大自然に囲まれ、娯楽も何もない“おしまいの地”に生まれ育ったこだまさん。そんな”おしまいの地”から不定期に届くこだまさんから読者のみなさんへのお便りを掲載します。
今回は、七十代のお母さんの変化。そして五十代になるこだまさんの変化について。
一昨年に父を亡くしてから新たに始めたことがある。クリスマスに帰省し、母とふたりでごはんを食べるという、ささやかな会だ。少しだけ凝った料理を作り、プレゼントを渡す。その夜は実家に泊まる。十八で実家を出て以来そんな目的で帰ったことはない。そもそもクリスマスに親の顔など浮かばなかった。
父が亡くなったのは金婚式まであと数ヶ月に迫る夏の盛りだった。両親は旅行に出るつもりで長年お金を貯めていたらしい。何周年といった記念日にこだわりのある母にとって、結婚五十周年は最大のイベントだった。無念さを刻むように、父の死後に買った新車のナンバーを結婚記念日の日付で取得。そして納車の日に「お父さんを思い出すからこのナンバーにしなきゃよかった」と涙声で電話を掛けてきた。情緒不安定な少女のようだった。そんな経緯があったので、父不在のクリスマスをこれからは一緒に過ごそうと思った。
この数年で腎臓に病が見つかった母は、かなり質素な食生活を送っている。塩分やたんぱく質、野菜などの量や調理法に制限があり、あまり外食できない。加齢により料理をするのも億劫になり、大型の冷凍庫からいつ作ったか定かではない煮物を引っ張り出し、解凍しながらちびちびと食べているらしい。
私は腎臓病患者のためのレシピ本を何冊か買い、鶏肉のソテーや野菜スープといった低たんぱくのクリスマス料理に挑戦した。分量をちゃんと守って作るのは家庭科の調理実習以来かもしれない。人のために慎重に作るのも悪くないなと思いながら野菜をことこと煮込む。「これ本当に味ついてるのか」と心配になるくらい少量の調味料だったが、そのぶん素材の旨味を感じられた。
本当かどうか怪しいが「ケーキは食べていいらしい」と母が言うのでショートケーキを買い、同じく「少しならいいらしい」と言うのでワインも用意し、最終的にはそれらのおかげで地味な食卓がちゃんとクリスマスっぽくなった。
昨年、二度目のクリスマス会を迎えた。食材を抱えて帰省すると、母がいつになくそわそわしていた。
「フィーバーってどうすれば見れるの?」
「フィーバー? パチンコのこと?」
「あんた知らないの? テレビの再放送みたいなやつよ」
「もしかしてTVerのこと?」
「そうだったかな」と母は誤魔化した。
「何か見たい番組でもあるの?」
「M-1って番組なんだけど、あんた知ってる?」
大事な秘密を打ち明けるときの目の光だった。母の口からそのワードが出るとは想像もしなかった。「バラエティ番組なんてうるさいだけ」と忌み嫌っていた母である。いきなりの変化である。
なんとなくテレビを見ていたら最初のチームの出し物が面白くてね、クラスの苗字が出てくる出し物だったの。お母さん「わたなべ」だったからわかるの。和田さんがいないといつも一番後ろの席だったんだよ。そう懐かしそうに話す。母はかつて「わたなべ」だった。難しい方の「わたなべ」だ。若い人のお笑いなんて見ても意味がわからないと思い込んでいたが、その出し物は自分のよく知る世界だった。ありふれた「わたなべ」に光が差した思いがして、つい惹き込まれたという。覚えたての芸人の名前を前から知っていたように連呼する。コンビを「チーム」、ネタを「出し物」と呼ぶ。クラスのお楽しみ会みたいだ。
母はファーストラウンドをすべて見終えたあとにうとうとしてしまったようで、ハッと目が覚めたときには優勝者が決まっていたという。「それまで一位だったチームがどうして負けてしまったのか知りたいの。お母さんはあのチームの子たちがいいと思ってたんだ。だって一番声がハキハキしていて聞きやすかったもの。それってフィーバーを見るしかないんでしょ?」と。いちいち訂正するのをやめ、気が済むまでフィーバーと言わせておいた。
フィーバーの画面を開き、見逃した最終決戦を再生する。母はパソコンの画面を食い入るように覗き込んだ。お笑いを見たことのない人はいったいどういう場面で笑うのだろう。ちゃんと意味を拾えているのだろうか。謎が多すぎる。私は背後からじっくり観察した。
母は「ここでお侍をやるなんて斬新だ」と感心したり「万里の長城は本当に長いんだよ」などと旅自慢を挟んだりした。知らない人名や単語がたくさん出てくるのだが、そこは都合よくスルーしているようだ。全部わからなくてもいい。わかる部分だけ拾って笑う。母はそれで充分楽しいらしい。「お母さんもこのチームが優勝でいいと思う。審査員の意見とだいたい同じ」と、どの立ち位置から言ってんだよというコメントを残し、すっきりした顔でパソコンを閉じた。
最近SASUKEにも興味を持ったらしい。過去の回まで遡っているという。「この人はね、自分でコースを作って練習してるんだよ」と短期間で仕入れた情報を得意げに話す。かつて「くだらない」と切り捨てていたものたちを「偏見ってよくなかったねえ」と言いながら拾い集めている。七十代になっても人の心はまだ変化するのだ。
一方、そう簡単に変わらない部分もある。母は近所に移住してきた地域おこし協力隊の青年に向かって「いつも家にいるんだね。ずっと車があるもんね」と悪気もなく言い放つ。いや、思ってても言うなよ。監視くそばばあである。田舎の嫌なところ丸出しでひやひやする。また、別の中年男性には「お子さんはおいくつ?」と聞き「すみません、独身です」と返されていた。こんなことが一度や二度ではない。彼の年齢なら子どもがいて当然と考えているのだろう。そのたびに「自分の常識に当てはめないで。どう生きようと自由でしょ」と母にきつく当たってしまう。こういうときこそ「偏見ってよくなかったねえ」の一言を欲するが、いまだ母の口から出てこない。
私は数ヶ月前に五十歳になった。長いあいだ自分の年齢に触れずにきた。匿名で活動しているという理由もあるけれど、それは建前で、単に言いたくなかっただけだ。ブログを始めた二十代半ばの頃はプロフィールに書いていた。二十九あたりから書かなくなった。歳を取ることを恥ずかしい、後ろめたい、と感じていたのだ。
当時、仕事が長続きせず、臨時の職を転々としていた。好きなことも誇れるようなこともないまま、ただ歳を重ねてゆく。こんなはずじゃなかったんだけどな。どこで間違えたんだろう。そう思いながら三十代を過ごした。
ただの数字の並びだとわかっていても二十九から三十へと変わる瞬間よりも、三十九から四十になるほうが底知れぬおそろしさがあった。自己免疫疾患の持病が徐々に進み、思うように身体が動かなくなっていたことも大きい。すべてが中途半端。私はまだ何も成し得ていない。いま動かなきゃ後悔する。急き立てられるように三十九の春にネットの知人と同人誌を作った。
文章の仕事をもらう中で「あなたはどう思いますか」と問われる機会が増えた。私には自分の意見というものがなかった。自著のカバーや表紙を選ぶ作業ひとつ取っても「これが好き」と断言できない。自分の目や考えに疑いしか持てない。みんなはどうしてそんなにはっきりと言い切れるのだろう。考える訓練が圧倒的に足りなかったのかもしれない。考えても考えても迷い込むばかりで答えが出ない。
人に胸を張って言えるようなことはなく、迷いの中にいる自分の話を書く。それならできるかもしれない。そうやって四十代を生きてきた。書いたものを読んでもらえる喜びと同じくらいの苦しみがあり、「これでいいんだろうか」と些細なことに悩み続けた。私には知らないことやできないことが多すぎる。常に右往左往している。でも、生きていると実感できたのは四十代になってからだった。
二十代の頃、まわりにいた四、五十代の同僚はしっかりと「大人」だった。彼らは堂々としていた。間違ったことを言っていても不思議と説得力があった。昨年まで少しのあいだ喫茶店でアルバイトをしていたのだが、私はスタッフの中で一番長く働いているにもかかわらず、ずば抜けて仕事ができなかった。臨機応変に動けず、終始おろおろしている。店主に毎回叱られていた。同じことを注意されている中年は傍目にも憐れだったと思う。入ったばかりの二十代のスタッフが「思ったより楽勝でした」と言い、店主も「そうでしょ、うちなんて超簡単なんだよ」と意味ありげにこちらを見る。もはや年齢というより能力の問題なのだろう。
新たな分野に手を出しては「私はこれも苦手だったのか」と気付かされる。不思議と後悔はなく、「またできないものを掘り当ててしまった」と思う。ある意味、前向きといえるのかもしれない。
四十九から五十への移行は思ったほど感傷的にならなかった。半世紀も生きてしまったんだな。そう淡々と迎えた。雑誌などで「四十代は楽しいよ」「五十代もいいよ」という文言を見かけるけれど、それは不自由なく暮らせる土台がある人の言葉だと思う。私は「歳を取っても楽しい」と簡単には人に言えない。でも「死んでしまいたい」とは思わなくなった。十年、二十年前に比べたら思い詰めていない。うまくいかないけど別に死ぬほどではない。たまたま運がよかっただけかもしれないが、動けなくてもじっとしているうちに起き上がるタイミングがふっと訪れる。
四十代のときに鬱で通院してから定期的に不調の波に飲まれる。やろうと決めていたことがまったくできなくなる。行動を起こすのにかなり時間を要する。風呂にも入れない。仕事の約束も守れず、どんどん自己嫌悪に陥る。
つい一月前もそうだった。何もできないままずるずると五十代が始まるのか。そう思っていた矢先、夫の転勤が決まった。そうだ。私には引っ越しという数年おきのリセットボタンがあるのだった。直前までどこへ行くのかわからない。猛烈な臭いを放つ汲み取り式トイレの家だったこともある。職場の住宅を割り当てられるため、引っ越し当日に初めて足を踏み入れ、その古さや前住人の掃除の至らなさに愕然とする。またその季節だ。
先日おおまかな住所を教えてもらった。グーグルマップを開くと防風林と青々とした草に埋もれるように、ぽつんと古い平屋があった。まさか、ここか。なかなかだな。雪が降れば完全に道が閉ざされる。熊が頻繁に出没する。町内会行事にも参加しなければいけない。早朝六時のゴミ拾い作業が頻繁にあるらしい。「いつも家にいるんだね。ずっと車があるもんね」今度は私がその一言を向けられる番だ。
嫌な予感がするな。でも未知の苦行はエッセイに書けるからちょっとありがたいかもな。退去の日が迫っている。横になっている時間はない。あれほど起き上がれなかったのに人が変わったようにきびきびと段ボールを組み立て、必要なものだけを詰めてゆく。引っ越しに生かされている。
どうせならとことん酷い家であってくれと祈る。忘れられない家の第一位を更新したい。持病の影響で骨の歪みが加速している。充分奇形なのにまだ発展する気満々だ。最後まで見届けなければいけない。どうにでもなってくれと思いながら五十代を生きてみる。
筆者について
エッセイスト、作家。デビュー作『夫のちんぽが入らない』でYahoo!検索大賞を2年連続で受賞(第3回、第4回)、『ここは、おしまいの地』は第34回講談社エッセイ賞を受賞。ほか『いまだ、おしまいの地』、『縁もゆかりもあったのだ』など。