「あの服も、この服も納得がいかない……私がほんとうに着たい服ってなに?」
世間は色々な問題を投げかけてくるけど、どれもこれも肝心なこと、漠然とした問いかけの先にある根本的な問題には触れていないような気もする。今のファッションが退屈でしっくりこない、悩めるすべてのみなさまへ。
まだ誰も言葉にしていない違和感を親切に言語化する”ポップ思想家”の水野しずさんによる、トレンドを追うよりも、納得のいくスタイルを発見していくためのファッション論考の連載がはじまります。「着るという行為」について、一緒に考えていきましょう。
「人生最後の瞬間に何を食べるか」
「人生最後の瞬間に何を食べるか」
って定番の質問があるけどそれは人類全体を矮小化しているんじゃないかと私は思う。この場合の「最後」とは、それぞれの生身の生体に訪れる生物としての終焉ではなくて、例えば巨大隕石の落下によってもたらされる種の全滅が確実視されたある一日の、真に労働から解放された全ての人間にとって残り少ない天国の時間を指している。当日は何も食べなくていいからスラムダンク全巻を読み返したいやつだっているだろ。朝から晩まで横笛を吹きたい人だって。取るものとりあえずネイルだけは超絶完璧にしておきたい人だって。
それを、なんですか。この世の全員をお食事マニアと決めつけて。それ以外の全ての選びたいものを最初からなかったことにしてしまう態度がこの設問には折り込まれている。そういう気持ちで「餓死甲子園目指す」って返答を知人にしたら空気が凍った(文脈を全く伝えていなかったのでそれは当然そうなるだろう)。
しかし、この世で現実に行われていることは「熱死甲子園の実現」なのだから、思想信条の内容に驚くよりも先んじて現実にビックリした方がよっぽど辻褄が合うはずだ。そうならないのは、一度現実になってしまったことはそれがどれほど凄惨であれ、苛烈であれ、残虐無神経であれ、存在していることそのものの是非を問われにくいという、いわば「既存在権益」を有しているからだ。
この意味で、全ての存在していないとされるものは全ての存在しているとされるものよりも、より「犯罪性」が高いと位置付けられる命運を負っている。この文脈上の「犯罪性」とは、こうも言い換えられるのではないだろうか。
ファッション性、と。
ファッションとは、まだ存在すると認定されていないものを裁く法律がないのをいいことに、白昼堂々全存在に対する無尽蔵の拒絶を謳歌する生命活動のことである。それはもちろん夜にやったって構わないけど、朝や昼間や夕方の方が裁く法の不在が濃厚になってくるからより楽しい。この時代においてそれは、個人が自由に満喫し、何人にも犯されず、好きホーダイ味わってオーケーということになっている。不思議だなあ。それどころか、昨日は存在していなかったものが今日は存在の第一人者に成り上がっているというシーンもしばしばある。おもしろいなあ。全て許されてしまうということが。こうなるまでに人類は実に沢山のくろうを重ねてまいりました。
ファッションについて、あれこれ真剣に考えるという営みは今っぽくないかもしれない。なぜならばファッション業界というものが、資源を大量に浪費し無尽蔵に欲求を掘り起こし現世を丸ごと地獄に置換しようと目論む全方位プラスティックストロー業界みたいなものとしてメディア等で問題視されるシーンもしばしばある。ハイブランド運営企業はコングロマリッド化の一途を辿り、今、地球にとって最もわかりやすい悪の組織の代表にしか見えない瞬間だってある。そういう因業を知った上であんまり大はしゃぎして盛り上がるのもどうなんだよ。停滞ムードが生じるのも当然で、いくらエシカル面を強調されたところで、それは「なるべくやさしい殺し方をしました」という掲示がステーキハウスの壁にあったところで余計に盛り下がる一方、あえて触れずにお食事の内容を各自が粛々と味わうのが関の山、みたいな感じかもしれない。すごくオシャレでいい感じのものが怖いくらい安い値段で山ほどあって、じゃあどうやって作ったのかはあえて聞かないのがマナーかもしれませんね。そうやって、わかった顔と善良な顔を使い分けているうちに、気がついたらこの領域に関する心の動きは外界の管理下に置かれている。
勝手に憧れていられた領域はもうない
もはやアパシー(無気力・無関心)をトートバッグみたいにぶら下げるしかないくらいにシステムの都合が個人の生存と全く乖離した領域で蛇行するホースのようにうねりをあげている。アンコントローラブルな軌跡を描き咆哮を上げ、その響きは個としての繁栄を積極的に推奨した21世紀的な自我の滅亡を暗示しているようにも思われてくる。この万人の万人に対する自我の謳歌(それは予想よりもショボかった)の季節が過ぎ去った先に、次どうなったらいいかというガイダンスはまだどこでも行われていない。もしかしたら生産能力を搾り取られてビッグデータに奉仕する家畜に成り下がってしまうのではないか、あるいはもうそうなっているのではないか。この夏ハワイが燃えたのもただ自然現象でしかないのに、まるで神罰のように錯覚してしまうではないか。高度経済成長期の日本人が幻想した夢の島が今、欲望によって排出した温室効果ガスの影響を含んだ環境下で燃えている。燃えていた。夢をありがとう、天国をありがとう。全ての夢は実現できるという途方も無い勘違いをしてしまってすいませんでした。フォーエバー21とか言って。
要するに、“壁”の向こう側にあったはずの、勝手に憧れていられた領域はもうない。瓦解し、ネタバレが終わっている。夢はそれに等しい痛みとドロボーをどこかに(あるいは自分に)押し付けることで成立しているのだと万人は知っている。壁が取り払われた地上は平坦で、地球全土に無感動な地平が連続している。そういう現状をグローバリズムと言われても返事のしようがなくて困る。ファッションは全部わざと。着たらその分夢が燃える。人間の営みは全部そうである。
断崖絶壁を自作しよう
わたしがそれでもファッションを必要とする理由。それは、嫌いで嫌いで仕方がないものとわたしが、絶対に同じではないと確実に、なにがなんでも証明しなければならないからで、嫌いなものが大嫌いだから。嫌いなものが嫌いすぎるし、好きなものしか好きじゃない。絶対に同質化したくない。許さんぞ。大嫌いなもの。それはひとつもかわいくなくて、カッコよくなくて、面白くなくて感じがわるい。最後まで許さないし許せない。死んでも、死んだあとだって許せない。宇宙が渾然一体となることがあっても絶対に混ざるわけにはいかない。
平坦な地平に夢はない。壁なんかなくても、勝手にこちらが崖を掘って、孤立した地平に立っていれば墜落をするようにどこまでも飛翔していける。90年代のストリートスナップで服を紹介する項目に「羽(自作)」と載せていた人の羽がきっと壁のないこの世では一番高いところまで飛べるはずだ。我々も断崖絶壁を自作しよう。自分で作った断崖絶壁から遠く離れた世俗を覗き込んでは恐れ慄いたり果敢に飛び降りたりするということが今、最高にオシャレなんだよ。それは人生最後の瞬間になにを着るか(FINAL FASHION)って問いでもあると思う。
次回は、11月28日(火)17時更新予定。
筆者について
みずの・しず バイキングでなにも食べなかったことがある。著書『親切人間論』他