紀伊國屋じんぶん大賞入賞作『水中の哲学者たち』で話題の永井玲衣さんによる新連載「ねそべるてつがく」。つねに何かを求め、成長し、走り回らなければならない社会の中で、いかにして「考える自由」を探し求めることができるのか。「ただ存在するだけ運動」や「哲学対話」を実践する哲学者がつまづきよろめきながら、言葉をつむいで彷徨います。「考える」という営みをわたしのものとして取り戻す、新感覚の哲学エッセイ!
今年からはじまったラジオの帯番組に出ていて、ふと台本に「123回目」とあるのに気がついた。CM中に、ブースにいるひとたちに「いち、に、さんだ」と話しかける。あら、すごいですね、なんてやりとりを簡単にしたあと、アナウンサーの西川さんがページをめくりながら「あとにも先にも、この数字はないですからね」と言ったあと、ぼそりとつぶやいた。
「まあ、どの数字もそうなんだけど」
たしかにそうで、いや、そもそもそんなの当たり前で、でもやっぱりおどろいた。おどろいたことにもおどろいた。
なんでこんな簡単なことをいつもわたしは、忘れてしまえるんだろうか。
一瞬一瞬がもう二度と戻らない、そんな生をわたしたちは生きていて、本当に勘弁してほしいと思う。日々が、毎日が、すべてが、かけがえがなさすぎるのだ。
存在もそうだ。このわたしという存在は、これまでも、これからも決して存在しない。クローンをつくったとしても、このわたしの情念、欲望、経験、痛み、それらは共有されない。それに、クローンのわたしがひとりでに歩き出したとして、そこから、かけがえのない、クローンのわたしとしての生が開始される。わたしが出会わないひとと出会い、わたしが過ごさない生を過ごす。わたしがその瞬間に飲まなかったものを飲み、思わなかったことを思い、ぶつけなかったところをぶつけてアザをつくる。
かけがえがないことは、しんどい。尊くうつくしいことながら、あまりに重いのだ。わたしたちそれぞれにいのちがあり、それは刻々と進んでいき、二度と戻らない。振り返ることはできても、引き返すことができない。
そしてその一瞬一瞬に、そのひとのあらゆるものが詰まっている。あまりに複雑に、簡単に抽出することのできない仕方で、そのひとの生がうごめいている。
そう、かけがえがないのは、わたしだけではないのだ。なんておそろしいことなのだろう。あなたも、あなたも、あなたも、ばらばらの生を、同じようにかけがえなく生きている。決して取り戻すことのできない一瞬一瞬が、自分の背後に吹き抜けていくことを感じながら、生きている。
こわいのだ。何かを論じたり、判断したりするには、その生が見せる一側面を使うしかない。あるいは、あえて切り取るしかない。こわい。こわくて、こわすぎて、大きな布でもかけて、隠したくなる。目を背けるために、カラーボックスにでもまとめていれてしまいたい。ざっくり何が入っているかがわかるように、ラベルでもつけておけばよい。これで大丈夫なのだ、と安堵する。何も大丈夫ではないのに。
なぜなら、そこには人間がいるからだ。
*
こんなこともある。
資本主義が何もかもを飲み込むとあなたは言う。新自由主義が、わたしたちの好む好まざるにかかわらず、すべてを包摂するとあなたは言う。どんな場所にも家父長制が見出されるとあなたは言う。
ページをめくり、話をきき、声を目にし、その通りだと思う。だがどこか、焦っている。問いがやってきて、本当に? とわたしの服の端をひっぱっている。
なぜこんなにも、何かを考えることはむずかしいのだろう。ひとつひとつの生をとらえようとすると、それはとらえどころのないものとして逃げ去ってしまう。まるで霧をつかむようだ。だからといって、構造だけを問題にすると、そこに個別の人間を当てはめてしまう。
普遍的に存在する猫!をおもひゐつ 哲学と云ふはかなしかりけり
中山明
あるひとが長年、丁寧に取り組んでいることに対し、研究者が「行政に取り込まれている」と批判している文章を読んだことがあった。たしかにそのひとは行政の会議に出ることはあった。何かしらの役割を担っているようだった。とはいえ、そのひとのやっていることは、大きなものから距離を取ろうと慎重になっているものでもあった。
そのひとが取り組んでいることは、行政に丸め込まれているだけでなく、行政が推し進める新自由主義的なものに取り込まれ、むしろ加担していると文章にはあった。たしかにそういうところはあるのかもしれない。そうかあ、と思う。批判されたそのひとも、そうかあ、と思っているようだった。そして、そうかあ、と言いつつ、そうじゃないんだけどなあ、とも言っていた。
構造の話をすると、人間が消えてしまう。複雑性が忘却される。時に、思惟を押しつける。人間の話をすると、個別的になってしまう。足元が霧散する。これまでの長い歴史の中で、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、わたしたちが引き裂かれてきた問いだ。
私は何かを証明するつもりはなく、ただ、複数の声が聞こえるようにしたい。そうすることで、今日、女性的なものを語るという極度の困難と極度の緊急性のあいだで自分のバランスを保ちたい。
カトリーヌ・マラブー『抹消された快楽』西山雄二、横田祐美子訳、法政大学出版局、2021年、20-21ページ。
複数の声が聞こえるような仕方で、普遍化の暴力をふるうことにおびえながらも、いかにしてわたしたちは語ることができるのだろうか。
あるいは、こんなこともある。
以前、D2021で「Decade 現在から何が見えるか」という映像をつくった。インタビューやドキュメンタリー、ダイアローグの様子をおさめたが、後半には「未来からのスピーチ」を、いろいろなひとにしてもらった。「パリテが実現し女性の首相が誕生した日」「同性婚ができるようになった日」「気候変動が止まった日」「コロナ収束の日」。そんな日から、それぞれが「いま」のわたしたちに向けてスピーチをする。
限定公開をしていたが、最近はYouTubeで全編を見ることができるので、ぜひ見てほしいと思う。(https://www.youtube.com/watch?v=FMd-oIT_jRg)
その中でも、コムアイの「核兵器禁止条約をすべての国が批准した日」のスピーチは、すさまじかった。彼女と、林田光弘さんが協力して書かれた言葉は、生がぎゅうぎゅうに詰まっていた。
核兵器はなくすべきだ
これは世界の願いでしたが抑止力が必要だからすぐにはなくせないという声も聞こえてきました
抑止力という言葉を使うとき
核兵器はゲームの手札のようなイメージになり傷つく人々の姿を想像できなくなってしまいます
「ゲームの手札のようなイメージ」という言葉にどきりとする。「抑止力」という普遍的な言葉がもつ、魔術的な力。
被爆者は語りかけていました
道に溢れる死体の上を
謝りながら歩いていたのに
いつのまにか
何も感じなくなった自分への恐怖心被爆者は語りかけていました
柱の下敷きになり身動きが取れない中
迫り来る炎を見て
死を悟った母が唱えた念仏と
その場を立ち去る
自分の足音被爆者は語りかけていました
毎年訪れる暑い夏と
ケロイドを隠すための長袖しかない箪笥被爆者は語りかけていました
被爆者手帳を渡した病院の受付で聞こえてくる
ヒソヒソ話
自分から離れる親子の姿
核兵器はなくすべきだ。今すぐにでも核兵器禁止条約を批准してほしい。たくさんのひとたちの願いだ。そして、わたしの願いでもある。戦争にも反対だ。戦争はいやだ。
戦争のにおいがしている。ずっと。におっているのに、気が付かないふりをしている。ノイズが聞こえているのに、気にしないふりをしている。ものごとはあまりに速くすすむから、すべてがなされてからようやくわたしたちはそれを見る。
戦争は、ひとりひとりを見えなくする、究極の出来事だ。戦争は仕方がないというとき、核兵器は仕方がないというとき、それが世界の構造であり、人間のあり方だというとき、のっぺりとした普遍化が生を覆う。
それだけでない。戦争反対と言うときですら、核兵器反対と声をあげるときですら、人間を忘れてしまうことがある。具体的なひとりひとりの、生を忘れてしまうことがある。コムアイの未来からの、それでいて予言のような語りは、そこに人間がいることを開示する。だから何度でもわたしは息を呑んでしまう。
*
福島県の浪江町で、小学生たちと哲学をした。校庭に出て「いちばんよわそうなもの」を探してもらい、それはなぜそう思うのか、そしてそれを通して「よわい / つよい」とはどういうことなのかを考えようと思ったのだ。
小学1年生と2年生、合わせて7人が、校庭を駆けまわる。あまりに大きな空と、静かなまちに、子どもたちのはしゃいだ声が響いていた。
子どもたちは大騒ぎしながら、校庭に落ちているものをわたしに手渡してくる。枯れ葉や、折れたちいさな花、土、砂、そんなものを、あつあつの指で知らせてくる。どれもこれも、すぐに壊れてしまいそうで、ちいさくて、きれいだった。飛ばされてしまいそうだったり、崩れてしまいそうだったり、見えにくかったりするものを、子どもたちは持ってきた。わたしはそれを手のひらにのせて、しばらく眺めた。こっちの方がよわいよ、この学校ではこれがいちばん、そんなことを子どもたちは口々に言いながら、転げ回った。
だがある子が、手ぶらのまま、わたしの前に立っているのに気がついた。ねえ先生、先生、と、きれいな声でわたしを呼んだ。顔をあげると、わたしの方をじっと見ていた。
「いちばんよわいのは、人間のからだだと思う」
そうだね、とわたしは言った。風は冷たく、子どもたちの手のひらは熱く、太陽は眩しく、くらくらした。あまりによわく、もろく、傷つきやすい、人間の身体。あまりにかけがえがなく、複雑で、熱っぽい、わたしたちの生そのものだった。
筆者について
ながい・れい。哲学研究と並行して、学校・企業・寺社・美術館・自治体などで哲学対話を幅広く行っている。著書に『水中の哲学者たち』(晶文社)。詩と漫才と念入りな散歩が好き。