銃撃事件を経て、「共事者」として「当事者」と関わるということ

あなたも狂信する
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宗教2世(エホバの証人2世)として過酷な幼少期を経験し、現在、宗教2世のために自助グループの運営にも尽力する文学研究者の横道誠が、宗教1世(自らカルト宗教などに入信した人)と宗教2世10名にインタビュー。その証言や、幻想文学、そして自身や自身の母親の経験をもとに、「他人」としてではなく、「当事者」として、また問題に深く関心を持つ味方「共事者」として、「狂信」の内側に迫る『あなたも狂信する 宗教1世と宗教2世の世界に迫る共事者研究』が刊行された。ここでは、本書の一部を全6回にわたって公開中。第2回は、「狂信」の主観に迫る「共事者研究」に向けて記す。

銃撃事件以後に「共事者」を考えた

 宗教2世が集まる日本最大のコミュニティは、前述した「宗教2世界隈」だ。このクラスターでは、安倍晋三銃撃事件が起きるまでの数年間、エホバの証人2世からあがる声がもっとも盛んだった。2017年にいしいさやの『よく宗教勧誘に来る人の家に生まれた子の話』(講談社)、2018年にたもさんの『カルト宗教信じてました。──「エホバの証人2世」の私が25年間の信仰を捨てた理由』(彩図社)というふたつのエッセイマンガが刊行されたことが大きかった。それまでも、手記などの体裁でじぶんの体験を残してくれた宗教2世の本は何冊も存在していたのだが、マンガの体裁をとると部数や普及度が異なってくる。宗教2世のあいだでも評判になって、「じぶんもエホバの証人2世だ」とXのアカウントを作って発信する人が増加した。

 統一教会2世だった山上徹也が引きおこした安倍晋三銃撃事件が発生してから、様相はガラリと変わった。多くの統一教会2世たちがアカウントを作って発信者となり、また従来から発信してきた人も急激に活発化して、Xのスペース機能などを使って語りあいをすることが増えた。マスメディアは「宗教2世」という言葉に注目し、報道にも利用したが、当然ながらこの言葉を嫌う宗教関係者は多く、じぶんの教団に非難が飛び火するのを警戒した。マスメディアも「統一教会2世」という言葉を使ったり、取材対象を統一教会の関係者に限定したりして、「宗教2世問題」がさまざまな宗教団体に内在するという事実に踏みこまない報道を心がけていると感じられた。

 この状況下で統一教会2世とは異なる宗教2世たちは、しばしば戸惑いを覚えた。統一教会2世の困難は、じぶんたち宗教2世一般の困難と通底しているものなのに、仲間とも同志とも見なしていた人もいるのに、統一教会2世の問題ばかりが世間で騒ぎの対象になり、じぶんたちほかの教団出身の宗教2世は「部外者」扱いされる機会を何度も体験したからだ。いったいじぶんたちは「当事者」なのか、「非当事者」なのか、と悩まざるを得ない状況が発生した。私もそのように悩んでいたひとりだ。仏教学者の釈徹宗は、状況を改善させるためには宗教に無関心の人であっても、誰もが「自分も宗教問題の当事者である」と自覚する必要があると主張するのだが(島薗ほか『徹底討論! 問われる宗教と“カルト”』、116~117ページ)、この主張は当事者のひとりにあたる私にもやや無理筋と感じられた。どのようにすれば、じぶんが当事者だと、あるいは部外者ではないと感じられるようになるのだろうか。

 そう考えていると私は、LGBTQ+を対象とした自助グループで交流してきたアライの人々を思いだすようになった。LGBTQ+の当事者ではないが、理解者として歩みをともにしてくれる人々。当事者に近い場所にいて、問題を共有しようとし、私の自助グループに「当事者ではないんですけれども」と申しわけなさそうにしながら、勉強のために参加してくれた人たち。私は統一教会2世問題をめぐる問題で、宗教2世の当事者として振るまって良い場面のほかに、エホバの証人2世として、統一教会2世の一種のアライとして振るまうことが、より適切だと感じる場面が多いことに思いいたった。

 やがて福島復興論で小松理虔が提唱していた「共事者」の概念が頭によぎった。その概念を私は知っていたものの、「当事者」という概念を信奉していた私には、「共事者」は問題の本質に茶々を入れてくるかのような、なんとなくうとましいもののように錯覚されていた。そこで私は小松の本を一通り読み、つぎの一節に突きあたった。

震災と原発事故もそうでした。この九年間は当事者のリアリティが強く働いた時期でもあったと思います。私たちの苦しみはあなたにはわかるまい。当事者ではない人間は口を出すな。そう言われると、外の人は関われなくなってしまいます。誰かが決めた「正しい関わり」以外の関わり方が排除されてしまうわけです。

〔中略〕

自分は当事者とは言えないけれど、事を共にしてはいる。関心はある、気になって見ている。けど具体的にはまだ行動に移せていない。そんな人たちをイメージしています。

(小松理虔『地方を生きる』、180~181ページ)

 私は、じぶんが当事者でも専門家でもないのに、他人事とは思えないと感じた対象として、統一教会2世のほかに、エホバの証人教団出身の宗教2世と、さらには統一教会を含む宗教1世の全体を思いうかべた。

 宗教1世の孤独。それは深いものだ。宗教2世ならば、幼い頃からじぶんの意志をじゅうりんする形で信仰を押しつけられた被害者として声をあげることができる。しかし1世はじぶんが誤った人だ。信仰を捨てたのちには、自業自得で人生に失敗して苦しんでいる人、子どもがいるならば宗教2世に対する加害者にあたる存在として苦しまなくてはならない。私は加害者(と見なされる人々)の救済こそが鍵なのではないかという思いを抱いた。

 そして私が彼らの「共事者」として、どのように関われるかという問題を「共事者研究」として提起すべきだと考えるようになった。本書はその実践として書かれる最初の本だ。これを読む読者の諸君はどう判断するだろうか。私はエホバの証人2世として当事者研究に励んできた過程の上に、宗教1世の世界に迫るために進める共事者研究を構築する。読者がそれをつうじて、本書から宗教2世の世界にも宗教1世の世界にも迫ることができると期待している。

* * *

※この続きは、現在発売中の横道誠・著『あなたも狂信する 宗教1世と宗教2世の世界に迫る共事者研究』にてお読みいただけます。

筆者について

よこみち・まこと 京都府立大学文学部准教授。1979年生まれ。大阪市出身。文学博士(京都大学)。専門は文学・当事者研究。単著に『みんな水の中──「発達障害」自助グループの文学研究者はどんな世界に棲んでいるか』(医学書院)、『唯が行く!──当事者研究とオープンダイアローグ奮闘記』(金剛出版)、『イスタンブールで青に溺れる──発達障害者の世界周航記』(文藝春秋)、『発達界隈通信──ぼくたちは障害と脳の多様性を生きてます』(教育評論社)、『ある大学教員の日常と非日常――障害者モード、コロナ禍、ウクライナ侵攻』(晶文社)、『ひとつにならない──発達障害者がセックスについて語ること』(イースト・プレス)が、編著に『みんなの宗教2世問題』(晶文社)、『信仰から解放されない子どもたち――#宗教2世に信教の自由を』(明石書店)がある。

  1. 「狂信」の主観に迫る「共事者研究」に向けて
  2. 銃撃事件を経て、「共事者」として「当事者」と関わるということ
  3. 自己啓発と宗教の危うい共通点――「真理」を求める心をどうして軽んじられるだろうか?
  4. 創価学会や親鸞会で考えた「人生の意味」
  5. 自らカルトに入信した人が求めた「真理」と「共同体」
  6. 「狂信」した信者が語る「神に滅ぼされる恐怖」
『あなたも狂信する』試し読み記事
  1. 「狂信」の主観に迫る「共事者研究」に向けて
  2. 銃撃事件を経て、「共事者」として「当事者」と関わるということ
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  7. 『あなたも狂信する』記事一覧
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