観光地ぶらり
第6回

店を選ぶことは、生き方を選ぶこと 秋田・横手

暮らし
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フツーの味

文春ビジュアル文庫から刊行されていた「B級グルメ」シリーズで、メインライターのひとりとして執筆していたのが田沢竜次だ。昭和28(1953)年に東京で生まれ、大学卒業後は編集プロダクションに勤務していた田沢竜次が書き手としてデビューするきっかけは、一通の投書だった。

1977年に創刊された『angle』という月刊誌がある。若者向けの情報誌として創刊された『angle』(1983年2月号)で、ラーメン特集が組まれた。この特集のなかに、小さなラーメン採点表が掲載された。「アングルはもちろん、雑誌に出た店はほとんど食べ歩いた」と豪語する大学生「関根君」による、ラーメン採点表だ。そこには29軒のラーメン屋が登場しているのだが、水道橋の「さぶちゃん」というラーメン屋は6点という低めの評価をつけられ(最低点は5だ)、「行列ができるのは、安い為! 味はフツーである」と酷評されている。それを受けて、翌月の読者投稿欄に、「ラーメンにはチョっとうるさい小生ゆえに、2月号の関根君の味覚に対し、黙って忍んでいられりょか!」と題した長文が掲載された。送り主の田沢竜次は、「味はフツーである」という言葉に反発し、「あのフツーさは、まさにフツー、、、の蓄積の極限の末につくられた正統派ラーメンゆえの愛しきフツーさ」なのだと論じている。さらに、採点表に取り上げられた他のラーメン店についても批評を加えたのち、「今後は、他の領域(ハヤシライスとか串カツにも一家言ありなのだ)にも踏み込んで、現在のグルメ事情を斬ってゆくつもりだ」と手紙を締めくくっている。そうして実際に、同年4月号には、「ハヤシライスこそ洋食屋の善悪をシビアに見極める最重要な食べモノ。みんなウッハ、ウッハ喜んで食べて欲しーのだが…。」と題した投書が掲載されている。さらに、同年8月号からは「田沢竜次のTOKYOグルメ通信」という連載が立ち上がり、1985年には『東京グルメ通信』として出版されるに至った。帯には「B級グルメの逆襲」と記され、巻頭には「B級グルメ宣言」と題した文が掲載されている。

本書では、フランス料理、ビストロ、カフェバー、寿司、天ぷら、ウナギ、郷土料理、エスニック料理……といったグルメガイドでは毎度おなじみのジャンルは登場しない。例えば寿司ならば回転寿司だし、そばなら立ち食いそばに限定している。

これは、わざと除外したのである。

ことわっておくが、料理として、それらを否定するつもりは毛頭ない。おいしいものは如何なるジャンルであれ、おいしいのだ。

しかし、今一流のレストランやビストロや割烹や天ぷらの老舗が消えてしまったとしても、小生は少なくとも生きてゆける、、、、、、のである。

だが一方、この東京から、立ち食いそば、定食、牛丼、回転寿司、大衆酒場といった店々が消え去ったとしたら、小生は少なくとも生きてゆけない、、、、、、、

それほどまでに生活に密着しているのにもかかわらず、それらはグルメの世界からパージされ続けてきた。

だからこそ、それらはここB級グルメの世界で浮上する権利があるのであり、それは決して“ひがみ根性”の選択ではないのだ(少しはあるけどサ)。

里見真三的な「B級グルメ」の言説と、田沢竜次的な「B級グルメ」の言説が、ほぼ同時期に立ち上がったのは興味深い。それまであまり活字として語られることのなかった、生活に欠かすことのできない「フツー」の味を言語化する動きが、バブル前夜の80年代前半に生まれたのだ。いずれの場合も、出発地点では東京の食を主なフィールドにしていたが、『くりま』が9号で休刊を迎えると、里見真三は「麺’sクラブ」を立ち上げ、日本各地のラーメン屋を訪ね歩く。こうした取材は、1986年に『ベスト・オブ・ラーメン』として結実する。24センチ×34センチという大判サイズに掲載された写真は、どれもどんぶりが真上から撮影されている。今では当たり前になったこのアングルは、「人間がさあ食べようと構える位置」として、里見真三が考案したものだ。なかには実物大のサイズで掲載されたどんぶりもある。里見真三は、各地のラーメンを探訪することで、その土地の風土と、職人が一杯のどんぶりに込めた意地や意気込みのドキュメントを試みたのだ。

『ベスト・オブ・ラーメン』が刊行されたあと、ラーメンブームは加熱してゆく。1993年には、「全国各地のラーメンを飛行機に乗らずに食べに行ける」をコンセプトに掲げた新横浜ラーメン博物館がオープンし、ご当地ラーメンを目当てに大勢の来場客で賑わった。あるいは、あるいは、同じ麺類でいうと、90年代にはさぬきうどんにも注目が集まり、さぬきうどんに関する書籍が相次いで出版されてもいる。最初は東京論とともに登場した「B級グルメ」という言葉が、次第に地方の食を語る場合にも用いられるようになった。2000年代に至ると、B級グルメでまちおこしの機運が高まり、全国的にはほとんど知られていなかった郷土のあじが、全国から注目を集めるようになってゆく。そのひとつが、横手やきそばだ。

上野駅から新幹線に乗車するとき、JR東日本のサイト「えきねっと」で手配したチケットレスきっぷをモバイルSuicaに登録して改札を通過していたのだが、横手駅の改札はSuicaに対応していなかった。横手ほどの駅で、と驚いたが、秋田県内の駅でSuicaが使えるようになるのは今年5月からなのだという。事情を話して改札を出て、10分ほど歩いたところに、「福龍」という老舗の食堂があった。店主の伊藤一男さんは、「横手やきそば暖簾会」を牽引してきた功労者だ。

「私は昭和22年の2月に秋田市で産まれたんですけども、小学生のときにこちらに引っ越してきまして。その頃、萩原安次(はぎわら・やすじ)さんという方が、横手でお好み焼き屋さんをされていたんです。お好み焼きと言っても、ほんとに薄っぺらなクレープ状のやつで、割り箸に巻き付けて提供していたんんですね。その萩原さんという方が、せっかく鉄板もあるし、ウスターソースもあるし、紅生姜とかトッピングもあるから、なにか新しい商品を作れないかと考えられたのが、やきそばだったんですね」

萩原さんが最初にやきそばの屋台を出したのは、正平寺の裏門近く、青果店の軒先を借りて商売を始めたのだとされている

それ以前には、横手でやきそばを提供するお店は存在しなかった。美味しいやきそばを作り出そうと、萩原さんは横手市内で石谷製麺所(現在の石谷製麺工場)を営む石谷由雄さんに、麺の開発を依頼した。通常やきそばに使われる麺は、鉄板にくっつかないようにと油でコーティングされていたが、それだと麺に味が染み込まず、萩原さんは物足りないと感じたようだった。油でコーディングされていない麺を使うと、味は染み込みやすいものの、鉄板にくっついてしまう。萩原さんと石谷さんが試行錯誤を繰り返し、横手やきそばの鍵となる特徴的なゆで麺を開発できたのが、昭和28(1953)年頃だとされている。

日本の食文化は、戦争に大きな影響を受けた。たとえば、焼き餃子を日本に広めた店とされるお店に、昭和23(1948)年に渋谷で創業した「有楽」がある。この「有楽」は、満州から引き揚げてきた店主が、現地で食べた餃子を再現して提供し始めたお店だ。この「有楽」は、やがて渋谷の恋文横丁に移転し、「珉珉」と名前を変えることになる。里見真三が名前を挙げていたのはこの「珉珉」だ。あるいは、やきそば。横手と同じくやきそばの町として知られる富士宮やきそばが誕生したきっかけは、戦地で食べたビーフンの味が忘れられず、戦後の物資のない時代には米の麺を作ることは困難だったため、配給品の小麦粉で同じような食感の料理を作ろうと考案されたものだとされている。

横手までやきそばを食べに人が来るようになる

横手やきそばを生み出した萩原安次さん

明治の終わり頃に生まれた萩原さんも、世代的には戦地に動員された可能性が高い。ただ、萩原さんの足跡に関しては、はっきりとしたことはわからないそうだ。過去の記事を読み返しても、春日部生まれだとするものもあれば、大阪出身だとするものもある。いずれにしても、横手出身ではないのは確かだが、どうして横手にやってきたのかは判然としない。妹だったのか、あるいは妻だったのか、神谷里ん(かみや・りん)さんという女性と一緒に終戦まもない横手にやってきて、最初は魚の行商をやっていたそうだ。それがあるときからお好み焼き屋を始め、そこで横手ならではのやきそばを生み出したのだ。

「最初の頃は、お寺の軒先を借りて、屋台のような感じで始めたそうです」と伊藤さん。「うちの父親も、テキ屋さんみたいにして屋台で商売やっていたもんですから、すぐ真似をしてやきそばを出し始めたんです。今の季節だと、よこて桜まつりってやってますけど、ああいうとこに屋台を出したりしてね。だから、父とは同業者ということで、その当時から萩原さんのことは知ってましたね」

横手はかつて、市で賑わう街だった。

道路の整備と鉄道の建設が進むにつれ、穀倉地帯に位置する横手は米の集散地となり、秋田県南地方第一の商業都市として発展した。大正時代から昭和初期にかけて、横手の数箇所に常設市場が存在したという。当初は農家がリヤカーに青果を積んできて、市で売っていたところに、やがて鮮魚商や雑貨売り、衣類を売る人や飲食の屋台を出す人が見られるようになり、多種多様化していったのだそうだ。戦前の新聞記事には、横手の朝市には5、6人は「生き鯉を販賣してゐる人がゐる」と紹介されている。「鯉は鱗をとらずに筒切りにし頭は二ツ割にして鍋に並べ酒を入れて暫く煑て」、十分に詰まったところにネギをばらばらと乗せ、「ユズを絞つた醬油に浸し乍ら温い内に食べ」ていたのだそうだ。戦後のある時期から屋台は姿を消してしまうが、こうして屋台に馴染みがあった土地だから、萩原さんや伊藤さんのお父さんは屋台で商売を始めたのだろう。やきそばの屋台は繁盛し、萩原さんはやがて「元祖焼きそば 神谷本店」として店を構え、伊藤さんの父は「満福」を創業する。一男さんは4人きょうだいの長男として生まれたが、当初は家業を継ぐつもりは「まったくありませんでした」と笑う。

横手の浅舞という地区には、現在でも朝市が立つ

「高校生のとき、私、バレーボールをやってまして。秋田県ではナンバーワンで、実業団からも誘われましたし、大学からも『授業料もなんにも要らないから、特待生できてくれ』と誘ってもらって、内定してたんですよ。オリンピックを目指そうと、そういうつもりでいたんですけど、どうしても行けなかった。下に3人いましたんで、自分も働いて食わせてやらなきゃ駄目だ、と。うちは貧乏でしたからね、仕方がないからこの商売をやろうかということになったんです。ただ、その当時はおふくろが『満福』を切り盛りしてたんですけど、古くてちっちゃな店で、やきそばと中華そばぐらいしか出せなかったもんですから、借金をして別に新しくお店を借りて、自分で店を始めたんです」

高校を卒業してすぐに料理人となった伊藤さんに、ある日、萩原さんから声がかかる。「組合を作って、やきそばを広めたいから、ちょっと手伝え」と誘われたのだ。

「私はまだ学校出たばかりで、自分ちの店しかわからないような状態でしたから、もうついて歩くだけだったんですけど、『家の軒先でやきそばを作って売れば、パートに出なくてもある程度お金が稼げるから』ということで、やきそばのつくりかたを広めてまわったんです。そうしたら、あっという間に広まりまして、横手だけで100軒ぐらいにまで増えたんですよ。値段を決めないと価格競争になっちゃうからと、ちゃんと定価表も作りましてね、メニューもきっちり同じにして、組合を作ったんです。各町内に最低1軒や2軒はありましたもんね。お風呂屋さんの帰りに、夜鳴きそばみたいな感じで『ちょっと食べて帰ろうか』となるぐらい、ほんとに浸透してましたね」

萩原さんの店は、「元祖神谷焼そば屋」として引き継がれ、現在も営業中だ

やきそば屋が繁盛したのだとすれば、自分で支店を増やしていくのが、現代としては一般的な感覚だろう。ただ、萩原さんは自分が儲けることだけではなく、自分が考案したやきそばを広めることに力を注いだ。「やっぱり、思い入れはある人でしたね」と伊藤さんも振り返るが、だからこそ「軒先でやきそばを販売すれば、家計の足しになるから」とやきそばを広めたのだろう。僕が生まれ育った広島でも、戦後間もない頃は玄関を駄菓子屋のように開き、広島風お好み焼きを提供するお店が少なからずあった。そこには戦後の復興の時代の影がある。

ただ、そうした時代も長くは続かなかった。昭和47(1972)年に食品衛生法が大幅に改正されたのだ。衛生責任が強化されることになり、軒先でやきそばを調理して提供するような業態には営業許可が下りなくなった。それに、戦後復興も一段落し、安定成長期に入る頃になると、軒先でやきそばを販売するだけで家計を支えることは難しくなってきたのもあるのだろう。こうして駄菓子屋のようにしてやきそばを提供する店は消え、食堂に切り替えたお店だけが残ることになった。横手ならではのやきそばが脚光を浴びるきっかけが生まれたのは、それから四半世紀が経過したころのことだった。

「当時、横手市役所の商業観光課に村田さんって課長さんがいたんです。私より何個か先輩なんですけど、『俺らはよ、昔からやきそば食って育ったよな』と言われたんです。横手の人間からすると、外に行ってやきそばを頼むと、『いや、これ、やきそばと違うしや』となるんですよね。そこで自分たちが食べて育ったやきそばは横手独特のものだったんだと知るわけです。それで課長さんから、『このやきそばで、どうにかまちおこしできねえかや』と相談されましてね。それが平成10(1998)年ごろのことです。最初は予算も何もなかったんですけど、商業観光課に配属されたばかりの坂水剛さんという人が『やきそば担当だ』と任命されて、横手でやきそばを提供する店を食べ歩いたんです。それでホームページを立ち上げて、横手やきそばの情報を発信し始めたんですよね」

「福龍」(道の駅十文字店)の肉玉子やきそば

横手市職員の坂水さんが「やきそば担当」となり、食べ歩きを始めたのは2000年4月のことだった。それから半年後、2000年10月に「やきそばのまち横手」と銘打ったホームページが開設された。そこには横手やきそばのルーツや調理法、そして特徴が紹介されていた。

横手やきそばとは、秋田県横手市で食されているやきそばの総称です(勝手に名前つけちゃいました)。

「やきそば」といえば夜店の屋台で売られているのを想像すると思いますが、横手やきそばは違います!

その独特な麺と味付けは、(お父さんたちの)青春時代の思いでの味として横手市に帰省の際必ず食べるという方や、遠く九州から食べにくるという方もいるくらいなんです。

食べたことのない方に、横手やきそばが普通のやきそばとどういった点で違いがあるかといえば…

横手やきそばの特徴として挙げられているのは、ゆで麺を使用していること、具材に豚ひき肉や目玉焼きが用いられること、福神漬けが添えられてあること、やきそば自体に汁気があり、全体的にしんなりしていることが挙げられている。萩原さんが組合を立ち上げたこともあり、かつて横手中に点在していたやきそば店は、メニューが共通していた。並やきそばを基本として、肉入、玉子入、玉子肉入がメニューに並んでいたことから、玉子をのせたのやきそばが普及したのだろう。

「まちおこしを始める枠組みができてきた頃に、TBSでやってた『ブロードキャスター』って番組で、横手やきそばが取り上げられたことがあるんです。ちょうど横手出身のアナウンサーの方がニュース担当になって、取り上げてくれたんです。私もスタジオに行きました。ただ、もう、めちゃくちゃなんですよ。『やきそばに目玉焼きのせたぐらいで、まちおこしができるのかい』って、散々な言われようだったんです。ただ、なんと言われようが、全国放送で流れたんですね。それをきっかけに、新聞や雑誌の取材がたくさんきてくれるようになりました。たかがやきそばに、です。それで、あっという間に忙しくなりましたね」

11年連続で横手やきそば四天王に選ばれた、「藤春食堂」の特製焼きそば

「やきそばでまちおこしなんて」というのは、2000年としては至って普通の反応だったのだろう。たぶんきっと、横手市に生まれ育った人たちだって、やきそば目当てに観光客がやってくるだなんて、想像できなかったはずだ。だが、メディアに取り上げられたことで、「たかがやきそば」を目指して観光客が横手を訪れるようになった。2001年3月には市民による「横手やきそば研究会」も発足し、100名ほど会員も集まった。ただ、横手やきそばでまちおこしの機運が高まっても、やきそばを提供するお店のなかには、「うちは地元客に支えられているんだから、観光客を相手にする必要はない」と冷ややかな店主も少なからずいたそうだ。

「正直に言うと、近所のお客さんを相手に商売してきたもんですから、外から観光のお客さんがやってきたときに、クレームがすごいんですよ。『サービスが悪い』とか、『応対が悪い』とか。観光のお客さんたちからしたら、せっかく横手までやきそばを食べにきたのに、もてなしてもらえなかったと感じるんでしょうね。これじゃ駄目だということで、平成13(2001)年7月に横手やきそば暖簾会ができたんですね」

まずは行政がまちおこしを企画し、市民団体が立ち上がり、最後に店主たちや製麺業者による「横手やきそば暖簾会」が発足した。会長を引き受けた伊藤さんは、横手やきそばをPRするイベントがあれば、喜んで焼き手を引き受け、自分の店を閉めてまで駆けつけていたという。それも、自分のお店の名前を売り込むこともなく、ひとりの焼き手としてやきそばを作り続けたそうだ。

「根っこにあったのは、『イベントに参加して、横手やきそばを広めれば、あとできっと返ってくる』と。イベントに参加してくれない人たちに、いつも言っていたんです。今の自分たちの儲けのためにやるのは、まちおこしじゃないんだ、って。やきそばを売り込んで儲けるんじゃなくて、横手やきそばを紹介して、横手のことを知ってもらう。そうすればきっと、あとで返ってくる——そうやって自分に言い聞かせてたところもあったんだと思います。正直に言えば、あの当時はまだ五里霧中でしたね」

「福龍」の店主・伊藤一男さん

最初のうちは「五里霧中」だったものの、暖簾会の立ち上げからほどなくして、明るい兆しが射し込んだ。横手とほぼ同時期に、同じくやきそばでまちおこしを始めた静岡・富士宮と交流が生まれ、2001年10月に横手市で開催された産業フェスタでは、横手やきそばと富士宮やきそばの食べ比べイベントが開催された。さらに、2002年6月には富士宮市の市制60周年を記念した「歓麗喜(かんれき)楽座」が開催され、その目玉のひとつとなったのが「三者麺談」と銘打つイベントだった。富士宮と横手に触発され、やきそばでまちおこしに乗り出した群馬県太田市も加えて、やきそばの食べ比べイベントを開催することになったのだ。

「最初のうちは、同じようにやきそばでまちおこしに取り組んでいる富士宮さんと連携して、お互いに行き来をして『盛り上げていきましょう』と活動していたんですよ。そこに太田焼そばさんが『うちも焼そばでまちおこしを始めた』ということで、じゃあ3団体で何かイベントをやってみよう、と。せっかくだから名前をつけようと、三者麺談というタイトルで開催したんですね。食べ比べのイベントをやったあとに、『我々はやきそばのまち発展の為協力する事を誓います』と協定書を結ぶことになったんですけど、それも『三国同盟』ならぬ『三国同麺』にしよう、と。そうやって少しずつ活動の輪が広がって、お客さんがわざわざ横手までやきそばを食べにきてくれるようになったんです」

  1. 第0回 : プロローグ わたしたちの目は、どんなひかりを見てきたのだろう
  2. 第1回 : いずれ旅は終わる 愛媛・道後温泉
  3. 第2回 : 人間らしさを訪ねる旅 八重山・竹富島
  4. 第3回 : 一つひとつの電灯のなかにある生活 灘・摩耶山
  5. 第4回 : 結局のところ最後は人なんですよ 会津・猪苗代湖
  6. 第5回 : 人が守ってきた歴史 北海道・羅臼
  7. 第6回 : 店を選ぶことは、生き方を選ぶこと 秋田・横手
  8. 第7回 : 昔ながらの商店街にひかりが当たる 広島/愛媛・しまなみ海道
  9. 第8回 : 世界は目には見えないものであふれている 長崎・五島列島
  10. 第9回 : 広島・原爆ドームと
連載「観光地ぶらり」
  1. 第0回 : プロローグ わたしたちの目は、どんなひかりを見てきたのだろう
  2. 第1回 : いずれ旅は終わる 愛媛・道後温泉
  3. 第2回 : 人間らしさを訪ねる旅 八重山・竹富島
  4. 第3回 : 一つひとつの電灯のなかにある生活 灘・摩耶山
  5. 第4回 : 結局のところ最後は人なんですよ 会津・猪苗代湖
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  9. 第8回 : 世界は目には見えないものであふれている 長崎・五島列島
  10. 第9回 : 広島・原爆ドームと
  11. 連載「観光地ぶらり」記事一覧
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