ねそべるてつがく
第11回

ずるい

学び
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紀伊國屋じんぶん大賞入賞作『水中の哲学者たち』で話題の永井玲衣さんによる新連載「ねそべるてつがく」。つねに何かを求め、成長し、走り回らなければならない社会の中で、いかにして「考える自由」を探し求めることができるのか。「ただ存在するだけ運動」や「哲学対話」を実践する哲学者がつまづきよろめきながら、言葉をつむいで彷徨います。「考える」という営みをわたしのものとして取り戻す、新感覚の哲学エッセイ!  

現場ごとにもちろん違いはあれど、やはり耳に残る言葉というものがある。学校で対話をする場をひらきに行くと、場所や地域性にかかわらず、なんだかよく聞く言葉である。

数年前までは「自己責任」という言葉が、わたしの耳によく飛び込んできた。問いやテーマはばらばらであっても、子どもたちは「それは自己責任っていうか」「自己責任だ」「自己責任ですね」とつぶやいた。絞り出すというよりは「日本の首都は東京じゃないですか」といった、当たり前の事実を確認するような口ぶりだった。

「それは本人の自由」「そのひとの意志」という言葉で表現されることもあった。そのひとの意志を重んじるという仕方ではなく、自分には関係がないことだと突き放すような身振りだった。

あるいは自分自身に突きつけるようにも、それは発せられた。たとえば「学校は必要か」という問いに対して「学校に行くのがつらかったら、行かないのは本人の自由、あとは自己責任」などというように。「自分で死ぬのは、本人の選択だから、尊重した方がいい」などというように。

選択の話をするためには、それを選択せざるを得ないとか、選択させられているとか、そういった構造の部分もあわせて吟味が必要だ。もしくは、本人の自由だからといって、はたしてそれで本当にすべてが解決可能なのかといったら、そうでもない。だからといって、本人の自由というものを、すべて構造の問題にして消し去ってもいけない。静かな水中に深く、深く、深く潜っていくような、沈み込んでいくような思考が必要なのだ。

子どもたちの言葉は、時代を映す鏡だろう。子どもとする哲学対話は楽しそうでいいですね、面白い発想がたくさんありそうできいてみたいです、とよく言われるが、子どもの方が「おとな」のようなことを言うのが実情だ。かれらから出てくる「問い」は、はじける好奇心がそのまま乗ってしまったようなものが多いが、いざ問いを選ぶとなると、無難なものが多く、対話が始まれば、なんだか聞いたことがあるようなことを言い出す。

だが考えてみれば当たり前だ。子どもたちは、大人たちの、社会の、言葉を食べている。舌の上に残ったままの言葉を、そこで吐き出しているにすぎない。それを「最近の子どもは」と嘆くのは、あまりに無責任すぎるだろう。その言葉を練り上げているのは、わたしたち「おとな」の側なのだから。

とはいえ、気のせいかもしれないが、最近あまり「自己責任」を聞かなくなった。「本人の自由だし」という切り離しはまだ耳にすることはあっても、「自己責任」という言葉はむしろ批判の文脈で使われる。

「自己責任」の代わりに、聞こえてくる言葉がある。いや、ずっと前から、わたしが子どもだったころから、口にしていたような気がする。子どもも、おとなも、時代も関係なく、聞こえてくる音かもしれない。それは「ずるい」という言葉だ。

「ずるい」と口からこぼれるとき、わたしの身体は、わずかな疼きを感じている。胸がはりさけるような痛みではない。だが、喉が詰まるような、指先がほんの少しふるえるような、眉間に皺がよるような、そんな痛みだ。あのひとばかりずるい、これはずるい、感情が柔らかなまま出てきてしまう。

わたしたちが生きる世界は「ずるい」ことばかりだ。「不公平」という、いくらか硬質な言葉もあるが、適切な言い方ではない気がする。もうすこし、そのひとの疼きが乗っかっている。どうして、と言うような問いもまた、乗せられている。

しかし対話の場では、その疼きがそのまま出ることはない。本人の「ずるい」という思いは提起されない。恥とされていると言ってもいいかもしれない。

「そこで、ずるいって思うひとがいるかもしれない」

「いい仕組みだと思うけど、ずるいと感じるひとはいるかも」

「マイノリティのひとを優遇すると、ずるいって感じるひとが出てきちゃうと思う」

誰かの「ずるい」がここではなぜか語られる。「自分はいいとは思うけど」「自分はわからないけど」「自分はそうではないけど」と留保がつけられて、見知らぬ顔を見たことがない誰かの「ずるい」が、ぼんやりとわたしたちの間を漂う。たしかに、さまざまなことを想定をすることは必要だが、多くの場合、その先へ行かずに終わってしまう。そして「ずるい」という言葉で、違和感が表明される対象は、マイノリティへの対応について話しているときが多い。なぜだか不思議と配慮されるのはマイノリティ側ではなく、マジョリティ側の感情なのだ。

誰かの「ずるい」が提起されるとき、身体の疼き、指先の冷たさ、それらは隠蔽される。「わたし」がその考えと切り離される。本当にわたしと切り離すことができるのかは、よくわからないままに。

「ずるい」と思ってしまうことはある。それは、克服すべきネガティブな感情ではないとわたしは思う。被抑圧者からの「ずるい」は、不正や不平等の告発でもある。やるせなさを「ずるい」に込めることだってある。あいつの家は金持ちでずるいな、あいつは職を得られてずるいな、そう思うことなんていくらでもある。社会が不公正だからこそ、出てくる自然な感情だ。

しかしそれは、ふしぎな仕方で発露されることも当然ある。そのことについて自分は不安定な立場にいるわけではないが、誰かが何かを得るのを見ると、自分から奪われる、失われると感じて、こぼれる「ずるい」だ。

そしてそれは同時に、ある意味で当然なことなのかもしれない。こうした「ずるい」は、他者を競争相手とみなすからこそ出てくる。何か特定のものを奪い合っているイメージだ。そしてわたしたちの社会は、あきらかにそうした社会でもある。

「弟とパイを奪い合うような社会」

D2021のpodcastで、ゴッチさんがそう言った。あともう少しで誰かが泣き出すような、自分の取り分で頭がいっぱいになっているような、相手を敵だと捉えるような社会。幼い兄弟げんかのような社会。

わたしたちは競うようにして、生きている。奪われまいと、誰かに出し抜かれまいと、生きている。

誰かの「ずるい」で、自分の「ずるい」をごまかしたくなる日もある。あるいは、自分は全く感じなくとも、他者は競争相手だから、そういうことになるだろう、という見方もある。だが、まずはわたしの痛みに立ち戻ってみる。

そこには「ずるい」と疼きを感じる身体がある。ひそめる眉がある。そうした身体から発せられるのは、他者とともに在るしかできないということ、そしてわたしたちが「傷つきやすさ」をもっている、もろく、やわらかく、混沌としているという事実である。

[…]身体がそもそも、他者の世界に差し出されたものであるかぎり、他者とともに在ることを余儀なくされた身体性から発せられる、依存性、傷つきやすさ、そして、複数性といった人間の条件をわたしたちは受け入れざるを得ない。この事実は抗いようがないはずだが、近代的な主体は、他者を潜在的な敵とみなすことによって、この事実と闘おうとしてきた。しかし、すでにここまでみてきたように、身体の傷つきやすさを守るために武力に訴えることは、皮肉なことに、身体の傷つきやすさからわたしたちの目を逸らしてしまう。

岡野八代『戦争に抗する ケアの倫理と平和の構想』岩波書店、2015年、240ページ。

それを克服する、あるいは隠蔽するため、わたしたちは相手を「敵」としてきた。わたしのものを奪い取る、危険な相手として捉えてきた。わたしを傷つけ、ずたずたにし、屈服させる相手として考えてきた。引用元は、戦争についての記述だが、ひろくこの社会についても言えることなのではないだろうか。

他者を競争相手と見なさずに、傷つけうる相手として引き受けようとする。しかしそれもまた困難さを引き連れてくる。

ある読書会で、友人がSNSでバズる「こういうのが最近はだめらしい」という規範について話していた。だがそこには「わたし」も「他者」もいない。「誰かがずるいと思うかもしれない」にどこか似ている。架空の、想定された「誰か」のための、ぼんやりとしたルールが提示される。

「だからひたすらSNSを見ていると、ルールが増えていくだけになる。だけど嫌われたくない、そうして無限にメッセージを受け取ってしまうんだよね」

わたしたちは、傷つけられることを恐れると同時に、傷つけることにも臆病だ。「傷つけたくない」が増えていけば増えていくほど、むしろ他者から遠ざかる。他者と出会うことは、傷つけることでもあるからだ。ルールだけが積み上がり、傷つきやすいこのわたしが、同じように傷つきやすいあなたと出会うことはない。むしろ、そのルールを「破ったように見える」ひとを、今度は「敵」としてまなざすことになるかもしれない。暴力を避けるために仕まいこんだ銃の引き金を、気がついたらあなたにひいているかもしれない。

わたしたちの前に開かれた選択肢は、抽象的な選択肢ではない。それは、わたしたちが他者と出会うことによって、開かれてくる選択肢である。その選択肢には、もちろんわたしたち自身が暴力の主体となることも含まれてはいる。しかし、そうした暴力の可能性を孕んだ他者の世界との接触が存在しないならば、わたしたちは自らにとっての既知の世界に閉じ込められたままであろう。他者が、あるいは世界が示す、わたしが具体的には経験したことのないさまざまな実践が、わたしの目の前に開けているからこそ、未知の選択肢へと開かれる自由が存在する。他者はわたしたちにとっての可能性なのだ。

同上、242ページ。

他者と出会う、暴力の可能性を含みつつ、それでも他者と出会うこと。このわたしとして、あなたに出会うこと。あなたのことを「ずるい」と思ってしまう、そんなわたしをとらえつつも、そのうえであなたとあなたのまま出会うこと。すべすべで何を指しているかわからない抽象的なルールや、のっぺらぼうの「誰か」や、弟から今すぐにでも奪わなければならないパイや、けだものの姿をした名もなき他者たちに、気を取られるのではなく。

筆者について

永井玲衣

ながい・れい。哲学研究と並行して、学校・企業・寺社・美術館・自治体などで哲学対話を幅広く行っている。著書に『水中の哲学者たち』(晶文社)。詩と漫才と念入りな散歩が好き。

  1. 第1回 : ぱちん
  2. 第2回 : まだいます
  3. 第3回 : 豆乳鍋と抵抗
  4. 第4回 : ぬるり
  5. 第5回 : 重いの
  6. 第6回 : 絶句
  7. 第7回 : 笑う
  8. 第8回 : 遅くなりました
  9. 第9回 : 手のひらサイズ
  10. 第10回 : ひとがいる
  11. 第11回 : ずるい
  12. 第12回 : つながっている
連載「ねそべるてつがく」
  1. 第1回 : ぱちん
  2. 第2回 : まだいます
  3. 第3回 : 豆乳鍋と抵抗
  4. 第4回 : ぬるり
  5. 第5回 : 重いの
  6. 第6回 : 絶句
  7. 第7回 : 笑う
  8. 第8回 : 遅くなりました
  9. 第9回 : 手のひらサイズ
  10. 第10回 : ひとがいる
  11. 第11回 : ずるい
  12. 第12回 : つながっている
  13. 連載「ねそべるてつがく」記事一覧
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