観光地ぶらり
第2回

人間らしさを訪ねる旅 八重山・竹富島

暮らし
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赤瓦の町並みを保存した理由

沖縄が復帰を果たした1970年代には、沖縄のリゾート化が始まった時期でもある。昭和50(1975)年に本部町で開催された海洋博を契機に、沖縄の開発が進められてゆく。恩納村にある老舗のリゾートホテル「ホテルムーンビーチ」が開業したのも昭和50年のこと。この時期には内地の資本が沖縄各地の開発に乗り出し、竹富島にもリゾート開発の波が押し寄せる。

「復帰の前の年に、旱魃があったそうなんです。雨が降らない時期が続いたかと思うと、大きい台風が立て続けにやってきて、農作物が全然穫れなかったらしいんです。それで、竹富島で生活していくことを諦めて、土地を手放す方がいたそうなんです。その頃はちょうど高度経済成長の時期だったし、沖縄が日本に復帰するということで、それまでドルが通貨だったところから、円に切り替わるという時期でもあって。それまで360円だったドルが切り下げられることになって、『円に切り替わる前に売ったほうが得だ』という話にもなって。こっちの人は現金なんかあんまりもらったことがなかったから、『土地が現金になるんだ』と、『これで内地までの片道きっぷは買えるぞ』ということになって、土地を売って出ていく方がいらしたんです。その時代に、うちのじいちゃんは危機感を抱いて、『土地は末代、金は一代』を合言葉に、会を立ち上げたんです」

水資源の乏しかった竹富島に、水牛が導入されたのは昭和40代に入るころのことだという。現在では水牛車観光を楽しめるようになった

巧さんの祖父・昇さんは、大正15(1926)年生まれ。内地の大手資本が竹富島の観光開発に乗り出した時代に、兄の亨さんとともに「竹富島を生かす会」を立ち上げ、住民に「土地を売らないように」と説得してまわった。それが昭和47(1972)年のことだ。昇さんは「竹富島のこころ」と題した文章を綴り、党内各地に掲示した。

心輝かしい自然と礼儀正しい人々が暮らしている竹富島です。草も木も鳥も獣も海も砂も魚たちもみんな生き生き、お互いにこの島の清らかな環境を大切に大切に愛しみましょう。人間らしさを訪ねる旅。島の文化財や壷やかめなどを尊び島を傷つけ汚さないよう珊瑚や魚貝をまもりましょう。あなたの思い出に竹富島の心が熱く長く生きるでしょう。

やや唐突に差し挟まれる「人間らしさを訪ねる旅」という言葉に、胸が一杯になる。

「竹富島を生かす会」により、いちどは観光開発を諦めたかに思われたが、昭和57(1982)年にふたたび開発計画が持ち上がる。「竹富島を生かす会」は「竹富島を守る会」に発展し、昭和61(1986)年には「売らない、汚さない、乱さない、壊さない、生かす」を掲げる竹富島憲章が制定される。同時期に竹富町議会で竹富町保存条例が成立したことを受け、国は竹富島の集落を重要伝統的建造物群保存地区に制定する。これによって建物の増改築に関するマニュアルが定められ、赤瓦の町並みが保存されることになった。一連の運動で先導的な役割を果たしたのが、当時公民館長を務めていた上勢頭昇さんだった。

「聞いた話だと、じいちゃんは地域の人たちと相当喧嘩したみたいです」。巧さんが語る。「昔は茅葺(かやぶ)き屋根のおうちしかなくて、台風がくると飛ばされるんですよ。茅葺きから赤瓦に変わっても、どんどん劣化して雨漏りがする。お金を稼いで、コンクリート二階建てのおうちを建てるのは夢なのに、なんでお前はこのボロい家を残せと言うか、と」

竹富島には、今も数軒だけ瓦葺き屋根の建物が残っている

遡ること数百年、琉球王国時代には建築制限令が敷かれており、身分によって屋敷の広さや用材に至るまで制限が設けられていた。当時の身分制では全員が百姓に区分されていた竹富島では、茅葺き屋根しか建てることができなかった。明治22(1889)年に建築制限令が撤廃されたあとも茅葺の屋根が多く、明治38(1905)年になってようやく竹富初の瓦葺き屋根が誕生している。茅葺きに比べると雨漏りしづらいことから、赤瓦の屋敷を建てることはあこがれとなった。時代が移り変わり、コンクリート造の住居が沖縄各地で増え始めたときに、竹富島でも「台風でもびくともしないコンクリートのおうちを建てたい」と思う人たちがいたのだろう。沖縄各地にあったはずの瓦葺きや赤瓦の屋敷が姿を消し、そのほとんどがコンクリート造に建て替えられたことを考えると、それは自然な流れのように思える。どうして上勢頭昇さんは赤瓦の町並みを保存しようと働きかけたのだろう。

ひとつには、島を訪れた人たちから景観美を指摘されたことも影響しているのだろう。外村吉之介はその景観を称賛し、内地の知識人に呼びかけて「古竹富島保存会」を立ち上げている。外から訪れた人たちによって、集落の美しさが「発見」されたことで、そのかけがえのなさを強く意識するようになった部分もあるだろう。ただ、それだけが理由だとは思えなかった。

台風に負けない強固な屋敷を建てるには、大量の木材が必要となる。山のない竹富島では、建築資材を求めて西表島(いりおもてじま)に渡り、必要となる木材を伐り出してくる必要があった。時代が下るにつれ、より険しい山奥にまで分け入って木材を調達する必要がある。あこがれの赤瓦の屋敷を手にいれるまでには、幾多の苦難が刻まれている。だからこそ、赤瓦の町並みを簡単に手放すわけにはいかなかったのではないか。それがやがて観光資源となり、多くの観光客を呼び寄せるようになった。

生まれ育ったこどもたちは中学を卒業すると島を出る

「じいちゃんの時代は、観光の始まりの時代だったんです」と巧さん。「旱魃で農業が続けられなくなって、土地を売って外に出ていこうとする人たちが増えた時代に、『この赤瓦を守って観光客に来てもらえば、子や孫が島に帰ってこれるから』ということで、赤瓦を守ったんだと思うんです。そうやって観光の幕開けの時代があって、うちの父の代には大型化の時代になる。父は観光バスの会社に勤めていたんですけど、最初は小さなバスだったのが、お客さんが増えるにつれて大型化して、道路もアスファルトで舗装されたんです。父の代は、ある意味では量を求める時代だったと思うんですね。そのおかげで僕は大学まで行かせてもらったんですけど、車が増えたことで砂の道がどんどん傷んでますし、車でお客さんを案内しても雰囲気出ないんですよ。やっぱりこうやって歩きながらゆっくり話したほうが、この島のことをわかってもらえる気がするんです」

日帰りの観光客は、レンタサイクルで島内をめぐる。白砂の道には車輪の跡

雑誌『観光』(1984年10月号)に寄せられた邑芳徳(むら・よしのり)「沖繩・竹富島の町並み保存」には、「昭和51年ごろからいわゆるパックツアーの全盛となり、入域客は飛躍的に伸びた」と記されている。1995年には11万人だった入域観光客数は、2005年に41万人を超え、2015年には51万人にも及んでいる。365で割ると、1日あたり1400人近い観光客が訪れている計算になる。かつては島ごとに定期船を運航していたが、昭和46(1971)年に八重山観光フェリーが創業され、竹富航路にはホバークラフトが就航する。運賃が高い上に欠航が多く、数年で高速船に切り替わったが、ホバークラフトは石垣から竹富をわずか5分で結び、アクセスを飛躍的に向上させた。また、昭和53(1978)年には南西航空が石垣空港にB737-200ジェット機を就航させ、輸送の大型化が進んだ。アクセスしやすくなったことも、観光客数の増加に大きく寄与した。ただ、その一方で「島での宿泊客数が伸び悩んだ」とムラさんは書いている。

「ムラさんは、僕の踊りの師匠だった同子(ともこ)さんの旦那さんです」。巧さんがそう教えてくれた。同子さんは、上勢頭亨さんの長女で、巧さんからすると従伯母にあたる。“ムラさん”こと上勢頭芳徳さんは、同子さんと結婚し、上勢頭家に婿入りした。その旧姓から、島の人たちから“ムラさん”と呼ばれていたそうだ。

「ムラさんは長崎出身なんですけど、蒐集館に学びにきているうちに、島に残りたいと言って婿入りして、島外出身の人としては初めて公民館長もされてたんです。ムラさんは『探検隊』とかいって、島のこどもたちを集めて海に連れて行ってくれたり、島の歴史や文化を教えてくれたりしてましたね。これは父から聞いた話なんですけど、ムラさんは『竹富の文化を刷り込めば、どこに放っても戻ってくる』と言っていたらしいんです。ムラさんが言った通り、僕は中学校3年生のときに『この島で子育てがしたい』って書いて、実際に島に戻ってくることになったんですよね。そういう意味では、もちろん昔ながらの建物が残っていることも大事だけど、それだけだとテーマパークになっちゃうと思うんですよね。ハードだけじゃなくて、ソフト——住んでいる人たちに魅力があったんだと思います。ここで過ごした時間が楽しかったから、子育てするならこの島がいいと思っていたんです」

竹富町立竹富小中学校のグラウンド。芝はきれいに刈りそろえられている

竹富島が観光客で賑わうようになったのは、昔ながらの集落が残っているからだ。ただ、巧さんが言うように、昔ながらの建物を見学するだけなら、テーマパークで事足りる。観光客であるわたしにとっても、暮らしている誰かと出会うことは、旅の魅力となる。それに、ここに暮らしている誰かがいなければ、竹富島に宿泊することもできなくなってしまう。ふらりと観光で訪れることができるのは、ここに暮らし続けている人たちがいるからだ。より正確に書けば、この島に戻ってきた人たちがいるからだ。

竹富島にあるのは小中学校だけだ。つまり、この島に生まれ育ったこどもたちは、中学を卒業すると島を出ることになる。

巧さんもまた、中学卒業後に竹富島を離れることになった。どうせ出るなら早いうちに遠くに出ようと、石垣島ではなく沖縄本島にある高校に進学し、卒業後は母の実家がある岡山の大学で学んだ。就職活動は順調に進み、瀬底島(せそこじま)にオープン予定だったホテルに内定をもらっていたが、リーマン・ショックの煽りを受けて卒業間際にホテルは倒産してしまう。

「内定が取り消しになって、しばらくひきこもりみたいになってたんです。せっかく国立大学まで行ったのに、卒業しても就職できないし、民宿を手伝うにも経験値が足りなくて。じゃあ何するかって、思いつくのはコンビのバイトか居酒屋のバイトぐらいしかなかったんです。それはちょっと違うなと思って、ひきこもって過ごしてたんですけど、『岡山のおばあちゃんが心配してるから戻ってきなさい』と親から電話があって、島に戻ってきたんです。久しぶりに帰ってきてみたら、いちばん若い世代の島の先輩が10個上ぐらいの人しかいなかったんです。移住してきた方はいたんですけど、皆1年か2年で帰っちゃうんで、このままだと島の祭りとか作業が続けられないんじゃないかって、危機感を抱いたんです。15歳のときには見えなかった部分も見えてきたし、民宿を継ぐってこともリアルに考えられるようになったのもあったと思います」

民宿「泉屋」のおにわ

ただ、当時の巧さんにはうしろめたさもあった。せっかく大学まで出たのに、すぐ民宿を継ぐのかと思われているのではないか――。島の人たちは「よく帰ってきてくれた」と温かい声をかけてくれたが、島に移住してきた若い人たちから「もっと外の世界を見たほうがいいよ」と声をかけられることもあった。しばらく「泉屋」を手伝っていた巧さんだったが、26歳のときに一念発起し、恩納村(おんなそん)にある老舗のリゾートホテルに就職する。ちょうどインバウンドが右肩上がりに伸び、沖縄県を訪れる観光客が飛躍的に増加していた時期で、仕事は多忙を極めた。

「そのホテルは部屋数も多くて、ずっと行ったり来たりだったんです。チェックインしたお客さんを部屋に案内して、『非常口はあちらで、Wi-Fiのパスワードはこちらで』と同じことを繰り返し説明して——この仕事、ロボットでいいんじゃない? と思うこともあったんです。民宿をやっていると、お客さんと交流があるじゃないですか。そういうおもてなしの部分を学びたかったのに、お客さんとちょっと話してたら、インカムで『上勢頭、早く戻ってこい!』と連絡が入るんです。しかも低賃金・長時時間労働で、高卒の子だと手取りが10万切るんです。これは家族を養えないぞと思っていたところに、『そろそろ戻ってきてくれないか?』と連絡があって、28歳で泉屋を手伝い始めたんです」

これから先の時代に何を守りたくて、何を残したいのか

巧さんの話を聞いていると、「人間らしさを訪ねる旅」という言葉が思い出された。沖縄も、それに竹富島も観光客が伸びるにつれてオーバーツーリズムの軋みが生じ、「人間らしさ」から遠ざかる状況が生まれていた。八重山の離島をめぐるツアーは旅程が詰め込まれ、ツアーが団体客を先導しながら「竹富島はあんまり見るところがないですから」と言い、2時間だけ島を巡って帰っていく観光客もいるほどだった。そこにコロナ禍が降りかかり、状況は一変する。

「コロナが流行り始めた時期は、島民以外は船に乗れませんよって期間がしばらく続いたんです。人生で初めて、観光客がゼロの状態が続いたんです。その時間がすごく良くて、これが島の生活だなと思ったんです。朝起きて、『今日は天気が良いから海に行こうか』ってこどもを連れて出かけて、お腹が空いたら家に帰って、お昼を食べて昼寝をして、夜は星空を見に行って——極楽みたいな生活だったんですよ。観光客がいないと収入が途絶えて大変ではあるんですけど、島の皆で勉強会を開いて、これからは量より質を高める観光が必要なんじゃないかって話し合ったんです。観光バスに乗って駆け足で巡るのもいいけど、大人数で低価格の観光だけじゃなくて、いろんな選択肢があったらいいんじゃないか、って。やっぱり、僕らからすると、フェリーの最終便が出たあとが島時間だと思うんですよね」

定期船が到着する時刻には、港は大勢の観光客で溢れ返る

フェリーの最終便が出たあとは、島はすっかり静かになる。その時間帯に家族で海を眺めて過ごすのが巧さんの楽しみだという。ただ、竹富島の海にも、近年は漂着ゴミが押し寄せるようになった。こどもたちにきれいな海を残そうと、巧さんは「エシカルアイランド竹富」を立ち上げた。全国からマンスリーサポーターを募り、ビーチクリーン活動費や島のこどもたちに教育や体験を与える活動費を集めるプロジェクトだ。かつてムラさんが探検隊のリーダーとなってこどもたちに学びの場を提供したように、今度は巧さんが探検隊のリーダーとして活動しているのだ。

巧さんが3代目として切り盛りする「泉屋」は、現在休業中だ。妻の彩花さんが第三子を出産するにあたり、春までは産休をとっている。身を粉にして働くのではなく、どうすれば家族の時間を大切にしながら生きていけるかと、持続可能な生活スタイルを模索している。巧さんはこの秋から竹富町議会議員としても働いている。

「朝は9時ぐらいにこどもを保育所に連れていくんですけど、ひとりだとめっちゃ大変です。お弁当を作って、朝飯食べさせて、着替えと歯磨きをさせて出発する――それだけでくたくたになりますけど、『これがやりたくて島に帰ってきたんだよな』と思うんですよね。祭りの練習も大変ではあるけど、これが楽しくて帰ってきたんだよな、って。しなきゃいけないこともあるけど、島の生活も、民宿も、子育ても、議員なったのも、大変な部分もあるけど、『楽しいからしてるんだ』ってことを忘れないようにしなきゃと思ってます」

話を聞かせてもらっているうちに、お昼どきになる。巧さんと別れて、「竹の子」というお店で八重山そばを平らげて、海を目指す。集落を離れると、道路はアスファルトで舗装されている。旅行客が増えたことで海へと続く道路が舗装されたのもここ20年のことだ。

島を離れているあいだに道路が舗装されたのを見て、巧さんは「小さい頃の思い出がなくなったみたいでショックだった」と話していた。「ただ、島を離れた人が『この島は変わってしまった』というのは、めちゃくちゃダサいと思うんです。僕としては、変わるのはしょうがないと思うところもあるんです。変わったことで便利になったところもあるし、農業では少ししか稼げなかったのが、観光が始まって大勢のお客さんで賑わうようになって、そのおかげで大学にまで行かせてもらえたわけだから、そこを否定したくないんです。でも、自分が大人になったとき、これから先の時代に自分は何を守りたくて、何を残したいのか——それを考えるためには島に帰ってこなきゃなと思ったんですよね」と。

舗装された道路を15分ほど歩いて、コンドイ浜に出る。真っ白な砂浜の向こうに、淡く澄んだ水色の海が広がっている。観光客の姿はちらほらあるけれど、皆しずかに海辺に佇んでいて、静寂に包まれている。ここから数百メートル南に下ると、カイジ浜がある。コンドイ浜とカイジ浜のあいだの道路には「ならぬ」と書かれた立て看板があった。その近くでは「穏やかな暮らしを」と書かれた小さな看板も見かけた。この一帯には、現在もリゾート開発の計画が残っている。カイジ浜には無人販売所があり、星砂が売られている。これは海の中にいる光る有孔虫の骨格が打ち上げられたもので、名前の通り星のような形をしており、この一帯の海岸ではよく見受けられるものだ。昭和52(1977)年に小柳ルミ子の「星の砂」という歌がヒットしたことで竹富島を訪れる観光客が増え、当たり前に存在していた星の砂も観光みやげになるのだと、こうして販売されるようになったのだ。300円払って、小さな瓶入りの星の砂を買い求める。

  1. 第0回 : プロローグ わたしたちの目は、どんなひかりを見てきたのだろう
  2. 第1回 : いずれ旅は終わる 愛媛・道後温泉
  3. 第2回 : 人間らしさを訪ねる旅 八重山・竹富島
  4. 第3回 : 一つひとつの電灯のなかにある生活 灘・摩耶山
  5. 第4回 : 結局のところ最後は人なんですよ 会津・猪苗代湖
  6. 第5回 : 人が守ってきた歴史 北海道・羅臼
  7. 第6回 : 店を選ぶことは、生き方を選ぶこと 秋田・横手
  8. 第7回 : 昔ながらの商店街にひかりが当たる 広島/愛媛・しまなみ海道
  9. 第8回 : 世界は目には見えないものであふれている 長崎・五島列島
  10. 第9回 : 広島・原爆ドームと
連載「観光地ぶらり」
  1. 第0回 : プロローグ わたしたちの目は、どんなひかりを見てきたのだろう
  2. 第1回 : いずれ旅は終わる 愛媛・道後温泉
  3. 第2回 : 人間らしさを訪ねる旅 八重山・竹富島
  4. 第3回 : 一つひとつの電灯のなかにある生活 灘・摩耶山
  5. 第4回 : 結局のところ最後は人なんですよ 会津・猪苗代湖
  6. 第5回 : 人が守ってきた歴史 北海道・羅臼
  7. 第6回 : 店を選ぶことは、生き方を選ぶこと 秋田・横手
  8. 第7回 : 昔ながらの商店街にひかりが当たる 広島/愛媛・しまなみ海道
  9. 第8回 : 世界は目には見えないものであふれている 長崎・五島列島
  10. 第9回 : 広島・原爆ドームと
  11. 連載「観光地ぶらり」記事一覧
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