セカイ(系)。「主人公の周囲の小さな問題と、〈世界の終わり〉のような大きな問題が短絡的に結びつけられる」作品に対して使われてきた言葉。そんなセカイ(系)の作品はかつて「中間にあるはずの〈社会〉が欠落している」と批判や揶揄の対象となっていました。しかし2020年代の今、スマートフォンゲームから音楽配信代行サービスにいたるまで、カタカナの「セカイ」という表記が再び存在感を増しています。
個人編集の「セカイ系」同人誌『ferne』が話題を呼んだ編集者・北出栞さんが、アニメや音楽、美術作品などに見られるイメージを横断しながら、「セカイ」という言葉に宿るリアリティの正体を探ります。
〈セカイ系〉と2000年代の情報テクノロジー
本連載も終盤に近づいてきた。これまではもっぱら〈セカイ系〉と呼ばれる作品がどのようなソフトウェアを用いて作られているのか、どのようなウェブサービスを通じて流通しているのかといった作品を取り巻く環境の話を主にしてきたのだが、最後に改めて作品に共通する内容(主題)に目を向けつつ、その内容自体がデジタル時代における「作品」の条件に通じているという話をしたい。
〈セカイ系〉とは2000年代初頭に生じた、詩的で断片的な語り口を特徴とする(主にアニメ・小説・漫画といったストーリーを伴うタイプのコンテンツの)ジャンルである。「〈二人きりの恋愛関係〉のような小さなトピックの帰結が、〈世界の終わり〉のような大きなトピックの行方に(地域共同体や組織などの描写を介さずに)直結しているように描かれる」ジャンルとしても説明されるその作品群においては、携帯電話(ガラケー)やインターネットなどのメディアを利用するシーンが描かれることもよくあり、ある意味で当時の情報通信テクノロジーのショーケースとなっている。
一方向的な情報の取得しかできない(Web1.0)、電話回線を使った接続には時間がかかる(ダイアルアップ接続)、一度に送れるデータ量が少ない(文字情報がメイン)、巨大なモニタと一対一で向き合う形での利用となる……といった当時のコンピュータ/インターネット利用の物理的条件は、偶然か必然か、〈セカイ系〉の形式と重なっているのだ(たとえば詩的で断片的な表現が多く見られるのは、当時の通信環境では文字情報しか送れなかったからといった具合である)。
〈セカイ系〉とはその内容(主題)において、テクノロジーへの関心と文学性が分かちがたく絡み合った作品群である。しかし「SF」というカテゴリーからは微妙に逸脱するものでもある。どんなにSF的な設定があったとしても、大半が「現代劇」の範疇に収まっているという特徴があるのだ。
SFと「デザイン・フィクション」
『ほしのこえ』には宇宙船もロボットも登場するし、広義にはSFに分類されるのだろうが、しかしとても奇妙なSFである。遠宇宙への航行が可能なテクノロジーがあり、テラフォーミングが現実的な政策として実行されつつあるにもかかわらず、登場人物がコミュニケーションに使うのはガラケー(の形をしたデバイス)なのである。
SF作家ブルース・スターリングがSF作品に登場するガジェットについて提唱した、「デザイン・フィクション」という概念がある。これは、フィクション世界にリアリティを与えるデジタル機器やそのインターフェースを、SF作家は現実のデザイナーのように、そこに住まうユーザーの生活の機微に想像をめぐらせながら設計するべきだと宣言したものである。
その初出である、2009年に書かれた“Design Fiction”という文章は、それまでのSFの中に表れてきた諸々のプロダクトが基本的に「がらくた」であったと断じる。
光線銃や宇宙船、アンドロイド、ロボット、タイムマシン、人工知能、ナノテク的なブラックボックスといった古典的なSFの意匠たち。これらは深いところで共通している――いずれもが架空のものであるという点で。架空の製品は決して消費者を傷つけず、またユーザから意見を受けることもなく、だから訴訟や規制委員会とも無縁だ。そういうわけで架空のデザインというのは途方もなく魅惑的で、したがって基本的にはがらくたなのだ(※1)。
スターリングは、インターネットやMMORPG(多人数参加型のマルチプレイヤー・オンラインゲーム)の登場によってそれまでのSF小説の読者層は「爆散した」と述べる。紙媒体で刊行されていたそれまでのSF小説は、結局のところ実現不可能な幻想を提供するファンタジーだったのであり、インタラクティブ性を持ったメディアの登場以降においては、作品を受容する環境(UX:ユーザーエクスペリエンス)と、作品世界における登場人物とメディアテクノロジーとのインタラクションとがパラレルになっていないと、(幻想という意味ですら)魅力を持ちえないと唱えたのだ。「初期のSF作家と編集者は、科学と技術にまつわる大衆小説を売り込むことを夢見てきた。しかし、だとすれば彼らは決定的に誤解していた――だってSFはユーザ・インタフェースの人工物なのだから」(※2)。要するに、SFというジャンルは、その作品を発表した時代において一般的に浸透したメディアテクノロジー体験――たとえば、今なら「iPadで電子書籍を読む」といった体験――と、作中人物によるメディアテクノロジー体験の描写とに連続性があるか否かが、読者の没入感の多寡と著しく連動性の高いジャンルだと指摘したのである。
これを受けて、『ほしのこえ』におけるガラケーとは一体何なのか、改めて考えてみる。「デザイン・フィクション」はおろか、スターリングが言うところの「魅惑的ながらくた」ですらない。ワープ航法や人型兵器が存在する『ほしのこえ』の舞台は2046年と設定されているのだが、登場人物のファッションも使われている通信機器も、見事に(2002年当時の)「今風」なのだ。
つまり、『ほしのこえ』という作品は、「まだ見ぬ未来」を夢見させて楽しませようという、古くからのSF作品が持つサービス精神を備えてはいない。しかしそこにある古めかしさは、ノスタルジーを喚起することを目的ともしていない。確かにガラケーは今見れば懐かしいものだが、その当時は確かに最新機器であり、そして生活の中に浸透した(あるいは、浸透しつつあった)道具だからだ。
〈セカイ系〉の特徴とされる「社会が描かれない」ということは、こうした「作中の技術水準と噛み合わないオブジェクト」の出現する場面にこそ表れると言ってよい。「恋人にメッセージが届かないことの切なさ」という、極めて個人的な主題を表現するための作品だったからこそ、SF作品としては――スターリングが批判する旧時代のという意味でも、あるいは「デザイン・フィクション」的な意味でも――奇妙なねじれが温存されているのだ。思えば、『エヴァ』で碇シンジが外界からの刺激をシャットダウンする際に愛用していたアイテムも、(作中年代である)2015年に愛用しているには不自然なカセットテーププレイヤー「S-DAT」だった。
※1 ブルース・スターリング「フィクションをデザインすること、あるいはデザイン・フィクション」(太田知也訳、原文:Bruce Sterling, “Design Fiction”, INTERACTIONS, VOLUME XVI.3, ACM(Association for Computing Machinery), 2009, pp.21-24) http://rhetorica.jp/design_fiction(最終閲覧:2023年10月2日)
※2 同上
デジタル時代における「作品」の困難
現在、(アニメや音楽など、特にデジタル的に複製しやすいタイプの)コンテンツを受け取る回路は、インターネット(ストリーミングサービス)に大きく依存するようになっている。また、作品の「作り手」と「受け手」の関係も、インターネット(SNS)を介して直接的につながれるものになっている。
現代は作家のSNS投稿ひとつで作品の見方が簡単に変わってしまう時代だし、ストリーミングサービスに搭載されたアルゴリズムは視聴履歴を元に無限にレコメンドを行ってくる。「作品世界」にダイブすることが、「現実世界」から切り離された経験として、かつてのようには機能しにくい。
アニメでも漫画でも小説でも、作品というのは本来的に、ある特定の時間と空間を切り取ってパッケージングしたものだ。よりシンプルに言えば、必ず始まりと終わりがある。しかし現在の(デジタル化可能な)作品は、サブスクリプション制という形で「終わらない」ことが基本路線である。コンテンツ供給量の飽和した状況では少額の定額課金でロングテールを稼ぎつつ、漸次的な供給を行う形式がメインのビジネスモデルとなる。いかにファンを囲い込むか、「サービス」を途絶えさせないかということが重要となり、いわゆるコンテンツビジネスの基本単位は「作品」から「IP(知的財産)」へと移行していく。
このような時代において、ある作品との別れは「飽きた」とか「卒業」とかいった受け手視点のネガティブな表現で語られるようになり、作品の側からある種一方的に拒絶されるような経験を得ることは難しい。現代において突然の作品との別れといえばスマートフォンゲームの「サ終(サービス終了)」だろうが、まさに運営のための資金が尽きたという、極めて即物的で資本主義的な事情が「終わり」の合図なのである。ストーリー的にも意味のある「終わり」ではなく、その外部にある経済的な事情だけが作品を「終わらせる」――逆に言えば、「課金」することでその作品を「延命」させられるかもしれないという想像に導く――のだ。
〈セカイ系〉は、作中でもインターネットが描かれ、その名称自体が広まるのにもインターネットが大きな役割を果たしたにもかかわらず、作品内部で主題が完結することを大きな価値としていた、最初で最後の作品群である。さらに、ガラケーやカセットテーププレイヤーといった「消えた」ガジェットに託されていたから目くらましとなっているだけで、『エヴァ』や『ほしのこえ』に描かれていた「個と世界、あるいは個と個とのコミュニケーション不全」という主題自体は、きわめて普遍的なものである。「つながりすぎる」ことで孤独をかえって感じやすくなっている、というよくある話が示しているように、テクノロジーがこの問題を完全に解消することはないのだ。
以上を整理すると、〈セカイ系〉は、①「作り手が作品を届ける/受け手が作品を楽しむ」という作品それ自体の流通経路と、②作品の中で描かれるデジタルコミュニケーションが「インターネット」という共通の基盤に拠っていることに加え、③主題面において現在の「終わらない」デジタルコミュニケーション(「作品」の発表・流通も含む)に対する批評性を備えている。〈二人きりの恋愛関係〉はデジタルコミュニケーションの最もプリミティブな形(二点間の排他的な遠隔通信)に、唐突に訪れる〈世界の終わり〉はデジタルコミュニケーションの根本的な脆弱さ(SNSが運営元の意向で突然に仕様変更することがあるなど)に、それぞれ対応しているというわけだ。
ウェブ上に現れた「拒絶」の空間・布施琳太郎《隔離式濃厚接触室》
現代のインターネット空間においてスタンドアローンに「作品」が成立することの困難に対する批評性を〈セカイ系〉が持っていることを見たわけだが、その批評性をコロナ禍におけるリアルな空間での「作品」展示の困難という事象に適用したかのように思えるプロジェクトがある。
2020年にアーティストの布施琳太郎によって企画されたオンライン展示《隔離式濃厚接触室》がそれだ。これは作家自身がプログラミングを行った「ひとりずつしかアクセスできないウェブページ」の中に、作家による映像作品――アクセス者の位置情報を取得して表示されたGoogleストリートビューの画像に、自動的に加工が施されたものが表示される――と詩人・水沢なおの詩作品がともに表示されるというものである。
作家曰く、「ひとりずつしかアクセスできないウェブページ」というアイデア自体はコロナ禍とは関係なく、「「あいちトリエンナーレ2019」に対する文化庁の補助金不交付発表に対してアーティストとして行うべきことを考える」中で、「アーティストが資本主義のなかで日銭を稼ぐことが避けられないのだとしても、資本主義のサイクルから甚大な影響を受けずに作品を発表し、体験させていくための形式をそれぞれが所有する必要を強く感じた」ために考えられたものだったという(※3)。その問題意識がコロナ禍においてより緊急性を要するものとして捉え直された結果、このタイミングでの公開に至ったのだと。以下、同展示に付されたテキストを引用する。
展覧会とは体験(experience)である。それは集団化した労働に基礎付けられた都市と、対立する孤独の時間だ。展覧会とは日常から隔てられた場であり、そこでは身体の個別性が露出する。社会的な人間は、展覧会における体験によって、身体の個別性を晒け出して一時的に孤独になり、だがそのあとで再び社会に還っていくのだ。都市のなかにありながら都市の余白として、ある緊張を把持し続ける時間こそが、展覧会なのだと僕は考えている。であるならばギャラリーや美術館、あるいはオルタナティヴスペースといった物理空間を利用せずとも、都市のなかに孤独を埋め込むことができるかもしれない――つまりはウェブサイトを用いた展覧会だ(※4)。
ここで言われているのは、芸術の価値や意義ということを考えたとき、資本主義や感染症対策といった問題から完全に切り離されたものとしてでなく、そのただ中で「芸術は芸術だ」と「あえて」言い切ることができるような形を作ること自体がまずは重要なのだ、ということだ。展覧会とはそのような「構え」なのだと。チケットを買って入場して、ここから先は「芸術」の領域ですよ、というある種の「儀式」を経ることが、一見ばかばかしいように見えて重要なのだと。それを「ひとりずつしかアクセスできないウェブページ」で擬似的に実現したというわけだ。
この試みが〈セカイ系〉の持つ批評性とどのような関係を持つのか。筆者は本人にインタビューを試みたことがあるのだが、1994年生まれの布施にとって、「この作品を忘れたくない、ずっと憶えていたいという気持ちに初めて自発的に思えた」作品が新海誠の『雲のむこう、約束の場所』(2004)だったのだという。そんな布施にとって、〈セカイ系〉とは自らの活動の出発点でもある「絵画を描く」という行為にも関係する、「距離」の問題として捉えられるのだという。
絵画の画面というものは近くにあるものと遠くにあるものの距離を比較する形で構成される。だからこそ、近くにあるということと遠くにあるということの距離が何らかの仕方で壊れてしまっているような状況が表れている想像力……セカイ系に特別なものを感じるんです。
そして、僕が批評に初めて触れたときの経験も、ある意味セカイ系だったんだろうなと思います。いわゆるポストモダン以降の人間と言っていいのかもしれないですけど、目の前にある作品と、すごく遠くにある概念や歴史といったものを紐づけることができてしまう……セカイ系をはじめとした想像力を担保するものとして、今生きている僕たちはそういう能力を持っているように思っていて。目の前にあるものと遠くにあるものをパラフレーズしたり、距離やスケールを様々に入れ替えてしまうということ自体を象徴するのが、セカイ系という概念が潜在的に持っている力なのかなと。(後略)
まとめると、距離を破綻させて、本来隣り合うはずのない様々なフレーズやスケールをつなげてしまう想像力としてセカイ系というものを自分は受け止めています(※5)。
これを踏まえると展覧会というのも、「本来隣り合うはずのない」さまざまな時代の芸術家の作品がひとつの場に組織(キュレーション)されているという意味で、〈セカイ系〉的なものだと言える。問題は、そうして実行された展覧会と、そこを訪れた鑑賞者との間の関係が社会に開かれているか、ということだ。
布施は先ほど引いた《隔離式濃厚接触室》付属のテキストでこう述べていた。「社会的な人間は、展覧会における体験によって、身体の個別性を晒け出して一時的に孤独になり、だがそのあとで再び社会に還っていく」。ここには「社会が抜け落ちている」という、〈セカイ系〉に対してよく言われるネガティブな特徴が認められる。しかし重要なのは、それがあくまで「一時的」なものだということだ。そこで生じる心の動きが、展覧会と鑑賞者との間に閉じたものでしかないのだとしたら、最も通俗的に使われる「悪い意味でのセカイ系」――閉鎖的で、「社会が抜け落ちている、だからよくない」と批判される――的な経験となってしまうだろう。
このことは一方で、「一時的」には展覧会と鑑賞者との間で、〈セカイ系〉的な関係が築かれることが必要なことを意味する。もちろん、ここで言う「展覧会」には、布施が語る「絵画」と同じ意味での〈セカイ系〉――「近くにあるということと遠くにあるということの距離が何らかの仕方で壊れてしまっているような状況が表れている想像力」――を代入しても良い。
《隔離式濃厚接触室》がもし「ひとりずつしかアクセスできない」プログラムの存在しない単なるウェブ上の展示であったなら、表示された映像やテキストはすぐにスクリーンショットされ、SNSに溶け出してしまっていただろう。入室に対して制限がかかるからこそ、スクリーンショットを撮って流したところで、その「拒絶される」経験の質自体はシェアできない(から、SNSに投稿しても意味はない)という逆向きのインセンティブが働く。そもそも、URLを貼って宣伝したところで、拡散されればされるほどアクセスしにくくなるのである。自分のシェアが誰かの経験を損ねるかもしれないという自発的な配慮が、シェアする指の動きを鈍らせる(これは映画の配給元が「ネタバレ禁止」のお触れを出すようなやり方とはまったく異なるものだ)。
オンライン上にありながら、当の展覧会(鑑賞対象)と鑑賞者との間に「拒絶される」感覚を作り出せていたからこそ、《隔離式濃厚接触室》は〈セカイ系〉的だと言えるのだ。
※3 布施琳太郎が問うコロナ禍と「つながり」。あなたがあなたと出会うために――不安の抗体としての、秘密の共有(美術手帖)https://bijutsutecho.com/magazine/series/s25/21901(最終閲覧:2023年10月2日)
※4 布施琳太郎「感染隔離の時代の芸術のためのノート(2020年4月7日)」 https://rintarofuse.com/covid19.html(最終閲覧:2023年10月2日)
※5 インターネット・空気・コミュニケーション――ネット世代の表現者が見つめる〈セカイ系〉のポテンシャル(ferne web)https://ferne.hatenablog.com/entry/rintarofuse-riyuuuyu(最終閲覧:2023年10月2日)
エリー・デューリングの「プロトタイプ」論と「切断」の思考
2023年夏に六本木のギャラリー・SNOW contemporaryで開催された布施の個展《絶縁のステートメント》は、上述の試みとも連続性がありつつ、新たな展開を感じさせるものだった。きわめてSF的な設定をベースに紙・映像・文字といったさまざまなマテリアルからなるオブジェクトが陳列されていて、実空間を活用したハイアートの展示でありながら、さながら一篇のSF小説を読み終えたような感触を覚える展示だったのだ。
本展はひとつの思考実験である。「人と人がコミュニケーションをした場合、その二人は絶縁しなければならない未来」。人々が出会うことなくすれ違い、しかし生き続けていく。そんな社会を想定して、そうした時代に人類が制作したいくつかの架空のアーティファクト(人工遺物)で『絶縁のステートメント』は構成される。
《絶縁のステートメント》アーティスト・ステートメントより(※6)
「絶縁」というテーマ設定自体が布施の〈セカイ系〉的な関心――社会からの一時的な切断を助けるものとしての作品や展覧会の機能の追求――から来ていることは明らかだ。その上で展覧会というものが持つ「本来隣り合うはずのない」さまざまなアーティファクトをひとつの場に陳列するという、もうひとつの意味での〈セカイ系〉的追求も見られる。
《隔離式濃厚接触室》にもすでに見られたように、布施には「展覧会」という形式自体を再発明したいという一貫した意志がある。先に引いたステートメントの中でも、「(筆者註:展覧会には)すべてが現在のなかで操作可能な変数になってしまった時代において、異なる時間感覚を再起動する装置であってほしい」と、その率直な思いが綴られている。
「すべてが現在のなかで操作可能な変数になってしまった」というフレーズには、SNSの「タイムライン」が暗に想定されていると言えよう。布施の近年の活動の主軸となっている評論「新しい孤独」にて、以下のように述べられているからだ。
今日の大衆はミュージアムにおいて芸術作品から距離を取らない。人々は「iPhone」を握りしめてミュージアムに入る。つまりまず「iPhone」の高画質なカメラを構えて、目の前の芸術作品を画面上に表示する。そして二本の指でピンチイン/アウトした上で構図を決めて撮影し、様々なアプリケーションによって加工し、スワイプによってカメラロール(クローズドな自分用写真コレクション)を巡回し、最終的には自身のアイデンティティのためのミュージアムであるところのタイムライン(SNSにおけるパーソナルスペース)に共有=再展示するのだ(※7)。
「紙」や「デジタルディスプレイ」、「音」や「文字」といったメディウム/マテリアルには、「アカウント」に紐づけられた「タイムライン」には載せることのできない、固有の「孤独な」時間感覚が備わっている。そうした異なる「孤独な」時間感覚を宿したアーティファクトを、ひとつの空間に包含できるからこそ「展覧会」という形式は面白いのだというプレゼンテーションを行っていたのが本展、《絶縁のステートメント》だったと言える。
さて、そんな本展において筆者が特に興味深く思ったのは、そこにある多種多様なアーティファクトが一体どのように生み出されたのか、というプロセスについてである。会場では布施自身による「「あとがき」としての作品解説」というテキストを読むことができたのだが、それによれば会場の中央に配置された紙でできた立体物の制作プロセスを、別の形式において展開したらどうなるか? という思考過程を経て、映像作品や、詩と生成AIによるコンピュータグラフィックスを組み合わせた作品といった作品群が生み出されたというのである。
芸術論にも積極的に取り組む現代フランスの哲学者、エリー・デューリングが提唱する「プロトタイプ」論というものがある。これは美術作品を評価する際に、神や自然といった「崇高なもの」への挑戦を見る(ロマン主義)のでも、社会参加型の「プロジェクト」としての成否を見る(関係性の美学)のでもなく、抽象的な問題設定に対して様々なメディウム/マテリアルを駆使しながら思考する不断のプロセス、つまり「制作」という行為の切断面として表れる、「オブジェクト(モノ)」としての価値を評価するという態度のことだ(※8)。
デューリングはパナマレンコというベルギーの美術家が制作した、「飛べない飛行機」のような奇妙なオブジェを「プロトタイプ」の好例として挙げる。現実の物理法則に照らすと明らかに破綻した設計なのだが、独自の機構を備えており、この世界とは異なる物理法則を持った世界でなら飛ぶかもしれない、と思わせるような形をしている。「あり得る世界」への想像力を喚起するオブジェクトという意味で、フィクション世界の中で説得力をもって機能するオブジェクトを考える「デザイン・フィクション」とは、裏表の関係にあると言えるだろう。
《絶縁のステートメント》においては、最初に作られたという紙の立体物が、「人と人がコミュニケーションをした場合、その二人は絶縁しなければならない未来」という「あり得る世界」に対応する「プロトタイプ」なのだと言える。そしてひとたびオブジェクトとして姿を現した「プロトタイプ」は、また別の新しいオブジェクトが創造されるための道を開くのである。「プロトタイプ」と「デザイン・フィクション」との違いは、前者がまさに自立した「アート」作品であることによる。あくまで現実の中を生きる作品の受け手に対してフレンドリーである=社会の役に立つことを志向する「デザイン・フィクション」に対して、「プロトタイプ」は社会から切り離された、無用のがらくたとしてそこに存在している(できている)ということが重要なのである。
2022年に急逝した建築家で、生前デューリング本人と交流もあった柄沢祐輔は、「プロトタイプ」論の今日的な意義について以下のように整理している。
あらゆる表現がコンピューターを介して制作される情報の時代においては、制作とは、そして創造とは、旧来の意味での制作や創造とは異なり、無数のバリエーションの中からとりもなおさずひとつのバリエーションの選択を意味することになる〔…〕このバリエーションの選択という作業が、エリー・デューリングの「プロトタイプ論」における「切断」の概念の内実となる。コンピューター上での表現は、変数を無数に入力することによってほぼ無限ともいえる表現のバリエーションを即座に生成することが可能となる。そのために、制作とは、創造とは、この無限のバリエーションの中から、ひとつの変数を選択するという行為、いわば流動しかつ無限の変動の可能性を示唆するコンピューター・アルゴリズムの織りなす関数のネットワークの中にひとつのパラメーター(=変数)を投じてそのネットワークを「切断」するという行為に、その重要な力点が移行することになるのである。ここで「切断」された変数が、すなわち実際の作品として、オブジェクトとして立ち上がることになるのだ(※9)。
1976年生まれの柄沢は、建築における「アルゴリズミック・デザイン」を提唱していた。単なる「図面を簡単に引くことのできる道具」としてコンピュータを見なすのではなく、コンピュータが持つ独自の思考原理=アルゴリズムを空間の設計それ自体に反映させることを追求していたのだ。
〈セカイ系〉作品は作中世界の設定と登場人物が使うコミュニケーションデバイスの設定がちくはぐである……すなわち社会性を欠いているがゆえに、「デザイン・フィクション」の要件を満たしていないのだと先に述べた。しかしその作劇や演出に込められた「切断」の思想は、生成AIの出現によってますます連続性・無限性の度合いを高める現代のデジタル環境において、新たなフィクション=作品をもたらす規定条件になりつつある。コンピュータと協働しながら、無限の演算プロセスに「切断」の契機をもたらす人間。「作品」がデジタル時代の創造環境における切断面=プロトタイプとして再定義されるのであれば、その担い手たる人間――「芸術家」でも「作家」でも「クリエイター」でも、その言い方は何でもいい――とは、すべからく〈セカイ系〉的な者である、というのは言いすぎだろうか?
※6 ギャラリーの公式サイトで全文が閲覧できる。http://snowcontemporary.com/exhibition/202306.html(最終閲覧:2023年10月2日)
※7 第16回芸術評論募集 【佳作】布施琳太郎「新しい孤独」(美術手帖)https://bijutsutecho.com/magazine/insight/19775(最終閲覧:2023年10月2日)
※8 プロトタイプ論について詳しく知りたい方は、『Jodo Journal 3 [2022 SPRING]』(浄土複合、2022)の小特集、「プロトタイプとは何か?」を参考のこと。デューリングの論文「プロジェクトからプロトタイプへ(あるいは、いかに作品にせずにすますか)」の翻訳、デューリングへのインタビューの翻訳などが収録されている。
※9 柄沢祐輔「『空間へ』再読」(ÉKRITS)https://ekrits.jp/2019/06/3068/(最終閲覧:2023年10月2日)
第11回へつづく
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