「あの服も、この服も納得がいかない……私がほんとうに着たい服ってなに?」
世間は色々な問題を投げかけてくるけど、どれもこれも肝心なこと、漠然とした問いかけの先にある根本的な問題には触れていないような気もする。今のファッションが退屈でしっくりこない、悩めるすべてのみなさまへ。
こちらは、まだ誰も言葉にしていない違和感を親切に言語化する“ポップ思想家”の水野しずさんによる、トレンドを追うよりも、納得のいくスタイルを発見していくためのファッション論考の連載です。「着るという行為」について、一緒に考えていきましょう。
ホントの私は、まだデビューをしていないのかもしれない
制服を着た女子学生が、
「ホントの私、デビュー」
と言いいながら、颯爽と登校する。昨日まで眼鏡をかけていた彼女は、コンタクトレンズを新調し、笑顔には一切の曇りがない。足取りも軽やかで、世の中の全体が彼女の奮起を応援するかのように、緑は鮮やかに芽吹き、空は晴れ渡り、澄み切った心象を一様に表現している。嘘みたい。嘘である。なぜならこれは、私が中学生の時に放送されていたコンタクトレンズのCMだから。嘘とはいえ、中学生の私はこれを見てただならない気持ちになった。なぜなら私は一度もデビューをしたことがないから。デビューってなんなのか。それは、わからない。わからないけど、自分がまだやったことがないという確信だけが、すごくある。
みんなはデビューをしているのか
クラスメイトを観察すると、「デビューしている」と感じられる人も数人いるなと思われた。デビューとは、なんなのか。言うなれば、自分の人生に意思を持って登場している感じ。自ら意欲的に打ち出しを行なっている感じ。それらは、必ずしもわかりやすく打ち出されているわけではない。例えば、靴下にマリークワントのマークがワンポイント刺繍が施されているだけなんだけど、その態度のなかに「我ここにあり」的なムードを滲ませている人からは「デビューしているな」というムードを感じる。色付きのリップクリームは口紅よりデビューに対して意欲的である。
一方で、特にデビューをしていないと思える多数の人は、このような意思の打ち出しをやっているとは思えなかった。例えば、ブランド物の財布を使っていたとしても「親にひとつくらいは、と持たされたんですよね」でやっている感じ。わざわざステージをやりに行ってはいない。
なるほど。ランウェイと呼ばれる舞台装置が何に近いのかということを考えると、ひとつには農業がそう言えるんじゃないかと思えた。まず、自力で耕す。耕したところに自作自演で作物を巻き、収穫まで一貫してやっていく。植えたから実るのはある部分、当然なのに、大収穫に驚いてもみせる。この驚きには寿ぎに近いニュアンスが入る。勝手に耕しているくせに、実る頃には恵まれて見せる。そういった二段構えの精神性をこちらから持ち出しでやっていかないといけない。ひと歩き百万とも言われるパリコレのギャラにはそういった、耕し分のギャランティーも含まれているのだ。たぶん。
どうやって「デビュー」をすればいいのか
とはいえ、「デビュー」をどうやったらいいのか、耕しの切り口にについては考えあぐねた。わからない。考えてみれば、私は視力が1.5あるのだから「ホントの私、デビュー」と言っている人物とビジュアル的には同じ状態ではないのだろうか。ところが、コンタクトレンズにした人が華々しくデビューを飾っている一方、私自身はそうではない。
つまり、デビューをするためには
⑴現状の中に「そうさせられている」不本意な点を見出す
⑵不本意からの脱却を図り、同時にそれを「打ち出し」として展開する
というプロセスを経る必要があるとわかる。メガネという不本意な状態から、不本意さを脱却することで打ち出しが可能になっているのだ。
じゃあ今、私自身、不本意な点とはなにか。中学生の私は中学生なりに、真剣に考えた。
普通に全部が許せない。
不本意な点は、〈全て〉である。なにもかもが到底許し難い。もし可能であるなら全てを破壊したい。政治家もタレントもコメンテーターも歌手も落語家もテレビに出ている大学教授も教師もほぼ全員雰囲気でいいことを言っているし、内容がどうとかを自分の頭では考えずに「それっぽい」ことをそれっぽい雰囲気でしゃべり、身内で談合した「それっぽさ」を極めることで無意味に程よく気持ちよい感じになっていて最悪。単純で子供っぽい発想だと思う。しかし実際に子供だから仕方がない。
全て、が不本意である場合にどうするのか。ある部分を「不本意」と定め、定めた範囲内に限定して打ち出しを行うという態度は、現状の緩やかな追認にすぎないのではないか。したがって、私のデビューは「一切の打ち出しをせず、あえて『真面目コア』という究極の打ち出しを追求する」という形を取った。
デビューは誰にもバレなかった。ビジュアル的には何も変わっていないのだから、当然である。冷静に見ると、コンタクトレンズのCMに感銘を受けた裸眼の人がメガネを経由せず裸眼で通学したまま、なにかをやった気になっているのだから、やっていることが、こわい。しかもバレないデビューは、つらい。こわくて、つらくて、意味がない。来る日も来る日もただの地味。いわゆる「校則の範囲で許されるオシャレ」も理念に沿わないのでなるべく手を出さなかった。靴下丈を短くし、スカートは常に膝丈に合わせ、同級生には「水野さん(笑)」「敬語の水野さん(笑)」と呼ばれる日々。私はバカなのかもしれないと思った瞬間もあったが、実際、かなりバカだった。
大学入学直後もつらいけど理念を曲げたくないので頑張った。高校のときほどではないが、やはり、うっすら「水野さん(笑)」の感じはあった。そういうときは、カッターナイフで削った3Bの鉛筆の先端部分、マッターホルンの山頂みたいに刻まれた、面の歪な一つを思い浮かべて、心が流れ出さないように耐えた。しばらくして「単に真面目で地味でつまらない人だと思われるだけだな」と気がついたところで、誰にも気づかれないままデビューは静かに終わった。気がつくのが、遅い。そのせいで、いまだにバカが治らない。もっと派手なこと、荒れたこと、破茶滅茶なこと、世間から忌み嫌われるようなパフォーマティブなデビューを人生の序盤のうちにやっておけばよかったのか。そう思えてくる瞬間もあるが、そうではない。
やっぱりそうなった自分を「デビュー」として扱う考えは自分にはできない。そんなことをしたら、こっちが間違っているということを世間様に向けて表明する最悪のいい子になってしまうではないか。私はなにも間違ってない。間違っていないやつを間違いにしてくる間違いを「不本意」という形で矮小化、合理化して社会通念に沿うのがイヤだ。同様の理由で、世の中が嫌いすぎるからといって、アルコール、ドラッグ等に頼るのもイヤだなと思った。なんで間違っているものをガマンするためにこちらが「わかりやすくひしゃげてあげない」といけないんだよ。しかも、「わかりやすく親切にひしゃげつつ」ついでに酔って気持ちよくなろうという魂胆を感じてその点(酔いたいはずの人物が最も功利的に判断しているという矛盾)も信じたくないと感じた。一方でタバコは吸った。酒が得をしようという魂胆を感じるのに比べて、喫煙はわざわざ「損をやりにいっている」感じがありコア要素があるな、と思った。藤子・F・不二雄の漫画でも喫煙習慣を「毒ガスを吸引する特殊癖」と紹介するシーンがある。喫煙習慣はその後10年くらい続いて今はもう辞めているが、ほんとうにただの損なので積極的に損をしたい人以外は全くやる必要がないと思う。
大人になってから、みんながとりえあずそれっぽいことを言っているのは、「マジレスがこわいから」だとわかった。世の中が真っ向から信用に値しないデタラメでばかばかしくどうしようもない牛乳雑巾のようなものだということは、実際誰でも理解している。それでもやっていくしかないので、とりあえずそれっぽいことを言うし、お酒を飲んで自分自身をデタラメに対応させる努力をやっている。マジレスをする人が社会性を外れたファッションをやるのは、ある程度外れているとわかる人物がマジレスをやることで怖さが緩和されるからであって、真面目コアをやっている人がマジレスをしてくるのが一番こわい。ありえないしヤバい。
どうりで。気が付いてから、腑には落ちたが、私自身の身体残置した真面目コアの強靭な残像はいまさら取り外しようがない。これで、やっていくしかない。腑に落ちたことでお酒も飲めるようになったが、真剣に飲んだ場合は、緑茶や紅茶、コーヒーなどもお酒と同じくらい「おいしい」と感じる。これも、真面目コアの残像だと思う。
次回は、3月12日(火)17時更新予定。
筆者について
みずの・しず バイキングでなにも食べなかったことがある。著書『親切人間論』他