自転車で旅に出ることで、観光客の「目」が変わった
尾道側からしまなみ海道を走る場合、最初の島となるのが向島(むかいしま)だ。尾道と向島の距離は、狭いところだとわずか200メートルほど。ここには尾道大橋と新尾道大橋が架かっているものの、尾道大橋は道幅が狭く、新尾道大橋は自転車道が存在しないことから、渡船による移動が推奨されている。尾道駅の近くには、「駅前渡船」と「福本渡船」があるけれど、今回はあえて駅から少し離れた「尾道渡船」を選んで乗船した。
乗船と言っても、きっぷうりばはなく、特に手続きがあるわけでもない。尾道水道をひっきりなしに船は往復しており、しばらく船着場で待っていると、向こう岸からフェリーが近づいてくる。係員に誘導されるままに船に乗ると、「110円ですね」と声をかけられ、代金を支払う。すぐに船は出航し、5分と経たないうちに向島にたどり着く。船着場の近くに、古い商店街がある。そこを進んで行った先に、「住田製パン所」というパン屋さんがある。大正5(1916)年創業の老舗パン屋だ。せっかく向島に足を運ぶのであれば、「住田製パン所」を訪れたいと、尾道渡船を選んで向島に渡ったのだ。
「うちはもともと、和菓子屋をやっていたらしいんだよね」。そんな話を聞かせてくれたのは、お店の4代目・住田初志(すみだ・はつし)さんだ。「どうやら大正5年に、神戸から電気オーブンを売りにきた人がいて、その電気オーブンを買ってパン屋を始めたらしい。昔は尾道—神戸に定期船が出てたから、行き来があったんだろうね。それに、ここは日立造船があるから、その時代からちゃんと電気が通っていた。パン屋と和菓子屋さんは使う道具も材料もほとんど一緒だから、兄弟みたいなものなんだよね。当然ながら私も、饅頭も作れれば落雁なんかも作れます。私が小さい頃なんかだと、注文が入ればなんでも作ってた時代です。設備があるんだから、作って売れば儲かるからね。昔は住み込みで働いている人もたくさんいて、社内結婚が2組あったぐらいだからね」
大正5年には、パンというのは今よりずっと目新しい商品だったのだろう。そんな時代にパン屋がオープンしたというところに、島らしさを感じる。船を通じて外の地域と交わってきた歴史があるから、外からやってきた新しい文化を先進的に取り入れる風土があったのだろう。そしてもうひとつ、向島の主力産業のひとつに造船業があり、工場で働く職工が存在したことも大きかったのではないか。
「向島は、目端が効く人間が多いんだよ」と、初志さん。「なんでかというと、そこまで平地が多くないんでね、頭を使わんと食えんかった。蚊取り線香の除虫菊、あれが日本で最初に栽培されたのも向島なんだ。ただ、その成分が合成できるようになると、向島の連中はすぐに乗り換えて、みかんの栽培を始めた。昔はみかんも高級品で、みかん一箱持っていけばどこでも飲めたって言うんだから。みかんが高級品じゃなくなってきたら、今度はすぐにキウイに乗り換えたり――そうやって目端の効く人間が多かったんだよ。この島は西区と東区に分かれてるんだけど、こちらの西側だけで4万人以上いたんだ。ここの商店街も、私が生まれる頃までは大盛況でしたね。昔は渡船も24時間運航で、映画館もあったし、ゴザ敷きの劇場もひとつあったんだから」
兼吉の渡し場は、江戸時代には島唯一の出入り口であり、渡し場の近くに商店街が生まれた。「うちのばあさんが昭和14年に嫁入りしたときから、家の並びは一個も変わっていない」というから、外観は多少変わっているにしても、80年以上前にはすでに現在の商店街が形成されていたのだろう。
「私が小さい頃だと、ここの商店街は一日中ごそごそ賑わってた。そのかわり、日曜日になるとゴーストタウンになる。商店街も全部店を閉めてたし、日曜日に出かけることなんかなかった。観光に出かけるなんて、年に一回、社員旅行ぐらいだよ。山陽自動車道ができるまでは、広島市に行くなんて、一大イベントだったからね。あの時代は2号線しかないから、どうしても渋滞する。学校の遠足なんかでも、4時頃に広島市内を出ても、帰ってくるのは8時過ぎは確実だった。それがもう、午前中のうちに行って帰ってこれる時代になったでしょう。どんどん道路がよくなって、最近は尾道松江線なんてものまでできちゃったから、『ちょっと日帰りで出雲大社に行ってきた』なんて人もいる。昔だと、日本海を見るには6時間以上走らないといけなかったけど、気軽に出かけられるようになったんだよね」
向島の交通事情に大きな変化が生まれたのは、初志さんが生まれた昭和43(1968)年のこと。尾道と向島を結ぶ尾道大橋が開通したのだ。
ここに橋を架けようと言い出したのは、最初の民選市長となった石原善三郎だった。「尾道水道に橋を架けよう」という提案は、昭和24(1949)年の時点ではあまりにも突飛な話に感じられたようで、「ホラ善」というあだ名がつけられたという。だが、戦後に離島振興政策が進められるなかで、架橋は現実のものとなる。
尾道と向島を結ぶ「尾道大橋」は、日本初の本格的な斜張橋(しゃちょうきょう)として設計された。当時としては比較的新しい形式の橋で、経済性や優美性の観点から西ヨーロッパで数多く採用されており、瀬戸内海の美しさにマッチするようにと、斜張橋が採用された。当時の広島県土木建築部道路課長・竹元千多留は、架橋効果が大きいのは「観光面」とし、橋自体も観光資源となり、「瀬戸内海広域観光ルートの拠点となる」と期待を寄せている。
「私が小さい頃に、みかん狩りのブームがあって、その時代はまだ船でくるお客さんが多かったですよ」と、初志さん。「橋は有料道路として開通してるんだけど、その頃はまだ橋で渡るという習慣がない人が多かったから、海岸沿いからみかん狩りの車で大渋滞してましたね。ただ、そこの渡船が、合理化のために小型船に切り替えて、車を乗せないようにした時期があったわけ。私が小学4年生の頃から、中学を卒業するぐらいまでだったと思うけど、それで一気に流れが変わった。そのあとまた、車も乗せられる船に戻したんだけど、一回生活スタイルが変わると戻ってこないんだよね。それと、橋が開通した頃に、新しい道路ができた。昔は塩田だったところに広い道路ができて、そっちに店が移って行った。特に賃貸で店をやっていた人らは、おんなじ家賃を払うなら条件がいいところにということで、いっぺんに移っちゃった。自宅兼店舗だった人たちは逃げようがないから、ここに残って商売を続けてたんだけど、ほとんど看板下ろしちゃった」
尾道大橋が開通した時代には、世の中が大きく変わりつつあった。昭和48(1973)年のオイルショックは造船業界にも大きな打撃を与え、既存工場の統合計画や、造船設備の転用計画が進められてゆく。こうして向島の産業構造が変化した時代には、大きな工場で生産されるパンが流通し始めたことで、個人経営のパン屋は少しずつ姿を消し始めていた。
「私が嫁いできた頃は、この島だけでも、うちみたいなちっちゃいパン屋さんが3軒あったよ」。初志さんの母・宣子(のりこ)さんはそう聞かせてくれた。「ここの島は、冠婚葬祭が派手な島なんじゃけど、うちがパン屋を始めてからはお葬式のときに饅頭じゃなくてパンを使うてくれよったという話は聞いとるけどね。ここは島じゃけね、新しい文化を受け入れる器があったんじゃろうと思うんよ。外から入ってくるものを、受け入れる。この島だけに限らず、尾道にはよその文化を受け入れる土壌があるけんの。この島だけでも、うちみたいなちっちゃいパン屋さんが3軒あったよ。近頃のように、かっこええパン屋さんじゃなしに、昔ながらのあんぱん、ねじりパンを出す店がの。それぐらい、パン文化が島に受け入れてもらえたゆうことよ。ただ、次の代がいないということで、全部やめちゃったけど、うちはどうにか、姑と私とでつないだよ」
「住田製パン所」を切り盛りしてきたのは、女性たちだ。
宣子さんの姑にあたる科江(しなえ)さんは、昭和14(1939)年に「住田製パン所」に嫁いできた。本来2代目になるはずだった夫は、南方戦線に送られる途中で敵襲を受け、フィリピン沖に沈んだ。戦争未亡人となった科江さんは、夫に代わって2代目となった。戦後間もない時期には尾道に工場も構えて、大いに繁盛したが、昭和40(1965)年には尾道工場を閉鎖し、経営の規模は縮小してゆく。こうした時代の流れを肌で感じていた科江さんは、息子の哲博(てつひろ)さんに家業を継がせようとはしなかった。昭和42(1967)年に哲博さんと結婚した宣子さんも、「パン屋に嫁いだ」という意識はなく、結婚後は郵便局で働いていた。だが、科江さんが怪我で仕事ができなくなったのをきっかけに、パン屋の仕事を手伝うようなった。
そんな経緯で店を引き継ぐことになったからか、宣子さんもまた、ひとり息子の初志さんに「店を継いで欲しい」と伝えることはなく、初志さんは20年ほど東京で働いていた。帰郷した理由を尋ねると、「そりゃ、東京で食い詰めたからよ」と初志さんは嘯くが、きっかけは祖母が癌を患ったことだった。「こっちに帰ってくると、悪いこともできないけど、どこに行っても『パン屋です』で通用するからね」。パン屋を引き継いでも、名刺はあえてつくらなかった。
初志さんが「住田製パン所」を引き継いだ頃にはもう、しまなみ海道は開通していた。ただ、その時代にはまだ、商店街を訪れるサイクリング客は少なかったという。
試しに、1999年に刊行された『るるぶ尾道 今治 しまなみ海道 ’99~’00』を開いてみる。ここで向島は、「青い海と美しい花が出迎える穏やかな気候に恵まれた島」として紹介されており、いくつかの飲食店が紹介されているけれど、兼吉の商店街にあるお店は掲載されていない。この商店街の近くで掲載されているのは、ロケのセットを移築したバスの待合所くらいだ。それと、しまなみ海道が開通したときには、兼吉地区一帯で「向島レトロタウン」と題したイベントが開催されている。実際に人々が暮らしている住居に、広告看板や映画のポスターで装飾を加えて、「戦前にタイムスリップしたかのような郷愁あふれる町並み」に仕立て上げるという企画だ。ここには戦前から続く商店街が実在していたものの、当時はそれ自体が観光資源になるとは見做されておらず、だから装飾で飾り立てる必要があったのだろう。
それが、2022年に発売された『るるぶせとうち 島旅 しまなみ海道』では、「住田製パン所」と「後藤鉱泉所」が紹介されている。「後藤鉱泉所」は兼吉に店を構えるラムネ屋さんで、昭和5(1930)年創業とこちらも老舗だ。『るるぶ』に限らず、この2軒はほとんどのガイドブックに掲載されているし、テレビでもよく取り上げられている。当初は見落とされていた町の老舗が、クローズアップされるようになったのは、しまなみ海道が「サイクリストの聖地」になったからではないか。もっと言えば、自転車で旅に出ることで、観光客の「目」が変わったのではないか。
「まさかそんな時代がくるとは夢にも思わんかった」
2005年に立ち上げられた「しまなみスローサイクリング協議会」は、当時はまだ一般的ではなかったサイクルツーリズムについて理解を深めるために、自転車愛好家を招いて1泊2日のモニタリングツアーを開催している。このプロジェクトに携わっていた女性は、当時のことをこう振り返っている。
自転車を介して島々が有機的につながり、住民には生きがい、やりがいが生まれていく。手探りの活動ながらも、現場にはいつも活気があった。とは言え「井の中の蛙、大海を知らず」。自転車への見識が狭く、自転車旅行という文化が分からない。そこで行ったのが1泊2日のサイクリングモニターツアー。住民が知恵を絞って作り上げたコースを自転車の愛好家に走ってもらった。これがターニングポイントとなった。彼らの走り方は画期的に違っていた。ふいに立ち止まり、小路を見つけて進んでいったり、好んで集落に迷い込んだり。目的地を点として結ぶことばかり考えていた私たちにとって、それは目からウロコの行動だった。そもそも行動が異なるのだから、語られる主観も異なる。「島の路地裏が面白かった」、「農作業の手をとめて話しかけてくれた」。人との出会いを楽しむ旅行スタイルとの出会い。自転車の旅人が持つ指向性への気づき。バスや車を選択する旅行者とは異なるDNAとでも言おうか……。きっと、自転車の旅人は交流を望むしまなみにとって大切なお客様になる。
山本優子「西瀬戸自動車道『瀬戸内しまなみ海道』がもたらす新たな可能性 瀬戸内まるごとサイクルツーリズム構想」『人と国土21』(2016年1月号)
戦後の日本は、車を中心にインフラが整備されてきた。より速く、より効率的に移動できるようにと、全国各地に道路網が整備されていった。自動車で旅に出るとなると、より速く、より効率的に、目的地を目指したくなる。一方、自転車で旅に出ることを選ぶとなると、自転車で走ること自体が目的となる。自転車であれば、気になるものがあればすぐに立ち止まることもできるし、車と違って道幅を気にせず脇道に逸れることができる。せっかく自転車でのんびり旅をするなら、老舗のパン屋に立ち寄っていこうかという人も出始める。モータリゼーションの進展によって寂れ始めた商店街が、自転車の旅が普及するにつれて、再びひかりを当てられるようになったのだ。
「サイクリングロードになってる道路は、いわゆる旧街道じゃないところだったりするから、皆一回は酷い目にあってるんだ」と、初志さん。「新しくできた道路だと、店が一軒もない区間もあるから、『キャラメルの一個でも持ってくりゃよかった』と思うわけ。それが身に沁みた連中は、色々調べたんだろうね。朝早くにうちへ寄ってパンを食べて、一個余分に買って、荷物に詰めていく。さっきも言ったように、行動範囲が広がるにつれて、うろうろする経験値が上がってきたんだろうね。旅が上手になって、日程に余裕を持つようにもなってきた。最初は1泊で四国まで行こうって人も多かったけど、せめて2泊はしないと寄り道できないからね」
「住田製パン所」は年中無休、朝6時から19時半まで営業している。午前中は宣子さんが店番をして、午後は初志さんが店頭に立っている。そんなに長い時間店を開け続けるのは大変じゃないですかと尋ねると、「人を雇ってるわけじゃないし、どうせなら営業時間が長いほうが売り上げがあがるから」と初志さんは笑う。こうして話を伺っているあいだにも、ひっきりなしに旅行客が訪れていた。
「暇なときだと、こっちから話題を振ることもありますよ。話に乗ってくる人と乗ってこない人っていうのは、パッと見てわかるから、相手を見ながらだけどね。うちはサイクリングコースから外れてるから、わざわざ尾道渡船を選んで渡ってきた人たちというのは、『あっちを選んだほうが面白そう』と察知する観察眼があるんだろうね。だから、こっちがちょっと話をすると、興味を持って聞いてくれる。そこから口コミで話が広まって、うちに寄ってくれるお客さんが増えたんだろうね。ただ、旅行客が増えるにつれて、地図がわからない人も増えてきた。『うちを出て、右に進んで、信号のある二叉路を左』と指差しながら教えても、店を出て左に進む人が半分くらい。今はスマートフォンが普及したから、自分が今いる場所はわかっても、どっちに進めばいいのかわからないって人も増えたよね。ときどき電話がかかってきて、道を教えてくれと言われるんだけど、『今どこにいますか?』と聞いても答えられない人も増えてきた。スマートフォンの地図を見ながら歩くのに慣れたせいで、看板や建物を見る観察眼が衰えてるから、『今、何が見えます?』と聞かれても答えられない人も多いんですよね」
「私がここへお嫁にきてから、60年ぐらいになるけども、世の中がすごい変わったよ」。そう聞かせてくれたのは宣子さんだ。「ここがメイン通りだったのが、今はコンビニやスーパーマーケットが何軒もあるし、通販のにいちゃんが毎日そこらを走りまくって――商売の形がまるで変わったよ。今はもう、ペイペイで払われるもの。お金が行ったり来たりしないのに、決済が済む。不思議なもんよ。それに、今は古い店だというのが売りになったでしょう。まさかそんな時代がくるとは夢にも思わんかったけど、長くやりよったらそんな時代がやってくるんよ」
「ようきてくださったです、ありがとう」。宣子さんに見送られて、お店をあとにする。軒先であんぱんを頬張り、再び自転車を漕ぎ出す。初志さんがおすすめしてくれたのは、公式に設定されているモデルコースとは違うルート――旧道を南に進み、干汐(ひしお)海水浴場に出て、海岸沿いに因島大橋を目指すルートだった。そのルートだと信号がなく、快適に走れるのではないかとおすすめしてもらったのだ。「うちを出て、右にまっすぐ進めば海に出るから」と教えてもらって、自信満々に自転車を漕ぎ出したのに、干汐海水浴場とはまるで違う場所に辿り着いてしまう。僕もまた、地図が読めないひとりだった。