セカンド19

そっちにいかないで
スポンサーリンク

「切るなら、 机でも、皮膚でもなく、見えないものを切らないといけないんだ」(本文より)

5月27日に発売され、話題となっている戸田真琴・著『そっちにいかないで』(太田出版・刊)。
毒親との生活。はじめての恋。AVデビューと引退……。「あたたかい地獄」からの帰還を描いた、著者初の私小説となっている。

OHTABOOKSTANDでは、全3章の冒頭部分を3日間にわたって公開しています。
第2回目は、第二章より。

「セイジョウイ、バック、キジョウイ、フェラ、イラマチオ、アナル、エスエム……この中でやったことあるプレイに◯つけて」

 そう言い残すと、星と名乗る男は席を離れた。オフィスの奥のほうにあるウォーターサーバーで、首をスーツの襟からうなだれながら、紙コップに水を汲んでいる。

 わたしは、今聞いたスターバックスのカスタムのような音の羅列と照らし合わせ、目の前にあるバインダーに挟まれたプリントのうち、どこの部分を指していたのかを探す。

【経験人数】_人。主語がない。選択肢が書かれていないので違う。

【彼氏の有無】なんでそんなこと聞くんだろう。無に、◯。

【パブ範囲】地上波TV、CSTV、一般誌、アダルト誌、DVDジャケット、サンプル動画。よくわからないから全部丸にしてみる。

【経験済みプレイ】正常位、バック、騎乗位……あ、これだ、と思い、不可解な呪文だった音が漢字とカタカナに入れ替わるのを確認してから、さてどれに◯をすればいいのだろう、と考えたけれど、まるで意味がわからなかった。

 SM、はたぶん、テレビとかでやってたあの言葉だ。Sが、人に意地悪をしたいほうで、Mは、ひどいことされて喜ぶ人。それとAV女優の面接とがどう関係あるのかはわからなかったけれど、どれもとりあえずやったことがないような気がしたので、そのままアンケートを読み進める。

 星が、水の入った紙コップを両手に持ち、こちらへ戻ってくる。濃いめのグレーのスーツを着て、髪を角刈りの一歩手前くらいの長さに切り揃えた、肌の白い男だ。20代前半に見える。ホームページで紹介されていたオレンジ色のソファと熱帯魚の泳ぐ水槽の向こう側には、ごく一般的と思われるグレーのデスクとチェアが連なっており、その奥には40、50代に見えるスーツの男性が難しそうな顔をしてデスクトップパソコンに向かっている。ほかの席にばらばらと4、5人が座っていて、各々資料のようなものを整理したり、電卓をはじいたりしていた。そこはかとなく漂うくたびれた質感、社員のさりげない服の皺や壁に染みついたヤニの色合いなど、きれいに掃除をしていても滲み出る雰囲気にどこか安心感を覚えていた。

 星はアンケート用紙を覗き込み、あれ、経験人数書かないの? と聞く。わたしは、頭皮の毛穴がどっと開く感覚の中、きっと顔を引き攣らせながら、「あ、えっと、よくわかんなくて」と薄ら笑いをした。

 星はそれを見てすぐに、「いちいち覚えてらんないって感じっすね。見た目によらずそうなんすね」と、唇に入った無数の縦線をひび割れさせながら笑った。

 面接シートの内容をごまかしきると、隣の部屋に案内された。白いホリゾントとカメラ用照明機材が設置された一角に、ノートパソコンを操作する男性の後ろ姿がある。レモンイエロー色の髪の、50代くらいに見えるカメラマンだ。軽く会釈し、面接シートを手渡すと、星は出ていった。同じ部屋の奥、窓際には大きな鏡とメイク道具が並び、線の細い肩口にやや長めの黒髪を垂らした男性がこちらを見ている。手招きされ椅子に座ることを促されると、首もとにケープをかけられ、前髪をピンで留められる。ヘアメイクが始まった。

「出身どこなの?」

 埼玉です、と答えると、あー俺も! と勢いよく返しながら、ヘアメイクの大吉と名乗る男はわたしの顔にファンデーションを叩き込んだ。デパートで化粧品を買ったことなど二、三度しかないわたしの目から見ても、彼の手に握られたMAKE UP FOR EVERのファンデーションの瓶は古く汚れ、中身がひび割れている。そこに、CHACOTTのパウダーをぽんぽんと叩かれ、眉毛をえんぴつ型の茶色いアイブロウペンで濃いめにしっかりと描かれ、濃いブラウンのアイシャドウと束感のある付けまつげを載せられたら、最後にフューシャピンクの鮮やかな、鮮やかすぎる口紅を塗られた。肩に触れるくらいの長さに切り揃えていた黒髪は、太いロットのヘアアイロンで大きく波打つように巻かれ、わたしのヘアメイクは完成した。大吉は、持ち手がぼろぼろに剝げたヘアアイロンを片付けながら、カメラマンへとわたしを引き渡した。通りかかった鏡を横目で見ながら、この人たちはもしかしてずっと前の時代が最も肌に馴染んでいた、そういう人たちかもしれない、と頭で考え、心で、ずいぶんださいヘアメイクだな、と思った。

 バシャン、ピー。バシャン。ピー。と、カメラのシャッター音とそれに反応して光るフラッシュの音が連続で鳴る。白ホリゾントのスペースはカーテンのついた枠のようなもので仕切ることができるようで、わたしはその中へ案内された。カメラマンは、一眼レフを持ったまま会釈をすると、

「じゃあ早速、下着になろうか」

 と言った。

 わたしはのっぺりとした心のあり方のとおりに、「はい!」と抑揚のない元気さを醸しながら答えた。ばさっ、ばさっ、と、手際よく服を脱ぎ、おなかに力を入れてなるべく凹ませる。

「腹筋すごいね。縦線入ってるじゃん。なんかやってたの?」

 と聞かれて思い出すのは、学校で行う体力テストだ。中学の三年間も高校も、100メートル走もハンドボール投げも長座体前屈も反復横跳びもとにかくほとんどすべての種目にCかⅮのアルファベットが印刷されていた結果用紙の中で、上体起こし、俗にいう腹筋だけAだった。あきらかに運動の不得意な人の動きしかできないわたしが、上体起こしでのみ誰よりも素早く、ばてずに、勢いよく上体を起こし続けている様には爆笑が巻き起こったが、わたし自身は至って真面目に上体を起こしていたし、自分がこれを得意なのだという自覚もなかった。

努力をしなくてもできることの中には、その理由が才能や資質などという漠然とした言葉でしか言い表せないものが多いけれど、これだけは理由がわかっていた。わたしは、目を覚ましてリビングへ下りてから、夜に姉の胴体を跨いで窓の外を見上げるまでの、自分の視界に他者が存在しているほとんどすべての時間を、腹に力を入れて過ごしていた。どこが怒りの爆破スイッチなのかわからない母の前にいるとき、なにが悲しみの引き金なのかわからない姉のそばにいるとき、どこからトラックやバスが突っ込んでくるかわからない外を歩くとき、いつ悪い噂が流されるかわからない教室に入るとき、箸の持ち方や嚼音を指摘されるかもしれないうえ、口の中という圧倒的に無防備な部位を見られる可能性のある食事時間、会長に怒鳴られたり由加に文房具を投げられるかもしれない放課後、突き落とされるかもしれない駅のホーム、誰が乗ってくるかわからないバスの車内、そしてまた、家のドアを開けるとき。わたしは腹に力を入れていた。今なにかが起こっても踏ん張れるように。真横から見られたとき、腹が出ているねと笑われないように。

 下着姿でしばらく写真を撮られたあと、カメラマンは一度カメラを置いて、ハンディカムを持ってきた。仕切りを動かして、ホリゾントと白い布で囲まれたちいさな部屋にしてから、

「それじゃあ、脱ぐところ動画撮ってくから」

 と、言われた。まあそうか、そうだよね、そうだよな、下着も取るんだよね。と、頭の中でしゃべるように繰り返してから、「はい!」と、返事をした。はい、の、い、が、捲れ上がっていた。ばれないようにすばやくホックを取ろうとしたら、カメラがまだ回っていないと止められた。

 カメラマンの津崎が、動画のRECボタンを押す。わたしはレンズを見るように言われ、もうここまできたらさっさと脱いでしまいたいな、と思いながら、ブラジャーのホックに手をかける。

「どんなタイイが好き?」

 わざと動画にしっかり入るように大きな声で、津崎が聞く。インタビュー動画的なものを、下着を脱ぐ動画と同時に撮るつもりらしい。とっさに質問の答えを考えるけれど、「タイイ」という言葉がそもそもなにを指すのかがわからない。

「えっと、タイイ、ってなんでしたっけ」

 まるきりわからないわけではないよ、たまたま忘れているだけだよ、というていを装って、ごまかしながら聞く。津崎は鼻から息をふん、と吐いて、

「セイジョウイとか、キジョウイとか、バックとか。どれが好きだった?」

 と、聞き直す。

 ああこれさっきの、面接シートのときに聞いておけばよかった。隙を見てこっそり調べたらよかった。ほんとうになんのことかわからない、どうしよう、と思いながら、しばらく目を泳がせていると、だんだんと津崎の表情も不安げに曇っていく。

「どうしたの? 恥ずかしがらなくていいんだよ。一個ずつ聞いていこうか。セイジョウイは好き?」

「……わかんないです」

「えー。キジョウイは? やったことある?」

「えっと……たぶん、ないです」

「え、バックでしかやられたことないとか?」

「ばっく……っていうのは、いったいどういう」

 そのくらいまで答えたあたりで、津崎は、動画を止めた。

 ホックに指をかけたまま身体を強張らせていたわたしは、なにが起こるのかわからず、どっと冷や汗をかく。まずいことを言っただろうか。なにか、へんなことでも言ったのだろうか。

「もしかして、未経験?」

 ……ばれた。全身の毛穴が開いて汗が噴き出るのを感じる。目線が泳ぎ、眉毛がぴくぴくと痙攣し、心臓の鼓動が徐々に速くなる。平然と、平然としないと、平然と。きっと特殊なことだから、どういう扱いを受けるかわからない。早く、ばれないうちに撮影の流れでどういうものか経験してしまおうと思っていたのに。頭の中に、いくつかの場面がフラッシュバックする。

 大学二年の終わりに、ゼミの生徒たちと先生とともに居酒屋に行ったときのことだ。

 撮影技術論の先生は四〇代くらいの中道という女性で、はきはきとしたしゃべり方と女子生徒への距離の詰め方の大胆さで人気を誇っていた。美大卒業後大手ラボに就職し、フィルムの現像や機材の貸し出し管理業務をつとめたのち、講師として大学に戻ってきたそうだ。中道先生のことはわたしも好きだった。教室に集まるたびに世間話のように「今日もかわいいね」と生徒たちに声をかけて回る様は少女漫画の中のプレイボーイのようだったし、粗雑な格好や振る舞いをしていてもどこか精悍さが残っているのも彼女の人柄だと思った。

 わたしが生理痛でうずくまりながら教室に入ってきたときには一度授業を中断してこっそりバファリンをくれ、保健室まで送ってくれたし、16ミリフィルムの課外授業で撮ったゾウの映像は「奇をてらわず丁寧に忠実に撮れていていいね」と褒めてくれた。

 本来大学というものは、学びたいものを選んで学ぶ場所だけれど、まだ20かそこらの生徒たちがどこまで明確に自分の人生の使い道を決めているかというと、まだまだ曖昧だ。気のいい先生のところへは人が集まるし、中道先生のところへは女子生徒の集まりが異様によかった。その中にはわたしが話してみたいと思っていた生徒たちの姿もあったし、なにより先生のつくる授業の雰囲気がよく、それは信頼というよりはどこか、和気あいあいと”青春”じみた空気感を味わえるのではないか、というやんちゃな予感の持つ心地よさだった。

 だから、年度最後の映像技術論の授業のあと、先生を中心にみんなで打ち上げに行かないか、という誘いに、めずらしくわたしも乗ったのだった。会場は学校から徒歩五分程度のチェーン店の居酒屋で、その二階の座敷を丸々貸し切って25名ほどの生徒が集まった。わたしは入学式の後の中打ち上げではじめて飲酒したときの体調の悪さを思い出し、オレンジジュースを頼んだ。上級生が「生の人!」と大きな声で聞いて回り、先生を含め八割くらいの生徒たちが”生”を注文した。普段なら、「”生”っていうだけでどうして生ビールだと伝わってしまうんだろう。生搾りジュースのつもりの人もいるかもしれないのに。よく集団で飲酒をする人たちの中だけで通じるはずの合言葉が、どの店でもどの瞬間でも伝わるものだと思い込むことは恐ろしいことだな」と内心苛立つところだけれど、今日はそういうのをやめて、素直にこの場に溶け込んでみたいと思っていた。

 乾杯からはじまって、同じテーブルの6、7人ずつごとににぎやかに会話が始まる。わたしはビールジョッキになみなみ注がれたオレンジジュースを両手で持ち、勢いよく飲んだ。中身はほとんどブロック形の氷で、よく冷えた少量のジュースがすぐになくなると同時に側頭部をきんとしびれさせた。温かいお茶がほしいな、と思った。

 斜め前に座った一年上の先輩が、数少ない男子生徒たちに彼女の有無を聞いて回る。答えはまちまちだが、皆どちらにしても回答をためらいはしなかった。なぜ自分の恋愛の話を他人にできるんだろう。恋が、自分にとってしか意味がなく、そして他人からはどうやっても正しく理解はされないものだということを知っているから、わたしは恋の話をもう誰にもしたくないと思った。話さなければ、わたし以外の人にとっては、ないのと同じだ。ある、と思っているのは自分だけでいい。

 作り笑いをしながら小刻みに頷くそぶりをするだけだったわたしの背中に、とつぜん腕が回された。「こっちはなんの話してんの?」と、2つ隣のテーブルにいたはずの中道先生の声が耳もとにかかる。アルコールと生ぬるい息が混じって首もとを湿らせ、へんに緊張する。

「あ、えーっと、彼女がいるかいないかとか、そういう話です」

 そう答えると、先生は至近距離からじっとわたしの顔を見つめる。白い肌に、黒髪を鎖骨くらいまで伸ばしたワンレン。生やしっぱなしの眉毛は、皺になりつつある眉間から角度をつけている。

「モモちゃんは? 今彼氏いないの?」

 あ、やってしまった、さっさとトイレにでも行くふりをすればよかった。と思った。身体をべったりとくっつけられ、心拍数もつたわる距離では、噓をつくのは分が悪い。

「いないです」

 これ以上深掘りしないでくれ、と祈りながら答えるが、立て続けに「じゃあ”元”は? モモちゃんってどんな男の子が好きなの? っていうか今思ったんだけど」

 気づけば、周りの生徒たちもこちらに目を向けていた。

「どんな子を好きになるのかぜんぜん想像つかない。彼氏いたことあるの?」

「……それが、いたことないんです。だから、あんまりこういう話、わたしに聞いてもおもしろくないです」

 そっか、と言ってあきらめて、もっと恋愛経験豊富な人のほうへ話題が移ってほしいと思った。飲み会というものは、なにかしら恥ずかしい部分やカッコ悪い部分をかわるがわる暴露していくことの異常さを、アルコールでごまかして成り立っている。それを、「腹を割って話した」のだと勘違いしている人がこの世のマジョリティだ。罰ゲームみたいで、今すぐにここから去りたい。そう思いながらすました顔を取り繕っているうちに、席を立てばよかったのに。

「そしたら、経験ないの!?」

「……?」

「だから、エッチしたことないの?」

 頭が真っ白になった。先生以外の人たちも、すっかりこちらに意識を向けていた。どうしよう、なんて返せばごまかせるんだろう、だけど、知らないことを知っているふうには振る舞えない。噓をついたところで、次々と質問されてボロが出るのが目に見えている。

 あ、たぶん、そう、です。あはは、へ、へんですかね? どくどくと震える身体がばれないように目を誰とも合わせず流そうとすると、中道先生はギュッとわたしを抱きしめ、耳もとに置いた酒臭い喉から、聞き耳を立てていた全員に聞こえるように、言った。

「かわいい! モモちゃんバージンなんだ! なにそれかわいいー!」

 周りの生徒たちも、ぽつりぽつりと、話しはじめる。「かわいいねー」「えーめっちゃピュアだね」「理想高いのかな?」「いいなー純粋で。うちなんかさー」「意外ー」「普通チャンスあるでしょ」、ありとあらゆる意見があるようで、それはどれも同じ色をしていた。わたしは、あはは、と笑ってごまかしながら、ちょっと門限があるので、と噓をついて、なるべく急いで、居酒屋を出た。3月の夜は冷たく澄んで、自分の頰が真っ赤に腫れていることを知る。暑い。寒い。あんなにばかにされなきゃいけないことだったんだ。ただ好きな人としかしたくなくて、その人との恋は叶わなかったから、だから恋人らしいことをしたいと思う理由もなくなった。そのことがそんなに、ばかにされるようなことだったんだろうか。それとも、ほんとうに、二十歳を過ぎてもセックスをしたことがない、わたしがそんなに異常なのだろうか。

 あの日の、胃液がこみ上げるような気持ち悪さを思い出す。あれから2年も経ったのに、わたしはまだ、ばかにされるんだろうか。今からでもごまかして、すぐにでも撮影の仕事を貰って、誰にもバレずに経験してしまいたい。そう考えながらカメラのレンズを見ないように意識していると、わたしの返事を待たずに津崎は録画を止め、星たちのいるオフィスのほうへ駆け出した。

「おい! この子処女だぞ! 面接やり直し! 専属行けるぞ!」

 ファンファーレのような音色を持って響いたその声は、星をはじめオフィスにいた数人のスタッフをわたしの前に呼び寄せた。

「ほんとに? ほんとに処女なの!? なんで言わなかったの!? ぜんぜんギャラ変わるよ!」

 名前もまだ知らないスーツの男たちが、瞳を輝かせながら口々にそう言った。

 予想とまったく違う反応に、どういう表情をしたらいいのかわからなかったが、しばらくすると大吉がやってきてリップの濃いピンクを桜のような薄いピンクに、巻いた髪をストレートに直した。プロフィール写真は撮影され、わたしはセックス未経験の女優として事務所に登録された。

「どうしても、10代ってことにしないとだめなんですか?」

 たくましい眉毛をハの字に下げ、大きな体を丸めて懇願する男に、わたしはおそるおそる、意見した。

「ぜんぜんそうにしか見えないから大丈夫だって! ほんとは18にしたいくらいだよ。君の見た目で20以上で売り出すのはもったいないから! ぜんぜん売り上げも変わるし。だめ?」

 広々とした和室ふうスタジオ、大きな照明機材と数十万するらしいレンズを取り付けるカメラマン、目の前に広げられた化粧品。髪を丁寧にアイロンで伸ばされながら、わたしは困り果てていた。

 AV女優というのは、働き方が大きく分けて二種類に分かれる。メーカーと専属契約をして月に一本ずつリリースをしていく専属女優と呼ばれるものと、どことも専属契約はせずに月に本数制限なくさまざまなメーカーの作品に出演する企画女優。専属女優は月に一本ずつ決まったメーカーの作品にしか出られない代わりに単価が高く、ひとりのタレントとして継続してプロデュースされる側面が大きい。メーカーの采配次第でさまざまなメディアへ出演する機会も多く、個人のキャラクターに対してファンが付きやすい。

企画女優は、一本の単価が下がる代わりにポテンシャル次第で一月に本数制限なく出演でき、できるだけたくさんお金を稼ぎたい人が自ら望んで専属をやめて企画女優になることもある。しかし出演する作品をしっかり自分で選ばないと、多くの場合専属女優よりも過激な内容の作品に出演することになったり、女優ではなく一般人というていで名前を出さずに素人役を演じることなどもある、諸刃の剣のような働き方でもある。

現役AV女優たちのSNSプロフィールなどを見ていても、「企画女優」と明記する人が少ないのに対し、「◯◯(メーカー名)専属」と目立つ箇所に書く人は何人も見受けられ、彼女らの投稿からは自分に自信を持って美しさを武器に働いているような印象を受けた。漠然と例えるなら、内側から発光しているようにキラキラしている女優は、どこかの大手メーカーと専属契約をしていることが多かった。それだけでも業界内のヒエラルキーが素人からでも窺えた。

 わたしは面接を受けた当初、容姿のポテンシャルなどから「専属にはなれないだろう」と判断されていたところを、性行為が未経験だという事実が発覚したことで、それを大きなセールスポイントとして大手メーカーに売り込むことが可能になったそうだ。処女と引き換えに、専属契約を結んだ。からかわれて、ばかにされて、コンプレックスになっていたことがこの業界では付加価値になるなんて、予想だにしなかった。

 用意された薄いブルーのコットンワンピースに袖を通し、もともと付けていた薄いベージュカラーのコンタクトレンズを外した。メイクは極端にナチュラルで、眉毛は太いアイブロウペンシルでぼさぼさに太く描かれ、唇にはルージュではなく透明のリップグロスのみ。クマも、そばかすも、あえてコンシーラーで消したりせずに、生の肌感が残っている浅黒い頰に、上気したようなピンクのチークをのせられた。

 19歳で、田舎者で、まだあどけなく、男の人と手も繫いだことのない女の子が、なにもわからないままアダルトビデオに出演する、という倫理観さえ際どいひとつの架空のストーリーが、ビジュアルに落とし込まれていった。

 そう、鏡でこうして完成形を見ても、この女の子が何歳なのかわたし自身にもよくわからなくなっていた。ティザーサイトをつくるための写真のみの撮影といえど、すでに予算が使われているのもわかる。自分が罪悪感を覚えたくない、噓を背負いたくない、という個人的なわがままによって、作品の売り上げがぜんぜん伸びなかったとしたら、この人たちは困るだろう。そして売り上げが立たないことによって最後に困るのは自分だということもうすうすわかっている。わたしはもう一度、プロデューサーを名乗る大男に尋ねる。

「ほんとうに、19歳に見えますか。わたしは」

 もちろんだよ。絶対売れるから信じて! と、明るい声で言われ、人生二度目の19歳を演じることになってしまった。

 19歳。19歳。黒い髪をボブカットに揃え、前髪で眉を隠し、丸いほっぺたで笑ってみせる。19歳。静岡の田舎で厳格な両親のもと異性との交流を禁止されて育ち、大学進学のために上京。都内の私立大学の文系学科に通い、心理学を選考する19歳。映画が好きで、映画研究サークルに入っている。大学に入ってから先輩に片思いをしていたが恋に破れ、自分の狭い世界から抜け出したくてAVデビューを決めた。

プロデューサーが作ったストーリーは見事で、自分のことを意識して美化すればその設定に乗ることはそんなに難しいことではないように思えた。想定されるユーザー層に対してとにかく都合よくデフォルメすれば、わたしの人生はざっくりこういう感じなのだと、捉えられなくもない絶妙なラインだ。もうひとつの世界線で、こんなふうに生きているわたしにそっくりな女の子がいたら、わたしはその子のことを愛せるだろうか。晴れた荒川沿いで、写真を撮られながら想像する。きっと無邪気で、自分以外のあらゆる人たちのことをまずははじめにいい人だという前提で眼差し、素直に笑ってみるだろう。新しい世界に胸を躍らせ、ささやかな失恋に痛む胸をこれから出会うさまざまな人たちとのやり取りでそっと溶かしていくだろうか。

 わたしは、かつて自分の中に住んでいて、そしてこの手で殺してしまった、あの女の子のことを思い出す。勇敢で、やさしくて、いつも斜め上から光を差してくれた女の子。わたしはわたしなんかじゃなくてあなたになりたかった。

 わたしの顔と身体と声と佇まいを持った19歳の女の子は、「戸田真琴」と名付けられた。プロデューサーとヘアメイクの人が寄り集まって、それぞれ案を出したとき、わたしは、”マリア”がいいと思った。マグダラのマリアは娼婦だったらしい。その説にわたしは不思議な共感を覚えていた。娼婦になることと、聖女になることは、ある視点から見るとまるで同じことのように思えたのだ。わたしは誰でもない不特定多数に処女を差し出すことによって、自分を聖なるなにかにしてしまおうと目論んでいた。

 マリアがいい、と言ったら、プロデューサーは大きな身体を揺らして笑った。「そんな派手な名前つくような顔じゃないよ、あんた」、それから、”そのへんにいそうな名前”というテーマでいくつか候補が出され、多数決によって「真琴」に決まった。

* * *

次回の更新は7月5日(水)17時です。お楽しみに!

この続きは、現在発売中の戸田真琴・著『そっちにいかないで』(太田出版・刊)でお読みいただけます。
Amazonでは、約56分にもわたる著者本人による本文朗読音声のダウンロードコード付Amazon限定版も発売中。YouTubeでは朗読音声冒頭を公開中です。

毒親との生活、AVデビューと引退…戸田真琴の私小説『そっちにいかないで』、本人による朗読音声を初公開

筆者について

とだ・まこと 文筆家・映画監督・元AV女優。2016年の活動開始から、本業と並行し文筆活動と映像制作を行う。監督作に映画『永遠が通り過ぎていく』、著書に『あなたの孤独は美しい』(竹書房)、『人を心から愛したことがないのだと気づいてしまっても』(角川書店)がある。2023年1月にAV女優業を引退。

  1. ゆうれいに恋
  2. セカンド19
  3. 君はすべてが正しい
  4. 「1965年 大学に入学した」社会人と大学生の両立、はじめてのデモ
『そっちにいかないで』試し読み記事
  1. ゆうれいに恋
  2. セカンド19
  3. 君はすべてが正しい
  4. 「1965年 大学に入学した」社会人と大学生の両立、はじめてのデモ
  5. 『そっちにいかないで』記事一覧
関連商品