セカイ(系)。「主人公の周囲の小さな問題と、〈世界の終わり〉のような大きな問題が短絡的に結びつけられる」作品に対して使われてきた言葉。そんなセカイ(系)の作品はかつて「中間にあるはずの〈社会〉が欠落している」と批判や揶揄の対象となっていました。しかし2020年代の今、スマートフォンゲームから音楽配信代行サービスにいたるまで、カタカナの「セカイ」という表記が再び存在感を増しています。
個人編集の「セカイ系」同人誌『ferne』が話題を呼んだ編集者・北出栞さんが、アニメや音楽、美術作品などに見られるイメージを横断しながら、「セカイ」という言葉に宿るリアリティの正体を探ります。
「子供の遊び」を肯定する
ここ数回に渡って、主として動画プラットフォームに投稿されるミュージックビデオやゲームのプロモーションムービー、あるいは「人ではない」合成音声によって作られた音楽について考察してきた。これらは現代のポピュラー文化において強い求心力を持つが、比較的新しい表現形態であることもあり、従来の映像批評や音楽批評では俎上に上がりにくい対象だ。
そこでその制作に使用されるデバイスやソフトウェアに遡ることで、鑑賞者だけでなく制作者の立場を考慮に入れた評価軸を提示することを試みた。個人での楽曲リリースを容易にするTuneCoreをはじめとしたディストリビューションサービス、ソーシャルネットワークを介した共同制作の一般化などにより、「作品」「作者」という概念の重みが変わったこともデジタル化の進展により生じた大きな変化だ。ともすると「軽い」と見られがちな新しい表現形態が持つ求心力については、作品が制作・流通される環境まで含めて考えなければならない。
また内容面においては、「どこでもなさ」「誰でもなさ」「切断」「空白性」などのキーワードを用いつつ、(これも従来の基準からすれば)中途半端さや説明不足と切り捨てられてきただろうストーリーテリングや舞台設定を、積極的に評価してきた。
先述したように「作品」「作者」の意味合いが変化した現状は、プラットフォームの立場が優位となり(たとえばYouTubeのサービスが終了したら、そこに投稿されたコンテンツは二度と観られなくなってしまう)、「誰と誰がコラボレーションしたか」といった社会関係的なトピックが注目を集めるきっかけになりやすいといった問題と裏表一体だ。作品と一対一で深く向き合う、孤独な鑑賞経験によって得られたものの価値を再建するためには、内容面においても新たな評価基準が必要だと考えた。
そして、この両者を縫い合わせるキーワードこそが「セカイ系」なのだということが、筆者自身にとっても次第に明確になってきた。
「セカイ系を肯定する」ということは、作品制作におけるアマチュアリズムの肯定であり、「子供の遊び」の肯定である。『エヴァ』旧シリーズに止め絵や省略のテクニックが多用されたのは制作時間や人手不足などの原因があったからだし、『ほしのこえ』がやはり短い止め絵の連続でできた、アニメというよりは「映像詩」のような感触を残す短編作品だったのも、単に新海誠がひとりでそれを作ったからである。庵野秀明も新海誠も自主制作畑の人間であり、「作る」ということが単に楽しいからやる、というアマチュアリズムの経験がベースにあるからこそ、業界の慣習に囚われない柔軟な制作スタイルをとることができたのだ。
デジタル化は何よりも、彼らのような「子供の遊び」の延長で作品を作るタイプの活躍を後押しする。その達成が「社会(的な人間ドラマ)が十分に描かれていない」という理由で切り捨てられてしまっては、リソースの限られた個人制作者が「まず作ってみる」ことの自由さを阻害することにもなりかねないだろう。「成長」を描かない(描けない)とされる、セカイ系の内容面における「幼児性」というのも、次の創作へのジャンプ台としての「未完性」、プロトタイプになるという意味では、ポジティブに捉えることができるのではないだろうか。
スマートフォンと「作る」ということ
さて、「個人で作る」ことの裾野がここまで広がったのは間違いなくデジタル化の恩恵が大きいわけだが、2020年代の現在、スマートフォンの普及によるコンピュータ体験の変化についても考えなくてはならないだろう。
誰もがデジタルデバイスを持つ時代になったにもかかわらず、庵野秀明や新海誠のようなクリエイターが増えたわけでもないということを、どのように捉えれば良いのかという問いが残されているのだ。
iPhoneが発売されて15年あまり、スマートフォンは個人用デジタルデバイスのデファクトスタンダードとして、社会に行き渡っている。「フォン」とは言うが、その実態は電話というよりは「画面に触って操作することのできる、小型のインターネット接続デバイス」と言ったほうが正確だろう。
タッチインターフェースを介したその「直感的」なユーザー体験は、コンピュータの持つ階層構造――複雑な電子回路の集まりであるハードウェアがあり、プログラミングによってその動作を制御することでソフトウェアが実現している――を意識させることなく各種機能を利用することを可能にした。スキューモーフィズムと呼ばれる、たとえば電子書籍において「紙をめくる」をアニメーションで再現するようなデザイントレンドが廃れ、フラットデザインと呼ばれる、光沢感や立体感を廃した、最低限の色や形からなるデザインがスタンダードになってからもすでにひさしい。
以前にも引用したインタラクション研究者・渡邊恵太の言葉を借りれば、スマートフォン+インターネットに接続したアプリケーションの時代とは「脱メタファ」の時代である(『融けるデザイン』)。たとえばタイプライターの延長上にあったキーボードが廃れ、フリック入力というスマホオリエンテッドな入力方法に取って代わったり、Twitterが現実世界の他のどんな道具やサービスにも喩えられない(=メタファとしての対応物を持たない)用途と文化を生み出していることなどからも理解できるだろう。
スマートフォンでは、実のところ非常に多くのことができる。カメラで写真を撮ったり、動画を撮ったり、絵を描くことも、楽曲を作ることも、アニメーションを作ることすらもできるだろう(試しに「スマホ アニメ制作 アプリ」などで検索してみると良い)。それでも「作る」ためのデバイスとしてスマートフォンが一般的に認識されないのは、「作った」ものをソーシャルメディアにシームレスに投稿することができてしまうからなのではないか。
「作る」という経験は、そもそもが脱社会的な経験である。少なくとも筆者が「セカイ系」という言葉で肯定しようとする、「子供の遊び」的な意味合いにおいては。それが「売れる」かどうか、誰かに評価されるかどうかということは、一義的にはどうでも良いのだ。「作る」それ自体が思考を創発し、次の「作る」につながっていくような経験。なにより無から形になっていくことが楽しいから、それをするのである。
しかしスマホで撮った映像、録った音声というのは、すぐにソーシャルメディアに放流することができてしまう(実のところそれは機能というよりは、習慣の問題なのだが)。一度放流したら最後、どれだけの「いいね」がついたか、再生数がカウントされたか、まったく気にせずいることは難しい。デジタル化は数値という「貨幣的価値」を、残酷なまでに表現物に与えてしまう。TikTokやInstagramが代表的だが、昨今ではプラットフォーム側が編集・加工ツールを提供することもあり、特に数を稼いだユーザーは「クリエイター」と呼ばれ持て囃される。そうして、自分も「クリエイター」になりたいと、後に続くユーザーが「評価を得るために作る」転倒が起こるのだ。
そして、そんな各種プラットフォームは、ユーザー体験を向上させるという名目で個人の趣味嗜好を収集し続ける。「作る」自由を文字通り手中に収めたはずの個人が、その自由を満喫するほどにビッグテックの利益を生み出す一部に、つまり「道具」になってしまうという転倒が起きている。その便利さからは容易に逃れられない。コンテンツを閲覧するほどに、また自ら発信を繰り返すほどに、ソーシャルメディアのアカウントと「私」が紐づいていく。どれだけ精度の高いレコメンドエンジンを「育てる」ことができたかが、あるいはソーシャルメディア上での発信がどれだけ注目されたかが、「私」という人間の価値を映し出す鏡のようにも思えてしまう。
東浩紀の語る「触視的平面」
昨今、2000年代初頭のポップカルチャー表象を反復する「Y2K」がブームだ。当時の「サイバー」なメディアイメージは、コンピュータが「直感的」なタッチインターフェースに覆われる前の時代を象徴しており、実世界に存在する水や石などのマテリアルを愚直に再現しようとしたCGや、デスクトップ上に無数に重なりながら展開するウィンドウなど、今の目から見ると相当に「野暮ったい」印象を与える。加えて、当時は通信速度が低かったゆえに、リアルタイムにグラフィックを表示させることもできなかっただろうし、単純にCPUの性能の低さから、画面がカクつくことも多かっただろう。物理的に当時のデジタル環境は「遅い」ものだったのだ。
そうした現在の基準から言えば「動作不良」にも感じられるだろう経験は、コンピュータをあくまで自分自身からは切り離された客体として認識する経験でもあったはずだ。Y2Kブームの本質とは、タッチインターフェースとフラットデザインの「ヌルヌル」「サクサク」とした操作感によって、毎分毎秒「私」が溶け出していく現代のデジタル体験に対する立ち止まりの機会を、人々がそのイメージに託しているからのように思えてならない。
パソコンの時代、ディスプレイ上には新しい「距離」が誕生した。映画のスクリーンやテレビの画面と同じような平面に見えても、マルチウィンドウが重なるイメージに象徴されるように、そこには(仮想的な)奥行きがある。批評家の東浩紀は視覚文化論を刷新する目論見もあったのだろう、深層の「データベース」と表層の「イメージ」を区別する議論を行ったが(『動物化するポストモダン』)、実際にはGUI(グラフィカル・ユーザー・インターフェース)とはコンピュータを技術者でない人間にも扱いやすくするための――たとえるなら家電のスイッチやドアノブと同じ――文字通りのインターフェースにすぎない。「目に見える」ことではなく、それによって「誰もがコンピュータを扱える」ようになることが重要なのだ。
哲学研究をベースとする東が一貫して関心を寄せるのは、デジタル時代における新たな「主体」についての議論である。90年代末に書かれた「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」ではイメージ(見えるもの)とシンボル(見えないもの)を二重に処理する主体が、いわゆるポストモダンにおける新しい主体像として描き出されていた。GUIとは、遡れば二進法で表される記号的な情報処理を、「目に見える」形で行えるようにするものなのだからと。
それがタッチパネルの時代に至り、より直接的に実現されるようになったのだと東は言う。直近の論考「触視的平面について」(『観光客の哲学 増補版』、ゲンロン、2023年に収録)において東は、コンピュータ科学者、アラン・ケイによるGUIの構想が「手の動きがスクリーンのうえでイメージの動きを生み出し、イメージの動きが手の動きを誘導する」ことにあったとする。「目」と「手」の感覚横断性。こうした経験の場であるGUIを、東は「触視的平面」と名付ける。
ケイは、コンピュータの操作を粘土遊びに近づけるために新たなインターフェイスをつくった。したがって、そんなインターフェイスの思想が普及し、触視的平面に取り囲まれたぼくたちの時代は、たんなる映像優位の時代なのではなく、むしろなにもかもが粘土のように「触ることができる」ようになったと感覚される時代なのだと捉えたほうがよい。
ケイは、グラフィカル・インターフェイスが可視化するのは、あくまでもイリュージョンであり、コンピュータの動作そのものではないことを強調している。コマンドラインの時代には、専門家は頭のなかでイリュージョンをつくっていた。しかしそんなことができる人間は限られている。そこでケイは、イリュージョンを見えるものに変えることで「ユーザーのシミュレーション能力の増大」を実現しようと試みた。
イリュージョンとは、東が訳したケイ本人の言によれば「システムがどう動いているのか、つぎになにをするべきかを説明する(そして推測する)」ために組み立てられる、「単純化された物語」である。「ウィンドウ」「メニュー」「アイコン」などをガイドに、複雑なソースコードを読み解くことができなくてもコンピュータに対して致命的な動作エラーを起こすことなく、順番通りに命令を下すことができるだろう。
なお、東は上記のようなGUIの設計思想を以下のようにパラフレーズしつつ、フェイクニュースやいわゆる「トランプ現象」といった現代社会の諸問題へと焦点を合わせていく。
ウィンドウやアイコンはあくまでも「にせもの」にすぎない。ケイはそんなことはわかったうえで、その「にせもの」が「にせもの」のまま触られ、操作され、「ほんもの」を変化させてしまうような世界感覚を構築しようとしたのである。
触視的平面の時代においては、ひとは「にせもの」の彼方に「ほんもの」があるはずだと考えない。現代は、「にせもの」が「にせもの」として触られ、操作され、加工され、多くのひとがその操作そのものに快楽を覚える時代であり、また「にせもの」を触っているだけでもいつか「ほんもの」に届くはずだと信じられる時代なのだ。
ここでの「ほんもの」「にせもの」とは、先に紹介した論考「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」における「見えないもの」「見えるもの」と、それぞれ同義である(映画『マトリックス』を観たことがある人は、同作の冒頭に出てくる緑色のソースコードのイメージと、同作の核心的な設定の関係を思い浮かべてもらえればいいだろう)。なぜこんなことを東が語るのかと言ったら、彼にとっての主眼はあくまで「触視的平面」の時代における哲学――万人にとって普遍的な「知」の原理――を追求することにあるからだ。
東曰く、20世紀の知識人は映画をモデルに、「見えるもの(スクリーンに登場する俳優)」に注目するだけでなく、「見えないもの(それぞれのシーンを撮影する監督=カメラの視線)」に注目しなければ、物事の価値を正しく判断することができないと語ってきた。いま映画のスクリーンからタッチパネルに「見る」ことのインターフェースが変わったのなら、それに応じた知のあり方を構想しなければならない(そうでなければフェイクニュースなどの問題に知識人は対応できない)だろうと、東は現代の哲学者・批評家として問題提起を行っているのである。
Y2Kブームの本質
しかし、「作る」立場をデジタルについての思考に導入しようとしている私たちには、こうした議論の展開に物足りなさも感じられる。そもそも「作る」ことにおいて、「ほんもの」と「にせもの」のような区別は必要とされるのだろうか? 粘土遊びというのは良い表現だが、粘土遊びをする子供=クリエイターは、単に手元の粘土が形を変えていくこと、それ自体が面白くて粘土をこねるのではないのか。
また、そもそも知識ということについて「見る」に偏重しているのも気にかかる。言葉で物事を整理する哲学者・批評家としての職能意識が強すぎるがあまり、職人が日々の作業の中で非言語的に蓄積していく「手仕事の知」のようなものは、無自覚に軽視されているようにも思えるのだ。確かに哲学が対象とすべきその時代の普遍的な主体……すなわち大多数の人間は、圧倒的にデジタルデバイスを「見る=触る=使う」ことに留まっており、「作る」ことまでする人は少ないかもしれない。しかし「作る」ことのハードルが各種ソフトウェア、アプリケーションによって低くなり、普遍的に開かれたものになりつつあるのも確かなのだ。
東の議論に欠けているのは、デジタルであれアナログであれ、何かを「作る」には常に「時間がかかる」という視点である。振り返ってみれば、「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」を発展させ「データベース」理論(オタク=キャラクター文化の愛好者は図像の背後にある「萌え要素」のデータベースにアクセスする経験を同時に消費している、という理論)を打ち出した主著『動物化するポストモダン』においても、ユーザーがデータベースにアクセスする/コンピュータがその入力を受け付け処理する際に生じる時間については不問に付されていた。「触視性」の議論にしても、GUIの構想時点で「目と手を往復する=触視する」ことがその理想に含まれていたというのなら尚のこと、タッチインターフェースの出現以前/以後を分かつのは「ついに本当に触って操作できるようになった」こと以上に、ユーザーの入力を受け付けてコンピュータが反応を返すまでにかかる時間の違いであるはずだ。
Y2K、すなわちパソコン普及期の2000年代初期には存在したデジタル機器の「動作不良」や「遅さ」とは、要するに粘土で言うところの「抵抗」である。モノの側から手に押し返して来る感覚。フィードバック。それはインタラクションにかかる時間である。「作る主体」にとっては、素材と触れ合う際に生じるこうした時間こそが何より大切なものだ。いま、執筆という「作る」行為をしている私にも、たまにデジタルデバイスから離れて紙とペンを使ってメモをすることで、指先から伝わる紙にペンが擦れる感覚から、新たなアイデアが生じてくるような気がする……ということはよくある。
ところで、かつて東はセカイ系のこともGUI論と同じ構図の中で論じていたのだった。そこに共通していたのがラカン派の精神分析理論である。
ラカンは乳幼児の精神的な発達を説明するための理論として、「鏡像段階」というものを唱えた。家の中で親に守られている、鏡に映った自分を「これは自分だ」と認める過程で、乳児の自我は発達する。しかし家の外に出ると当然、鏡の中の自分とは違う姿をした人間と出会うことになり、その中で「他者」という概念が育っていく。ただしここまではあくまで概念(イメージ)の世界で、現実の社会生活をともにする他者とは、言語(シンボル)による世界の分節ができるようになって初めて出会うことができる(概念上の他者は「大文字の他者」、実際的な他者は「小文字の他者」と区別される)。
以上を踏まえて、ラカンの理論の中ではイメージの世界が「想像界」、シンボルの世界が「象徴界」と名付けられる。そして、ラカンはもうひとつ「現実界」というものを定義している。これは人間の成長過程のまったく外側にある、さまざまなモノの物理的な実在や、自然災害などがもたらす圧倒的な「力」そのものが属する世界と言える。
東がGUI上でイメージとシンボルを二重に処理する主体をポストモダンの新たな主体のモデルとして描き出したことは先に述べた。それを上記を踏まえて、「コンピュータデスクトップ画面の平面性は象徴界と想像界の境界を抹消する」と表現していたわけだ(河出文庫『サイバースペースはなぜそう呼ばれるか+』扉より)。
そしてセカイ系のことは、「想像界と現実界が短絡し、象徴界の描写を欠く」という風に評していたのである(『セカイからもっと近くに』)。東の説明によれば、「象徴界」は「社会の公共的な約束事や常識」、「想像界」は「恋人や家族など親密圏内部での幻想の世界」、「現実界」は「常識も夢もともに壊すリアルなもの」ということだった。これまで何度も引用してきたセカイ系の「社会という中間項の排除」という定義も、実のところラカンをたびたび参照する東の影響力によるところが大きい。
ここで注目したいのは、東のGUIについての考察の中に「現実界」に関する言及がないことである。一方セカイ系についての考察の中にはある。この差異には逆説的に、セカイ系をデジタル時代の制作の理論として再構成するためのヒントがあるように思われる。
「現実界」とは何か
デジタルの経験における「現実界」とは何か。精神科医でポップカルチャー批評も手がける斎藤環はCGアニメを例に、キャラクターの画像イメージを「想像界」、そのイメージを作り出す幾万行ものプログラム言語が「象徴界」、プログラムが走らせるコンピュータのハードウェアを「現実界」にあたると説明していた。なお、その後に「現実界」は絶対的な深層にあるというわけではなく、あくまでアニメに没頭する観客の立場から最も不可知な位置にあるのがハードウェアだということであり、三つの「界」の間にはヒエラルキーがないということも付け加えられている(『生き延びるためのラカン』)。
「作る」ことは本質的に脱社会的で、「壊す」こととも表裏一体な行為である。パソコンやスマートフォンを使って作品を「作る」にあたって、ハードウェアのような物理実体があることを意識しながら「粘土をこねる」=GUIに触れることは、「作る」という行為それ自体の持つ力を、ソーシャルメディア的な評価経済のメカニズムから脱したところでドライブさせるための手助けとなるように思われる。
「言葉によってもイメージによっても把握しえない次元」(向井雅明『ラカン入門』)とも説明されるように、「現実界」は常に否定形で捉えられるがゆえに、GUI上でのイメージとシンボルを練り上げる運動の反復の中で、「決してそれ自体は知覚できないもの」として出現と消滅を繰り返す。東はこうした否定形でのみ捉えられる対象についての語りを「否定神学」として一蹴するのだが、未だこの世にあらざるものを生み出す「作る」という行為を捉えるにあたって、この種の思考は決して手放されてはならないだろう。
ここで再び目を向けたいのが新海誠である。彼の作品は「緻密な風景描写」で知られるが、その「緻密さ」の背後にはハードディスクにあらかじめ大量に撮り貯められたデジタル写真をイメージソースにしているということがある。とある座談会の中、「デジカメ画像が膨大にPCに入っていて、それを無作為に選んで加工して絵を作っているような感じがする」という東浩紀の指摘に答えて、新海は以下のように語っている(『コンテンツの思想 マンガ・アニメ・ライトノベル』、青土社、2007年より)。
新海 たしかに、おっしゃるとおりなんですよ。大量のデジカメ画像があって、これかなあっていうふうに選んでくるんですよね。それは『雲のむこう』(筆者注:デビュー2作目『雲のむこう、約束の場所』。『ほしのこえ』が完全にひとりで作る「ムービー」だとしたら、今作は分業制が基本の「普通のアニメ」である旨が直前で語られている)に関しても、絵コンテを描くときに、コンテで「あー、風景欲しいな、どれかな?」っていって画像を開いてもってくるわけです。
多くのアニメーターが参加するようになった『雲のむこう』以降の新海作品においても、風景というのは第一に、デジカメという装置によって加工・編集が容易なフォーマットに変換された「素材」なのだ。新海自身もその影響を語っているので致し方ないとも言えるが、近代文学論における「風景の発見」(柄谷行人)的な文脈で新海作品の「風景」を論じるのは片手落ちと言える。新海がとるようなデジタル機器との制作プロセスの中では、風景そのものが近代的な「個人」の内面の投影として見出されるのではなく、一度フラットな情報として取り込んだ風景を加工・編集しつつ音楽や声を組み合わせていくプロセスの中に、作品のテーマ性や個人の思いが織り込まれていくという順序をたどるのである。
また、ここで庵野秀明が監督した『シン・エヴァンゲリオン劇場版』や、続く実写作品『シン・仮面ライダー』の制作ドキュメンタリーを思い出しても良いだろう。そこでは大勢のスタッフにスマートフォンを持たせて、複数の角度から撮影、無数に撮り貯めた映像の中から最も良いものをチョイスするという手法が記録されていた。何度も何度もトライを繰り返し、納得がいかなければ容赦なく破棄する庵野秀明のこだわりが印象に残ったが、そこで行われていたのも未だ目には見えない理想に近付くために時間と空間をデジタルデバイスで切り取り、まず「素材」にしてしまうというプロセスだったと言える。
「あの場所にたどり着きたい」といった、イメージ(想像界)にも言語(象徴界)にも足場を持たないオブセッションが作り手の中には渦巻いている。関係各社を納得させ、予算を獲得する……つまり社会的に価値があるものだと認めさせるための企画書には、絶対に記載されることのないもの。「現実界」の存在が保証されているということは、「作る」という行為にとっての足場とも言えるのだ。
「素材」としてのコンピュータ
メディアアーティスト/研究者の久保田晃弘は、コンピュータを「道具」ではなく「素材」として捉える「デジタル・マテリアリズム」という考え方を提唱している。その中心にあるのは、デジタル表現をアナログ時代以来の「映像」「サウンド」「テキスト」といった形式的区別によって捉えるのではなく、ある特性やそれを扱う手法を持った「数(digit)」を中心に考えるという発想である(以下、「デジタル表現の四つの特徴――ポスト・テクノ(ロジー)ミュージック序論」、『ポスト・テクノ(ロジー)ミュージック』、大村書店、2001年所収より引用)。
アナログ表現の近似値としての数字列を利用するのではなく、数字列そのものから発想する。世界を数値化するのではなく数値から世界を創出する。〔…〕あらゆる数字列から、サウンドを生み出すことも、映像を生み出すことも、テキストを生み出すことも可能である。
コンピュータは「素材」である、と言われても「道具」としてコンピュータを「使う」ことにすっかり慣れてしまっている立場からするとイメージしにくいのだが、別のところでは以下のように言われている。
コンピュータという素材に導かれた表現とは、数という素材の操作アルゴリズムから生まれる表現を、インターフェイスを介して人間のさまざまな知覚と結びつけていく作業である。
これで少し理解しやすくなった気がする。コンピュータはハードウェアという物理的な実体を持ち、それが「数」を処理している(GUIやプログラミングは、その処理に人間が介入するための手段である)。たとえば「デジタル=数」の「素材」としての特性に、大量かつ高速に扱うことができることがあるが、その実際の処理はCPUの性能に依存している。つまり「コンピュータ」とは、「数」と物理実体としてのハードウェアの交わる場所にある概念なのだ。目に見えず、触ることもできない。「素材」としてのコンピュータは、この意味でまさしく「現実界」的なものだと言える。
かつてはハードウェアの限界によって「遅い」「動作不良」と感じられるような挙動が、GUIを触る中で頻繁に生じていたのは先ほども言った通りだ。素材の側からの「抵抗」に直面するということは、立ち止まり、沈黙する経験である。モノと自分との間にだけ生じる時間に浸ること。その時間は「楽しい」という気持ちとともにあっという間に過ぎる、「子供の遊び」の時間である。「現実界」の経験とは、「(大人の世界の)常識も夢もともに壊す」、「子供の世界」に出会い直すことなのだ。
そしてその経験は、これまでの連載で何度も描写してきた〈セカイ〉……線的な物語の中に裂け目として現れる、あらゆる時空間から切断された場所のイメージとも重なるだろう。『シン・エヴァ』でも『すずめの戸締まり』でも、〈セカイ〉的な空間の中で主人公たちは自らの子供時代の姿と再会していた。
正直、筆者もここまで書いてきてようやく確信を得られたのだが、連載開始時にタイトルにつけた「〈セカイ〉系」とは、デジタルツール/プラットフォームの普及によって作り手-受け手の境界が曖昧になった時代における、「作る」ことによる「子供の世界」に出会い直す経験として定義できるものだろう。それは「子供」から「大人」へ、「想像界」から「象徴界」へという成長の過程とは異なる次元にある、年齢問わず持っている人は持っている「子供心」の肯定だ。作り手と受け手が明確に分かれていた時代における、あくまで受け手側からの一方向的な批評用語である「セカイ系」との最大の違いは、〈セカイ〉、すなわち「現実界」を重視する姿勢にある。
次回は、この定義をもってある具体的な作品の分析にあたっていきたいと思う。それはスマートフォンゲームのような反-〈セカイ〉系的とも言えるプラットフォームの上で、どのようにして〈セカイ〉系的なストーリーテリングが可能なのか、という問いになることを予告しておこう。
第9回へつづく
【お知らせ】
当連載を収録した書籍『「世界の終わり」を紡ぐあなたへ デジタルテクノロジーと「切なさ」の編集術』が待望の書籍化! 全国書店やAmazonなどの通販サイトで、2024年4月23日より発売いたします。
筆者について
きたで・しおり 1988年生。神奈川県横浜市出身。1990年代半ばをドイツで過ごす。音楽雑誌の編集部員、音楽配信サイトの運営スタッフを経て、2010年代半ばより現名義で評論同人誌への寄稿を始める。2021年、〈セカイ系〉をキーワードにした評論アンソロジー『ferne』を自費出版。同人誌即売会「文学フリマ」を中心に話題となる。2024年4月、初単著となる『「世界の終わり」を紡ぐあなたへ――デジタルテクノロジーと「切なさ」の編集術』を刊行。