「献身的」で、なくていい! 突然、働き盛りの夫を襲った脳卒中と半身の後遺症。何の知識もなかった私は、ゼロから手探りで夫の復帰までを「闘う」ことになる――。当事者だけがツラいんじゃない。家族にも個別のツラさがある。ここでは、ライター・三澤慶子が綴る、葛藤と失敗と発見の記録である『夫が脳で倒れたら』から一部ご紹介。正しいカタチなんてない、誰もがいつか経験するかもしれない、介護のリアルをお伝えしていく。 本書から、第一章を全11回にわたって公開。第7回目。
発症、麻痺の悪化とセカンドオピニオン~夫は『ゼロ・グラビティ』の境地へ⑦
この日の麻痺の状態はというと、前日よりさらに進んでいて右腕と右脚がまったく動かなくなっていた。右腕は肩にぶら下がった骨つき肉と化していたし、右脚も同様だった。トドロッキーが言うには感覚もかなり弱くなったらしい。さらに麻痺は顔にも顕著に出てきていた。
「両目同時に瞬きができないんだ、ほら」
奇妙に左右がズレている瞬きをトドロッキーはやってみせた。麻痺側の右目の瞬きが左目よりかなり遅れている。やろうと思ってできる瞬きではない。
点滴が正常に流れていたらここまで悪化しなかったのではないか。気になって仕方ないが、点滴は関係ないような気もした。昨日までのトドロッキーの麻痺の進行の様子からは点滴が効いているようには思えないから。
診察室に呼ばれてトドロッキーと行くと、昨日の「次は左だな」の三河医師がいた。彼はこんなことを言った。
「今後の人生の中で、今日が一番いい状態だと思ってください。いつか人は死を迎えるわけですけど、それまでどんどん悪くなります」
「どんどん悪くなるって……。止まらないってことですか」
「血管はどんどん詰まっていきますから悪くなります。どこが詰まっていくかということは予測できませんけど。止める方法はありません」
もう何をどう聞いていいのか分からなかった。
どんどん悪くなるって。
今日が一番いい状態だなんて。
仕事どころではない。
会話できなくなるってことだ。
寝たきり?
まさか。具体的なことを聞きたいけれど、何かを聞けば想定を超える悪い答えが返って来そうで口をつぐんだ。
病室に戻れば、隣のベッドの患者の家族が見舞いに来ていた。奥さんと娘さんのようだった。
ベッドの男性は70歳くらいだろうか。自営業者のようで、男性の入院後に仕事をどう段取りつけたかを奥さんが説明している。男性は奥さんの言っていることは理解しているようだが、言葉を発することができない。体もほとんど動かすことができない状態だ。奥さんの口調は優しかった。心配しなくていいよとか、帰ってくるのを待ってるからとかいうことを男性に言っていた。男性はやがて奥さんの前で嗚咽を始めた。嗚咽は止まらず、声にならない声で全身を震わせるようにして泣き続けた。泣くときに使う筋肉もこれまでのようには動かないんだろう、ものすごく辛そうな嗚咽。奥さんは心配しないで、家に帰っといで、を繰り返すほかにかけてあげられる言葉がないようだった。
そんなお隣さんを、麻痺が進行中のトドロッキーは見ていた。この病室では常にベッドごとのカーテンはほとんど開け放たれたままだ。お隣のベッドのことだから見聞きしないようにする方が難しい。
夕方、私は息子二人が学校から帰宅した時間を見はからって病院から電話し、今すぐ病院に来るように言った。明日トドロッキーは言葉を話せなくなるかもしれないと思ったから。だとしたら言葉を交わせる今日のうちに会わせておくべきだと思った。
そしてもう一つ、絶望の中にいるトドロッキーに病気の進行を食い止めるだけのパワーをあげたかった。まだ半人前の息子たちと会えば何くそ!と体に病気と闘えるだけのパワーが湧くかもしれないと思った。病いは気からだ。治るイメージを強く持っていると重い病気の克服につながると聞いたこともある。トドロッキーにはどうしても踏ん張って欲しい。
病院の場所を知らなかった息子たちはなかなか現れなかった。私は病院への行き方をちゃんと伝えたつもりだったけれど不十分だったのだろう、道に迷っていることは想像できた。当時息子たちはスマホを持っていなかったからグーグルマップを頼りにすることもできない。家を出ている二人に連絡するすべもなく、私は病院の外に出て近所を随分ウロウロした。
トドロッキーはといえばものすごく緊張しているようだった。寝た姿勢のままでいいものを、パジャマを整え、座る姿勢をとるためベッドの背を上げて支えにし、息子たちの到着をじっと待っていた。息子とただ話をするのにこれほど緊張するのかっていうくらい。
二人が病院に到着したのは面会時間が終了したあとだった。通りがかりの人何人かに道を聞いてはどんどん迷いを深めていったらしく、タクシーの運転手に聞いた道筋でやっと辿り着いたということだった。
時間外の面会許可を乞うたわけではないけれど、事情を理解している看護師が見て見ぬ振りをしてくれ、二人は右半身がまったく動かなくなった父親に初めて対面した。
トドロッキーと息子たちは一言交わしただけでほかに会話らしい会話はしなかった。
「お母さんを手伝ってくれな」と言ったトドロッキーに対して、二人が「うん」とうなづいただけだ。お互いそれで十分のようだった。
その後の会話は私が息子たちに学校のことを聞いて、二人がユルリと答える、いつも家で交わしているようなやりとりとなった。トドロッキーはそれをただ聞いていた。二人がベッドサイドにいたのは10分程度だった。
その日、帰宅した息子らは無口だった。
私はといえば猛烈に焦っていた。どうしよう。このままではトドロッキーがトドロッキーじゃなくなるまで壊れていくんじゃないだろうか。違う病院ならトドロッキーの崩壊を止めることができるんじゃないだろうか。病院に対しての不信感からそう強く思い、転院先候補の病院をネットを頼りに調べ始めた。
息子たちをトドロッキーに会わせたことに後悔はないけれど、本当に良かったのかどうかは分からない。とくに次男はまだ小学5年生。病気の父親の変化を目にしてショックを受けたに違いないし、病室にいた多くの重篤な患者たちを目にして怖い思いもしただろう。精神状態が不安定にならなければいいが。
やっぱり電話しよう。助けを求めることにした。
転院候補の病院調べの手を止め、受話器を取った。
息子たちに必要だと思った。トドロッキーの抗うつ剤と同じ。気づいたときには遅かった、ってことがないようにしたい。目の前のことで手一杯の私は、息子たちがどれほどのストレスを抱えているのか、それが今後深刻なものになっていったとしても気づける自信がない。
息子たちにとっての抗うつ剤になりうると考えたのは遠方にいる母だった。
母にはトドロッキーが脳梗塞になったことは入院初日の夜に伝えていた。そのとき「行こうか?」と言ってくれていたのだが、トドロッキーは2週間で退院できると思っていたため全然大丈夫だからと余裕をかまして断っていたのだった。現時点で2週間はない。
母はもういい年齢で長距離移動が辛いのは承知のうえだが、頼らせてもらうことに決めた。実家には度々息子たちと帰省していて二人はとても慕っている。家にいてくれるだけでいい。心穏やかな人がすぐ近くにいれば息子たちはきっと大丈夫だと思った。
私からの電話に母は開口一番、「行くよ」と言った。まだ用件を言ってもいないのに。
「お願い」
会話の順が逆だが、これ以上ない最速で話がまとまった。
「もう準備してたから。明日の朝の飛行機で行くから」
心配をかけていた。
「ありがと」
母は翌日父と一緒にやってきた。所用を抱える父は数日で戻ったが、母は結局2カ月間いてくれ、息子たちと私に毎日食事を作ってくれた。振り返れば息子たちは落ち着いて生活していたと思うし、その後も問題はなかった。母の存在がものすごく大きかったと感じる。もちろん私にも。感謝しかない。
* * *
この続きは『夫が脳で倒れたら』本書にてお読みいただけます。
*本文中に出てくる病院、医療関係者、患者などの固有名詞は仮名です。
筆者について
みさわ・けいこ。北海道生まれ。ライター。
(株)SSコミュニケーションズ(現(株)KADDKAWA)にてエンタテインメン卜誌や金融情報誌などの雑誌編集に携わった後、映像製作会社を経てフリーランスに。手がけた脚本に映画『ココニイルコト」『夜のピクニック』『天国はまだ遠く』など。半身に麻痺を負った夫・轟夕起夫の仕事復帰の際、片手で出し入れできるビジネスリュックが見つけられなかったことから、片手仕様リュック「TOKYO BACKTOTE」を考案。
轟夕起夫
とどろき・ゆきお。東京都生まれ。映画評論家・インタビュアー。『夫が脳で倒れたら』著者・三澤慶子の夫。2014年2月に脳梗塞を発症し、利き手側の右半身が完全麻痺。左手のみのキーボード操作で仕事復帰し、現在もリハビリを継続しつつ主に雑誌やWEB媒体にて執筆を続けている。近著(編著・執筆協力)に「好き勝手夏木陽介スタアの時代」(講談社)J伝説の映画美術監督たちX種田陽平」(スペースシャワーブックス)、「寅さん語録」(ぴあ)、「冒険監督塚本晋也」(ぱる出版)など。