広島にある実家から尾道へ向かう。ゴールデンウィークの真っ只中、まだ朝早い時間にもかかわらず、そこは観光客であふれていた。当初、静かに開通したしまなみ海道は、なぜ今のような賑わいとなったのか。旅し、住む人の声を聴き、見えたもの。
春になるたびに尾道へ
幼い頃から、旅に連れられていくことが多かった。
思い返してみると、父もまたルポライターのような仕事をしていた。取材に出かける父に同行して、北海道から沖縄まで、全国各地に出かけてきた。観光名所にもたくさん足を運んできたけれど、記憶に残っているのは道中の風景だったりする。新幹線に乗る前に、駅の売店で『かりあげクン』のコミックスを買ってもらったこと。窓棚に置いたポリエチレン製のお茶の容器。新幹線の食堂車に飾られていた花。家族揃って遠出する日の朝、早くから車に揺られていた時間のことも、鮮明に記憶に残っている。家の中だとあまり聴くことのないラジオの音や、トンネルに入った瞬間に車内の色が一変することも物珍しく感じられた。朝早くからマクドナルドのドライブスルーに寄って、ホットケーキのセットを買ってもらって嬉しかったこと。ホットケーキという存在も、ドライブスルーで買い物をするということも、それだけで胸が高まることだった。
あの日は一体、どこに出かけたんだっけか。ゴールデンウィークに帰省した折に、母に尋ねてみると、きっと因島(いんのしま)に出かけたときのことではないかと母は言った。因島といえば、瀬戸内海に浮かぶ大きな島だ。そのときはおそらく、国道2号線を東に進み、三原から船に乗ったのではないかと母は言った。三原と因島を結んでいたカーフェリーは2021年春に廃止されてしまったから、現在ではもう三原から因島へ車を積んで渡ることはできないけれど、当時はまだカーフェリーが運航していた。ただ、カーフェリーがあるのだとしても、船で因島に渡るより、尾道から橋を経由して島に渡るほうが、今としては一般的な感覚だという感じがする。その場合、運転距離は80キロほど。三原港からフェリーに乗るなら、運転距離は半分の40キロで済む。運転距離が短いほうが楽か、車に乗ったまま目的地を目指すほうが楽か――そのあたりの感覚も、この40年で変わったのかもしれない。そもそも「遠出する」という感覚からして、親の世代とはずいぶん異なるのではないか。
「今のように、ゴールデンウィークじゃけゆうて、皆が一斉に旅行に出かけるようなことはなかったねえ」。昭和26(1951)年生まれの母が言う。「このあたりの人らでも、休みの日に遠出するゆうことは滅多になかったよ。どっかに出かけるゆうたら、ひとつは海水浴。うちらの時代は、おんなしくらいの年のこどもが多かったけん、同じ班のこどもらを連れて、貸切バスを借りて海水浴に行きよったよ。あの頃は班のつながりが強かったけん、1年に1回、班で旅行に行きよったよね。大体2月か3月ごろ――その時期じゃったら農作業でやらんにゃいけんことも少ないし、ちょうど年度が変わる前で、班長が変わる時期じゃけんね。その旅行はね、別に強制参加ではないんじゃけど、あの時代は楽しみが少なかったから、班の人はほとんど参加しよったね。家族だけで行くと高くなるけど、皆で行けば安く済むいうのもあったんじゃないかね」
その時代にはまだ、家族が揃って家を開けるということは敷居の高いことだったのだろう。明治27(1894)年生まれの小島政二郎の小説『眼中の人』には、こんな一節がある。
私は東京の下町に生まれた。下町はシキタリの巣だ。夫婦が揃って外出すると、町内で目引き袖引きして笑う。なぜ笑うのか、大して理由はないらしいのだが、夫婦が揃って留守にするというシキタリがないのだ。シキタリのないことをすることが、冷笑を呼ぶらしい。強いて理由を求めれば、商人たちの克己主義に抵触するのだろう。夫婦揃って外出することが、商人道からいうと、ひどく贅沢に見えるのだろう。
東京の下町に限らず、昔は全国各地に「シキタリの巣」があったのではないか。
僕が生まれ育った町は、もともとは小さな農村だった。農業に従事する人たちが大半を占めていた頃はまだ、地域のつながりが今よりずっと強かったのだろうし、農業をやっていると気軽に遠出することもできなかったのだろう。ただ、母の父――つまり僕の祖父は、まだ幼かった母を連れて行楽に出かけ、「農作業もせずに出歩いている」と小言を言われていたそうだ。母が幼い頃のアルバムを見ると、春になるたび尾道に足を運んでいたらしかった。
「うちらが小さい頃だと、桜並木なんかどこにでもあるもんじゃなかったんよ。それで、尾道は桜がきれいじゃって話は昔からあったみたいで、春になると尾道に行きよったんじゃろうねえ。お母ちゃんも、普段はもんぺを履いて生活しよったけど、汽車に乗るわけじゃけん、小旅行気分よね。『主婦の友』ゆう雑誌に、洋服の型紙がついとったんよ。その型紙は自分の体型と違うんじゃけど、お母ちゃんは自分に合うちょうどええサイズに調整して作るのが上手じゃったんよね」
写真の中にいる母は、まだ3歳になったばかりだ。祖母もまだ20代である。若い日の祖母の姿を見るのは初めてだから、不思議な感じがする。写真に写り込んでいる人たちも皆、ちゃんとよそいきの格好だ。その写真が撮影された頃から70年ほど経過した今ではもう、休日に背広姿で電車に乗っている人というのは、ほとんど見かけなくなった。
しまなみ海道はいかにして「サイクリストの聖地」になったのか
山陽本線の車窓から見える風景には、赤瓦の屋根が続く。うちの実家のあたりは、冬の冷え込みが厳しく、寒さに強い石州瓦(せきしゅうがわら)が使われていて、瓦の色が赤いのだ。線路の向こうには田んぼが続いていて、なかには水が張られたばかりの田んぼもある。今はちょうど田植えの季節なのだろう。糸崎で電車を乗り換えると、ほどなくして瀬戸内海が見えてくる。海に見惚れているうちに、電車は尾道駅にたどり着く。
ゴールデンウィークの真っ只中。尾道駅に降り立ってみると、まだ8時過ぎだというのに観光客の姿があった。尾道は市内には古刹三十三寺が点在し、戦災を免れたことから古い街並みが残っている。大林宣彦監督の作品をはじめとして、映画のロケ地としても知られているが、今は何より、しまなみ海道の本州側の玄関口として賑わいを見せている。
しまなみ海道が開通したのは、ちょうどゴールデンウィークの時期だった。1999年5月1日、本州と四国を結ぶ中四国連絡橋の最後の橋として、しまなみ海道の開通式が開催された。ただ、昭和63(1988)年の春に瀬戸大橋と青函トンネルが開通したときには「一本列島」という言葉が人口に膾炙(かいしゃ)し、日本列島がひとつにつながるということに世の中がわいていた記憶があるのだけれど、しまなみ海道の開通で街が盛り上がっていたという記憶はあまり残っていない。当時の資料に当たってみると、地元でもいまひとつ盛り上がりに欠けていたという空気が伝わってくる。
いよぎん地域経済研究センターが発行する『IRC monthly』(1998年4月号)に、「夢大橋しまなみ街道によせる」と題した座談会が掲載されている。その冒頭、司会を務めるいよぎん社長(当時)・田中貞輝は、「開通が近づいても地域の活性化の担い手になる産業なり、資源なり、そういうものがなかなか私達には見えてきにくいところがあって、もう一つ盛り上がりが感じられない」と、率直な感想を漏らしている。また、バブル崩壊の影響は大きく、民間企業も大規模な観光開発に乗り出せずいるのだ、と。
この座談会のなかで、今こそ四国観光を売り出すべきだと語っているのが、道後温泉旅館協同組合理事長の奥村武久だ。奥村は「瀬戸内海というのは、四国にとってこれまで全く観光資源でなかった」とした上で、「今度は本当に瀬戸内海を商品として売り出さなければならない」と語っている。
奥村 自転車というのは、例えば愛媛県全体の観光から見たら、非常に小さいですよね。自転車による波及効果というのは少ないですが、島が観光地になるという意味では非常に大きい。島そのもの、このルートそのものを観光地として見れば、これは非常にいい。そうすると、あそこを通ってくる人も、これはいいなと思って来る。観光バスが通るだけで、島には人がいないということではどうにもなりません。この三橋のうち、瀬戸内しまなみ海道だけが自転車道があるという宣伝ができる。
――自転車で回れば、あの島なら3日位かけて回れるコースが作れますから、2泊のコースは十分に作れる。
中野 そんな人はいないのではないですか。話はあるでしょうが、3日もかけて回るなんて…。橋を通る時だけが自転車道で、後は一般道に入らなければならないのです。
ここでサイクルツーリズムに対して悲観的に語っているのは、当時伯方町長だった中野敏光だ。伯方町としては、観光客を呼び込むというより、「気が向いたら降りてきて貰えればいい」のだと、どこか冷ややかだ。しまなみ海道に設置された自転車道に対しても、「今治のほうでワーワー言っているけれど、町は取付道路で1億6000万ずつ出したんです」と、負担の大きさに注文をつけている。この時代にはまだ、サイクリング客で街が賑わう光景は想像もつかなかったのだろう。それが今や、しまなみ海道は「サイクリストの聖地」となった。名所旧跡やテーマパーク、名物料理を目指して観光客がやってくるのではなく、しまなみ海道を自転車で走ること自体が旅の目的となったのだ。
一昔前まで、旅先で借りるレンタサイクルというと、観光協会が貸し出すママチャリだった。ただ、近年ではシェアサイクルが普及し、あちこちにサイクルポートが設置されている街も増えている。尾道の場合、駅の周辺にレンタサイクルショップが何軒もある。僕が予約したのは、駅から数分歩いたところにあるレンタサイクルショップだ。1か月前には予約はほとんど埋まっていて、手配できたのは小ぶりな自転車だった。電動アシスト付きのタイプで、1日7000円という価格に、ちょっとたじろぐ。この価格で予約が埋まるというところからも、人気のほどが伺える。
しまなみ海道の開通に合わせて始まったレンタサイクルは、初年度の1999年には約7万台(広島側が13000台、愛媛側が57010台)を記録したものの、そこから減少の一途を辿り、2005年には3万台を割り込んでいる。架橋効果が薄れ、観光客が右肩下がりとなった2005年に、自転車モデルコースづくり事業が始まっている。この取り組みは、地域住民を主体とする「しまなみスローサイクリング協議会」に発展している。しまなみ海道沿いに点在する地域資源を繋ごうと、愛媛県側に位置する大島、伯方島、大三島の3島の住民が集まり、「自転車の旅」という新しい提案をする方策を語り合った。少しずつサイクルツーリズムの認知度が増してゆき、2005年に底を打ったレンタサイクルの利用台数も徐々に増加してゆく。
こうした草の根の運動に加えて、行政の取組も状況を好転させた。2010年に愛媛県知事選挙に立候補した中村時広は、公約のひとつに「しまなみ海道を世界に情報発信する」ことを掲げ、3本の中四国連絡橋のなかで唯一自転車道を備える特徴を活かし、サイクリングを観光の切り口にすることを考えた。
もともと松山市長を務めていた中村時広は、市長時代から取り組んできた松山―台湾航路を就航させるべく、2011年に台湾を訪問した。その際、世界的な自転車メーカー「GIANT」の本社に飛び込みセールスを行い、初対面の劉金標(リウ・ジンビャオ)会長と面談をおこなった。こうした行動力に、商社出身の政治家らしさを感じる。当初は40分の予定だったところ、3時間半にもわたって語り合い、2011年4月には今治市にGIANTストアを出店させ、同年5月には劉会長をしまなみ海道に招聘している。そこで劉会長は、愛媛県知事や広島県知事とともにしまなみ海道のサイクリングを楽しみ、「風光明媚で、特に橋から眺める瀬戸内の島々の景色は素晴らしく、世界的にも珍しい」「台湾のサイクリストにも是非見に来てほしい」とコメントを残した。2014年には国際サイクリング大会「サイクリングしまなみ」が開催され、34カ国と地域から7000名を超えるサイクリストが参加した。この2014年には、広島県側の貸出台数が愛媛県側を上回っている。しまなみ海道が「サイクリストの聖地」となったことで、遠方から新幹線でしまなみ海道を訪れる観光客が増えたのだろう。