「あの服も、この服も納得がいかない……私がほんとうに着たい服ってなに?」
世間は色々な問題を投げかけてくるけど、どれもこれも肝心なこと、漠然とした問いかけの先にある根本的な問題には触れていないような気もする。今のファッションが退屈でしっくりこない、悩めるすべてのみなさまへ。
こちらは、まだ誰も言葉にしていない違和感を親切に言語化する“ポップ思想家”の水野しずさんによる、トレンドを追うよりも、納得のいくスタイルを発見していくためのファッション論考の連載です。「着るという行為」について、一緒に考えていきましょう。
落ちること=飛ぶこと=鳥を目指すこと=(人をやること{鳥をやること})
ちゃんと飛べる鳥人間なんておかしい
「最近の鳥人間はけっこう飛ぶ」
と聞いて思わずガッカリしてしまった。なんだろう。残念というか。近年では400メートル越えが当たり前になっているそうだ。それは、「鳥人間」と名状された、「見た感じほとんどグライダーっぽい機械を操縦する人」なのではないだろうか。そんなことを思ってしまった。
これを聞いてガッカリしてしまうのは、よくない。形はどうあれ、営みが持続し、そこに情熱をかけている人が存在すること自体を祝福できない精神性は根底から間違っている。そうです。私は間違っている。間違っているんです。
はい、もうここで自分が根本的に間違っていることは認めたから、あとは好き放題間違った意見を全面的に供述させてもらうよ!
まず第一に、ちゃんと飛べる鳥人間なんておかしい。果たしてそれを鳥人間として扱ってもいいのかな、と私は思う。鳥人間コンテストの場合、「飛んだ」という結果はあくまで副次的な作用でしかなくて、鳥人間が鳥人間たりえる所以は「飛ぼうとした」点にあるんじゃないのかな。飛ぼうとするから墜落をする。飛ぼうとしていないから、飛べるは飛べる。どっちがより一層のマジなんですか、っていう話。
ちゃんと飛べる、つまり、事前に計算した航空力学的な設計に従って設計通りに揚力を得て滑空するだけのグライダーは、それはそれで立派なことであるけど鳥人間とは全く別のものではないのかと思う。なぜならば、鳥人間にとって最も重要で肝心なものがまるごと欠落してしまっているから。肝心なものとは、なんなのか。それは、
「飛べる!(お、落ちる!)」
という個人の真実なのかで燃え盛る確信である。それは決定的な恐怖を宿してもいる。恐怖とは。「燃え立つ信念」、「それを見つめる私」、「外側にある世間」、全ての地平に通底し、冷気を放つクレバスのようなもの。途方もないデタラメによって、氷河に不条理な音の亀裂が走る。その響き、大気をざわつかせる緊張を拍子木にいよいよ盛り上がってしまう「飛べてしまう」という震え立つ信念。おそらく、風呂上がりなんかのタイミングで思いついてしまう人が多いんじゃないだろうか。湯上がりは血行が良くなってポカポカするせいでつい油断をしてしまうから、オリジナルの飛びの世界に没入してしまってもおかしくないよ。な、なんだか飛べそうに思えるから思いついたままとにかくやってみたい、理屈じゃあないんだよ。私は鳥になるという気持ち。手伝ってくれる優しいお友達も、個人の見解を控えずにはいられなくなってしまうほどの切実な、耐えられない真実。何も聞こえなくなるほど鳴り響くツケ打ちの轟音。
それは真実であると同時に虚妄であるから、跳躍の瞬間に失墜し、墜落する将来を含んでいる。含んでなお、燃え盛る。そういうファイアーがないと鳥人間とは言えないんじゃないだろうか。そう思う。思うというか、信じている。いやがおうにも信じてしまい、そうあらずには生きていられない。
虚妄の最先端で飛ぼうとするもの
このようにして、ある鳥人間の定義の中に燃え盛る真実を見ている私もまた失墜する虚妄の中に生きている。だからある瞬間には失墜をするのかもしれない。虚妄が公共の現実認識に照らし出されたときに、存在を許されるだけの地平を確保しておくための正当性をどのような語り口によっても立証はできそうにない。だとしても飛ぶ。むしろ墜落の瞬間に「飛び」の達成を同時に見る。墜落しながらの飛翔を断崖絶壁に見る。飛んでいるだけのやつに飛ぼうとしたやつの墜落を語ることはできないんじゃあないですか。どうしてそれが、飛翔を試みた瞬間、落下しそうな鳥人間であればあるほど、こちらはハラハラしてしまうのだろう。結果は明らかだから、気を揉んでも意味がないのに。
いや、あるんだよそれが。なぜなら物理的には落下をしてもそこにある意思の飛翔は克明に、見るものの、「それ」を見ようとしたものの世界を鮮烈に更新するのだから。
鳥人間の価値は、飛べはしないかもしれないが、人間という存在の中に、鳥として生きる真実を嘘偽りなく内包させてしまう想像力のマジにある。そこに現れる〈本気〉のshowをやっている現場だったそれは、内包するものの価値がわからない人々の実利的な目線によって、メカニックオリンピック的なる色彩の競技、ただのスポーツ、産業性に回収された想像力の残骸へと変貌を遂げてしまった。
このように、内包しているものの、それ自体にしか含み用がない未知の信念へと翼を広げるバイブスを理解できない人間が次のようなことを言うんじゃないか。
「出尽くした」
ファッションは出尽くした、と言っている人をたまに見るけど、なにを言っているんだと思う。毎回思う。どこからなにを見ているんだと思う。そういうことを言う人はあくまで産業、商業としての生産、消費活動にしか目を向けていないから人間というものの存在自体が、いかに不可解で掴みきれず、想像力のありようによっていかようにも変貌するすさまじくそらおそろしく、おもしろくヤバくいたたまれないものであり、またそうであり続け、あなたもまさにその渦中で信じられない狂気の沙汰の残骸に取り囲まれてバカがまるごと屏風から飛び出したようなREALの渦中に生きているっていうことを全く気にかけたことがないんだろうし、人間は、ある信念によって鳥人間を内包しうるということもぜんぜんわかんないんだと思う。
それはまあわかんない人も大切だから、というか、文明の発展のためにはそういった部分がわかんない人の方が役に立つし、だからこそ自信満々に「尽くし」を謳えるんだなあと思うが、出尽くさないよ。なんだって。人間が作るものだから。人間は人間を突き破って常に更新するから。わからないから。わかりきらないから。
出尽くし系発言のマックスで、私はこう言っている人を見たことがある。
「寿司は出尽くした」
出尽くさない! あなたが食べている寿司も、かつては寿司とは言えないものだったのだ。昔の寿司は「なれずし」と言って、塩漬けした魚と米を漬け込んで乳酸発酵させたものだと聞いたことがある(from『美味しんぼ』を読んで得た知識)。それを、寿司と思い込み虚妄の中で握った狂人がいたから握りの寿司があるんだろうが。女性がパンツルックで出歩くことも、黒が定番カラーになることも、かつては、ありえない空想だった。洞窟の壁画の向こうにうねり狂っている混沌だった。全部、全部、全部そう。社会的にある特定のジャンルとして定められ、正式に獲得された領土はある瞬間にまた決壊をする。正当な領土の範疇に収まりきらなかった必然的な態度が、反目する瞬間に、我々は臨場感をもって顕在化する正しさに言葉を超えて承伏されてしまうという事態が勃発する。いかに人間のパーツの形状が有限であるとしても決して「出尽くす」ということはあり得ないファッションのダイナミックなきらめきと底力がこれだ。映画監督のゴダールという人は「映画の半分は暗闇を見ている」と言った。それは暗闇の中に我々が見出してしまう飛躍と超現実的解釈からもたらされる、生身の現実よりそれらしい現実味であり、ヴァーチャルにしか照らし出せない我々の生命のある側面の真実のことだ。
ファッションはこのような暗闇の、虚妄の最先端にあり、「飛ぼうとする」ものだけが実現する。それは、「飛べるもの」「飛距離を稼げるもの」では決してないと思う。
次回は、1月23日(火)17時更新予定。
筆者について
みずの・しず バイキングでなにも食べなかったことがある。著書『親切人間論』他