おしまい定期便
第20回

母の同行者

暮らし

大自然に囲まれ、娯楽も何もない“おしまいの地”に生まれ育ったこだまさん。そんな”おしまいの地”から不定期に届くこだまさんから読者のみなさんへのお便りを掲載します。

今回は、山葡萄のジュース作り、ダンス、バスツアーと、お母さんに同行したいくつかのお話。

 秋深まる十月、母は「あいつらに渡したくない」と庭先の山葡萄を見張っていた。「あいつら」とは熊である。実家周辺は昔から熊の出没地帯。近くに出た、親子だ、足跡がある、糞がある。今年に限らず、そんな情報が出回る。母は山葡萄の葉に付いた虫の駆除をこまめに続け、大事に育ててきた。最後の最後においしいところだけ持っていくなんて許さない。そう熊をライバル視していた。今年は豊作だったようで特に気合が入っていた。

 母は「明日一気に収穫する」とLINEで宣言し、翌朝四時、「採ったどー!」と箱いっぱいの果実の画像を送ってきた。狂っている。こんな時間に送信するな。熊が活発に動き出す時間にわざわざ採りに出るな。

 その日、母に呼び出され、ジュース作りを手伝わされた。猛暑の影響か、近年たくさん実るようになった。家族で食べ切れる量ではないのでジュースやジャムに加工して近所におすそ分けしている。嫌々出向くものの、鍋で実を煮たり、潰したりする非日常的な作業はなかなかおもしろい。黙々と打ち込んでいると、庭の花や実を摘んで色水を作っていた子どもの頃に戻ったような気分になる。中高年になっても実家で同じようなことをやっているとは思わなかった。

 甘酸っぱいジュースを味見したら「まあ、一日くらい親孝行に費やしてもいいか」と思えた。まんまと母の策に乗せられていることも忘れ、鮮やかな赤紫色のジュースを抱えて帰宅した。

 七十代前半の母は、私よりも遥かに身体が丈夫だ。つい先日、数メートルある樹木の剪定をしていた時に脚立ごとひっくり返って手足から血を流していたが「こんなもん馬に蹴られた日に比べたら大したことない」と強がっていた。母は子どもの頃、飼っていた馬に後ろ脚で蹴り上げられて気絶したらしい。痛さの加減を「馬の後ろ脚」より上か下かで判断する癖がある。

 体力の源は畑仕事とヨガとダンスだ。中でもダンスにただならぬ熱を注ぎ、地域のサークルのリーダーを長年務めている。決してダンスのセンスで選ばれたわけではない。習い始めたのは六十を過ぎてから。特に運動神経がいいわけでもない。人に命令したり、交渉したりすることに長けているのだ。私の中に全く芽生えなかった能力である。

 以前は普通に「〇〇サークル」という無難な名前だったが、つい最近の発表会のプログラムには「渡辺よし子(仮名)とチーム〇〇」と自分の名を前面に出していた。一体どういうつもりなのか。来るところまで来てしまった。「この名前にしよう」とメンバーに提案されたとしても大抵の人は遠慮すると思うが、母は「そうかい」と受け入れるタイプだ。自ら言い出した可能性も捨てきれない。「なんでこんな名前になったの?」と聞いても「わからない」と、はぐらかす。

 メンバーの年齢層は四十代から八十代までと幅広い。新曲に挑戦する際は、母が踊りの手本を見せる。毎回YouTubeのダンス動画を観て研究しているようだ。高齢者には難しい振り付けも多いので、母なりに易しくアレンジする。そして、自分の踊る姿を動画に収め、グループLINEに貼る。高齢のメンバーがスマホの使い方を覚えるのは一苦労だったようだが、必要な情報を得るためにみな必死でマスターしたらしい。ちなみに、その母のダンスを撮影しているのは私だ。裏方スタッフのように都合よく使われている。父の仏壇の前で、曲に合わせて踊る母を撮っている。原稿の締め切りが迫っているのに私は何をやっているんだろうと思うが、そんな事情は母には関係ない。とても真剣な目をして踊っている。

 数年前、病気や怪我でメンバーが一気に離脱し、活動休止の危機に陥った。母がしょんぼりしていたので「私でよければ交ざろうか?」と言った。八十代でも躍れるなら私にだってできるような気がしたのだ。すると、母は「ダンスは指先が命なの。しなやかな動きが大事なの。あんたの手、ガッタガタじゃないの。ロボットダンスじゃないんだから」と笑った。くそばばあ過ぎる。でも、確かに私の関節は病気でガッタガタなので言い返せなかった。結局その時期は新曲の準備に当てることになり、私はいつも以上に実家に通い、母のダンスを撮影した。

 ステージ発表会にも同行する。会場の中央席をキープし、出番までひたすら待機する。ステージ全体を収めようとすると人が小さくなるし、ズームにすると動きがわからない。塩梅が難しい。「端っこの人の手が切れてる」「ここは前列をアップで撮ってほしかった」など、リーダーのダメ出しは容赦ないが、帰りに甘いおやつを買ってくれるので、呼ばれたら毎回なんとなく行ってしまう。

 発表前にリーダーがマイクを持ってチームや曲の紹介をする時間がある。母は実に堂々としている。紙を見ながら話すなんてことはせず、高齢者あるあるのようなネタを仕込んで軽く笑わせにいく。もしかしたら、おやつよりもそれを見るために同行しているのかもしれない。トークイベントのたびにびびって下痢になる私は、「そろそろ演目のお時間です」と司会に促されるまでマイクを離そうとしない母の姿を目に焼き付ける。これくらいの精神でマイクを持たなければいけない。そう思うけれど、私は次のイベントでも下痢になる。

 先日ダンスのグループLINEを見せてもらったら、母はこんなことを書いていた。

「曲はここからラウンロードしてください」

 特に誰も訂正する気配がない。

「お母さん、ダウンロードじゃないの?」

「うん、わかってる」

 もっと遡ってみると、やはりそこにも「ラウンロード」と書いてあった。

「いや、わかってないでしょ。過去のもずっと間違えてるよ」

「だってラと打ったらラウンロードって出てきちゃうんだもの。しょうがないじゃない」

 反論も実に堂々としていた。

 そういえば最近も「今ロジャースの試合みてるから後にして」と断りの一文が送られてきた。そう言われたら、ラウンロードでもロジャースでも別にいいような気がしてきた。

 先日、母とふたりで広島、山口、島根のバスツアーに参加した。父が元気な頃は夫婦で遠くに出かけていたが、もうそれは叶わない。父亡きあとは私が同行している。

 ツアーの参加者は四十人ほどだった。大半が夫婦で、その次に女友達数人という組み合わせ。親子参加は私たちのほかにもう一組だけだった。バスの中で高齢の夫婦が隣同士で座り、窓の外を眺めながら楽しげに顔を寄せていた。「父と母もこんな風に旅をしていたんだろうな」と妙にしんみりした。母はどういう思いで彼らを見ていたのだろう。

 宮島を訪れたのは偶然にも大潮の日の満潮時で、大鳥居や社殿は水面に浮かぶように佇み、幻想的だった。私は宮島のおとなしい鹿の前で、白壁が続く萩の城下町で、鯉が泳ぐ津和野の水路で、母を何度も呼び留めて写真を撮った。父が亡くなった時、アルバムのプリント写真をデジタル化し、デジカメやスマホに残っている画像とともにメモリースティックに詰め込み、デジタル写真集として親族に配った。父が写っているものは、ほぼ収録した。膨大な画像の数になったけれど、喜んでもらえた。観光名所で母を撮影するたび、この写真をメモリースティックに収録している未来の自分を想像した。

「お母さん、こっち向いて」とカメラを向けて写真を撮っていると、同じツアーの高齢女性に話しかけられた。夫婦で参加している人だった。

「娘さんと旅行ですか? 羨ましい。私そういうのに憧れていたんです。なのに、うちは三人とも息子。めったに帰ってきませんよ」

「いやいや、うちなんか」と母は首を振っていたが、少し嬉しそうだった。

 傍からはそんな風に見えていたのだ。

 地元に戻る飛行機の中で「次は河津桜か房総半島の菜の花畑を見に行きたいな」と母が言った。カメラマンとして同行し、またたくさん撮ろう。そんなことを考えていたが、よく考えたら持病のある私のほうが先に死ぬ可能性もあるのだった。年末には、この数年で腫れが進行していた肘の手術をすることになった。以前、手術をした頸椎も明らかに調子が悪く、首がうまく動かない。加齢とともに痛い場所が増えている。これまで気にしたことはなかったけれど、自分の持病の平均寿命を検索してみた。なんと六十代だった。びっくりした。あと十年くらいじゃん。痛いのくらい平気だと思っていたけれど、感染症で亡くなる人が多いようだ。親の心配をしている場合ではなかった。書いて、撮って、やれることをやっておかなきゃ。現実を突き付けられて目が覚めた私は、前よりも元気になっている。

筆者について

こだま

エッセイスト、作家。デビュー作『夫のちんぽが入らない』でYahoo!検索大賞を2年連続で受賞(第3回、第4回)、『ここは、おしまいの地』は第34回講談社エッセイ賞を受賞。ほか『いまだ、おしまいの地』、『縁もゆかりもあったのだ』など。

  1. 第1回 : 父の終活
  2. 第2回 : 直角くん
  3. 第3回 : あの時の私です
  4. 第4回 : ぺら草
  5. 第5回 : ほのぼの喫茶店
  6. 第6回 : 私の特殊能力
  7. 第7回 : せいちゃんの下北沢
  8. 第8回 : 父と母の文明開化
  9. 第8回 : 新規ファンの斉藤
  10. 第9回 : 新規ファン斉藤、再び
  11. 第10回 : 祖父母の銭湯を求めて
  12. 第11回 : 春の副産物
  13. 第12回 : 一周忌という名の祭典
  14. 第13回 : ルンバ地獄とケチおじさん
  15. 第14回 : 私はどこにでも行ける
  16. 第15回 : あの光のひとつ
  17. 第16回 : それぞれの五十年
  18. 第17回 : おしまいの地でやり直す
  19. 第18回 : 大谷だってこわい
  20. 第19回 : 家を畳む
  21. 第20回 : 母の同行者
連載「おしまい定期便」
  1. 第1回 : 父の終活
  2. 第2回 : 直角くん
  3. 第3回 : あの時の私です
  4. 第4回 : ぺら草
  5. 第5回 : ほのぼの喫茶店
  6. 第6回 : 私の特殊能力
  7. 第7回 : せいちゃんの下北沢
  8. 第8回 : 父と母の文明開化
  9. 第8回 : 新規ファンの斉藤
  10. 第9回 : 新規ファン斉藤、再び
  11. 第10回 : 祖父母の銭湯を求めて
  12. 第11回 : 春の副産物
  13. 第12回 : 一周忌という名の祭典
  14. 第13回 : ルンバ地獄とケチおじさん
  15. 第14回 : 私はどこにでも行ける
  16. 第15回 : あの光のひとつ
  17. 第16回 : それぞれの五十年
  18. 第17回 : おしまいの地でやり直す
  19. 第18回 : 大谷だってこわい
  20. 第19回 : 家を畳む
  21. 第20回 : 母の同行者
  22. 連載「おしまい定期便」記事一覧
関連商品