「あの服も、この服も納得がいかない……私がほんとうに着たい服ってなに?」
世間は色々な問題を投げかけてくるけど、どれもこれも肝心なこと、漠然とした問いかけの先にある根本的な問題には触れていないような気もする。今のファッションが退屈でしっくりこない、悩めるすべてのみなさまへ。
こちらは、まだ誰も言葉にしていない違和感を親切に言語化する“ポップ思想家”の水野しずさんによる、トレンドを追うよりも、納得のいくスタイルを発見していくためのファッション論考の連載です。「着るという行為」について、一緒に考えていきましょう。
雑誌に書いてある絵空事をどうにかして信じたい高校生
平凡な高校生からすると、ファッション雑誌には、にわかには信じられないことがジャンジャン書いてある。そこら辺を歩いている若者はモデルか渋谷の奥まったところにある上級者向け古着屋の店員かラッパーか美容師。5万円くらいするニットを着ているし、髪型は常に美容室から出てきたばかりの感じである上に、ベルリンやパリに友達がいるし、オールドグッチをくれる祖母や写真家をやっている叔父や歌舞伎役者の親族がいる。
そんなふうにオシャレ天上人のようなライフを地続きで謳歌している人が実在するのか、というと、おそろしいことに存在している。
東京でいちばんのオシャレエリアといえば青山周辺がその一つに該当すると思う。私が上京して、初めて青山(と思われる洋風の凝った建築物が林立するエリア)に足を踏み入れたときにそれを見た。大学生くらいの年齢の、しかしなにをやっているかはわからない感じの4~5人が歩行者信号の向かいにいた。人々は、ヘアサロンから出てきた直後としか思えない髪型を各々し、流行っていないが明らかにオシャレなバッグを持ち、編み目の一つ一つが丁寧でイオンやイトーヨーカドーといった雰囲気とは一切無縁のニットをしかも春先に着て、すべての露出した肌はどうしたことか最大限に保湿をされて、その上あるものは小脇にハンディーサイズのスケボー(ペニーというらしい)を抱えている始末。ポール・ゴーギャンの絵画に「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」という題のものがあるが、この人々と私は来た場所も向かうところも同じとは到底思えない。
この、絵空事ではない事態に私は度肝を抜かれた。どこかしら隠れられそうな遮蔽はないかと見渡すも、この辺りは土地が平坦でブルーハワイを薄めたような晴天が目にしみいるばかり。ショックだった。いたたまれないというか、ヒザを支えている力が抜ける感じ。このショックの味わいは、自分が田舎者でダサいから、といった次元ではもはやない。信じたいと願ったものが、わざわざこちらが信じたがるまでもなく忽然と現れてしまった事態にうれしいを通り越してガッカリがあった。また、どうしてだかガッカリしている自分に驚き、この厄介な気持ちはなんだろうかとも思った。
「タイル」という辺境を相対化するものを信じたい
それに比べて自分まわりにあったものはどうか。タイルである。タイルとは、わざわざ説明するようなものではないが、建造物の外壁を装飾したり、水回りの施工に彩りを加えるために貼り付けられる板状の焼き物のことだ。見ているというか、わざわざ見たいわけでもないタイルが、過剰に視界に入ってくる。
私の地元の名産品はタイルで高度経済成長期からバブル期にかけては大いに産業が発展し儲かった。それが90年代に入り、世紀末に差し掛かってくると、需要が激減してそこらじゅうにあったタイル工場の幾つかは稼働を停止し、あぶれたタイルが川原なんかに山積みになっていた。道端に落ちているものといえば石ではなくてタイルだし、子供はタイルで水切りをする。街が開催するお祭りでは「タイルくばり」というイベントが開催されて、ブルーシートの上に広げられた山積みのタイルが持って行き放題の大盤振る舞いになる。なったところで、タイルはそこらじゅうに落ちているので誰ももっていかない。顔見知りのシングルマザー家庭の子供が、おぼつかない足取りでひとり、タイルの山に近づいてタイルを一つ、拾ってはまた捨てる。捨てては拾い、捨てたり、拾ったりしている。それ以外に人気はなく、むしょうに閑散としている。子供は、なんでそんなことをしているのか。タイルの山から切り離されて心細くなった一片のタイルが、また山の一つになる。そういう光景に自らのおかれたよるべない心境を投影しているのではないのか。そうやって、なんの根拠もなく心理学をやっている人みたいな想像力を繰り広げてしまうが、よく考えたら子供の家庭からお父さんがいなくなってしまったのもタイル工場が閉鎖されて職がなくなってしまったせいなので、問題の根源は全てタイルに端を発しているのだ。別に、生活の圏内がなんの意味もない虚無的なタイルばかりに覆われていることは構わない。タイルについて、自分以外は誰もなんとも思っていないのが構うというか、ヤバい。このヤバさを相対化するものさしがどこかなければ、自分はおかしくなってしまうかもしれない。
「信じたい」
こうなってくるともはや「信じたい」。人間がものごとに対して「信じる」とか「信じない」とか言っていられるうちは、どこかしら安全圏にいるんじゃないかと思う。
「神さまを信じる」
「神さまを信じたい」
「オバケを信じない」
「オバケを信じたくない」
どちらのほうが身に差し迫っているかは明らかだ。
マイナーな宗教の勧誘をする人に「神さまを信じますか?」と聞かれたことがある。
そんなことを聞かれても「信じた方が都合がよかったら信じるし、信じない方がよかったら信じない」と、あくまで実利的な観点に沿った回答しかできない人が多いのではないか。そう思った時点で相手の期待に沿うことはないから答えに窮するし、会話が成立しないから黙るしかない。それよりも、
「あなたは神さまを信じたいですか?」
という問いを立てた方がグッと相手の内心に接近できるのではないかと思う。
ファッション雑誌に載っているデタラメで大袈裟で、誇張され拍車がかかった、やっていることだけ見たらギャグマンガのような野放図のイマジネーションにもこういった「信じたさ」、そうであらなければやっていかれない泥沼の抵抗からくる決死のあがき、もがき、迷惑千万は承知の上で行われる果敢かつ無謀な試みを感じる。
インテリアデザイナーの方が、
「家の中にオシャレとは思えないものが一つでもあると耐えられず、もはや死にたいとすら思える」
と言っているのを見てグッときたことがある。わかる。私の家にはオシャレではないものも存在しているが、精神面でそこまでやっていかなければ現実を是認できなくなっている切羽詰まった感覚はよく理解できる。
なにがそうさせるのか。タイルである。街じゅうにあふれかえり、他の人にとってはほとんど不可視のものになっていたおびただしいもの。一片一片がばかばかしく、ふざけ切っており、なのに悲壮で人生の“抜け感”をものの見事に埋め尽くすモザイク状の無念。ダサいとかではなくて哀しい。哀しいからおもしろい。おもしろいからほっておけない。タイルがおもしろいのは貼る場所がなければ無意味で、それ自体があるだけではなんの有用性も見出せず、しかも需要に応じて製造される工業品であるから祈りではないくせに、窯焼きによって微量の真心が宿ってしまっているからだと思う。こんなに純粋に「余る」ことができる物質を私はほかに知らない。知っていたところでどうにかなるものではないが、街の人々は「余り」を活かそうとしてタイルの鍋敷きを作ったり、植物用のプランターにタイルを貼り付けてはよろこんでいる。末世が近いのではないか。
ファッション雑誌の野放図を作っている人の心中にもこういった「現実への信用ならなさ」「絵空事への信じたさ」がどこかしらあるはずで、シティーガール/シティーボーイという発想の屋台骨には「シティーではなさ」がどこかしら煮えたぎっているものだと思っていた。
それは照らし出すはずだ。そう言わずにはいられなかった現実のしょうもなさを。
東京もまたひとつの辺境に過ぎない
なんでリアルなシティーガール/シティーボーイを目撃してある部分ではガッカリしたのか。
それは彼らも彼らである周辺的価値観にローカライズされた存在に過ぎないという事実を目の当たりにしてしまったからだと思う。ずいぶんすんなりしているというか。洗練はされているんだけど、なんだかそれ以上の心を突き破って狂おしくなる衝撃は含まれていないというか。当たり前すぎるというか。別にヤバくはないというか。当たり前のように洗練され過ぎていて十分ヤバくはあるんだけど、思っていた「ヤバさ」とは違う。洗練はされているんだけど相対化はされていない。「信じたさ」すなわち、根本への疑念が現状としては欠けている。平然としている。環境がそうであるラッキーを最大限味わってはいない。〈行為〉が「驚き」から現れてはいない。
そういう人にとってはそういった光景が故郷だから当たり前なんだけど、辺境にひとまずは押し込められるしかない人間の(そうである矮小さに気が付かないでいる)物悲しさはどこにでも偏在しているのだという事実を突きつけられたように思われた。それはつまり、環境に適応した結果が素直に表現されているということで、言ってしまえばそれはプランターにタイルを貼り付ける行為と実情の面では同じということではないか。違うんだけど、仕組みの部分で起こっていることは変わらない。
要するに夢はどこかに漂っていてオートマティックに見せてもらえるようなものではない。こちらから見に行かないと、がんばりがないと見られない。常識の根底に狂い死んだ魂の盲腸が埋め込まれていないとオシャレの真域には隣接できない。オリジナルのランウェイを独自に練り歩くように生きるとは、自ずから押し込められた辺境性を相対化し、辺境と中心的なもの、どちらにも自分の足で立っていなければならないということなんではないか。やはりオシャレは農業に通じる。
オリジナルのランウェイにおいて「自分で耕して肥料を撒き、作物を植えておきながら、収穫の段になるとそれまでやってきた下準備をまるごと忘却して天の恵みであるように振る舞ってみせる二段構えの精神性」が要求されているのだとしたら、ファッション誌に載っている一般的な生活水準からかけはなれた絵空事のライフスタイルは、ファッション農作業における「耕し」の一旦を代行していると見ることができる。
⑴自分で耕しておきながら
⑵やったことを忘れたように
⑶収穫の喜びを堪能する
この一連の試みの中で「⑵やったことを忘れたように」とは、辺境と中心の相対化を自ら行うことだと言い換えることもできる。
少しダサいよりものすごくオシャレな方が、おもしろい。もはやそうするしかなくなってしまった水際のREALがバレるから。
次回は、3月26日(火)17時更新予定。
筆者について
みずの・しず バイキングでなにも食べなかったことがある。著書『親切人間論』他