島尾敏雄から吉本隆明へ、そして谷川健一へ。島尾の奄美での生活体験から発せられたヤポネシア論は、1970年代に入って日本のあり方を大きく見つめ直すヴィジョンへと発展していった。左派論壇を中心に、ヤポネシア・ブームが到来することになったのである。
谷川健一「<ヤポネシア>とは何か」
1970年代に入り、沖縄返還に向けた政治が動き始めると、島尾敏雄のヤポネシア論は、一気に注目を集めるようになった。その大きなきっかけを作ったのが、谷川健一である。谷川は戦後日本を代表する民俗学者で、長らく在野の著述家として活躍した。彼は『日本読書新聞』(1月1日号)に「<ヤポネシア>とは何か」と題した論考を寄せ、島尾のヤポネシア論を絶賛した。
谷川は、冒頭で次のように言う。
私は日本に対するさまざまに起伏をもった体験のはてに、日本の彼方にヤポネシアという歴史空間の幻をみるようになったようである。
[谷川1977:61]
谷川は日本各地を歩き、また各地の民俗資料を読むなかで、文化の多様性に触れた。「日本文化」はしばしば単一的で固定的なものとして表象される。戦前期には天皇主義に基づく国体論に還元され、戦後も同質性を前提とした日本文化論が語られて来た。
しかし、谷川が見た日本は違った。日本文化とされるものは、多系列で、常に新しいものと古いものが混在する。文化は常に複合的であり、重層的である。にもかかわらず、多くの日本文化論は、日本列島の社会を恣意的に単一化しようとする。それは日本列島の住民の生活実態を捉えていない。それは日本を一元化しようとする政治的言説に他ならない。
島尾敏雄の造ったヤポネシアという言葉に私がひかれるようになったその裏がわには、日本列島社会を「日本」と同じものと考えたくない心情がある。私にとって日本というイメージは手垢によごれすぎた。そのイメージを洗うものは、日本よりももっと古い歴史空間か、日本よりもっと生きのびる、つまり若い歴史空間かのどちらかでしかない。日本よりも古くかつ新しい歴史空間、それが私にとってのヤポネシアだ。
[谷川1977:61]
谷川がヤポネシア論を通じて捉えようとしているのは「日本よりも古くかつ新しい歴史空間」である。谷川は日本列島社会を「日本」から解放すべきだという。「日本」は、均質的で単一化された政治的存在である。「日本」という固定的枠組みが成立する以前の「もっと古い歴史空間」を探求すると、そこには「日本」から解放された日本列島社会の古層が見えてくる。そして、この古層はこれからの「新しい歴史空間」と接続し、固定化された日本を解体する。これが国民国家・日本を超えたヤポネシアという存在である。「日本の外にあることとヤポネシアの内にあることとはけっして矛盾しない。なぜならヤポネシアは「日本」の中にあって「日本」を相対化するからだ。」[谷川1977:61]
庶民の生活文化を愛する谷川にとって、「脱日本」を掲げるインターナショナリズムには違和感があった。それは土着の民俗文化を否定し、世界の均質化を進めることにつながる。日本各地の土着性は、乗り越えるべき対象と見なされる。日本を脱出することが求められる。一方で、「日本」を肯定しようとすると、単系列化された「日本」に回収されてしまう。
―――「日本」の中に埋め込まれるのか、「脱日本」なのか。私たちにはそんな二者択一しかないのか。
そんな苦悩のなかにあったとき、谷川の前に現れたのがヤポネシア論だった。
ヤポネシアは、日本脱出も日本埋没をも拒否する第三の道として登場する。日本にあってインターナショナルな視点をとることが可能なのは、外国直輸入の思想を手段とすることによってではない。ナショナルなものの中にナショナリズムを破裂させる因子を発見することである。それはどうして可能か。日本列島社会に対する認識を、同質均等の歴史空間である日本から、異質不均等の歴史空間であるヤポネシアへと転換させることによって、つまり「日本」をヤポネシア化することで、それは可能なのだ。
[谷川1977:61-62]
外国直輸入の思想にかぶれることではなく、庶民の生活世界に根拠を求めることによってこそ「同質均等の歴史空間である日本」を相対化することができる。土着世界の多元的な文化は、国民国家の枠組みから漏れ出す。その「異質不均等の歴史空間」こそが、ヤポネシアである。ミクロな世界の豊饒な多様性がマクロな世界へと滲出(しんしゅつ)し、固定的な「日本」を解体する。
日本の各地方の歴史がそれなりの全体性をもって相対的独立性を持つことを主張することが、まぎれもないヤポネシアの成立与件であるとすれば、その一方では多系列で異質な時間を単系列の時間という一本の糸に撚り合わせていったのが「日本」であり、そのために支配層が腐心し、ときによっては糊塗と偽造をもあえて辞さなかったのが「日本」の歴史である。したがって、撚り合わせた糸をもう一度撚り戻す作業、つまり「ヤポネシアの日本化」を「日本のヤポネシア化」へと還元していく努力が要請される。
[谷川1977:65-66]
谷川は最後に、吉本隆明の「異族の論理」への共鳴をつづる。谷川は、「時間の無限遡行のための努力」を払うことで、「ヤポネシアの幻」が現れるという。「そのためには下降するエスカレーターの階段を逆に上っていくにひとしい苛酷な苦行を自己に課さなくてはならないことだけはまちがいない」という。[谷川1977:66]
島尾敏雄から吉本隆明へ、そして谷川健一へ。
島尾の奄美での生活体験から発せられたヤポネシア論は、1970年代に入って日本のあり方を大きく見つめ直すヴィジョンへと発展していった。左派論壇を中心に、ヤポネシア・ブームが到来することになったのである。
島尾敏雄の苦悩
一方、当の島尾は苦悩の中にいた。奄美での生活は15年を超え、移住してきた当初には見えなかったことが見えて来た。すると、かつてわかった気になっていたことに対して、次々に疑念が生じた。「奄美に移り住んだ当初よりかえって、今の方が島について自分がなにもわかっていないという意識が強くなってきた」のである[島尾1973:50]。
島に対する自分の知識はきわめて曖昧であり、いくらかわかったと思っていたのは錯覚ではなかったか。島に来た当初、直截に言えたことも、今ではそれほど容易に断定できることではないことに気づいている。
事実、奄美についてなにかを書くと、奄美の実体は私の手を逃がれ遠くの方へ去って行き、手のとどかぬところのものになってしまう。
[島尾1973:50-51]
島尾は琉球弧について、まとまった「報告書みたいなもの」を書こう思った。しかし、どうしても筆が進まなかった。知っていると思ったことはあやふやなもので、知れば知るほど、確信が持てなくなった。そのため、執筆を先延ばしにしていると、いよいよ本格的に書けなくなってしまった。
島尾は、奄美の自律性を願った。奄美の生活の中に根付いてきた伝統や価値を継承してほしいと思った。この延長に、復帰を控えた沖縄への思いがあった。
ぼくは日本がなぜか画一のかたちになりたがる傾きがあるように思えておもしろくないのです。それぞれの地方がもっと自律性といいますか、強くいえば独立的な性格を帯びてもいいのではないかという気がします。それで沖縄のことでも、復帰することはもちろん望ましいことですけれどもだからといって、本土のほうにべったりくっついてしまうというのではなく、沖縄の自律性、独立性というものをしっかり打ち立てるような方向で考えられるべきではないかと思います。
[島尾1973:66]
しかし、先に本土復帰をした奄美の島民は、本土志向が強かった。子どもを持つ親たちは、「上級進学」に強い関心をもち、本土の学校への進学を指向した。また、進学しない若者たちも、就職先を本土に求めた。結果、多くの中学卒業者が島を離れていった。
奄美には振興事業として、様々な本土の企業が入ってきた。観光産業の充実も図られ、島への訪問者も増えた。道路が整備され、街並みも大きく変わっていった。
島尾にとって、奄美は「多くの可能性を秘めた島々」[島尾1973:47]だが、奄美は本土の画一的な文化に飲み込まれようとしていた。しかも、それを多くの島民たちが望んでいる様子だった。
島尾は落胆したが、島民を責めることはできなかった。奄美は歴史的にも搾取され、深刻な貧困を経験してきた。その苦しみの上に立つと、奄美の人たちの経済的豊かさへの思いを否定することはできなかった。「砂糖島としての歴史の悲しさをふり返ると、私の気持ちは閉ざされて行く思いに陥ってしまう。」[島尾1973:49]
日本一貧困な島の人々が、生活の不便をなくそうとして、本土、とくに東京の方へ顔を向けたがっていることがわからないわけではない。劣等感も絡み、ことごとに自分の島の匂いを消そうとし、行政担当者もその趨勢にさからえず、島を挙げて島の伝統を破壊する意志が充満していると思えるときがある。すべて生活の必要から生まれた傾向かもしれないが、生活を楽にするということが果たしてこのような方向でいいのかどうか、わからなくなってしまうこともあるのだ。
島の現実は、きびしく、土着のものにとっては、ただ美しいものばかりではないということ。
[島尾1973:55]
1970年春、島尾は那覇を訪れた。10日ほどの滞在中、講演会も開催された。「ヤポネシアと琉球弧」と題した講演では、日本の多様性を探る手掛かりとして東北と琉球弧があり、そのつながりを探求することで「もうひとつの日本であるヤポネシア」が浮かび上がると論じた。
島尾はこのなかで、アイヌの存在に注目している。「かつてかれら(アイヌのこと*引用者)は日本列島をずっと南下して琉球弧の南端まで行ったけれども、その後本土の方のアイヌは何らかの事情で北方に引きあげ、琉球弧では残されたままになったのだという学説を読んだことがあります」と述べ、この学説は俗説として学問的に否定されているものの、「しかしわたしには、どうしても、何か似ているものがあるような気がして仕方がないのです」と論じている。東北と南島の文化に共通点を見出す島尾は、そのルーツをアイヌに見出し、そこにヤポネシアの根拠を求めた。[島尾1973:111-112]
那覇から奄美に帰った島尾は、1970年5月14日・15日の『朝日新聞』に「那覇に感ず」という文章を寄せた。この中で、彼はヤポネシア論を説く自己に対して、強い懐疑の念を表明している。
那覇に十日の滞在のあいだ、私は自分の精神の不自由さにうちのめされたのだった。ひとつの場所で「ヤポネシアと琉球弧」というようなことをしゃべり、もう一つの場所で「琉球弧の視点から」の自分の考えを、なんにんかの那覇の人々をまえにしてささやいたけれど、私はことばがもつれて次のことばにつながらないもどかしさにさいなまれた。それは自分のことばをすでに信用できなくなっている強い意識が作用していたのかもしれぬが、もともと自分の考えの中途半端さに原因があると考えないわけにはいかなかった。それが私をうちのめし、どんなにことばの軽々とした展開を望んでも、私の口は凍りつき、おさえられた思想を語彙の貧しいかたくこわばったことばでしか表明できなかった。
[島尾1973:100-101]
島尾は琉球弧やアイヌについて語りながら、その言葉が空転していると感じた。自分の話にまったく手ごたえがなく、「悔いのなかで落下しつづけ」た。[島尾1973:101]
ヤポネシア論が、本土の左派論客に評価されればされるほど、奄美に住む島尾の苦悩は加速した。奄美に移り住んだ当初、南島は彼にとって「治癒」と「救魂」の場だった。「絶望的な毒素」にまみれた本土の都市に対して、南島は「桃源郷の気配」を感じる場所だった。彼は南島の文化に身を寄せ、そこからヤポネシア論を展開した。
しかし、南島文化を知れば知るほど、自己の語ってきたことの不確かさや浅薄さ、オリエンタリズムに気づかされることになった。しかも、奄美の人たちは本土の物質文明に接近し、都市の豊かさを希求している。そして、本土復帰を控える沖縄も、同様の指向性を持っている。そのような中で、南島に住む人間としてヤポネシア論を説き、本土の知識人から脚光を浴びる自己とは何者なのか。南島に住むことで、本土に対する特権的な立場を手に入れただけではないのか。
島尾は、南島を語ることのやましさに打ちのめされ、苦悩した。そして、その苦闘が、ヤポネシア論の変化となって表れた。彼は南島を論じつつも、ヤポネシさせていったのである。
縄文へ
島尾は1971年11月に評論家の志村栄一と対談した。島尾は琉球弧を構成する島々と本土は別の歴史をたどってきたことを強調しつつ、「どちらも同じ基盤の上に立った日本人であることは間違いない」と主張した。[島尾1991:113]
志村が「日本の古代の文化には二つある」と言い、「狩猟・採集を中心とした縄文文化」から「農耕を中心とした弥生文化」への移行が、「日本の文化的な転換点だった」と論じると、島尾は一気に縄文論を展開した。
日本において国家というものが、その弥生時代のあと古墳時代に入って大和朝廷によってでき上がるわけで、それはあたかも弥生文化の上に乗っかってできてくるように見えます。
その日本国家の形成は、何となく琉球弧や東北の地方を疎外したような形ででてくる。だから日本というものを考える時には、弥生文化だけを考えるのではなく、その前にあった縄文文化というものから検討しなければならないと思います。
この縄文文化は長い間日本列島全体をおおう形でできていたわけですし、東北も琉球弧も一まとめにした幅広い文化圏というものが形成されていたのではないかと思います。
したがってやはり縄文文化にまでさかのぼって考えていくのが妥当ではないかと思います」
[島尾1991:114-115]
島尾の見るところ、弥生期以前の日本列島には「縄文文化」という共通の文化圏が存在した。ここに農耕を中心とした弥生文化が大陸から入って来ると、原日本を構成していた縄文文化は退けられ、本土の中心は弥生文化から大和朝廷が担っていった。しかし、縄文文化が消滅したわけではない。縄文文化は周縁化され、東北と琉球弧に残ることになった。そのため東北の文化と琉球弧の文化には通底するものがあり、これが現在にも連続している。東北と琉球弧の基層を掴むことによってこそ、日本は「原日本」へと帰還し、共通の基盤を回復することになる。これがヤポネシアの本質である。
島尾は、縄文文化の中にこそ弥生以降の日本が喪失した「バイタリティー(力強さ)」があると主張する。
いままでは日本というものを考える時、弥生文化から展開したものが、中心の役割を果たした日本的なものとされていたのです。
いいかえれば、日本的なものというと何か弥生的なものの上で考えられていましたが、それだけでは日本の可能性というものをせばめてしまうし、日本の底にあるバイタリティー(力強さ)が、見落とされてしまう感じがします。
[島尾1991:115]
さらに、縄文文化という日本の共通基盤を再確認することが、沖縄が本土復帰するにあたって、重要なことだと論じる。
縄文文化の再評価というのは、弥生文化のあとは別々の展開になってしまったけれど、その前にあった縄文文化という共通の地盤を確認することであって、再び南の島々(琉球弧の地帯)との連帯を強固にするものであると思います。間近にせまった沖縄復帰の意味を理解する上でも時期的にも非常に大切であると思います。
[島尾1991:116]
ここには、吉本隆明「異族の論理」と通底するヴィジョンが見られる。島尾にとって、沖縄復帰というのは、沖縄の本土化を意味しない。むしろ、弥生以降の本土の文化を相対化し、縄文文化のもつバイタリティーへと回帰することで、沖縄と本土の真の連帯が生まれる。ヤポネシアが現前する。
沖縄返還の政治プロセスは、島尾にとって日本という国家のあり方をめぐる闘争に他ならなかった。沖縄返還が[本土=高度成長=近代的価値]への併合になってしまえば、それは沖縄の本土への同化を意味し、琉球弧の持つ可能性を窒息させてしまうことになる。本土に飲み込まれるのではなく、逆に琉球弧が有する価値によって、本土を包み直す必要がある。そのためには本土と沖縄が、その古層において共有している文明へ回帰しなければならない。縄文に帰らなければならない。弥生時代以降の中央集権的日本は「倭」であり、縄文時代の古層こそが「ヤポネシア」である。日本は縄文に遡行することで、ヤポネシアに開かれなければならない。
縄文という「反体制的異端のバイタリティー」
1972年、島尾は西日本新聞社が主催する「あすの西日本を考える30人委員会文化部会」に参加し、メンバーと共に通算8回、延べ40時間にわたる討論に参加した。この討論は1972年10月10日から10月20日までの『西日本新聞』紙上に掲載され、報告書としてまとめられた。
この討論のなかで、島尾は縄文に遡ることによって、これまでとは違った「新しい未来のイメージがわくのではないか」と提起している。縄文人たちは、「豊かな自然の中で約一万年もの間、大らかに生きてきた」。そこには「土地や権力にしばられない自由さ」があり、この「縄文時代の民族的な原体験が、いまも現代人の心の奥に刻まれ、自由の欲求になっているのではあるまいか」。[島尾1991:240]
島尾にとって、縄文人は「大らかで型にとらわれず自由闊達、別の言葉でいえば八方破れで、反体制的異端のバイタリティー」を持っている。一方、弥生人は「型にはまって秩序を重んじる体制順応型」である。九州の人間は、弥生的側面が強いものの、「根っこは縄文的なものを秘めている」。この縄文の力強さを「現状打破、弥生的性格を変えるエネルギーとしてとりださなければならない」。[島尾1991:241]
島尾は大陸文化を取り込んで古代国家を形成したあり方と、ヨーロッパの近代文明を取り込んで近代国家を形成したあり方を「同じパターン」と見なしている。そして、現代人は、縄文を取り戻すことによって、近代国家の疲弊を乗り越えることが可能となると主張する。
ただし、縄文と密着したヤポネシア論は、「反国家を意図した発想ではない」と言う。[島尾1991:244]
日本というのは、二つに分けて考えるとはっきりする。一つは、先史いらい、まだ国家もなかった縄文時代の数千年の間、日本列島の北から南まで、琉球弧を含めて、共通していた生活文化で、これが「ヤポネシア」である。もう一つは、弥生いらい九州、近畿から関東あたりを舞台に沸騰し、展開した日本国家の歴史の中で形成された文化で、ふつう「日本」と考えられるのが、これである。
私は、前者の、ふつうは意識にない、地域的歴史的に広く深い日本、つまりヤポネシアをとりこむことによって、初めて、後者の狭く浅いいわゆる「日本」は、カッコを取りはずされて、ほんとうの日本になると考えるわけである。私は国家を否定しようというのではない。狭い国家意識にとらわれた「日本」ではなく、ほんとうの日本を発見したいのだ。
[島尾1991:244]
中央集権的な「日本」から、ほんとうの日本へ。弥生から縄文へ。そこは自由闊達な精神に満ち溢れ、自然と豊かな関係が形成されている。国家による画一的な統治から脱却し、庶民が生活世界の中で受け継いできた文化や精神性が開花する。その基底にあるのが縄文であり、ヤポネシアとして展開する。
1977年、島尾は自らが編者となって『ヤポネシア序説』(創樹選書)を出版した。ここには1960年代以降の島尾の代表的なヤポネシア論が収録されるとともに、1970年代に展開された、様々な論客のヤポネシア論が採録されている。そして、この本の表紙には、縄文時代の土偶が掲載されている。島尾のヤポネシア論は、縄文論へと帰結し、スピリチュアルな解放を謳う新しい潮流と合流していく。
「未来の縄文」
1978年12月、詩人であり「沖縄タイムス」記者を務めた川満信一が、「未来の縄文 島尾敏雄「ヤポネシア論」の示唆するもの」(『カイエ』1978年12月号)を発表した。
ここで川満は、島尾のヤポネシア論を「私にとって詩である」と論じている。島尾の議論は、自己の内部に潜んでいる感性や思念に翼を与えてくれる。ヤポネシア論は単なる文化論ではなく、近代によって抑圧されてきたいのちの内的衝動を開花させる文学である。
島尾氏の“ヤポネシア”論が触発したものは、日本の文化空間についての、片寄った画一性をほどく、という視点だけではない。そこには文化空間的視野の展望を開くと同時に、歴史(時間)の深層に向けて、縦深的に掘り進み、このヤポネシアに住む人々の、根源的な時間、生命の本質的な躍動の共感域を発見し、そこから汲みあげたものを未来の可能性へと転化していく、というラジカルな思想が示唆されている。
[川満1987:22]
島尾のヤポネシア論は、時間の深層に遡行することによって、日本を「倭」から解放し、私たちを閉塞的な自我から解放する。縄文という基層にアクセスすることで、私たちは近代の時間や思考から解き放たれる。
縄文の古層を生きたとしても、私たちが完全な形で疎外から抜け出すことはできず、様々な不幸にも直面する。すべてが満たされたユートピアなど現前しない。しかし、「暮れなずむ島の畑中で、遠くから姿もなく聞こえてくるあの民謡の、ゆったりとした、のびやかな世界を支えている時間を憶うとき、その時間体験が、ふしぎな生命の豊饒を喚起してくれるのをとどめることはできない。」[川満1987:26-27]
縄文的バイタリティということばを誰かが言っていたが、私たち琉球弧の住人が、縄文的文化の本質を、より濃厚に生きているとしたら、その縄文的バイタリティによって、現代の様々な矛盾に血路を開いていかねばなるまい。すなわち、縄文古層の文化は、神話の世界に置き去りにしてきた文化ではなく、私たちの根源的な時間の中に、いまも脈打っているものであり、しかもそれは、現代の文化のある種の畸型性に、本質的な蘇生を促す可能性として想定されているわけだから、未来の縄文として、私たちを鼓舞しているわけである。
[川満1987:28]
島尾のヤポネシア論は、吉本隆明と谷川健一を経由して、縄文論へと発展した。空間論は時間論へと展開し、縄文という基層文化へと帰結することで、天皇制国家を超えるヴィジョンへと行きついた。日本に依拠しながら、中央集権的「日本」を解体し、自由を獲得する。日本の深層に遡行することで、アジアと連帯し、閉塞的状況から自己の精神を解放する。そこには南島の民俗と連続する「生命の豊饒」が存在する。縄文は過去の存在でありながら、あるべき未来の姿でもある。縄文へと遡行することで、未来に前進する。これがヤポネシア論を基軸にして展開された縄文左派の論理だった。
この思想は、同時期に展開していたオカルトやヒッピーの運動と交差することで、ラディカルな政治運動を生み出していくことになる。
【引用文献】
川満信一 1987 『沖縄・自立と共生の思想-「未来の縄文」へかける橋』海風社
島尾敏雄 1973 『島尾敏雄非小説集成・第三巻・南島篇Ⅲ』冬樹社
____ 1991 『ヤポネシア考』(島尾敏雄対談集)葦書房
谷川健一 1977 「<ヤポネシア>とは何か」『ヤポネシア序説』(島尾敏雄編)創樹選書
*中島岳志『縄文 ナショナリズムとスピリチュアリズム』次回第12回は2023年1月27日(金)17時配信予定です。
筆者について
1975年大阪生まれ。大阪外国語大学卒業。京都大学大学院博士課程修了。なかじま・たけし。北海道大学大学院准教授を経て、現在は東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授。専攻は南アジア地域研究、近代日本政治思想。2005年、『中村屋のボース』で大仏次郎論壇賞、アジア・太平洋賞大賞受賞。著書に『パール判事』、『秋葉原事件』、『「リベラル保守」宣言』、『血盟団事件』、『岩波茂雄』、『アジア主義』、『下中彌三郎』、『親鸞と日本主義』、『保守と立憲』、『超国家主義』、『保守と大東亜戦争』、『自民党』、『思いがけず利他』などがある。