたのち、残りの土地を別荘地として外国人に分譲していく。また、私財を投じて登山道を整備し、はげ山となっていた六甲山に植林をおこなっている。こうして六甲山上は開発され、登山客やスキー客で賑わうようになる。

ちなみに、中之島の中央公会堂で「山に関する講演会」を開催した日本アルカウ会とは、大正3(1914)年に御影町(みかげちょう)で薬局を営む草薙彊(くさなぎ・きょう)が設立した団体である。この団体は、草薙が御影から六甲山を越えて温泉地の有馬まで往復したことがきっかけとして設立されている。この団代の設立趣旨には、「自然の美妙に親み崇高の山霊に接して身體を錬磨し精神を鼓舞し、以て平日の誠實質素より各自の業務に精勵するの資たるべき所謂アルカウの趣味を以て集まれるを以て特色とするなり」と綴られている。ここでもやはり、山を訪れる目的は「自然の美妙」に触れることに置かれている。およそ100年後を生きているわたしたちは、「自然の美妙」に触れるためというよりも、かつて存在していた摩耶観光ホテルを眺めるために山を歩いている。

まやビューラインの星の駅には「摩耶ビューテラス」がある。ここで旧摩耶観光ホテルにまつわるグッズも販売されていたので、ポストカードとクリアファイルを買い求める

「こういうツアーをやる前は、不法侵入する人があとを絶たなかったんです」。杉浦さんがガイドを続ける。「ここで勝手にサバゲーをしたり、コスプレの撮影をしたりする人がいたんですけど、不法侵入するのは地元以外の人が多くて、道に迷って警察や消防のお世話になる人も多かったんですね。それで『こんな建物、壊したほうがいいんじゃないか』とオーナーの方は言われたそうなんですけど、見積もりをとってみたら解体するのに何億もかかるという話になって。どうしようかと悩んでいたときに、地元の団体や廃墟を活用するNPOと出会って、『公開すれば不法侵入は減るんじゃないか』ということで、2017年にツアーが始まったんです」

マヤ遺跡を巡るツアーの目玉は、“廃墟の女王”と呼ばれる旧摩耶観光ホテルだ。ただ、こうして何時間かかけて摩耶山をめぐっていると、廃墟を訪ねるというよりも、誰かがここで過ごした時間に思いを巡らせているという感覚になる。

たとえば、摩耶山の縁起は、郷土史にもしっかり記載されている。すでに歴史として記述されている。その一方で歴史書には記載されることのない、いくつもの記憶が存在する。土地に宿るいくつもの記憶を掘り起こし、拾い集めようとする誰かがいるおかげで、観光客でありながらも土地に流れてきた時間に触れることができる。

わたしの目は夜景を眺望することに慣れてしまっている

僕が初めて灘を訪れたきっかけは、トークイベントに登壇者として招かれたことだった。そのイベントを主催していたのは、灘区出身のデザイナー・慈憲一(うつみ・けんいち)さんだ。慈さんは神戸を離れて東京に暮らしていたが、震災をきっかけに郷里に戻り、灘に暮らしている。灘愛をテーマにフリーペーパーやメールマガジンを発行し、マニアックな灘情報を発信しつつ、数々のイベントを開催してきた人物である。マヤ遺跡ガイドウォークを主催する摩耶山再生の会で事務局長を務めるのも慈さんで、坂バスを走らせようと尽力したひとりも慈さんである。

2010年、乗客の減少を理由にまやビューラインの廃止が検討されているという話が明るみに出た。慈さんはすぐに地元の組織に声をかけ、摩耶山再生会議を立ち上げる。まやビューライン存続を求める署名を集めるだけでなく、山上活性化に向けたプランを練り、提案書を神戸市に提出する。これを受けて、神戸市長はまやビューラインの存続を決定した。摩耶山再生会議は、より具体的なアクションを起こすために「摩耶山再生の会」に生まれ変わる。この摩耶山再生の会と、みなと観光バス、それに自治体とによる「まやビューラインアクセス向上委員会」が発足し、2013年から坂バスが運行するようになったのだ。

「僕はもともと、東京の品川にあるゲストハウスで働いていたんです」。「ゲストハウス萬家」のオーナー・朴さんは語る。「そこは商店街のなかにあるゲストハウスだったんですけど、自分も昔ながらコミュニティがある場所でゲストハウスをやりたいということで、神戸でどこかいい場所がないかと探していたんです。それでこのあたりに通い始めて、慈さんと出会って——遡ると皆、慈さんにたどり着く(笑)。ここでゲストハウスを始めるとき、ロゴをデザインしてもらったのも慈さんなんですよ。ここの建物には屋上があるんですけど、そこから見える摩耶山と、王子動物園の観覧車と、このゲストハウスをモチーフにして、ロゴを作ってもらって。ああ、慈さんってデザイナーだったんだなと思いましたね」

たっぷり旧摩耶観光ホテルを見学したあと、まやビューラインで麓まで降りて、ゲストハウスにチェックインする。ひと休みしたところで、昼と同じルートを辿り、ひとりで掬星台を目指す。夏であれば21時まで運行しているまやビューラインも、冬季の平日は17時台に最終便が出てしまう。ただ、冬は日が暮れるのも早いので、最終便の時間でも夜景が見られるというので、もういちど登ってみることにしたのだ。

16時40分発のケーブルカーに乗り、虹の駅に出る。千万弗展望台跡からは夕暮れどきの神戸の街並みが見渡せた。そこからロープウェーに乗り継ぎ、星の駅に到着する頃にはすっかり日が沈んでいた。夜景を見ようと集まった行楽客と、三脚を立てて夜景を写真に収める人たちで掬星台は賑わっている。

「昔は『100万ドルの夜景』って言いよったんですけど、今は半額ぐらいになってるかもしれんねえ」。お昼に訪れた「寿し豊」で、女将さんが言っていた言葉を思い出す。「100万ドルの夜景」というのは、六甲山から見渡す夜景の中にある電灯の1か月分の電気代を言い表す言葉として、昭和20年代頃から用いられるようになったものだ。無数の電灯がきらめく光景はまるで星が掬(すく)えるようだと、山頂の展望台は「掬星台」という名前がつけられた。

半世紀以上の歳月が流れ、電灯が増えたことで、今では「1000万ドルの夜景」と呼ばれるようになった。ただ、わたしの目は、高いところから夜景を眺望することに慣れてしまっている。だから、たとえ当時は今より電灯が少なかったのだとしても、昭和20年代にここから夜景を見ていた目には、今以上にこの光景は眩しく感じられていたのだろう。夜景の美しさというものに慣れてしまったわたしは、その一つひとつの電灯のなかにある生活に思いをめぐらせる。

「昔はね、ここも人通りが多かったんですよ」。「寿し豊」の女将さんが言っていた言葉を思い出す。「私らなんか、小さい頃からよお手伝わされてました。あの頃はスーパーがなかったから、12月31日なんかゆうたら、夜中の1時ごろでもお客さんがきてましたよ。もう、大変やったわ」

12月は日が暮れるのも早く、あたりはすっかり暗くなっている。掬星台から眺める夜景は、ひかりがゆらゆら揺れている。涙でひかりが滲んでいるように錯覚する。「寿し豊」は18時まで営業しているはずだから、まだあかりが灯っているはずだ。 下のロープウェーの最終便が発車する時刻が近づくにつれ、掬星台から人が消えていく。どのあたりが畑原東市場なのかもわからないけれど、展望台でひとり、一つひとつのひかりを見つめていた。

*   *   *

橋本倫史『観光地ぶらり』次回第4回「会津・猪苗代湖」は2023年3月1日(水)17時配信予定です。

筆者について

橋本倫史

はしもと・ともふみ。1982年東広島市生まれ。物書き。著書に『ドライブイン探訪』(ちくま文庫)、『市場界隈 那覇市第一牧志公設市場の人々』、『東京の古本屋』、『そして市場は続く 那覇の小さな街をたずねて』(以上、本の雑誌社)、『水納島再訪』(講談社)がある。(撮影=河内彩)

  1. 第0回 : プロローグ わたしたちの目は、どんなひかりを見てきたのだろう
  2. 第1回 : いずれ旅は終わる 愛媛・道後温泉
  3. 第2回 : 人間らしさを訪ねる旅 八重山・竹富島
  4. 第3回 : 一つひとつの電灯のなかにある生活 灘・摩耶山
  5. 第4回 : 結局のところ最後は人なんですよ 会津・猪苗代湖
  6. 第5回 : 人が守ってきた歴史 北海道・羅臼
  7. 第6回 : 店を選ぶことは、生き方を選ぶこと 秋田・横手
  8. 第7回 : 昔ながらの商店街にひかりが当たる 広島/愛媛・しまなみ海道
  9. 第8回 : 世界は目には見えないものであふれている 長崎・五島列島
  10. 第9回 : 広島・原爆ドームと
  11. 番外編第1回 : 「そんな生き方もあるのか」と思った誰かが新しい何かを始めるかもしれない 井上理津子『絶滅危惧個人商店』×橋本倫史『観光地ぶらり』発売記念対談
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