「あの服も、この服も納得がいかない……私がほんとうに着たい服ってなに?」
世間は色々な問題を投げかけてくるけど、どれもこれも肝心なこと、漠然とした問いかけの先にある根本的な問題には触れていないような気もする。今のファッションが退屈でしっくりこない、悩めるすべてのみなさまへ。
こちらは、まだ誰も言葉にしていない違和感を親切に言語化する“ポップ思想家”の水野しずさんによる、トレンドを追うよりも、納得のいくスタイルを発見していくためのファッション論考の連載です。「着るという行為」について、一緒に考えていきましょう。
デニム的な自意識=「他人から自分がどのように見られているのか気にしながら生きる」自意識
アン・デニム的な自意識=「自分から自分がどのように見えているか気にしながら生きる」自意識
ジーニスト界の混迷
ベストジーニスト賞って、最近あんまり聞かないね。と思って調べたら、亀梨和也、倖田來未時代、嵐の相葉雅紀、黒木メイサ時代、ローラほか時代を経て現在は主たるデニムの担い手がどこにいるのか判然としない混迷の状況にあるらしい。2022、2023年では菅田将暉が2年連続受賞をしてデニムの担い手としての面目躍如を見せるも、2021年の受賞状況を見ると、協議会選出部門で声優の林原めぐみさんが受賞をされている。林原めぐみさんは声優として誰しもが認める大スターであることは間違いがないんだけど、デニムのイメージは果たしてあるのだろうか。明確な時代の答えを喪失してしまった現場の臨場感が伝わってくるような気がする。
しかし、それも当然のことだとも思う。なぜなら現代はデニム的な時代ではないと思うから。デニム的というか、この場合はデニム的な自意識と言った方が近いのかもしれない。デニム的な自意識とは「自分が他人からどのように見られているのか気にしながら生きる」自意識のことを指している。こう定義すると、自意識って元々そういうものじゃないのかよっていう気もしてくるんだけど、現代の主流になっているのはアン・デニム的な自意識の方だと思う。
アン・デニム的な自意識とは「自分が自分からどのように見えているか気にしながら生きる」自意識のことをそうやって呼んでいる。他に言い表す方法がないから無理やりそう定義しているだけなんだけど。例えばまだデニム的な自意識が主流だった90年代のころは、デニムが「動きやすくて楽な服装」という扱いをされていた。今思うと、一体何を言っているんだって感じだ。デニムはゴワゴワしている。硬い。重い。伸びない。縫い目も荒い。それは確かにアメリカゴールドラッシュ時代の一攫千金を夢見る労働者にとっては動きやすくて、がめつい隣人を一刻も早く出し抜くために最適の効能があったはずだ。しかし都市生活を営む一般的な中産階級にとっては別にそうでもない。ふつうに、肌触りとかは良くない。当たり前の話なんだけど、そんなことが当時はあまりピンときていなかった。誰も口に出して言ってないけど「デニムってゴワゴワしているし、着心地はそんなによくないな」ってあるタイミングで(あるというか、感染症の流行と共に)多くの人が気がついてしまったんだと思う。
なんでそうなるまでは気が付かなかったんだろうか。それは以前はファッションが、他人から見られるイメージの原型に基づいてそれ自体の機能が規定される性質が今より強かったからだと思う。つまり、人から見てやわらかそうなイメージを持っている服装であればそれはやわらかい機能を持っているものとされる。最近はそうでもないんだけど、10年前くらいは外側がフワフワ素材のカーディガンなのに内側はただの布っていう服が結構よく売っていた。私は「どちらか一方しかフワフワにできない予算上の都合があるなら、フワフワにすべきは断固内側だろ」という内側フワフワ過激論者だったので常に不満を感じていたんだけど、最近そういう服は見かけなくなってきたように思える。これは機能的な問題のみならず、やはり多くの人がアン・デニム的な自意識を持つようになったからだろう。
こう説明すると、「他人軸から自分軸へ」「他人のためではなくて自分のためのファッションへ」移り変わったという話だよねって解釈をされてしまうかもしれない。でも話はそんなに単純ではない。人間の欲求はそんなに単純ではないからだ。
そもそもアン・デニム的な自意識とはどこから発達してきたのか。私は多くの人がSNS上で自分の手で再構成した自分を「これが私ですよ」と発信するところからだと考えている。つまり、最終的に他人になにかしらの感想を抱いてほしいという根底の願望は変わっていないんだけど、他人にどうこう思われる前に「自分にどうこう思われるフェーズ」が入り込んできて余計にややこしくなっているという話だ。
世間で話題になりがちな風説には「実態を無視してしまうことになっても過剰に白黒はっきりさせたい」という傾向が強い。だからファッションは常にそれが「他人のため」なのか「自分のため」なのかという二項対立で語られやすい。しかし、ファッションはそもそも他人のため、自分のためと言い切れるほど単純なものではない。どちらが欠けても成立はしない。もっと広い視野で言えば、他者と自己っていうのは簡単に切り分けられるようなものではなくて、常に同時性を持って存在している側面があるとしか言いようがない。だから自分が(自分の意識が)心の底から満足をするには「全てがこのように現れているありのままの実情を否定も肯定もせず一旦受け止める」という過程が必要になる。こんな話はややこしい。
資本主義という社会制度は、われわれが世の中のありようについて考えるときに、
我々は、権利の所在によって
・自己=(利権を拡大したい主体)と
・他者=(搾取可能な対象として現れるもの)
を切り分けたところに現れる領域を「じぶん」とか「たにん」だと信じ込んで生きている
前提があるように「物語らせる」誘導を常にかけている。この前提は、対立軸としては現れない「ただそこに現れるものとしての自他の関係」のありようとは矛盾をする。だから、「ファッションって結局、自己満足なんだよね」という世の中に満ちている膨大なものをすっ飛ばして猛烈に単純化した意見がよく語られているんだと思う。冷静に考えてほしいが、そんなわけがない。もしそうだったら今SNS上に現れている無数の苦しみや葛藤は一体どこに向けられているというのだろうか。
「くるしみ」の所在
多くの悲鳴は要するにアン・デニム的な自意識によってもたらされているのではないだろうか。つまり自分をごまかすのは難しい、という話だ。自分には意図や内心が常にバレてしまうから。アン・デニム的な自意識とは「自分が心から満足している自分を他人に認めてもらって満足したい」というフクザツな自意識のことだ。かつてはデニムの内側のこわばりをガマンすればよかったのに、現代では「ほんとうはエシカルではない自分」「ほんとうは善人ではない自分」に無尽蔵に傷つき続けるている人が多くいる。このくるしみに比べたら、カッコつけて履いてみせたデニムのごわつきなんて非常に牧歌的でかわいらしい。善人の「フリ」をすればよかった時代はいくらでもやりようはあった。行為の裏側にある意図なんて誰にも判断しようがないのだから表面的に現れているものが人格とみなされる。表面的に現れていないものはない、と信じるという設定は資本主義の物語とも相性が悪くない。だから見栄さえ張りすぎなければ、多くの人がそれなりにやっていける。外見だって、他人から見てモテたり優遇を受けられる程度によければそれでいいということになるので苦しみの程度として無尽蔵のものではない。
ところが、自分を満足させるのはかなり難しい。ネタバレになるようなことを言うと、実は自分は満足させなくても構わない。させても構わないが、必ずそうしなければという考えは、おそらくかなりの部分思い込みだろう。欠乏を満たす、欲望を実現する、損失を防ぐ、これらをやるかどうかは自由である(終わりがないので基本無視でもいい)。
「自分が心の底から満足する顔になる」こんなことは不可能だ。なぜなら自己とは無尽蔵に利権を拡大することを目的とした主体、ということになっているから。イーロン・マスクがTwitter社を買収して手に入れようとしているもの(無尽蔵に奇跡の力を発揮する神のような自己像)はなにをしたって手に入らない。でも本人の立場になってしまうと、かなりシンプルなことですらわからない。バカになってしまう。それは、全員そう。
犯罪肯定感
最近語られる自己肯定感を言葉の上でより正確に言い表すならばそれは「犯罪肯定感」ということになってくるのではないか。ただ善良そうな市民として社会に適応しているそぶりを見せるだけでも「ほんとうはエシカルではないのにエシカルなフリをしていることに気がついている自分」に対して無尽蔵に傷ついてしまうから、潜在的な領域で常に罪悪感を抱えている人が多い。うまく言い表せない、黙るしかない罪悪感は共有されることで次第に変質し、世間全体にとっての「ゆるやかな共犯意識」のようなものとして萌芽する。これを直視しないまま肯定したところに「犯罪肯定感」が生じてくる。すごく変な言葉ではあるけど実際にこういうことが起きているのだと思う。
例えば、累計1200万部を超えるメガヒット作品『【推しの子】』(集英社)でアイドルの星野アイが語る「嘘はとびきりの愛なんだよ」というセリフは犯罪肯定感から発言されているものだという解釈が成り立つ。それがどのような形であれ、とびきりの愛というだけである程度はうれしいかもしれないが、叶うのであれば「ほんとう」の方がそりゃあ当然いいだろう。この点について異論がある人は流石に少数のはずだ。そんなことは当たり前なのでわざわざ言う必要がない。「嘘が愛」わざわざ言わなければ成り立たないようなことを、なぜ言わなければならないのか。そういうことを考えると、一見個人が抱えているように見える無尽蔵の傷つきが、実は個人のものではなくて、時代全体で負っているものに思われてくる。
「がんばるのかがんばらないのか問題」に対する結論
こういった深く裂傷を残す時代の傷に対して安易に出せる処方箋のようなものはない。だが、ひとつはっきりさせておいた方がいいこととして「我々は無尽蔵にがんばらなきゃいけないのか、それとも無尽蔵にがんばらなくていいのか」という問題がある。つまり自己というものの認識が「無限に許されるべきか」「無限に許されないべきか」の二者択一になっていて、無限に許されない方を選択した者はイーロンのように奇跡の力を求め、無限に許されることを選択したものはベーシックインカムの配布を願う、みたいな発想になっているように思われる。
これは時代の傷を受けて各自が負っている苦しみだから定義された段階で「がんばり」というものが過剰に一元化されている。つまり、現実的ながんばりっていうのはもっと繊細な話だと思うんだけど、過度に象徴的なものとして突きつけられているし、それがごく当たり前のことになっている。変な話だ。整理しよう。もっと考え方はシンプルでいい。
「マジでがんばりたいがんばりどころを自分で決めて、それ以外はなんにもがんばらない」
シンプルすぎるだろうか。私はこれでいいと思う。
次回は、12月26日(火)17時更新予定。
筆者について
みずの・しず バイキングでなにも食べなかったことがある。著書『親切人間論』他