紀伊國屋じんぶん大賞入賞作『水中の哲学者たち』で話題の永井玲衣さんによる新連載「ねそべるてつがく」。つねに何かを求め、成長し、走り回らなければならない社会の中で、いかにして「考える自由」を探し求めることができるのか。「ただ存在するだけ運動」や「哲学対話」を実践する哲学者がつまづきよろめきながら、言葉をつむいで彷徨います。「考える」という営みをわたしのものとして取り戻す、新感覚の哲学エッセイ!
あし、しびれている。 頭の上に空気だまりのようなものがあって、息がしづらく、不快感と粘り気のある吐き気。耳の真横でスマホが叫んでいる。やかましいアラーム音。カーテンから漏れ出る厚ぼったい光、いつかの研究室で嗅いだほこりっぽい本の匂い、哲学はどのようなことに役立ちますか、ぱこーん、ぱこーん、ナイスボールです、グラウンドに跳ね返るテニスボールの音、布製の筆箱の手触りが指にあらわれて、シャープペンシルのひんやりとした質感、よみがえる。がっちゃん、がっちゃん、ホチキスを止める音。みなさんはどう思いますか、はいどうぞ、あなた、あなたです。肩に食い込むかばん、蛍光灯がぴかぴか、ペットボトルの蓋、かたい、ざらりとした感触が手のひらに当たる。ずりりっと手のひらが擦れて、パキリと音をたて、朝、ああ朝なのか、朝がきたのか。
ぱちんと弾けるように目が覚めるひとがうらやましい。わたしはいつも出遅れる。もう始まってるよ、はやく、はやくと遠くで誰かが呼んでいる。今いく、今いくからとつぶやきながら、わたしはうろうろしている。
そういえば、大縄跳びに一度も入れたことがない。ぱちん、ぱちん、と冷たい体育館の床に縄があたって、わたしはただ、運動靴の中でじっとりと湿っていく足を感じている。先生が、縄をよく見るんだ、よく見なさいと叫ぶ。わたしはただ混乱して、太い縄の前で立ち尽くしている。「よく見る」とはどういうことなんだろうと考えていた、気がする。
記憶と観念がどろどろと混ざりあって、いま ここの朝に返ってくることがむずかしい。しびれる足と首の痛みが、かろうじてわたしの身体が現実に存在することを訴えかけている。痛いなあ、と思いながらも、この痛みはわたしの痛みなんだろうか、とも思う。たしかに痛いのに、このわたしとどこか関係がないような気がしてしまう。朝はわたしを見つけることができなくて不安だ。
わたしはわたしを見つけられない。枕横に落ちているスマホの通知をひらくと「肩書きをお知らせください」というメールがきている。数週間後に出るイベントのために必要なのだ。肩書き、肩書き、肩書き。大縄跳びに入れないけど、肩書きを送ってもいいのかな。どろっとした意識のまま画面を眺めていると「バッテリー残量が少なくなっています」というアラートが表示された。バッテリー残量はあと10%です。ぱちん、と文脈が切り離された気がして、少しだけ目が覚める。わたしのスマホはいつもバッテリーがない。
哲学科に入学した。そのまま大学院に行って、修士号を取得した。博士後期課程にも進学して単位を取り、そのまま数年が過ぎた。誰かが忘れていったみすぼらしい上着のように、研究室にはわたしの席と籍が残されていて、ほこりを被っている。
わたしは哲学がしたかった。それだけだった。だから博士後期課程まで進学した。アカデミックポストに就きたいと思ったことはなかったし、ハカセゴウはどうやって取ったらいいかわからなかった。あばばばばばば、 と小さくつぶやきながらわたしは生きた。
結局、ひとことで言えば、永井さんは何のひと なんですか?とよく聞かれる。いろいろなことしてますよね?結局どうしたいんですか?とも聞かれる。何になるんですか?とも。
しまった、何かにならないといけないのか、とわたしは思った。哲学って何の役に立つんですか?就職に哲学は有利でしょうか?これからの世界に哲学は必要ですか?必要性をぜひ教えてください。
ぱちん、ぱちん、と大縄が体育館の硬くて冷たい床に当たっている。立ちすくむわたしの後ろからさっと友だちが走り込んできて、縄にしなやかな身体をくぐらせる。いーち、にー、さーん、しー、ごー、ろーく、しーち、はーち、と誰かが言っている。子どもの声だ。跳んでいる友だちは高校生の姿をしている。歯が白くて、運動神経のいい、かっこいい友だちだった。体育館の奥はいつも少しだけ暗くて、おそろしい気持ちになる。ぱちん、ぱちん、ぱちん。友だちが、かろやかに跳ねて、大縄から抜けてしまった。次はわたしだ。だが入ることができない。肩書きがあれば大縄に入れる気がする。ぱちん、ぱちん、ぱちん。わたしは翼よりも、肩書きがほしい。
肩書きとは、社会的立場のことだという。社会の中で、自分が立っているその場のことだ。だがわたしは自分が立てているのかすら、わからない。
「わたしでいいんですか」。知人と話しているとき、人前で話しているとき。ふいにたずねてしまうことがある。目の前のひとは、困惑したように笑って、はあ、とか、ええ、とか、言葉をもらす。そんなことをいきなり聞かれても困るだろう。奇妙な時間が流れる。
あわててその場を冗談めかし、問いを引き上げる。相手はほっとした表情を見せ「話は戻りますが…」と言う。わたしも大げさにうなずいて、問いのことを忘れようとする。問いの首根っこをつかんで、背中に隠したのに、まだ問いはじたばたと暴れている。問いがわたしに何かを叫んでいるが、それを聞き取ることができない。問いはますます怒って、わたしに何かを訴えつづけている。
所属や成し遂げた何かを羅列すれば、何者かになった気がする。でもあくまで気がするだけだ。もっともっと証明しなければ。わたしが「ここにいていい」と思われるために。目の前にたくさんの美味しそうな飲み物が並んでいるのに、一滴も飲めないような気持ち。きらきらと輝く瓶をたくさん手元に引き寄せるが、喉はからからに乾いている。
ある集まりに行ったときのこと。久々に再会するひとも多く、わたしたちは互いに近況を報告しあっていた。最近就職したというひとも何人かいて、自分はこういう部署に配属されたとか、こんな仕事を任されたとか、そんな話が交わされていた。大企業に就職した友だちは、ブラックな労働環境について、なぜかどこか嬉しそうに報告してくれた。名刺をくれたひともいた。硬くきれいな用紙に、複雑なロゴがプリントされてかっこよかった。
手元にある冷めた食べ物をつついていると、久々に会う後輩が目の前に座った。「あの」と彼女は言った。細くきれいな指が目に入って、なつかしい。
「14と15って同じな気がしませんか?」
近況を問われれば、だいたいの場合、仕事で何を成し遂げたとか、誰と付き合ったとか、忙しいとか、どこかへ旅行したとか、そういう類が返ってくるはずだ。だが彼女は真剣に、自分が数字への認識をどのように捉えているのかについて説明し始めた。数字はデジタル時計のせいで、変化するイメージがあるんです、と自己分析もしている。
彼女は、最近何をしたのかではなくて、最近何を考えていたのかを教えてくれたのだった。それはひどくわかりにくくて、可笑しくて、何でもなくて、重要なことだった。少しだけうつむきながら話す彼女を見ながら、わたしはいつまでもいつまでも、こういう話を聞いていたいと思った。
ひとが考えている姿はうつくしい。眉間に皺を寄せていても、よくわからないことを言っていても、言葉を探しながら、懸命に伝えようとするその姿は、うつくしい。考えているひとの目は、遠くを見ている。何かを探すように、ゆらゆらと動いて、そして再び目の前のひとに戻ってくる。
ある高校で哲学の授業を持っていたとき、わたしは生徒たちの考えている姿を見るのが好きだった。うつむいて、紙に何かを書きつけているひともいれば、じっと一点を見つめているひともいる。わたしは黒板によりかかって、彼らひとりひとりを見ていた。窓からは少しつめたい風が生徒たちの髪を揺らしていて、この瞬間を死ぬまで忘れませんように、と思った。
数について語る後輩もまた、うつくしかった。そこに社会的価値や意味はなかったかもしれないが、わたしたちにとっては、非常に大切なことだったのだ。それを「自身の課題発見」とか「メタ認知」といった言葉で価値づけすることも可能かもしれない。だが、わたしたちは、何かを成し遂げるために、何かを得るために、考えるのだろうか。
わたしたちは、なぜ何かを考えざるを得ないのだろうか。
ある取材でプロフィールを送ってほしいと言われた。何となく、後輩のことを思い出して、生まれも、出身地も、所属も、肩書きも書いていないプロフィールを送った。肩書きを欲しがる自分に抗ってみようと思ったのだった。先方は申し訳なさそうに、書き直してほしいと言った。まあ、それはそうだろうな、と思った。
ある新聞社では、生年と出身地が必要だと言われた。どうしてですかと理由をたずねてみると、そのひとが架空ではなく「実在すること」を示すためだという。記者さんは、ルールなのですみません、とやっぱり申し訳なさそうだった。
実在。そういえば、わたしたちはいろんな場面で、自分が実在していることを証明しようとしている。アンケートに答えるとき。ポイントカードをつくるとき。申込みをするとき。生年月日をお書きください。性別をお選びください。ご職業を次のうちからお選びください。「その他」の方は、空欄に詳しくお書きください。ご所属をお書きください。ご所属先の住所をお書きください。エラー。未記入の箇所があります。エラー。未記入の箇所があります。
だが、それは本当なのか。それでいいのか。それだったら「永井玲衣。大縄跳びに入れなかった。」とかでもいいのではないか。「このあいだ転んで、痛かった。」とか。「喫茶店で消毒液が出てないのに、出てるふりをして、手をこしこし擦った。」とか。「手をかざせば自動でびーって出る石鹸が好き。アワアワのやつ。」とか。
わたしがわたしであることって、何なんだ。
またあの音が聞こえてきた。ぱちん、ぱちんの音だ。「急がないと」と反射的に思う。はやく向こうに行かないと。大縄を跳べる、あの向こう側だ。わたしはふらふらと音のする方へ、走ろうとする。
背中がずしんと重くなった。あのとき背後に隠した問いが、目を覚ましたのだ。問いはわたしの背中に張り付いて、何かぶつぶつ言っている。重さに耐えかねて、だんだんと歩みがおそくなり、膝をついてしまう。問いがわたしの耳元に身体をのばし、ささやいた。
そもそも、あなたって一体何なの?
困ったなあ、と思う。問いは重みを増して、身体を起こしているのもしんどくなってくる。はやく行かなきゃいけないんだよ、やめてくれ、とわたしは言う。問いはわたしを離さない。押しつぶされそうになって、腹ばいになる。問いが上に乗っかって、だんだんと寝そべってしまう。早く向こうに行かなくちゃ、とわたしが言う。どうして?と問いが言う。どうしてか、わからない。どうしてだっけ。なんで急いで向こうに行かなくちゃいけないんだっけ。
よくわからなくなってきて、だんだんと眠くなってくる。だが、問いがしつこく話しかけてきて眠れない。目を覚ましていなよ、と問いが言う。
問いに圧倒されて眠りこけるのでもなく、問いをふるい落として走るのでもなく、問いを背中に乗せて、目を覚ましたまま寝そべっている。問いはすっかり機嫌をなおして、わたしにぴたりとくっついている。
時間はたっぷりあるんだ、と問いは言った。そうなのかなあ、とわたしは答えて、問いの声を聞いていた。
筆者について
ながい・れい。哲学研究と並行して、学校・企業・寺社・美術館・自治体などで哲学対話を幅広く行っている。著書に『水中の哲学者たち』(晶文社)。詩と漫才と念入りな散歩が好き。