観光地ぶらり
第2回

人間らしさを訪ねる旅 八重山・竹富島

暮らし
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そこに人の姿は見当たらなかった

ぴゅうっと冷たい風が吹き始めたかと思うと、ほどなくして雨が降り始める。集落まで引き返すと、屋根の葺き替え工事をしている建物の前を通りかかった。そこに「美女 安里屋(美女クヤマ)生誕の地」と書かれた観光案内が立てられてある。安里屋(あさどや)クヤマとは、1722年に竹富島で生まれた女性である。クヤマは絶世の美女だったと伝えられており、琉球王国から派遣された役人に一目惚れをされる。当時は過酷な人頭税が敷かれていて、庶民が役人に逆らうことは考えられない時代だったが、クヤマは求婚をきっぱりと断った。その気丈さは、「安里屋ユンタ」という古謡にも歌われている。

彼女が生まれた敷地には、現在もその子孫にあたる方が暮らす屋敷があり、敷地内に売店と小さなカフェが併設されているようだった。軒先にパラソル付きのテーブルがいくつか置かれてあるが、椅子は雨で濡れている。どうしようかと迷っていると、よかったらここで飲んでいきますかと売店の玄関に小さな椅子を出してくれた。棚にはポーク缶やシーチキン、インスタントコーヒーに金ちゃんヌードル、キャンベルスープに菓子パンといった食料品から、石鹸や洗剤といった日用品まで並んでいる。

「今日は天気が悪くて、なんか嫌ですね」。注文したホットコーヒーを運んできてくれた店主がつぶやく。「今年は特に雨が多い感じがします。今は母屋の屋根直しをしてるとこなんですけど、雨漏りがひどかったから、雨は嫌なんです」

茅葺きや赤瓦の屋根というのは、定期的に張り替え工事が必要になる。かつては住民が助け合って張り替えていたけれど、今では大工さんが引き受けるようになった。伝統的建造物群保存地区に指定されたことで、工事には補助金が支給されるようになったけれど、何割かは住民の負担となる。張り替え工事にかかる金額を教えてもらうと、想像よりも0がひとつ多くてびっくりする。島にあるすべての屋敷を順番に改修できるようにと、赤瓦は30年に一度吹き替えることになっている。ただ、30年経つまでには雨漏りするようになってしまう。

「あさどや」を切り盛りする女性店主は、沖縄本島まれ。竹富島は父の郷里で、彼女の父はこの屋敷で生まれ育ったのだという。この屋敷を見る人がいなくなったことで、父はひとりで島に戻り、自分で建物を補修しながら暮らすようになった。やがて父も高齢になり、父の面倒を見ながら暮らせるようにと彼女もここに移り住んで、お店を始めたのだそうだ。父が元気なうちに、きれいになった屋敷を見せてあげたいと、屋根だけでなく建物全体も改修することにした。

「港に行くと、『観光客がいっぱい入ってきてる』と思うんだけど、皆どこに行っちゃうのかね」。注文口の窓から吹き込んでくる雨を雑巾で拭いながら、店主が言う。「あんなにたくさんいるけど、ここに戻ってきてみたら誰もいないから。こんなにちっちゃい島、どこを見てるんだろう?」

雨脚は次第に強まってくる。冬は北風が強く、雨は注文口から差し込んでくる。店主は何度となく雨水を拭っていた。コーヒーを2杯飲んで、お店をあとにする。雨が降りしきるなかでも、水牛車は観光客を乗せて路地を行き交っていた。白い砂の道の真ん中は、水牛の通り道になっているせいか水たまりができている。カッパ姿の観光客が、「雨ヤバいんだけど!」と笑い合いながら通り過ぎていく。喜宝院蒐集館に足を運んでみたけれど、休業中なのか扉は閉ざされていた。

15時過ぎ、東集落にある「内盛荘(うちもりそう)」にチェックインする。コロナ禍直前に改装されたばかりとあって、きれいな宿だ。食堂のある棟の隣に、コンクリート二階建ての棟があり、そこも客室になっている。僕が予約していた部屋は二階にあり、バス・トイレともに客室に備え付けられている。部屋に置かれた鏡を見ると、午前中の陽射しに焼かれたのか顔が赤くなっていた。

夕食の時間まで、庭にあるベンチに座り、ぼんやりオリオンビールを飲んだ。母屋の屋根はブルーシートで覆われていて、雨が打ちつける音がする。ここでも屋根の張り替え工事が進められているところだ。あたりが暗くなるにつれ、揚げ物の良い香りが漂ってくる。「内盛荘」は集落の入り口近く――港に一番近い場所にあるせいか、船の最終便が出る時刻が近づくと車や自転車が頻繁に行き交うようになる。17時35分に八重山観光フェリーの、17時50分に安栄観光の最終便が出ると、集落は静けさに包まれる。

竹富島を訪れる前に、古本屋で竹富島を含む八重山諸島を紹介するガイドブックを数冊買い込んであった。1991年、2002年、2003年、2016年に発行されたものだ。ページを繰ると、機織りをする大山菊(おおやま・きく)さんや、竹富診療所の親盛長明(おやもり・ちょうめい)さん、民宿を切り盛りしながら「神司」という神職を務める新田初子さんなど、2003年までのガイドブックは島の人にもフォーカスが当てられている。ところが、2016年のものを開くと、集落の様子ときれいな海が写真をふんだんに使って紹介されているほかは、レストランと宿と土産物が紹介されているだけで、そこに人の姿は見当たらなかった。どうしてここに昔ながらの風景が残っているのかも綴られていなければ、種子取祭に関する記述もなく、漂白されたように風景だけが紹介されている。この島が「発見」された時代には、ここに息づく営みに注目が寄せられていたはずなのに、どこからこうなったのだろう。

何をこどもに誇ったらいいのか

18時15分に食堂に行ってみると、テーブルにはもう夕食が並んでいた。美味しそうな匂いを漂わせていたのはグルクンの唐揚げだった。そのほかにも近海マグロのお刺身に四角豆のツナマヨ和え、ゴーヤチャンプルー、タラと島野菜の煮物と、美味しいおかずばかりだ。ちびちびツマミながらビールを飲んでいると、「20時半には泡盛を出そうと思いますので、よかったら」と、宿を切り盛りする内盛正基(ないせい・せいき)さんが声をかけてくれた。「泉屋」の巧さんからも、「内盛荘に泊まるんだったら、夜は泡盛を飲ませてもらえると思いますよ」と言われて、一緒に飲めたら嬉しいなとひそかに思っていたのだ。巧さんはお酒があまり好きではなく、宿に泊まった人と酒を飲み交わすことは少ないのだという。

「内盛荘」を創業したのは、大正14(1925)年生まれの内盛正玄(せいげん)さんと内盛スミさんご夫婦だ。夫の正玄さんは、石垣と竹富を結ぶ航路の船長を務めたこともあり、八重山観光フェリーの設立にも寄与している。定年後は水牛車観光と農業をするかたわら、夫婦で民宿を始める。妻のスミさんは竹富島の伝統的な織物「ミンサー」を復興させた功労者でもあった。

「僕はもう、小さい頃から『民宿を継ぐもんだ』と洗脳されてたんです」。正基さんが冗談めかして言う。「うちは姉が3人いるんですけど、一番下の姉でも6個上なんですよ。跡取り息子は生まれないと思われていたところに僕が生まれたんで、じいさんに尋常じゃなく溺愛されて育ったんです。小学校に入った頃から、大人たちの集まりがあるたびに『じいさんが酔っ払ってるから迎えにこい』って電話がかかってきてたんです。迎えにこいったって、歩いて2分くらいだから、『自分で帰れるやん』とは思うんですけど、迎えに行って。じいさんと手を繋いで歩きながら、『内盛荘は正基が継ぐんだ』と、『このおうちは将来正基のものになる』と言われながら、うちまで帰ってきてました。それが半年に1回ぐらいあって、10年間だと20回ぐらいですよね。中学生になるとちょっと頻度が増えて、年に4回ぐらい言われてたから、中学を卒業して島を出ていくときから『いつか帰ってくるだろうな』と思ってましたね」

「泉屋」を営む巧さんは早生まれだから、学年は一つ上にはなるけれど、ふたりとも1987年生まれ。お互いに中学卒業後は島を離れているけれど、「僕や巧はこっちのほうが性に合ってたってことだと思います」と正基さんは語る。

「高校は石垣に行って、多少は羽を伸ばして楽しんでましたけど、『竹富は不便だから石垣で生活しよう』とはならなかったですね。そもそも島の暮らし自体が苦痛ではなかったのはあると思います。これが普通だと思ってたから。高校生のときは特段思わなかったですけど、内地で働いていたときはやっぱり、夜うるさいなと思いましたね。こっちだと絶対にありえない音が、救急車とパトカー。何が住みやすいかって考えたときに、『夜は静かなほうがいいよね』と」

ただ、竹富島に生まれ育ったこどもたちが全員そう感じるわけではなく、島に戻ってくるのは少数派だという。それに比べると、石垣島出身の子は石垣に戻ってくる率が高いそうで、用事があって石垣島の繁華街に出かけると、一晩だけでも高校時代の同級生と何度も出くわすほど。その差が生まれるのは、働き口の多寡だ。

「僕は民宿があるから帰ってこれたんですけど、仕事がなければ帰ろうとは思わないと思うんです。石垣に行けば生活を確立させる仕事があるけど、竹富だと少ないですよね。僕は小さい頃から『民宿を継げ』と言われてたのと、ここでの生活が特段苦痛ではなかったので、帰ってこれたのはあると思います」

 隣でオリオンビールを飲んでいた妻の佳菜さんが、「行事ごとが好きかどうかっていうのも、はっきり分かれるよね」と言葉を継ぐ。

「ああ、それはあるだろうね」と正基さん。

「めちゃくちゃ好きな人もいれば、そんなに好きじゃない人もいるもんね」

「俺みたいに『嫌いじゃない』って人もいるよ」

「いや、帰ってきてるのは好きってことだよ」

「種子取とか結願は好きだけど、それ以外のこまごました行事は『嫌いじゃない』ってくらいだよ」

種子取祭で狂言が奉納されるときには、正基さんの父・佳美(よしみ)さんも舞台に立っていた。本番まで1か月間稽古が重ねられるあいだ、正基さんは毎日ついていき、ミスがあれば指摘するほど熱心に観ていたのだという。「今思うとクソガキでしたね」と、正基さんは当時を振り返って笑う。ただ、島に帰ってきた最大の理由は、民宿を継ぐことでもなければ祭りに参加することでもなかった。

「最後に住んでたのは千葉だったんですけど、ここでずっと生活してても、自分が輝くことはないだろうなと思ったんです。その場所では自分のやりたいことがなかった。起きて、仕事行って、帰ってきたらシャワーを浴びて寝る。毎日その繰り返しで、休みの日があっても『明日もどうせ仕事なんだから、遊んで疲れるのもしんどい』って、家から出ることもなかったんです。ここでこのまま結婚して、こどもが生まれたとして、何をこどもに誇ったらいいのか——そう考えたときに、島に帰ろうと思ったんです。自分がまだ小さかった頃に、島に帰ってきた大人たちが決まり文句のようにそういう話をしてて、当時は『何言ってんねん』と、『東京タワー最高じゃないか』と思ってましたけど、都会の空気を吸った結果、都会では輝けないタイプだとわかった。ここにいてもくすんだままだから、島で民宿をやりながら何かしら誇れるものが見つかって、こどもに見せれる背中があればいいなという期待混じりで、ここに帰ってきたんです」

島の時間はゆっくりしているか

正基さんには、都会の喧騒より、島に流れる時間のほうがしっくりきたのだろう。そう話を向けると、「たしかに、そうかもしれないです」と正基さんは答えた。

「しっくりはくるんだ?」と佳菜さん。

「ゆっくりはできないけど、しっくりくる。それこそ東京で暮らしてたときは、電車に乗るだけで緊張してたもん。電車のひと駅が5分って感覚もないから、『乗り過ごしたらどうなるんだろう?』と不安になって、電車に乗るたび緊張してた。ただ、『この時間に電車が出るから、何時に家を出なきゃ』というのは、この島にいても一緒なんですよね。ガイドブックには『ゆっくり流れる島時間』みたいに書かれがちで、たしかに観光でくる人にはそう見えるだろうなと思いますけど、われわれはそうではないっていう。そこで生活してたら忙しいというのは、どこに行っても一緒ですよね」

「私も散々ゆっくり過ごしましたよ」。そう語る佳菜さんも、最初は観光客としてこの島を訪れた。この島が好きになり、何度も足を運ぶうちに正基さんと出会って結婚し、この島で暮らすようになった。こどもを育てながら民宿を切り盛りする日々は、「ゆっくり」とは程遠い毎日だ。

「まあ、白鳥みたいなものです」と正基さんは笑う。「ゆっくりしているように見せて、水面下では必死で足をかいている。そんなこと、普段はわざわざ言いませんよ? こうして話を聞きにきてくださっているから言っているだけで、一泊、二泊で帰っていく方に『島の生活も案外忙しいですよ』とは言わないです。『島の時間はゆっくりしてますねえ』と言われたら、そうですねえと答えますけど、たまに『この人、俺らのことを暇だと思ってるのかな?』と思うこともありますね」

行事の多い竹富島では、祭りに向けた稽古や打ち合わせで集落ごとの集まりが開催されることが多い。宿泊客に夜は不在になる旨を伝えると、『島の寄り合いですか?』と聞き返されることもある。あるいは、『夜は誰かの家に集まって、毎晩宴会をやっているのかと思ってました』と言われることもある。

昔ながらの面影を色濃く残す竹富島は、楽園のような南の島というイメージを重ねられがちな島でもある。夜になれば三線の音が響き、その音に誘われて集落を歩くと、庭で三線を弾きながら飲んでいる地元の人がいる。「一緒に飲むか」と誘われて、泡盛を飲み交わす——そうした幻想を抱く観光客も少なからずいる。僕のなかにも、きっと幻想はある。

「そういうイメージを持っている方がいても、それを壊さないように、『他の島に行けばそういうこともあるかもしれないですけど、竹富島はあんまりないですね』とやんわり答えるようにしてるんです」と正基さん。「でも、もし自分の庭でバーベキューしていたとして、そこに全然知らない人が通りかかったとしても、『一緒に飲んでけ!』とはならないですよね。それに、竹富島は夜静かなのがいいところだと思うんです。『夜はもっと賑やかなのかと思ってましたけど、意外と静かなんですね』と言われたら、『そこが島のいいところなんです』と答えるようにはしてますね」

話を聞かせてもらっていると、観光地は自分を写す鏡のようだと思えてくる。そこには自分が抱く幻想が投影されている。観光地で暮らす方たちも、持ち込まれた幻影を壊さないようにと気を遣いながら、観光客をもてなしてくれているのだ。「人間らしさを訪ねる旅」という言葉が、また頭をよぎる。

石垣の泡盛「請福」の水割りをいただいているうちに、夜は更けてゆく。集落は静まり返っていて、クバの葉が風で揺れる音だけが響いている。朝になって目を覚ますと、そこにカラスの鳴き声だけが加わっていた。日が昇り始めた頃に集落を散策すると、しょり、しょりと砂の道を歩く音が響く。他に物音はなく、自分の足音がやけに大きく感じられる。

宿に戻ると、食堂の台所でこどもたちが朝食をとっているのが見えた。定期船の第一便が到着する7時45分が近づくにつれ、車が慌ただしく行き交い始める。「うわー、寒い!」と声を上げ、こどもたちは学校に登校してゆく。昨日の最高気温は28度近かったというのに、今日は朝から20度を下回っている。沖縄は今季一番の冷え込みとなり、季節が冬に切り替わりつつある。

こどもたちを送り出すと、正基さんは宿泊客の朝食を作り始める。巧さんもきっと、こどもたちの世話に追われている頃だろう。旅行客だけが何もしない人として存在し、土地の暮らしを眺めている。今朝の朝食はポーク玉子だ。正基さんは最近「16時間ダイエット」をしていて、朝食抜きで過ごしているのだと昨晩話していた。味噌汁を作ったり目玉焼きを焼いたりするぶんには平気だけど、ポーク・ランチョン・ミートやベーコンを焼いているときは我慢するのが大変だと笑っていた。慌ただしく働いている今は、粛々とフライパンを振っている。

正基さんの運転する車で、港まで送ってもらう。集落と港に広がる原野も、昔はすべて畑だったのだと教えてくれた。9時45分になると、港に船がやってくる。昨日乗ってきた船だ。今日も竹富島には大勢の観光客がやってきて、マイクロバスに吸い込まれていく。帰りのフェリーはがらがらだ。フェリーの後方にあるデッキに立ち、小さくなっていく島を眺める。船上からは緑に覆われた風景が見えるばかりだ。ここからは見えない島の暮らしと、聞かせてもらった言葉を反芻しながら、これからどんなふうに生きていこうかとぼんやり考える。

*   *   *

*橋本倫史『観光地ぶらり』次回第3回「神戸・摩耶山」は2023年2月15日(水)17時配信予定です。

筆者について

橋本倫史

はしもと・ともふみ。1982年東広島市生まれ。物書き。著書に『ドライブイン探訪』(ちくま文庫)、『市場界隈 那覇市第一牧志公設市場の人々』、『東京の古本屋』、『そして市場は続く 那覇の小さな街をたずねて』(以上、本の雑誌社)、『水納島再訪』(講談社)がある。(撮影=河内彩)

  1. 第0回 : プロローグ わたしたちの目は、どんなひかりを見てきたのだろう
  2. 第1回 : いずれ旅は終わる 愛媛・道後温泉
  3. 第2回 : 人間らしさを訪ねる旅 八重山・竹富島
  4. 第3回 : 一つひとつの電灯のなかにある生活 灘・摩耶山
  5. 第4回 : 結局のところ最後は人なんですよ 会津・猪苗代湖
  6. 第5回 : 人が守ってきた歴史 北海道・羅臼
  7. 第6回 : 店を選ぶことは、生き方を選ぶこと 秋田・横手
  8. 第7回 : 昔ながらの商店街にひかりが当たる 広島/愛媛・しまなみ海道
  9. 第8回 : 世界は目には見えないものであふれている 長崎・五島列島
  10. 第9回 : 広島・原爆ドームと
連載「観光地ぶらり」
  1. 第0回 : プロローグ わたしたちの目は、どんなひかりを見てきたのだろう
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  9. 第8回 : 世界は目には見えないものであふれている 長崎・五島列島
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