1972年、日本の左翼運動に大きなインパクトを与えた梅内恒夫の論考「共産主義者同盟赤軍派より日帝打倒を志すすべての人々へ」。この論考が、日本の帝国主義的側面を糾弾する革命運動の理論のひとつとなり、同年の東アジア反日武装戦線結成につながる。その梅内が強い影響を受けたのが、「革命思想家」太田竜だった。太田竜とは何者なのか。
スターリンへの懐疑とトロツキーへの共感
太田竜は1930年8月16日、栗原達三郎とトミの四男として誕生した。生まれた場所は樺太。父は千葉県印旛郡物井村の漢方医の家に生まれ、西洋医学を修めて医師免許を取得し、樺太で医師として働いた。
太田に大きな影響を与えたのは、2番目の兄だった。次兄は北海道帝国大学予科の学生時代にマルクス主義に心酔し、日本共産党系の組織活動に関わったことで逮捕された。大学を退学になり、数年間、ジャーナリストとして活動したものの、結核を患って、父の郷里の千葉で療養生活を送った。
一家は終戦前の1944年に樺太を引き揚げ、千葉に戻った。ここで太田は次兄の傍で生活することになり、マルクス主義に傾倒していった。旧制千葉中学校(千葉県立千葉高等学校)の2年生の頃には、「ほぼ全面的にマルクス・レーニン主義とコミンテルン、及び当時は獄中にひっそくしていた日本共産党の正統性を確信する心境になっていた」という[太田1985:10]。
太田は日本の敗戦の日を待ち望んだ。日本が負ければ、革命が始まる。その日に向けた準備が、彼の日課となった。彼は日本共産党に心を寄せ、「マルクス・レーニン主義の国際共産主義陣営の一員」という思いで、敗戦の日を待った。
1945年8月15日。待ち望んだ「その日」がやって来ると、ここから「全速力で疾走し始めた」[太田1985:13]。この年の10月には、日本青年共産同盟(のちの日本民主青年同盟)に加盟し、「学校などは放り出してその千葉県委員会の組織活動にかかり切りになった」[太田1985:13]。
太田にとって重要だったのは、長沢元夫との出会いだった。長沢は東京大学医学部薬学科を卒業し、厚生省東京衛生試験所技官として働きながら漢方医学を研究していた人物で、マルクス主義者の研究グループのメンバーとして知り合った。
太田は「一も二もなく彼に共鳴した」。太田は本の読み過ぎで目を悪くしていたが、長沢に勧められた漢方医のもとに通うと、「眼の疲れはすっかりとれた」[太田1985:81]。
そのときからもう、心底からの漢方医学の信奉者になってしまった。そして間もなく、玄米食も自己流で始めることになった。
[太田1985:81]
のちに太田は近代文明に懐疑的なまなざしを向けることになるが、その土台は、長沢と出会った頃から形成されていたと言えよう。しかし、当時は「深い意味」を認識するには至っていなかったと言い、1985年の時点で、次のように回想している。
いまふり返ってみると、私は漢方医学と西洋医学の対比という形で、すでに一九四九~五〇年に、マルクス主義の西欧的限界の批判という次元に接近していたのであるが、このテーマを正面から見すえるには私は若すぎた。
[太田1985:83]
太田は「米国の忠実な番犬」となった戦後日本を批判しつつ、ソ連のスターリン体制にも疑問を抱くようになった。しかし、日本共産党のなかでは、スターリン批判など口に出して言える雰囲気ではなかった。
1951年12月(もしくは1952年1月)、太田はトロツキーと出会った。
私はある日、神田の古書店で、戦前に出版されたトロツキーの『裏切られた革命』の日本語版を手に入れた。私はその場で読み始め、数時間で読み終えた。カミナリに打たれたようなふるえと共感を感じた。
スターリン問題は、完全に解けた、と私は思った。
スターリンは、現代マルクス主義の最高峰、レーニンの後継者、マルクス、レーニン、スターリンと並び呼ばれるべき存在では毛頭ないのだ。
スターリンはマルクス・レーニン主義に対する裏切り者、背教者であり、十月の人民革命をしめ殺した官僚独裁体制の創設者である。ソ連内外のプロレタリアートのもっとも重大な任務は、このソ連のスターリニスト体制を打倒する革命の表現である。
トロツキーのこのアッピールを、私は全身で受けとめた。私の世界は、一夜にして完全に変わってしまった。
[太田1985:92]
太田はこのとき、「スターリニズムに支配されている日本共産党総体と決別して、たったひとりで、ふみ出さなければならないのだという緊張感に充ちていた」という[太田199885:92]。
彼はここからトロツキズム運動に突き進み、1953年に日本共産党を離党した。1957年、黒田寛一らとともに革命的共産主義者同盟(革共同)を結成するものの、日本社会党への「加入戦術」をめぐって組織の分裂を繰り返し、次第に組織活動から離脱していった。
辺境の最深部へ
1967年、太田は初の単著となる『世界革命』を出版した。この本は「全共闘運動の高揚の中で多くの人々に読まれ」、「おそらく二万人近い読者が生まれた」という[太田1985:207]。
太田がこの本で打ち出した重要な概念が「辺境」だった。辺境とは、地理的な概念でありつつ、それを超えた文明論的なヴィジョンでもあった。
太田の言う「辺境」とは、近代から疎外された場所である。そこは近代の中心(コア)から外れた周縁(ペリフェリー)であるため、文明的に遅れた存在と見なされてきたが、その近代以前のプリミティブな場所にこそ、真の平等の契機が存在する。
辺境とは、人間をこえる自然の発現の形態であり、階級支配によって決してとらえつくされることのない、共産主義を求める人類の傾向なのである。それは野蛮のかなたにあって、帝国の<文明>が全力で追跡してもとらえることのできないものであろう。
[太田1967:21]
太田が接近したのは「人間をこえる自然の発現の形態」である。それは階級支配に覆われた近代文明が失った真の共産主義であり、人類が自ずと求めてきた社会のあり方である。それは、現代文明の中心においては掴むことができない。「辺境」の深淵にもぐりこんでいくことによってこそ、獲得されるものである。
われわれの革命の勝利を保証するものは、腐朽しつくした文明の諸手段ではない。革命を実現するものは、現体系の対極に、すなわち、その辺境の最深部につくられるわれわれの根拠地である。このとりでをわれわれのただひとつの祖国として宣言し、この理想の祖国に忠誠であることが必要である。
[太田1967:21]
太田にとって、回帰すべき「祖国」は、「辺境の最深部」にある。それは「現体系の対極」に位置し、「腐朽し尽された文明」を超克する場所である。この場所を真の「祖国」と見なし、「根拠地」として戦っていくことが、革命家の使命である。
かつて、ロシア革命直後のソ連は、この「祖国」である資格を有していた。コミンテルン初期の英雄たちは、労農ロシアを「理念の祖国」として立ち上がり、「全人類同胞の愛と協働の社会が誕生する新時代の告知をみた」。ロシア革命を闘った人たちは、ソ連を根拠地として「全世界を獲得することを夢見ていた」。「全世界プロレタリアの祖国」としての「ソ連」が誕生したはずだった[太田1967:22–23]。
しかし、支配者たちはロシア革命の理念を裏切り、自己の政治的欲望をむき出しにしていった。その結果、ソ連は単に「ソ連国民の祖国以外のなにものでもない」ものになってしまった[太田1967:22]。
太田は、チェ・ゲバラの存在に注目する。ゲバラは、まさに太田のいう「祖国」を追い求めた人物で、そのために自らの「ブルジョアの国籍」を棄てた。国境を越え、行きついたキューバの国籍からも離脱し、「俗物の目から見れば<空想の>、しかし、心ある革命家の目からみればそのために死ぬことのできるただひとつの祖国へと旅立った」[太田1967:21]。
そして、原始へ
太田の目は、原始共産社会に向けられた。重要な存在は、現代文明が捨て去ってきたものの中にこそ存在する。われわれは現代を「文明社会」と思い込んでいるが、それは間違いである。原始社会こそが、平等を実現する文明であり、それは「辺境の最深部」にこそ存在する。
われわれには、現体制の文明の中心から最も遠く離れたそこに、原始共産社会から継承されている平等と連帯の思想の生きうる辺境において、新たな革命ののろしをあげる道のみが残されているのである。
[太田1967:22]
いま求められているのは「即時の平等の実現」である。「われわれの祖国、世界社会主義共和国はこの原理に導かれ」なければならない。そして、この探求こそが真の意味での「人間的な欲望」であり、「労働の分業」の「揚棄」を可能とする。原始共産社会への歩みこそが、「人間の全感覚の解放と充足に至る道程」を内包している[太田1967:22]。
辺境のその彼方には、無があるのではなくて、共産主義の即時の実現を要求する人類種族の実体がある。そして、資本主義経済の発展の一歩ごとに、あの森はこちら側に移るのだ。
われわれはこの辺境(戦線)を逆転させて、原始共産主義の理念のもとに解放された根拠地から、主導的に、外線的に帝国主義に対する包囲線としなければならない。
原始共産制はすでに歴史によって葬り去られているのであろうか。否、決してそうではない。もしもそうであるならば、人類はただ近づきつつある死の日を待つ他ない。われわれは、原始共産主義以外のいかなる共産主義も未だ経験してはいない。それがわれわれのかつて到達した最高の文明なのである。それに復帰し、それから出発すること。ただこれだけが、<辺境>を逆に敵に対する包囲線に転化することを可能とする。
[太田1967:206]
ここにおいて、「辺境」と「原始」は一体化する。マルクス主義は「社会の進歩」を前提とし、前衛が牽引する「前進」をテーゼとしてきた。しかし、太田にとって真の共産主義への道は「退却」である。辺境に向かって空間的に退却し、原始に向かって時間的に退却することが、全人類のあるべき「祖国」への道筋である。
「辺境」と「原始」から、帝国主義的世界を包み直す。この反転した包囲網によってこそ、「かつて到達した最高の文明」である原始共産制へと「復帰」することができる。太田のヴィジョンは、マルクス主義の王道からも、トロツキズムの理念からも、大きく逸脱していった。
後年、彼は次のように回想している。
それを書き始めるとき、私は未だレーニン主義、トロツキズムの立場に立っていた。そして書き終えたとき、私はレーニンやトロツキーどころかマルクス主義そのものをも突き抜け、卒業していた。
原始共産制に向って退却しよう!
辺境最深部に向かって退却しよう!
私にこのようなインスピレーションがおとずれた。
[太田1985:198]
では、太田は具体的に、どこを「辺境」と見定め、革命の「根拠地」と見なしていったのか。
日本帝国主義の打倒
それはアジア・アフリカ・ラテンアメリカなどの第三世界だった。
マルクス→レーニン→トロツキーという革命思想の系譜は、主としてヨーロッパに階級闘争の主要な戦線が形成されていた時代に起源している。この潮流における二つの日和見主義、すなわち、社会民主主義とスターリニズムに対抗し、これをのりこえ、打倒してゆく革命思想は、ヨーロッパではなくて、アジア、アフリカ、アメリカの植民地解放の戦争を媒介として生まれようとしている。
毛沢東、ゲバラ、カストロ、マルコムX、フランツ・ファノン、カーマイケル――こうした人びとは、ヨーロッパ型の戦線に固定されたマルクス主義の基本的諸前提を拒否する。
[太田1967:236-237]
太田は1968年6月に『革命家ゲバラ』(三一書房、小林富雄名義)を出版している。また、同年8月には『アメリカの黒い蜂起』(S.カーマイケルなど)を翻訳・出版し、10月にはトロツキー『黒人革命論』を翻訳・出版(小林富雄名義)している。
ここで太田は、アジア、アフリカ、ラテンアメリカで起きている戦争や闘争よって、世界が反転することに期待を寄せている。欧米諸国が覇権を握った時代は終焉の最終段階にあり、「帝国主義は必然的に崩壊し解体し没落してゆく」[小林1968a:134]。インドシナ戦争や朝鮮戦争、アルジェリア戦争、キューバ革命、中東戦争、ベトナム戦争などは、すべて帝国主義を崩壊に導く辺境の闘いである。またアメリカにおける黒人の闘いも、同じ地平に存在する「世界階級闘争」である[小林1968b:135]。この連鎖によって帝国主義は破壊され、古くて新しい原始共産制への道筋が見えてくる。
しかし、ここで太田がぶつかった問題があった。それは高度御経済成長のなかにあった当時の日本の存在であり、日本人である自己の加害性だった。
1970年6月ごろ、太田は共同通信の黒田勝弘が書いたルポを読み、大きな衝撃を受けた。そこに描かれていたのは、韓国人原爆被害者の姿だった。
世界では、日本こそが唯一の被爆国だと言われ、そのことを日本人も戦後の常識としてきた。しかし、原爆の被害者のなかには韓国人も存在し、大きな苦しみを味わってきた。
太田が重いことばとして受け取ったのは、韓国人被爆者のひとりが「原爆で受けた苦しみよりも、三十六年の日帝の植民地統治時代の苦しみの方が大きかった」と述べていたことだった[太田1985:215]。太田は、自分が日本人であることの問題に向き合わなければならなくなった。
そのとき、私はある一つのことを理解した。
私が参加しているプロレタリア軍団を含めて、これまでの日本のすべての左翼や右翼の組織、或いはアナーキストの組織、労働組合、企業、各種のさまざまな団体などは、ことごとく、日本帝国主義の韓国人原爆被爆者切りすてに見るような植民地主義支配を当然すぎるほど前提として、その上につくられているものであるということ。
従って、私は、ここで韓国人原爆被爆者の側に立つか、それともこれをふみにじる日本国全体の側に立つか、その選択を問われているのだ、ということ。
[太田1985:215]
太田は自己の存在が、日本帝国主義の側にあることを突き付けられた。欧米の帝国主義を批判し、アジア諸国との連帯を説いてきた自分が、韓国人の視点からは他ならぬ帝国主義の側に立っていることをどう捉えればいいのか。韓国人原爆被爆者の存在を等閑視してきた日本帝国主義の一員であることを、どう考えればいいのか。
そもそも、韓国人原爆被爆者の声を聞くことのできない耳、彼らを見ることのできない目、我々日本人のこの感覚、感受性そのものを問わねばならぬのではないか。
[太田1985:216]
太田は『映画批評』1970年11月号に「戦争責任論の転倒と再生――『戦争と人間』を反面教師として」と題した文章を掲載した。ここで彼は、自らの出自について言及する。
太田は、樺太で生まれ育った。父は「日本帝国主義の南樺太占領、植民地化政策という線に沿って、帝国主義者の医療機関の一端を担ってきた」[太田1970:23]。そもそも樺太や北海道はアイヌの土地である。日本帝国主義はアイヌから大地を奪い、アイヌの抵抗を粉砕してきた。自分は、「日帝の植民地の一部で、植民者の家の一員として育」った。自分こそが、帝国主義の側にいる存在として問われなければならない。
私の父の植民者としての生活、及びその家族の一員としての私の出生。それは、疑いもなく、ツァー帝国主義に次いで、南樺太のアイヌから吸収した自然、大地の上に築かれたのである。日帝に対するアイヌの抵抗のホコ先は、未だ私ののどもとに突きつけられておらず、私は十分に鋭く選択を迫られていないのである。この弱さと誤謬を、私は、「在韓日本人棄民」の反日帝の要求を突きつけられることを媒介として、いま自覚することができた。
[太田1970:23]
では、日本帝国主義は敗戦によって終わったと見なすことができるかというと、そうではない。戦後日本の高度経済成長は、第三世界に対する経済的な搾取によって支えられている。戦後日本は形を変えた帝国主義を維持しており、これを「新植民地主義支配」と見なすことができる。日本の国益は、第三世界への収奪によって生み出されている。「この国益に順応しているかぎり、日本人はすべて、そして日本の左翼もまた、日本帝国主義の共犯者、或いは日本帝国主義者そのものにならざるを得ない」[太田1985:218-219]。
太田の問いは、革新勢力のあり方へと向けられる。日本の左翼運動は「所詮、日本の帝国主義本国の市民権、公民権のカサの下に保護されたものにすぎなかったのではないか」[太田1985:222]。だとすれば、自分たちが闘わなければならないのは自分たち自身であり、日本という存在そのものである。復活した「新日本帝国主義」こそ打倒の対象としなければならない[太田1985:219]。
自分自身の感性が変わってゆく。そして、それと共に私は、プロレタリア軍団の人々と気持が離れて行った。彼らと決別すべき時が迫っている、と私はさとった。
[太田1985:217]
太田は1971年に「二十五年間のマルクス主義、共産主義をめざす政治活動のすべてを棄て」、一切の組織から決別した[太田1985:223]。ここから太田の新たな歩みが始まる。
世界革命浪人(ゲバリスタ)と「反日本」
太田は、この頃から「世界革命浪人」(ゲバリスタ)と名乗るようになり、新たに平岡正明、竹中労と連帯し始めた。
彼らは「窮民革命論」を唱えた。日本の一般労働者は、経済成長によって豊かさを享受し、もはや革命の主体になることは難しい。真に革命を担うことができるのは、社会の底辺に押しやられて来た「窮民」たちである。アイヌ人や在日コリアン、部落民、沖縄人、日雇い労働者こそが、真の革命家たる資格を有している。この「窮民」の場所へ退却し、同じ地平に立って連帯する者こそ、真の革命家である。
太田は言う。
「職業革命家」とは、市民社会の外に排除されている植民地化された社会に根づき、そこでの放浪の民、ルンペン、流民、土地と家なき民、家族を破壊され、奪われてしまった民、失うべきなにものも持たぬ民。日常生活がすなわち市民社会の法秩序に対する侵害となる、そのような大衆の前衛をいうのである。
[太田1971a:48]
経済成長した日本の日常の中に、革命の兆しは存在しない。戦後日本の豊かさに身を置いていては、革命など起こすことはできない。ほとんどの日本人は「賃金奴隷」になり、「自分に与えられている小さな特権」と「一かかえの私有財産」を死守しようと、やっきになっている。そして、朝鮮人などの「窮民」を簡単に踏み潰す。「窮民」の叫び声は、耳に入ってこない[太田1971b:27]。
太田の批判は、当時の学生運動に向けられる。
「日本全学連」とは一体なんだ。在日朝鮮人学友にとっては、それは「日本帝国主義全学連」とでもいうべき存在だ。
「学生自治会」だって? 笑わせるではないか。自治会とは、すなわち自己統治の会なのだが、左翼づらをした「自治会」活動家たちは、在日朝鮮人学友に対する帝国主義的統治の手先に他ならない。
[太田1971b:30]
日本の革新的学生運動は、「朝鮮の革命的闘争に対して、殆んどまったく関心を示して来なかった」[太田1971b:30]。日本人であることの加害性から目を背け、「窮民」を放置するのであれば、日本帝国主義の側に立つ植民地主義者と見なさざるを得ない。真に革命家であろうとするならば、目の前の豊かさを手放し、「窮民」のもとへ退却しなければならい。辺境へと旅立たなければならない。
辺境に退却した革命家は、その辺境から日本帝国主義を攻撃する。「窮民」と連帯し、経済的豊かさを謳歌している日本そのものを打倒する。様々な搾取によって成り立っている戦後日本を破壊しなければならない。
日帝の「首都」東京、そのドまん中に、高く旗を立てる。東京を撃て! 日本を撃て! と。
この標的に向かって、山谷から、釜ヶ崎から、北海道のアイヌ部落から、北九州の部落から、宮古島から、釜山から、要するに「日帝」の支配の辺境から、日帝の首都東京を撃つのだ。
[太田1971a:29]
太田は、日本帝国主義への包囲網を構想する。周縁化され、辺境とされた場所をつなぎ、日帝への反撃を企てる。様々な形で日本への攻撃を仕掛け、高度成長で積み上げてきた富を消耗させる。すると、日本の人民が貧しくなる。ここに世界革命の希望が訪れる。
生活水準を大幅に下げよ。
そしてついには放浪の民となれ。
一日当り十九円の収入しかないインド最下層の民のところまで降りてゆこう。
原始共産主義社会に復帰しよう。
世界社会主義革命の開始とは、すなわち日本の大衆の生活水準を現在の三分の一にまで引き下げることだ、と。
[太田1971a:26]
太田はこの先に、国民国家を超えた世界共和国の存在を見据える。これは「世界ソビエト社会主義共和国」と名付けられるべきものだが、実際に存在する「ソ連」とは別物である。「共和国」は「世界赤軍」という軍隊を持ち、「世界党」によって率いられる。「地上すべての人々を、無条件に、同胞とし、友人とする」。そして「この地上百二十の「民族国家」をすべて滅ぼす」[太田1971c:115-117]。
では、どうやって民族国家を滅ぼし、民族性を滅却していくのか。それは「抑圧民族と被抑圧民族の対立」を利用することで、道筋が開けてくる。
日本民族を滅ぼすために、「共和国」は、日本に対してもっとも痛烈な怒りと復讐の念に燃えている被抑圧民族を扇動する。
[太田1971c:117]
ここで太田が目をつけたのが、アイヌの存在だった。彼は北海道に向かって旅立つことになる。
【引用文献】
太田竜 1967 『世界革命 マルクス主義と現代』三一書房
___ 1970 「戦争責任論の転倒と再生 『戦争と人間』を反面教師として」『映画批評』1970年11月号
___ 1971a 『辺境最深部に向って退却せよ』三一書房
___ 1971b 「血痕の列島アンティールージッロ・ポンテコルポ『ケマダの闘い』」『映画批評』1971年2月号
___ 1971c 「二一世紀への大長征のために チェ・ゲバラ論もしくは「共和国」建設への二十三のテーゼ」『映画批評』1971年6月号
___ 1985 『私的戦後左翼史―自伝的戦後史一九四五―一九七一年』話の特集
小林富雄 1968a 『革命家ゲバラ』三一書房
____ 1968b 「解説・トロツキズムと植民地革命」トロツキー(小林富雄訳)『黒人革命論』風媒社
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中島岳志『縄文 ナショナリズムとスピリチュアリズム』次回第18回は2023年8月25日(金)17時配信予定です。
筆者について
1975年大阪生まれ。大阪外国語大学卒業。京都大学大学院博士課程修了。なかじま・たけし。北海道大学大学院准教授を経て、現在は東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授。専攻は南アジア地域研究、近代日本政治思想。2005年、『中村屋のボース』で大仏次郎論壇賞、アジア・太平洋賞大賞受賞。著書に『パール判事』、『秋葉原事件』、『「リベラル保守」宣言』、『血盟団事件』、『岩波茂雄』、『アジア主義』、『下中彌三郎』、『親鸞と日本主義』、『保守と立憲』、『超国家主義』、『保守と大東亜戦争』、『自民党』、『思いがけず利他』などがある。