『絶対内定』ではもう受からない! 今、この社会はどうなっているのか? 今、本当に求められている資質はなんなのか? 今、就職活動をどう乗り切ればいいのか? 日本を代表する社会学者にしてかつて東京都立大学(旧・首都大学東京)の就職支援委員会委員長を務めたこともある著者・宮台真司が語る、社会のこと、働くこと、就職活動、全てを串刺しにした画期的就活論。2011年に刊行され、今もなお就活生のバイブルとして読み継がれている『宮台教授の就活原論』から、一部を試し読み公開します。これから社会に出る若者と、働くことを見つめ直したい社会人のための必読書。理不尽な就活を強いるデタラメな社会を生き抜くために、就活の原理を共に学びましょう。
社会を空洞化させる企業行動/人生を空洞化させる仕事の仕方
僕は、2007年から2年間、勤務する大学で就職支援委員会委員長を務めました。就職支援委員会という組織は、大学生の就職活動を支援する就職課に様々な助言を行う、大学教員を構成員とする全学委員会です。委員長になる前にも、1年間委員を務めています。
それ以前にもインターンシップ(学生が短期間の見習い業務に就くこと)関連の委員会で仕事をしていました。ゼロ年代の後半はまる5年間ほど、大学生が就職する際に直面する(昨今の)問題について考えてきました。単なる職務を超えて真剣に考えてきました。
考えたことを随所で喋る機会がありました。2年前、僕が援交取材をしていた15年以上前から折に触れてお世話になってきた太田出版の落合美砂さんと、同社の新人編集者である藤岡美玲さんと、雑談をする機会がありました。そこでもあれこれ喋りまくりました。
するとお二人がおもしろい話だから本にしようと提案されました。専門の就職アドバイザーの本が多数ある中、屋上に屋を重ねたくない気持ちでしたが、直前に中学生に語りかける本を2冊上梓したこともあり、大学生に語りかける機会として利用しようと思い直しました。
2冊とは『14歳からの社会学』『中学生からの愛の授業』です。共通して「共同性の不可能性と不可避性」という観点に立ちます。「ポストモダンが、共同性の不可能を刻印する一方、グローバル化が、共同性を不可避に要求する。どう構えるか」という主題です。
抽象的に言えば、グローバル化(資本移動の自由化)によって、社会環境の複雑性が上昇する一方で、今まで個人の負担を軽減してきた市場や国家が不安定になるので、個人の選択能力と社会環境の複雑性の間を媒介する、共同体ないし共同性が大切になるのです。
他方で、社会的複雑性の上昇が再帰性の上昇をもたらします。再帰性とは「選択の前提もまた選択されたもの」という性質。例えば「手つかずの自然」は、今日敢えて手を付けないという不作為です。選択と無関連な自明性はないという認識が、共同性を相対化します。
これらの矛盾する要求に耐えるにはどんな知恵が必要か。それが、これら2冊の主題でした。むろんこんなに難しい言い方でなく、噛み砕いた言い方をしました。これを大学生に向かって語るという挑戦をしてみたくなりました。もっと踏み込んで書けるからです。
作業の終盤にさしかかった頃、東日本大震災と大規模な原発災害が起こりました。原発の政策的非合理性についてはマル激トーク・オン・デマンド(インターネット動画配信番組)などで10年来論じてきたところでもあり、直ちにいくつかの共著本の出版に関わりました。
各地のトークイベントにも呼ばれ、本書の作業が滞りました。落合さんと藤岡さんのお二人には申し訳ないという気持ちでした。でも正直3・11以前に本書を上梓しなくて良かったと思いました。3・11の前後で大学生たちの気分が目に見えて変わったからです。
ここから書くことは、今は少し難しいかもしれませんが、本書を読み通した後には理解できるはずです。ここでは、大規模災害によって、これまでの就活や就職そのものが脆弱な前提に支えられていたということが明らかになったと理解してもらえればいいでしょう。
救援物資の末端配分と、被災地と周辺地域の学童疎開が、人間関係資本の欠落ゆえに困難に陥ったことが明白になったこともあって、とりわけ「共同性の不可能性と不可避性」――共同性が不可能でも追求せずにはいられないこと――について意識が高まりました。
平時を前提にした市場や国家など巨大システムへの過剰依存が、非常時に問題をもたらすこと。それを回避するには市場や国家への過剰依存を抑制した共同体自治しかあり得ないこと。これらも認識され始めました。温かさ云々よりも、安全保障としての共同体自治です。
まじめに取り合ってもらえなかった共同体自治論が、震災後に評価してもらえるようになったのは幸いです。ちなみに震災前に脱稿して震災直後に出版された『朝日ジャーナル』掲載の拙論では、グローバル化による不安定性を非常時に準じた事態として主題化しました。
興味深いことに、東京に住む僕の周囲を見ると、学生や主婦から、物書きを含めた職業人まで、震災後に見事にふたつに分岐しました。かたや、震災後に元気をなくして抑鬱的になる人。かたや、震災後にむしろ元気いっぱいになる人。僕には両方とも理解できます。
僕は震災直後からツイッターで「東電や政府の言うことを真に受けたらトンデモナイことになる」として内外の原発事故関連情報を流し、こうした情報を元に子供の疎開を考える人々と疎開の相談をしました。実際に僕の山荘をヨソの子を含めた疎開場所にしました。
巨大システムへの依存で便益が調達できるがゆえに普段は見過ごしてしまいやすい、人間関係資本のありがたみ。それを改めて実感すると同時に、人間関係資本を存分に用いた活動を展開すること自体にもレベッカ・ソルニットの『災害ユートピア』的な明るさがありました。「災害ユートピア」とは、災害になると普段利用しているシステムが全く利用できなくなるので、システムを前提にした地位役割が無効化し、代わりに完全平等と利他性を2要素とする協働空間が前景化することを言います。日本でも阪神・淡路大震災で経験しました。
でもシステムが復旧するにつれて、システムと結びついた地位役割や、それと結びついたルーティンが復活します。完全平等と利他性を柱とする「災害ユートピア」は、「あれはいったいなんだったんだろう」という具合に、儚く消え去ります。それは万国同じです。
それが分かっていたので、どのみち甦るシステムのルーティンを予期して、先に述べた理由で「明るい」気分を抱きつつも、他方で「暗い」気分を抱き続けました。自分の日々の振る舞いが、脆弱なシステムを前提にしたものでしかないという事実を思えば、消沈します。
<従来のゲームが前提に充ち満ちたものだという感覚>は人を抑鬱的にします。充ち満ちた前提が崩壊した時に別のゲームができることが分かって昂揚する場合にさえも、この抑鬱は生じます。だから、暗くなる人、明るくなる人、明る暗くなる人が、出てきます。
興味深いことに<従来のゲームが前提に充ち満ちたものだという感覚>――僕は「震災後の意味論」と呼びます――が『魔法少女まどか☆マギカ』や『コクリコ坂から』など震災前から企画されて震災後に完成したアニメ表現にも先取りされています。不思議なことです。
今から15年前、オウム事件前から企画されてオウム事件後に完成した『新世紀エヴァンゲリオン』が、<イデオロギーないし宗教的な大言壮語が全て自意識の相関物にすぎないという感覚>――「オウムの意味論」――を先取りしていました。それとよく似た事態です。
<従来のゲームが前提に充ち満ちたものだという感覚>が、僕の周囲にいる学生たちの多くを就活から撤退させました。就職可能性を保留して大学院志望に切り替えた人もいます。彼らは口々に「就職活動をしてる場合じゃない」「就活の気力がなくなった」と言いました。
様々な願望が、試練にかけられることによって、素朴な願望から再帰的な願望に変わり、さもなければ想定不可能だった事態に対して願望が免疫化されて、タフになり得ます。できるだけ多くの学生が、願望の断念ではなく、願望の再帰化に到ってほしいと思います。
ここで言う再帰性とは「△△を願望することを願望する」という構えです。「敢えて願望する」とも言い換えられます。震災の前と後で就職に関わる願望の内容が変わるのは自然ですが、単なる内容変更に留まらず、再帰的願望への昇格が望ましいと言いたいのです。
願望の再帰化をもたらす<従来のゲームが前提に充ち満ちたものだという感覚>ゆえに、巷の就活本のデタラメぶりが際立つようになりました。就活本の大半は自己啓発本です。あとがきでも触れましたが、多かれ少なかれ自己啓発手法を取り込んでいます。
僕はかねて自己啓発手法的な就活本に違和感を抱いてきました。この違和感が誰にでも抱かれるようになったのが震災後でしょう。ひと口で言えば<癒しを提供しつつ、デタラメな企業社会への適応を促すこと>への違和感。本書は、この違和感を出発点にしています。
大震災を奇貨として、執筆する僕にとっても主題の輪郭が鮮明になりましたが、読者の皆さんにとっても主題の意義が分かりやすくなったはずです。そう、<社会を空洞化させるような企業行動>の容認と、<人生を空洞化させるような仕事の仕方>は表裏一体です。
皆さんは、東電社員や経産省官僚(に操られた政治家)による「事態は収束しつつある」といった安全デマや、多くの子供を内部被曝させた情報隠蔽や、同じく情報隠蔽に基づく不必要な計画停電など、<社会を空洞化させるような企業行動>を数多く目撃しました。
全く空疎な安全デマを語って内部被曝を拡げ、全く根拠のない計画停電の必要性を語って病院を危機に陥れ、全く見当違いな原発安価論を唱えて原発政策を擁護した彼らを目撃して、皆さんは何を感じましたか。それこそが皆さんにとって大切なことです。
皆さんは<人生を空洞化させるような仕事の仕方>を目撃したのです。『14歳からの社会学』や『日本の難点』で、「スゴイ奴だと感じさせるのは利他的存在だけ」「人々を幸せにする存在しか幸せになれない」という古今東西で語られてきた摂理を説いた所以です。
<従来のゲームが前提に充ち満ちたものだという感覚>を抱いた皆さんは、今後どういう企業に入って、どんな仕事の仕方を身に付けなければならないのかを、おぼろげながら感じ取ったはず。本書はそうした感覚に明確な言葉を与えつつ、新しいゲームを促すものです。
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この続きは『宮台教授の就活原論』本書にてお読みいただけます。
筆者について
みやだい・しんじ。社会学者。大学院大学至善館特任教授。東京都立大学教授。東京大学文学部卒(社会学専攻)。同大学院社会学研究科博士課程満期退学。大学と大学院で廣松渉・小室直樹に師事。1987年東京大学教養学部助手。1990年数理社会学の著作『権力の予期理論』で東京大学より戦後5人目の社会学博士学位取得。権力論・国家論・宗教論・性愛論・犯罪論・教育論・外交論・文化論で論壇を牽引。政治家や地域活動のアドバイザーとして社会変革を実践してきた。2001年から「マル激トーク・オン・ディマンド」のホストを務め、独自の映画批評でも知られる。社会学の主要著書に『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』(幻冬舎文庫)、『日本の難点』(幻冬舎新書)、『14歳からの社会学』(ちくま文庫)、『子育て指南書 ウンコのおじさん』『大人のための性教育』(ともに共著、ジャパンマシニスト社)、映画批評の主要著書に『正義から享楽へ』『崩壊を加速させよ』(blueprint)がある。