身についたことをしゃべる
2006年にネイチャークルーズという会社を立ち上げ、観光事業に乗り出したときも、「どうにか食ってくぐらいはやれるんじゃないかとは思ったけど、ここまで伸びるとは思わなかった」と、正人さんは振り返る。
「俺たちはな、シャチに助けられたようなもんよ。うちの会社に昔、佐藤晴子ってのがいたんだ。東京出身なんだけども、そのころ標津に住んでて、シャチが好きなシャチ女だったんだ。それが『長谷川さん、手伝うから船に乗っけてってよ』ってガイドの仕事をやるようになって、シャチの写真を百何十頭も撮って、個体識別のデータベースを作った。この佐藤晴子が先駆者となって、世界中から学者が集まるようになったんだ。今となってはシャチは世界一だし、流氷クルーズを始めたら世界中からオオワシを観にくるようになって、イギリスの連中は『死ぬまでに一回オオワシが見たい』って言うんだ。しかもここは中標津空港や女満別空港があって、そこから車で1時間も走ればシャチが見れて、ワシが見れて、クマが見れんだから」
観光船はすぐに軌道に乗り、毎年1000人ずつ利用客が増えていったそうだ。コロナ禍での営業にもかかわらず、海外からの旅行客の入国制限が緩和されたこともあり、今シーズンは過去最高の利用客で大賑わいだったという。しかも、その4割以上がインバウンドだ。
「俺がこの会社を立ち上げたときから言ってるのは、『羅臼ちゅうのは、小さなニセコに変わるぞ』ってこと」。ニセコとは、北海道虻田郡(あぶたぐん)にある町の名前だ。また、ニセコ町の近隣にある岩内町や共和町、倶知安町(くっちゃんちょう)、蘭越町(らんこしちょう)からなる山岳丘陵地域の総称にも「ニセコ」という言葉が用いられる。
昭和45(1912)年、「日本スキーの父」と呼ばれるオーストリア出身の軍人テオドール・エードラー・フォン・レルヒは、北海道を訪れた際にニセコにも立ち寄り、羊蹄山(ようていざん)をスキーで滑走している。昭和3(1928)年には秩父宮雍仁(やすひと)親王がニセコを訪れ、スキーと温泉を楽しんだ。この年はスイスのサンモリッツで開催された冬季オリンピックにスキー競技に日本代表が初出場を果たした年でもあり、倶知安町とサンモリッツが姉妹都市であったことから、秩父宮訪問を機にニセコは「東洋のサンモリッツ」と宣伝されるようになる。1960年代からスキーリゾートの開発が進められてきたが、2000年代に入る頃からオーストラリアを中心とした海外観光客が増加し、国際的なリゾート都市として賑わっている。正人さんは、羅臼も早晩ニセコのような国際リゾート都市になるはずだと語る。
「ウトロが伸びるのはわかるんだ。あそこは札幌からも都市間バスが走ってんだから。羅臼にはJRも走ってなければ高速道路もない、空港から直行バスも出てないのに、堅調に伸びてんだ。昔は標津まで線路があったんだけど、全部廃線になった。これで汽車が通ってたらすごかったと思うよ。今はもうシーズンの終わりだから客も少ないほうだけど、2月はヨーロッパの連中が大勢やってくるから、宿も満室になるんだ。これで気の利いた宿が増えて、いろんなサービスを提供できるようになれば、もっと評価が上がるぞ。10年経ったころに、このへん歩いてみろ。おそらく、かなり変化してるはずだ。ウトロのほうだと、北こぶしってリゾートホテルがあって、高級路線でやってんだ。これからは普通の人が泊まりづらくなる。羅臼の民宿でも、1泊2万でも客が入るっていうんだから。この貴重な海をな、安売りする必要はないんだ。ただ――おたくはあちこち行ってるからわかるだろうけども、ビジネスで成功するのは、地方からやってきたやつなんだ。地元の人間は、その魅力に気づいてないんだ。俺はイカ釣り漁をやったおかげで、日本中の港に入って、あちこち見聞してきたけどよ、おしゃれなカフェだとか気の利いた店をやってるのは、地方から移住してきた連中なんだ」
そこに暮らしている人間にとって、ありきたりに見えてしまう風景も、別の土地に暮らす人から見れば輝いて見える。だから「地方」から移り住んだ人たちのほうが、観光がビジネスとなった時代に成功しやすいのだろう。だとしたら、漁師として日本各地の港を見てきた正人さんは、漁師をやめて観光業に切り替えるときにも、生まれ育った羅臼ではなく、どこか別の街に拠点を構えるという選択肢もあったのではないか。
「いやいや、やっぱりここよ」。正人さんはキッパリ言う。「よく言うんだけど、ガイドっちゅう仕事はな、本で読んだことを話すんじゃないんだ。身についたことをしゃべるのが、いちばんのガイドになる。俺たちは漁師として修羅場をくぐってきてるから、もしも事故があっても対応できるわけよ。今な、北海道知事公認のアウトドアガイドって制度があるんだ。それも俺、文句言ったことあるんだ。北海道は海に囲まれてんのに、なんでマリンガイドがないんだ、って。俺は海のガイドとしては日本一だって自負してる。北海道は百姓だけでなくて、漁業の歴史もあるんだ。俺らがこどものころはな、『海洋国ニッポン』と習ったもんだけど、今は皆、すっかり忘れてる」
ソヴィエト占領下の択捉
正人さんが中学生だった頃に、北海道から遠く離れた沖縄では沖縄国際海洋博覧会が開催されている。1960年代には冷戦化の米ソ宇宙開発競争が巻き起こり、大国は宇宙を目指した。そんな時代に開催された昭和45(1970)年の大阪万博では「月の石」が展示されたのに対し、その5年後、復帰直後の沖縄で開催された国際博覧会が「海洋」をテーマにしていたというのは、時代の流れを象徴している。宇宙開発競争が加熱し、財政を圧迫するにつれ、宇宙よりはるかに身近な存在で、多くの資源が眠る海洋に注目が集まったのだ。
ぼくは海のことをどれだけ知っているだろう。海の男ならではの、正人さんのちゃきちゃきとした語り口に耳を傾けながら、そんなことを考えた。ふと、携帯電話の着信音が鳴り響く。正人さんは電話をとると、「もし!」と、一回だけ言った。
この土地に生まれ育った正人さんにとって、羅臼の魅力はどんなところにあるのだろう。
「それは、やっぱりお前、日の出だ」。正人さんはここでもキッパリ言う。「夕日はウトロのほうが綺麗に見えるけど、日の出はこっちが綺麗だよ。森繁が歌ってるよ、『はるかクナシリに 白夜は明ける』って。やっぱり国後の日の出は絶景だな。特に冬はきれいだ」
今度はシャチの季節に来てみれ。それと、見に行きてえっつうんだったら、うちの番屋まで連れてってやる。そう言って送り出されて、ネイチャークルーズをあとにする。外に出ると、雨はざあざあぶりになっていて、雷まで鳴っている。雨が弱まるまで、しばらく宿で過ごしたあと、目と鼻の先にある喫茶店「とおりゃんせ」に入ってみることにした。木製の看板の下には大きな窓があり、時代を感じさせる照明が吊るされている。白い扉を開けて店内に入ると、カウンター席と、大小3つのテーブル席がある。ママに案内されるままに、テーブル席に座り、メニューを眺める。ブレンドにアメリカン、レモンスカッシュにミルクセーキ、ソーダ水にコーラフロート、ホットサンドやピザトースト、ワッフル。メニューを眺めているだけで懐かしさをおぼえてしまうのはなぜだろう。
「ブレンドね、はい。今ね、もひとりお客さんがいるんだ。ちょっと外に出てるんだけど、その人が帰ってきたら、一緒に淹れるのでもいい? ちょっと待っててね」
ママはそう言って、僕が座るテーブル席にふたつ、水の入ったコップを置いていく。ほどなくして、ジャンパーを羽織った男性が店に入ってきて、隣のテーブルに座った。「この時期に雨だからねえ」と、窓から空を見上げながら男性は言った。「どこも暖気なんだわ、これ。さっき中標津まで買い物に行ってたんだけど、向こうも雷鳴って、ごろごろやってたもん」。
流氷が見たくて東京から旅行でやってきたのだと伝えると、「昨日はもっと流氷近かったのにね」と、男性は残念そうに言った。男性は釣り船の船頭をやっているそうで、昨日は流氷の上にアザラシがいたのだと教えてくれた。自分はアザラシ撃ちをやっていたんだけども、昔はよくカメラマンが流氷の上に佇むアザラシの姿を撮りにきていたから、船に乗せて写真を撮らせてあげたこともあるのだ、と。
「ここに暮らしていると、いろんな人が入ってくるから面白いですよね」と、男性は笑う。「俺たちはね、いろんな人とお話しするのが楽しみだもんね」と。言われてみれば、ぼくがあちこちに出かけているのも、「いろんな人とお話しするのが楽しみ」だからだという気がしてくる。
喫茶店のママが、テーブルにコーヒーカップをふたつ並べ、そこにコーヒーを注いでくれる。向かいに座る男性に名前を尋ねると、「大木篤志です」と教えてくれた。これも何かの縁だと思い、自分は物書きだと伝えた上で、大木さんに話を聞かせてもらうことにした。
「うちの親父の親父もね、物書きだったんだ」と、大木さんは言う。
「最初はね、根室のほうから標津線という線路を引くために、人夫を連れて入ってきたわけさ」
物書きという言葉に、はっとする。原野の面影が残る北海道の地図に線路を引くのも、たしかに「物書き」だと言える。
北海道にはかつて「殖民鉄道」があった。開拓地への物資の輸送コストを下げるべく、北海道第一期拓殖計画によって設置されたもので、大正14(1925)年に第一号の路線として引かれたのは厚床(あっとこ)―中標津間だった。簡素な軌道が設けられ、馬車がトロッコを引く形の鉄道で、やがて北海道各地に敷設されてゆく。ただ、馬車引きでは輸送力に限界があり、やがて馬車はガソリン車にとって代わられたものの、本格的な鉄道の敷設を求める請願が熱烈に展開された。こうして「標津線」を引く計画が立ち上がり、大木さんの祖父は北海道にやってきたのだ。
「うちの親父の兄弟は皆、明治の生まれなのに、大学出てんの。うちの親父も教育受けて、函館ラサールに入ったみたい。ただ、親父の親父は、国鉄の標津線を引いたあと、中標津ででんぷん工場をやってたんだけど、そこが火事で燃えちゃって、どんぞこの状態で択捉に渡ったみたいだね。だから、せっかく函館ラサールに入ったのに、学問は断念せざるを得なくなった。親父からしたら、それは挫折だったんだろうね。だから俺には一回も『勉強しろ』と言ったことがなかったね」
中標津を去り、向かった先は択捉島にある留別(りゅうべつ)という街だった。もともと漁業で栄えた土地に、やがて海軍の飛行場が建設され、択捉島の中心地となってゆく。
「留別はね、鮭がものすごく獲れたらしい。一箇所の定置網で5万石獲れてたっていうんだから。100石で大体6000本くらいだから、すごい数だよね。鮭が戻ってくる時期になると、川の水が生臭くて飲めなくなったって。うちの親父は日本全国歩いてるけど、択捉だけ(ほど)いいとこはないって言ってたんだ。半年働いたら、あとの半年は遊んで暮らせたって。甘い物がバンバン入ってくるから、島の人たちは虫歯が多かったって言うんだから。ただ、そこにあるとき、軍艦から何から、今まで見たことないような船が入ってきて、『これはいよいよ戦争が始まるんだ』って親父は思ったらしいよ。真珠湾攻撃、あれは留別から出発したんだ。それで戦争が始まって、終戦の年にロシアが上がってきたとき、うちの親父はお袋の兄貴と一緒に見に行ったらしい。ずいぶんあとになって、あのときロシアが乗ってきた船は、アメリカから借りたものだったってわかったんだよね」
ソヴィエト軍が択捉島に上陸したのは、昭和20(1945)年8月28日のことだった。北方領土となった4島のうち、最初にソヴィエト軍が上陸したのが択捉島だった上、もっとも遠くにある島だったこともあり、ほとんどの島民が脱出することもできず、ソヴィエト指導下の生活に置かれることになった。このソヴィエトに占領されている時期に、大木さんは択捉で生まれている。ただ、大木さんが生まれた昭和22(1947)年から翌年にかけて、択捉に暮らす日本人は強制的に引き揚げを命じられており、択捉に暮らしていたときの記憶は残っていないそうだ。
「もしも日本の政府が、もっと早くアメリカに行く覚悟をしてもらったら、なーんもこんなことはなかったんだよね」と、大木さん。「千島列島というのは、世界三大漁場のひとつだから、やっぱり大きな資源なんだわ。だけどこれ、ロシアに取られちゃったわけだからね。俺は2歳になんないうちに引き揚げてきちゃったから、皆は島に行くんだけど、俺は行ってないのさ。若い頃は旗を持って札幌へ行ったり、あっちへ行ったりしてたけども、これっぽっちもひかりが見えなかった」
択捉からの引き揚げは、大木さんのお父さんにとって、2度目の挫折となった。そんな父の心中をどこかで感じ取っていたのだろう、大木さんは幼い頃から「大人と同じように仕事をしてきた」のだと振り返る。
「親父とお袋が裸一貫で生活を立て直そうとしてるわけだから、その親のうしろ姿を見てると、遊んでなんかいられないよね。親が言うには、俺は小さい頃から『頑張って働いて、いつかうちもああいう船を持とう』って言ってたらしいんだわ。やっぱり、負けたくないと思うのさ。まわりは良い暮らしをしてても、自分たちは裸一貫だから、『いつかエンジン付きの船を買って見返してやろう』って、5歳の頃に言ってたんだって。その当時は家に風呂もないから、やかんのお湯をタライに入れて、親父のところに持って行ってた。両親のほかには弟と俺しかいないから、少しでも良い暮らしができるように。やっぱり、そういうもんだよね」
開拓期の北海道
喫茶店の扉が開き、新聞が届く。届けにきた女性としばらく談笑していたママは、相手を見送りながら「いや、なあんもだよ」と口にした。大木さんの語る「そういうもんだよね」という言葉の余白や、「なあんもだよ」という言葉の響きを、しばらく噛み締める。「これ、ちょっと食べてみて」と、ママがワッフルを運んできてくれる。半分にカットされたワッフルを、大木さんと一緒に頬張る。
「小さい頃は遊ぶ相手がいないから、牛や馬が相手だったもんね」と、大木さん。「こっちがちょっといじわるしたら、すごいんだ。頭でバーンてやられちゃう。俺が通ってたのは中標津の小学校だったんだけど、片道5キロ近くあって、学校から帰ってくるころには暗くなってきて、雑木林のなかを歩くのは怖いのさ。だから、大きい声で歌謡曲をうたいながら帰ってくんのよ。そしたらね、牛から馬から、皆こっちを見てたんだって。『ああ、アイツ、帰ってきたぞ』って。その当時流行ってた『愛ちゃんは嫁に』って歌をね、おっきい声でうたってたんだ」
「あの曲が出たころ、私なんかもう勤めてたわよ」と、ママが笑う。
大木さんがアザラシ撃ちの仕事を始めたのは、17歳のころ。最初はアイヌの若者と一緒にアザラシ撃ちを始めたそうだ。その若者というのはまだ10歳くらいだったが、5歳のときから銃を撃っていたのだという。
「このあたりは魚が豊富なもんだから、鱈とかスケソを食うのに、この海峡へ入ってくるわけ。ちょうど今の季節はアザラシがこどもを産む時期なんだけど、昔はアザラシが3000頭ぐらい流氷に乗ってるの。今は温暖化の影響で、これくらいの時期には流氷を見かけなくなるけど、俺がアザラシ撃ちをやってたときは5月の10日ごろまであった。ロシアが『200海里までは漁業専管水域だ』と言い出して、今は真ん中に中間線が引かれちゃってるけど、昔はもっと国後のそばまで猟に行けたわけ。流氷のなかで、アザラシを撃って、ランニングシャツ一枚になってアザラシを船にあげていく。アザラシは重たいからね、冬場でも風がない日だと汗だくになるんだよね。アザラシはね、皮は服や民芸品にして、昔は油を燃料にしてたの。脂肪がこんなに分厚くて凍らないから、燃料になったんだよね。昔は7、8軒くらいアザラシ撃ちをやってる家があったんだよ。ただ、革製品は暴落したから、昭和45年ごろにアザラシ撃ちはやめちゃった。だからもう、アザラシもトドも増えちゃって、すごい数になってるんだよね」
アザラシやトドと聞くと、可愛らしい生き物だという感じがするけれど、開拓期の北海道では、アザラシの皮は寒さから身を守る防寒具となり、油は貴重な燃料となっていたのだ。
「羅臼では昔、薪ストーブを焚いてたんです。これぐらいの時期になると、父親と俺と弟で山に入って、薪をとってた。春になったら、定置網(ていちあみ)の漁師たちが番屋に入ってくるから、そこの番屋から頼まれて、山から薪出しをやってたの。あの当時はトラックじゃなくて、ソリ引きですよ。ソリも重たくて、一日に何十回も運んでたわけ。浜に積んでおくと、番屋の若い衆が船に積んで運んでいくんだよね」
大木さんの話を聞いていると、大正4年に羅臼に生まれた野沢利雄さんという人が書き記した「思い出の記」という一文が思い出された。野沢さんの父は、富山から友人たちと誘い合わせて出稼ぎにやってきて、根室の海産問屋に「歯舞諸島(はぼまいしょとう)で昆布漁をやってみてはどうか」と言われて昆布漁に従事したのち、羅臼に移り住んだ。そこで家庭を築き、大正4(1915)年に利雄さんが生まれている。
冬の思い出で忘れられないもう一つのことは、冬山である。長い冬の間、漁の出来なかった当時の漁家では冬の間に一年中の家庭用と魚粕等製造の営業用の薪材の生木払下げを受け伐出してくる作業が二月中旬から三月下旬まで行われた。それは漁労にも増した重労働であったようである。
野沢利雄「思い出の記」『知床のすがた』
一升飯と云われる大きな弁当を持って、兄たちは朝の暗いうちから山へ出かけたものだ。
その山へ一緒に連れていってもらうのが、子供のころの楽しみの一つで、日曜日が待ち遠しかったのを覚えている。手伝にもならぬ手伝などしながら、一日中冬山ですごす疲労感は、又、格別だったようである。雪の中へ雪煙をあげて伐り倒されてゆく大木を見る壮快感、切り割られた薪を山橇につけて一挙に山を下るスリル感、それらをほおを真赤にしながら胸をはずましてみていたことを、いまもいきいきと脳裡によみがえってくる思いである。一ヶ月以上もの薪山作業が終りに近づき、各漁家の前に薪が運ばれてくる頃になる三月末頃には、日中の雪どけで雪が橇にひっついて重くて曳けなくなるので、夜のしばれを待って橇曳きがはじまる。橇に水をかけて氷りをつけ、すべりをよくする方法など誰が考えたものなのか、これも生活の智恵と言うべきであろうか。
人生のなかでいちばん大事なこと
観光客から見れば、北海道の自然は美しく見える。ただ、北海道の自然の目の当たりにしていると、「美しい」という言葉では片付けられない迫力を感じる。
「たしかに、眺めていれば『きれいだな』とは思うけど、実際問題、住んでたら厳しいですよね。自然の厳しさを重々知ってるから、10代のころからアザラシ撃ちやクマ撃ちをやって、76歳になるまで生き残ってこれたってことが――。船を出したとき、流氷に挟まって動けなくなったこともあるんだよね。4月ごろの流氷なら溶けて緩むけど、3月までの流氷は危険なんだ。流氷というのはね、結構動くんですよ。南風なんか吹くと、一晩で10キロぐらいは動いちゃう。あと、ここの地形は気をつけないと、北西から風が吹いたらハンパでないんだ。車なんか、転がってっちゃうんだから。山が高いからね、北西の風になるとバーンとすごい風がくるんですよ。俺たちが5年生のころ、四・六突風というのにやられて、100人近く海の中で死んでんだよ」
四・六突風のことは、『羅臼町史』にも大きく書き記されてある。羅臼町では、昭和29(1954)年5月10日早朝にも「五・一〇暴風雪」が起こり、100戸を超す建物が全開し、29名が命を落としていた。
その日、昭和三十四年四月六日は前日来の雨も午前十時頃小雨と変り会場平穏で無風の状態にあった。
その朝まで平和な潮騒に明け暮れようやく盛漁に近づいた春たら漁に、今年こそはと生産意欲を燃やし出漁したであろう八十隻余の漁船、それがときおり雲のあい間から薄日がさし始めた午後〇時四十分頃三角山が風鳴りを始めたと思う間もなく、知床山系からアッという間になだれ落ちた黒い突風が雪を伴い荒れ狂い、一瞬のうちに出漁中の漁船十三隻と八十九名の生命を奪い、五・一〇災害に引き続き陸上建物にも甚大な爪跡をのこし、平和な村をして市の街に変え深い氷雪よりまだ冷酷な現実に村民をして呆然とせしめたのである。
戸川幸夫の「オホーツク老人」には、突風により数十名が命を落とす場面が描かれる。この小説が『オール讀物』に掲載されたのは、四・六突風のおよそ半年後だ。突風の記憶が生々しく残る羅臼を取材で訪れ、そこから「オホーツク老人」が生まれたのだろうか。この小説が映画化された際には、地元の人たちも大勢ロケに参加し、突風で遭難者が出た場面では涙を流す人たちも大勢いたという。
「俺たちはこどもの頃から住んでっから、このぐらい厳しいのは当たり前だって思ってるところもあるわけ。昔はね、冬になると閉ざされちゃうから、コメは何か月ぶんか蓄えておくわけ。冬が厳しいぶん、春が来たらほっとするのさ。5月になって、ほんとの春だって感じになってくれば、滅多に突風も吹かなくなってくるから、ある程度はほっとするわね。うちの親父は奥に住んでたせいもあるかもしらんけど、夏になってカニ族の人たちがくればさ、色々世話してやってたんだよね。ああ、この人たちは早稲田大学なんだ、この人たちは東京大学なんだって思いながら、こどものころから話聞いてたんだよね。だから大人になった今でも、誰にでも声かけるんですよ。自分はこのあたりのことしか知らないんだけど、いろんな人と話をすることでね、いろんなことを知れるわけ。これは人生のなかでいちばん大事なことだなーって、自分で思ってる。ほんとにいろんな人と話したいわけさ。相手がこどもであっても、上から目線で物は言わずに、対等に話す。今はもう、毎日のようにここさコーヒー飲みに来て、いろんな人とおしゃべりするのが好きなんだよね」