宇宙機の制御工学を専門としながら、JAXAのはやぶさ2・OKEANOS・トランスフォーマーなどのさまざまな宇宙開発プロジェクトに携わる、宇宙工学研究者・久保勇貴による新感覚な宇宙連載! 久保さんはコロナ禍以降、なんと在宅研究をしながら一人暮らし用のワンルームから宇宙開発プロジェクトに参加しているそうで……!? 地べたと宇宙をダイナミックかつロマンティックに飛び回る、新時代の宇宙エッセイをお楽しみください。
ブロンズのキラキラしたストレートヘアみたいなズボンを履いた人が立っていて、ああ僕はまたこの街に帰ってきてしまった、と思った。サラリーマンが何人か降りて、ぴったり同じ数だけサラリーマンが戻ってきた。JR横浜線、車内の空間にはまだ少し余裕があるのにドアの周りに偏って密集した人たちが、それでも少しでも隣の人との距離を取ろうとして、きれいな千鳥配置のフォーメーションで立っていた。千鳥配置で人が立っているから、その人たちが履いている靴も千鳥配置で並んでいて、それが千鳥配置で目に入ってきた。そのどれ一つとして、同じ靴は無かった。この街では、多様性が尊重されている。
太陽と多様が一文字違いなら毒と一文字違いだ孤独は
そこに、選ばれていない靴は存在していなかった。みんな、自分が選んだ、または、誰かに選んでもらったから、その靴を履いてそこに立っているのだった。そういうことが、なぜだかずっと少しずつこわい。この街には選択肢がたくさんあって、駐輪場のチャリはほとんど同じ形なのに全部少しずつ違っていて、多様性が尊重されていて、だからこの街では僕もまたかけがえのない個人の一つだということになっている。だけど、家に着くまで僕の座る席はずっと無かった。
選んでも選ばれてもないこの星に生まれた僕が選ぶ内定
ここには書かれていないシーンがある。
* * *
結構前からなんとなくずっと、短歌が好きだった。自分でもたまに作るようになったのは大学四年生の頃、ブログで文章を書き始めたのと同じ時期だったと思う。そういう頃だった。自分の感情を口に出すことがずっと苦手で、それなのに吐き出したい感情はどんどん溜まって、飲み込まれて、溺れるような毎日を過ごしていた頃だった。そんな時に始めたのがブログと短歌だった。書くことでしか感情をうまく吐き出せない僕に、とりわけ短歌は多くを語らなくて済むから性に合ってたんだと思う。なるべく少ない言葉を語るだけで、あとの全ては察してほしかった。わがままな奴だった。
反抗期は無口だった。いや、というかあれは反抗期だったんだろうか。反抗期というか、反抗する気力も無いほどに毎日ただ疲れていた気がする。高校生だった。家の物音が必要以上に大きく感じられて、でも、うるさいと怒る気力も無くて、怒る気力もないのに耐えがたいほどイライラすることがあって、なのに家ではほとんど何も話さなかった。話せなかった。学校では別にそんなことなく普通に友だちと騒いだりしてるんだけど、家に帰るとどうも声が思うように出なかった。あまりのキャラの違いに自分でも驚くぐらいだった。どちらが本当の自分なんだっけ、そんなことがずっとじっとり脳にへばりついていた気がする。
Kくんはいつもクラスの中心で笑顔の絶えない宇宙人です
何も話せないから、何も言わなくても世界の方からすべてを察してほしかった。だけど、だから、「あんたが何考えてんのか、全然分からない」と何度も母親に泣かれた。そうして、余計に声が出なくなるのだった。話せないから、僕には書くことしかできないんだと思う。好きなことも嫌いなことも、書くばっかりでほとんど口に出せたことがない。好きな人の好きなところも、ろくに伝えられたことがない。
僕には書くことしかできないんだけど、それなのに、書けば書くほど書けなくなるものがある。なぞなぞかよ。書けば書くほど書けなくなるものなーんだ。その答えが何なのか、ずっと分からないでいる。もっと力抜いて書いてもいいのに、と、でもそうすると何を書いていいのか分からなくなる。僕が力を抜いて書いたものになんか何の価値もないような気がして、力を抜けないでいる。そうやって、恐れるように書いて、書いて書いて書いて、書けば書くほど書きたいはずの何かからは遠ざかっている気がする。でも、何から遠ざかっているのかもよく分からない。だからきっと、ここには書かれていないシーンがあるんだろう。それはきっと僕が見たいシーンなのに、そのシーンが何なのかは僕にも分からない。
遠ざかる星にも実はドップラー効果があってね夜行バス去る
お酒を飲めば何か書けるかもしれない、と徒歩一分のファミマに行くと、湿った空気、揚げ物の廃油の匂い、嫌い、嫌いな店員がいる。迷惑そうにレジを打って、袋要りますかーと迷惑そうに聞いてくる店員。そんな店員だって分かっているのに、もしかしたら何か僕の方が迷惑をかけてしまったのかもしれない、と思って、なるべく態度の良い客でいようとしてしまう自分が嫌い。口だけは愛想笑いをしようと引き攣らせていたけれど、マスクをしていたから結局何の意味も無かった。そういう全てが、嫌い。
夜景とか電気じゃんとか言いそうで海王星とあなたが嫌い
好きな店員もいる。その好きな店員は、絵を描く人で、その人の描いた作品がいくつかそのファミマに飾ってある。迫力満点に、しかし静かに佇むトラやライオンの絵。新作の絵が飾られた時は、その店員さんに声をかけるようにしている。いつも深夜のシフト。描くのは、やっぱり楽しいですね、と何かに照れるようにその人は言っていた。バーコードをピッと読み取るたびにいちいち商品を両手で丁寧にレジ台に置き直す、そういう店員さん。今日は、その好きな店員はいなくて、嫌いな店員だけがいる。多分嫌いな店員も僕のことを嫌いだと思う。お酒を飲んだら悪口しか書けない。だから、ここには書かれていないシーンがある。
バーボンの原料は月 月面で死んだ子どもはまだいないから
悲しいニュースが流れた日、アンパンマングミを買った。グレープ味だった。ペラッペラのオブラートを慎重に剥がしながら、アンパンマンのシルエットをした紫色のグミをめくると、透明の容器に型取られたアンパンマンが怒った顔でパンチをしていた。暴力が悲しい。人の命があまりに脆いことが悲しい。さっきまで笑顔だった人が、ずっしりとした物質に帰する瞬間がこわい。手元が少し狂って、オブラートが破けた。それだけで、元に戻らなくなってしまうものがある。
たとえば、選ばれた人が反感を買って、暴力を受けることがある。
選ぶことは暴力だろうか。
ここには書かれていないシーンがあって、
選ばなかった言葉はここには書かれなくて、
選ぶことは隠すことだろうか。
選んで、選んで、
選んだ言葉から全てを察してほしくて、
選びきれないから選ばなきゃいけなくて、
選ばなきゃいけないから、選ばれないものがあって、
選ばれなかったものは必要とされない。
選んだものだけが目に見えて、
たとえば、言葉を選んだ人が選ばれたりする。
選ばなかった言葉もその人の一部なのに、
選ぶことはやっぱり隠すことだろうか。
選ぶことが隠すことなら、書くことも隠すことだろうか。
話せないから書くことしかできないのに、書けば書くほど何かを隠してしまっているのだろうか。
三日月が隠した指紋そのように君の話が分からない午後
こんなに書いてもまだ僕は、書きたいことを何一つ書けていないような気がする。
* * *
ブロンズのキラキラしたストレートヘアみたいなズボンを履いた人が立っていて、ああ僕はまたこの街に帰ってきてしまった、と思った。サラリーマンが何人か降りて、ぴったり同じ数だけサラリーマンが戻ってきた。自分の家ではない場所で一週間ほどリモートワークをした後の、帰りの電車だった。JR横浜線、車内の空間にはまだ少し余裕があるのにドアの周りに偏って密集した人たちが、それでも少しでも隣の人との距離を取ろうとして、きれいな千鳥配置のフォーメーションで立っていた。千鳥配置で人が立っているから、その人たちが履いている靴も千鳥配置で並んでいて、それが千鳥配置で目に入ってきた。ずっと俯いていたから、やけに足元にばかり目が行くのだった。そのどれ一つとして、同じ靴は無かった。この街では、多様性が尊重されている。
太陽と多様が一文字違いなら毒と一文字違いだ孤独は
太陽を避けて歩いて胃は冷えて毒と一文字違いだ僕は
そこに、選ばれていない靴は存在していなかった。みんな、自分が選んだ、または、誰かに選んでもらったから、その靴を履いてそこに立っているのだった。多様だから選びきれなくて、選ばれるものがあるから、選ばれないものがある。そういうことが、なぜだかずっと少しずつこわい。この街には選択肢がたくさんあって、この世界には人がたくさんいて、駐輪場のチャリはほとんど同じ形なのに全部少しずつ違っていて、電車に乗っている人はほとんど同じ形なのに全部少しずつ違っていて、多様性が尊重されていて、だからこの街では僕もまたかけがえのない個人の一つだということになっている。だけど、家に着くまで僕の座る席はずっと無かった。そう、僕の席はもう無い。
選んでも選ばれてもないこの星に生まれた僕が選ぶ内定
選んでも選ばれてもないこの星で選ばれなかった僕が通ります
その一週間前に、僕は宇宙飛行士の選抜試験に落ちた。0次試験での足切り不合格だった。スタートラインにも立てなかった。悲しいと思う資格すら無いことが、どうしようもなく悲しかった。この世界には人がたくさんいて、多様性が尊重されていて、多様だから選びきれなくて、選ばれるものがあるから、選ばれないものがある。千鳥配置で並ぶ靴の中に、選ばれていない靴は存在していなかった。だから、選ばれていないのは僕だけだった。家に着くまで僕の座る席はずっと無かった。僕の席はもうどこにも無かった。
それでもやっぱり、ここには書かれていないシーンがある。昼前の部屋が静かだったことも、その時一人だったことも、友人は合格していたことも、すまんと謝られたことも、人生にはBGMが流れないことも、送った激励の言葉も、それが自分を守る言葉だったことも、ケーキ屋さんも、お祝いでないのに買われたケーキも、ゆるやかな腰の痛みも、ケーキを開ける前に不合格だったと伝えたことも、部屋がやはり静かだったことも、見上げた表情も、渇きも、メールも、そこにあった祈りも、それを見て僕が言った言葉も、悪態も、選ばれなかったケーキの種類も、何度となく消した誤字も、その度にした舌打ちも、作品にすることの嘘も、飽きも、ここには書かれていない。選ばれなかった僕が選ばなかったそれらがこの文章に書かれることは、決してない。もう必要がない。意味がない。書きたくない。だから僕は、やっぱり全てを察してほしいんだと思う。そういう、わがままな奴なんだと思う。
宇宙にはバラードはない 水際でアップルパイをしずかに洗う
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筆者について
くぼ・ゆうき。宇宙工学研究者。宇宙機の制御工学を専門としながら、JAXAのはやぶさ2・OKEANOS・トランスフォーマーなどのさまざまな宇宙開発プロジェクトに携わっている。ガンダムが好きで、抹茶が嫌い。オンラインメディアUmeeTにて「宇宙を泳ぐひと」を連載中。