橋本倫史『観光地ぶらり』(太田出版)の刊行記念として、2024年5月24日、神戸・西灘文化会館でトークイベントが行われました。『観光地ぶらり』にも描かれた神戸・灘。本書にも登場する地域に関するあらゆる企画やイベントを手がける慈憲一さん、『ごろごろ、神戸。』の著書を持つ平民金子さんと、著者の橋本倫史さんの三人による鼎談の記録をお送りします。旅とは、観光とは何か。旅の移り変わり、観光地で生活すること、街で生きること。
名古屋に着いてからよりも新幹線の中のほうが記憶に残ってる
橋本倫史(以下、橋本) 今日はお集まりいただいて、ありがとうございます。『観光地ぶらり』という本を書いた橋本と申します。そして、僕から紹介するまでもないような気もするんですけど、慈憲一さんです。
橋本倫史(はしもと・ともふみ)1982年東広島市生まれ。物書き。1982年広島県東広島市生まれ。物書き。1982年東広島市生まれ。物書き。著書に『ドライブイン探訪』(ちくま文庫)、『市場界隈 那覇市第一牧志公設市場の人々』、『東京の古本屋』、『そして市場はつづく』(以上、本の雑誌)、『水納島再訪』(講談社)、『観光地ぶらり』(太田出版)がある。
慈憲一(以下、慈) どうも、慈です。でも、今日のお客さんは、僕が知らない人も多いですよ。半分ぐらいは橋本さんのファンだと思います。僕はもう、灘区から出ない人間なので。
慈憲一(うつみ・けんいち)1966年神戸市灘区生まれ。大学入学を機に神戸を離れ東京で工業デザインの仕事をしていたが、阪神・淡路大震災で実家が被災したことを機にUターン。デザインの仕事をしながら神戸市の「まちづくり協議会」に参加し、住民と行政の橋渡し役として復興に携わった。灘区(以下「灘」)を紹介するフリーペーパー『naddism(ナディズム)』やメールマガジン『naddist(ナディスト)』が人気を博したことが、「まち遊び」活動の原点に。その後、灘の情報を集めたポータルサイト『ナダタマ』を運営。灘に関するあらゆる企画やイベントを手がける「まち遊び仕掛け人」。JR灘駅と摩耶ケーブルを結ぶ「坂バス」発起人の一人、摩耶山再生の会事務局長、灘百選の会事務局長。
橋本 事前の告知では、ゲストとして出演いただく方として、慈さんの名前しか出していなかったんですけど、今日の朝になって——。
慈 朝の6時半にね。
橋本 「AM6時半時点で機嫌が良いので今日はこちらのイベントに参戦します」とツイートしてくださって、急遽登壇してもらえることになった、平民金子さんです。
平民金子(以下、平民) よろしくお願いします。普段は兵庫区から出ないんですけど——兵庫区も東出町と西出町にしかいないんですけど——久しぶりに兵庫区の外に出ました。
平民金子(へいみん・かねこ)1975年大阪府生まれ。写真家・文筆家。中国、メキシコ、北海道、沖縄、東京などを転々としたのちしばらく東京で暮らし、2015年より神戸在住。平民金子の筆名で2003年よりインターネット上に日記を書く。2017年より神戸市広報課ホームページにて『ごろごろ、神戸2』『ごろごろ、神戸3』を連載。朝日新聞で『神戸の、その向こう』、文學界で『めしとまち』、くらそび(フェリシモ発行会員誌)で『ほんま知らんがな』を連載。台所とトイレを誰よりも綺麗に使います。ラジオ体操アマチュア指導員。
橋本 『観光地ぶらり』は、ウェブの連載を書籍化したものなんですけど、「観光とはなんだろう?」と考えているうちに、自分自身の旅の記憶を探っていく連載にもなったんですね。だからカバーを外したところには、小さい頃に家族で旅行に出かけたときの写真だとか、母親がまだ幼かった頃の家族旅行の写真を配置することにして。僕は昭和57年生まれで、母親は昭和26年生まれなんですけど、親と自分の時代を比べても、観光のありかたってかなり変わったんだろうなと思うんです。おふたりは僕より少し年上ですけど、観光っていうものに対してどんな記憶がありますか?
平民 僕はもう、この8年、9年ぐらいは、地元の200メートルぐらいの範囲でしか動いてないんで、観光って言葉がものすごく遠くなりましたね。
慈 僕も灘区から出ないんですけど、今、観光に関わってるんですよ。この『観光地ぶらり』にも書かれてますけど、旧摩耶観光ホテルの見学ツアーをやったらどうですかって言うたら、それが当たっちゃって、やめられなくなって。
平民 でも、沖縄はめっちゃ行ってますよね?
慈 沖縄は行ってるけど、観光って感じはないんです。おんなしとこしか行ってないから。
平民 わりと規則正しく行ってますよね?
慈 あの、潮の満ち引きで行くんですよ。「大潮のときじゃないと、モズクが採れない」とかね。あとはお祭り。だから、観光っていうより、このタイミングで行かないといけないっていうのが、年に3、4回ぐらいあるんです。それはもう、僕らが日程を決めれないんですよ。この前行ったのは、モズクの収穫。大潮の日に行かなあかんから、1年前から予定を空けとかないといけないんですよ。これ、観光じゃないですよね。収穫?
橋本 もう、作業ですね。今はおふたりとも、観光でどこかに出かけることって少ないとは思うんですけど、僕自身も、こんな本を書いておきながら、どこかに観光に出かけることって少ないんですね。観光っていうと、むしろ小さい頃の記憶が思い出されるところがあって。おふたりは、小さい頃の観光の記憶ってなると、どんなことが浮かんできますか?
平民 橋本さん、なんか、めっちゃしゃべるようになりましたよね。最近、ひとりでトークイベントやってはるじゃないですか。やっぱり、場が人を育てるんですかね。ものすごい安定感がありますよね。
橋本 いやいや、ふたりをゲストに招いておいて、不安定な感じでしゃべるわけにもいかないですよ。
平民 前に10時間やったときのトラウマが——。
慈 実はね、2年くらい前に、ここで平民金子さんと橋本さんが10時間しゃべるってトークイベントをやったんですよ。来た人、います?(数名挙手)うわ、しんどかったでしょう(笑)。いや、面白いよ? 僕からしたらめっちゃ面白かったけど、結構耐久な感じがありましたよね。
平民 あのことを思い出すと、今でも汗が出てくる。でも、今日は橋本さんのモードが全然違うから。
橋本 いや、このトーンで10時間しゃべるのは無理ですけど、90分ならどうにか。あと、あのときは「橋本倫史と平民金子がぽつぽつ語る会」というタイトルをつけたこともあって、ぺらぺらしゃべるのも違うんじゃないかと思ったんです。
平民 それで——なんの話でしたっけ?
橋本 観光っていうと、どんな記憶があります?
慈 僕ね、家族旅行ってしたことないんですよ。初めて行ったのが、昭和47年。あのとき、「ひかりは西へ」って、岡山まで新幹線が通ったんですよ。その年に名古屋まで新幹線で出かけたのが、旅行の最初。全部おぼえてますわ。昔、新幹線にビュッフェってあったでしょう。カウンターだけあって、「今何キロです」みたいに、新幹線のスピードが表示されてるんですよ。そこで隣に座ったおっちゃんが、ポテトチップスおごってくれてん。「ボン、どこからきたんや」「神戸です」「そうか、おっちゃんは東京や。どこまで行くんや」「名古屋です」——全部おぼえてる。名古屋に着いてからよりも、新幹線の中のほうが記憶に残ってるんですよ。あとは、きしめんが美味しくなかった(笑)。それが観光初体験ですね。
平民 僕はね、親には申し訳ないんですけど、あんまりおぼえてないんですよ。記憶がないってことは、行ってないんちゃうかなと思うんですけど。父親が九州の人間なんで、盆とかそういうときに「さんふらわあ」で九州に行った記憶はあるけど、それはまあ、観光じゃないですよね。任天堂のゲームウォッチ、あれでタコの足がひょこひょこ動くゲーム——あれをずっとやってた記憶はあるんです。でも、それもゲームの記憶なんでね。大人になってからは、ひとりでぶらぶらしてるんやけど。
暇さえあればって暇しかなかったんでずっと電車に乗ってました
橋本 おふたりに共通するところとしては、今はあんまり住んでいる土地を離れることがないとしても、若い頃にあちこち旅をした時期があるってところがあると思うんです。
平民 僕は大学に行ってないんで、高校を出たあととにかく時間があったから、電車に乗りまくったんですよ。18歳のときに青春18きっぷを教えてもらって——今は5枚綴りになってますけど、当時は1枚1枚バラで売ってたんです。それで、10時間かけたら東京に着くでしょ。ひたすら電車に乗ってると遠くに行けるっていう、ものすごく漠然とした移動手段を知りまして。そっから何年そういう生活をしてたのかはわからないですけど、暇さえあれば——暇さえあればって、暇しかなかったんで、ずっと電車に乗ってましたね。観光しにいくって感じでもなくて、ずっと電車に乗ってたんです。電車に乗ってる記憶はあるけど、何かを見たとか、そういうのはないですね。
橋本 電車で移動して、たどり着いたところにしばらく滞在してたんですか? それとも、転々としてる感じだったんですか?
平民 転々としてる感じですね。寝るのは電車の中で寝るんで、夜はもう、悶々とそのへんにいる感じでね。何を目的としてたのか、自分でもわからないぐらい、時間を持て余してたっていう感じですね。
橋本 それは、電車に乗っているときに、いろんな土地の風景が流れていくのが楽しかったんですか。それとも、到着した先で、観光めいたことはしないにしても、「ああ、ここはこんな感じの街なんだな」ってことを眺めるのが楽しかったんですか。
平民 10代の終わりとか20代の初め頃って、放浪生活へのあこがれがありましてね。ジャック・ケルアックとか、アレン・ギンズバーグとか、ウディ・ガスリーってフォークシンガーとか、僕の好きな人は旅をしてたんですよ。だからもう、「俺もそういう感じでいこう」と。若いときはそういうあこがれがあったんですわ。今思い返しても、何をしたかったのか、自分でもよくわかんないですね。
慈 僕の場合、初めてひとり旅したのは中3のときなんです。そのときはまだ青春18きっぷがなかったので、普通の切符で八戸まで、全部鈍行で行ったんですね。それで、向こうで補導されたんですよ。家に電話されて、「その子、ひとり旅してますから」って言うてもらって。それで、ユースホステルに2泊くらいして、ちょっと海岸とか行って——それぐらいの話です。今で言う「乗り鉄」じゃないですけど、列車に乗って移動するのが楽しいっていう感じでしたね。だからもう、18きっぷが出たときは「ほらきた!」みたいな感じでね、大垣行きの夜行に何回乗ったことか。
橋本 初めてのひとり旅で八戸に出かけたっていうのは、八戸で何をしたいってわけじゃなくて、とにかく遠い場所に、と?
慈 そうそう。とにかく本州の端っこまで行こう、と。
橋本 さっきも話したように、僕はおふたりよりちょっと下の世代ですけど、中学生ぐらいのときにTV番組『電波少年』でヒッチハイクの旅をやっていたんです。もっと遡ると、1980年代には沢木耕太郎の『深夜特急』がヒットして、90年代には沖縄ブームがあって——自分が大人になる前に、旅がすごく流行った時代があったな、という感じがして。言い方を変えれば、自分はもう、ブームのあとに来てしまった感じがあったんですよね。
平民 慈さんは、アジアの安宿みたいな、ああいうのはないんですか?
慈 ある、ある。僕ね、転々としないんですよ。上海だったら上海で、同じとこに1か月おるんです。ほんまはモンゴルに行きたかったんですけど、マイナス40度やって言われて、上海に行くことにして。88年、ソウルオリンピックの頃ですね。そんときはドミトリーに泊まったんですけど、ベッドが40床ぐらい並んでて、寝るときはリュックにチェーンをかけて寝るっていうね。そこに1ヶ月泊まってたんですよね。
平民 そうやって旅に出るときって、ある世代にとっての『深夜特急』とか、もうちょっと前なら小田実の『なんでも見てやろう』とかね、そういうのは何かあるんですか。
慈 あんまりないかもね。
平民 なんでその話を聞いたかっていうと、僕の世代だと、小林紀晴さんの『ASIAN JAPANESE』があるんです。慈さんは『ASIAN JAPANESE』は違いますよね?
慈 違う、違う。
平民 あれは94年とか95年やから、橋本さんもちょっとちゃうんかな。
橋本 そうですね。ちょっと僕より上の世代って感じですね。
慈 でも、本に触発されてっていうのはあんまりなかったですね。僕らのときって結局、バブルなんですわ。周りがアメリカやフランスやって行ってたときに、僕はもう、アジアに行きたいと。皆が海外旅行に出掛けて、じゃあお前はどこ行くねんとなったときに、「僕、パリとかそんなん行きません」みたいなね。だから別に、能動的に旅に出るとか、そんなんじゃなかったよね。
「プータローが増えている」明るい未来として歌っていた
平民 高校時代とか学生時代に、「プータロー」とか「フリーター」って言葉、ありました?
慈 フリーター。どうやろね。
平民 っていうのはね、僕が高校出たのは94年ぐらいなんですね。その当時、大学行かんとなんもせんで時間だけ余ってたみたいなことを、僕は個人の体験としてしゃべってるんやけど、結局のところそれは時代の空気だったんと違うかな、と。もうバブルは崩壊してるんかもしらんけど、こう、空気としては余裕があったというかね。今の世代がどうなんかはわからんけど、僕らが高校を出た頃だと、アルバイト雑誌がいっぱいあって、大学行かんでも、就職せんでも、未来はわりと明るかったんですよね。自分のなかでは「なんとでもなるやろ」と思ってたんですけど、それは大きく見たら、余裕があった時代やったんかなと思うんですよ。
慈 それはあるかもね。僕がバーンと仕事をしだすのが90年なんですよ。90年に就職したんですけど、そこから4年くらい——ようは震災前ぐらいまでは、業種にもよるとは思うんですけど、わりと余裕があるというか、バブルの余韻みたいなものがまだあったんですよね。
平民 タイトルが出てこないんですけど、ボ・ガンボスの曲で、「プータローが増えている」って歌詞が出てくるのがあったんですよ。何にも縛らなれずに生きている、プータローが世の中に溢れている、と。それをものすごく明るい未来として歌ってるんですね。その歌のことをよく考えるんやけど、あれが今、通用すんのかなとちょっと思うんですよね。やっぱ今は——まあ、この話はいいっすわ。ちょっとひとりで考えます。
橋本 僕は90年代はまだ小中学生でしたけど、時代の空気で言うと、バブルがはじけたとはいえ余裕がある感じはありましたよね。それがゼロ年代になって——僕は大学を卒業したあとで、友人たちと『HB』ってリトルマガジンを作ったんです。その2号目で、「ドメスティックな世代?」って特集を組んだんですよ。そのきっかけとなったのは、ちょうどその頃に、若者の海外旅行離れが進んでいる、というニュースがあって。
平民 それは何年ぐらいのこと?
橋本 2007年ですね。統計を確認してみると、たしかに2000年代前半にピークがあって、そこから下がり始めていたんですよね。それで言うと、慈さんは上海に長く滞在していたって話がありましたけど、平民さんも長く海外に行かれてましたよね?
平民 いや、あれはね、膨らまして書いてるだけなんですよ。1か月行ったら、もう15年ぐらいのこととして書いてるんで。
橋本 1か月っていうのも、僕からしたら十分長期な感じがするんですよね。取材を除いたら、1か月同じところに滞在したことってないんです。そういうときって、どんなふうに過ごしてるんですか?
平民 メキシコに行ったときは、3か月間ずっとおんなしとこにおったんですよ。おんなし街の、おんなし宿にずっとおったんです。その期間は何してたかっていうと、市場で鉄板買って、スーパーで酢とか醤油とか油とか、あのへんを1リットル買って、ずうっと料理作ってたんです。だからもう、ほんまにどこにも行かない。
慈 僕もね、朝ごはん食べて、うろうろ散歩して、宿帰って——そんな感じです。だからもう、旅行というより、住んでるのに近いですね。虹口(ホンキュウ)ってとこにおったんですけど、よく会う知り合いができて——女の人やったんですけど、一緒にケンタッキーとか行って、ちょっと奢ったりしてたんです。そしたら「良いバーがありますよ」って言うから、その店に行ってみたら、アホほどぼったくられて(笑)。そんなことやってたら、お金がなくなってきて、やっすいラーメン屋で豆腐が高野豆腐みたいになってる麻婆豆腐を食べたりね。ずっとそんなことしてましたね。だから、上海雑技団とか、なんとか動物園とか、全然行ってないのよ。港、川、街、うろうろする。そういうのだけで一日終わり。
橋本 その時代って、旅のありかたが変わってきた時代なんじゃないかって気がするんですよね。戦後の復興が進んだ頃には観光バスがブームになって、景勝地に何台もバスが乗りつけてごった返す時代があった、と。それから時代が下ると、有名な景勝地ではなく、「さいはて」を目指す人たちも出てくるようになって、「カニ族」の時代がやってくる。ただ、その頃はまだ海外旅行は高嶺の花だったところから、段々と海外に安く行けるようになって——おふたりが海外に出かけていたのって、まさにその時代ですよね。
慈 でも、ここふたりは、ちょっと特殊な感じもするよね。
橋本 平均的な旅とは言えないかもしれないですけど、レアケースってほどでもない気がするんです。慈さんと同じように、観光に出かけるでもなく、その土地の暮らしに触れながら過ごしていた人は、その時代の上海に限っても何人かはいたんじゃないか、と。つまり、時代の移り変わりとともに、景勝地を眺めて終わるんじゃなくて、その土地の暮らしに触れるたびにシフトしたところもあるんじゃないか。海外に長期滞在して、同じ場所にずっといたのは、その土地の暮らしに触れたいって欲求があったってことなんですかね?
慈 僕に関して言うと、それはありましたね。上海にもね、神戸の長田(ながた)みたいなとこあるんですよ。「うわ、この感じ、長田やん!」って言いながら歩いたりすんのが好きなんです。「ああ、ここはちょっと東灘区やな」とかね。そうやって全部日本に——日本じゃないね、全部を神戸にあてはめる(笑)。それで、上海も今は綺麗になってると思うけど、あの当時びっくりしたんが、トイレは壺にするんですよ。下水がないから。朝になると、壺の中身を公衆トイレに捨てにいくんですけど、月曜の朝なんかは皆が捨てたうんちでトイレがわーって溢れ返って、外からおしっこしたりする。そうじゃないときでも、仕切りがないから、新聞紙を買うんですよ。中国語は読まれへんねんけど、人民日報とかを買って、衝立てがわりにする。それがアトラクション的な感じで面白くてね。今日は疲れてるなと思ったら、JALの上海支社にはウォシュレットがあるから、そこに駆け込んで「すいません、トイレ貸してください!」と。どうせ1か月しかおれへんっていうのもあるんですけど、日本では絶対に体験できへんことを楽しむというかね。一回、交番に引っ張られたこともあるんですよ。
橋本 それ、何が原因だったんですか?
慈 えっとね、タバコを捨てたんです。それはもちろん、僕が悪かったんですけど、タバコをポイっとしたら、警官がバーッときてね。わかった、わかった、なんぼ払うたらええねんと聞いたら、「2元出せ」と。それで大人しく2元払ったら釈放されたんですけど、これ、僕のなかでは観光なんです。「こんな風景見てきたで」って言うのと同じように、「俺、上海の婦人警官に捕まってん」って言う。そんな感じですね。