大自然に囲まれ、娯楽も何もない“おしまいの地”に生まれ育ったこだまさん。そんな”おしまいの地”から不定期に届くこだまさんから読者のみなさんへのお便りを掲載します。
今回は、大学二年の頃に、夫の実家を訪ねたときのお話。
この夏、夫の生まれ育った家を見に行った。坂の上の見晴らしのよい住宅地の一画にある二階建ての一軒家だ。数年前に売りに出され、未だ買い手が見つからないという。築五十年ほどになるが、壁と屋根をリフォームをしており、外観からは古さを感じない。家主のいない庭は雑草が伸び、紫陽花や木槿(むくげ)の花を覆い隠していた。通路には庭砂利が敷かれ、かつては手入れが行き届いていたことが窺える。
こうやって家がなくなっていくんだな。いっそのこと取り壊されて更地にでもなれば吹っ切れるが、朽ちていく過程を目にするのは物悲しい。しかし、当の夫は感傷に浸る様子もなく「実家がなくなってよかった。もう帰らなくていいんだ」と、せいせいした顔をしていた。
初めて夫の実家を訪ねたのは、交際中だった大学二年の頃だ。彼の両親と面識もない中、いきなり遊びに行って二泊くらいした。どうしてそういう流れになったのかは詳しく覚えていない。夏休みに帰省する彼に「一緒に行く?」と聞かれ、暇だった私は深く考えず「うん」と答えたのだと思う。
彼の故郷は古の面影を残す美しい港町だった。私は完全に観光気分で舞い上がっていたが、その街が近付くにつれ「どう挨拶すればいいんだ。何を話せばいいんだ。もしかして気軽に行っちゃだめなのでは」と、ようやく現状を把握した。JRから路線バスに乗り換え、駅の裏手の勾配のある坂道をのぼっていく。歴史ある教会や寺院の前を通り、閑静な住宅街に着いた。
厳格な両親だと聞いていた。冗談は通じないので、ふざけるのは禁止と釘を刺されていた。お母さんが細やかで真面目な人だというのは事前にわかっていた。彼の元に母親から現金書留が届いたことがあった。「父の日にセカンドバッグを買って送ってあげてほしい」という手紙とともに一万円が入っていた。バッグのサイズや色などが細かく指定されていた。息子からプレゼントが届いた、という形にこだわっているようだった。そこまでして夫を喜ばせようとお膳立てする妻と、言われた通りにする息子。変わった人たちだな、と思った。十九や二十の私は他人の家庭をとやかく言えるほど世の中を知らなかったが、大雑把な我が家とはかなり違うようだと困惑していた。
彼は両親とほとんど目を合わせず、口も聞かなかった。「大学はどうだ? バイトをしているのか?」そう問われても、彼は表情を変えずにテレビを観ていた。両親だけが一方的に喋り、質問してくる。私はその空気に耐えられなくなり、わかる範囲で代わりに答えた。その二日間、彼と両親は私を介して会話した。両親の様子を見るに、これは別段おかしな状況ではないようだった。これまでも親の前では無視を貫いてきたらしい。「帰ってこい」としつこく言われたから帰ってきただけだ。これで文句ないだろ。そういう態度だった。急にやってきた赤の他人である私を疎ましく思うどころか、間接的であっても息子と意思疎通できることを喜んでいるようだった。
厳格な両親と聞いていたが、不思議に思うところもあった。華道の師範資格を持つ母親は美しく花を活け、自然食品にこだわり、食器は有名ブランドのものを揃えていた。思っていた以上にきちんとした家だった。そんな家のキッチンの壁に、なぜか八十年代アイドルの巨大なタペストリーが飾られていた。赤い水着姿だった。壁に開いた大きな穴を隠すために掛けているのだろうか。両親の目を盗んでめくってみたがそんなものはなかった。ということは好きで飾っているのだろうか。ますますわからなくなった。
食卓を囲むと四人目の家族のように水着のアイドルがいる。砂浜の彼女と目が合う。どういう気持ちで食べればいいのだろう。ふざけるなよ、余計なことを言うなよ、と念を押されていたため「これ何で飾ってるんですか? ファンなんですか?」とは聞けなかった。
もうひとつ、気になるものが居間にあった。背もたれのあるひとり用のどっしりとした椅子だ。なぜか頭上に屋根のようなものが付いていた。彼に聞いてみたが、アイドルのタペストリーも屋根付き椅子も「知らん」と言うだけだった。
彼の両親はケアハウスの入所を機に家と土地を手放した。墓じまいも終えた。「子供たちに介護の負担をかけたくない。自分たちのことは自分たちで何とかする」とお金を積み立てていた。義母はその昔、同居していた義父の両親の介護を一手に引き受け、そのストレスで体調を悪化させた。我が子にも結婚相手にも同じ思いをさせてはいけない。そのような立派な考えの持ち主だった。
この夏、久しぶりに会った義母は腰が曲がり白髪が増えていたが「三食のごはん作りから解放されて本当に幸せ」と晴れやかな顔をしていた。大病を患った義父はガリガリに痩せていたものの、口の悪さは健在だった。昔から余計な一言が多く、親族や近所の人とよく喧嘩をしていた。この日も、義父は義母を「白髪のばあさん」「脳みそが小さい」などと言い、調子に乗って嫌なことばかり口走った。さらに「施設の食事がまずい。メニューがワンパターン。安い食材ばかり使っている」と終始文句をこぼした。それは義母が長年にわたって努力していた証だった。
施設のワンルームの片隅に見覚えのある椅子があった。あの屋根付きの椅子である。三十年近く謎のままだったが、家じまいの際にその正体が明らかになった。なんとあの屋根から電流が流れるという。「電気のシャワーが身体の悪いところを治してくれるの」と義母が目を輝かせて話した。私にも座ってみるようすすめた。「どう? うっすらと、本当にうっすらと何かを感じるでしょう?」と迫った。「なんとなく温かいような気がします」と答えるしかなかった。隣で夫が苦笑いしていた。
ケアハウスに持ち込める荷物は限られている。義母は「受け取ってほしい」と屋根付き椅子の仲間と思われる品を私に託した。寝るときに枕元に置いて微弱電流を流す機器だという。「電気のシャワーが身体の悪いところを治してくれるの」と、これまた機械のように同じ説明をした。私のようなじわじわと進行する病の人に良いのだと力説する。「三十年くらい使ったお下がりで悪いんだけど、お店の人がとても親切で、いつでもメンテナンスしてくれるから」と店の住所も教わった。当時、三十万近くしたという。
とんでもないものをもらってしまった。職人の工具セットくらいずっしりと重かった。調べれば調べるほど非科学的であり、生真面目な義母をその気にさせた会社に憎しみが湧く。教えてもらった店を偵察に行ったら、高齢者が連なって中に入る瞬間を目撃した。健康増進を謳って呼び寄せる、あの手法である。購入後もメンテナンスと称して定期的にお金を取っていたのだろう。とりあえず私が一体もらい、悪い流れを止めることができた。そう思うことにした。義母はきっと今日も頭から電気のシャワーを浴びている。あの椅子も回収したいと思ったが、三十年も義母の心の支えになってきたことを考え、諦めた。効いてる、効いてる。そう信じることで気持ちが強くなっているのなら別に私たちが口を出すことではないのかもしれない。借金をしてまで傾倒しているわけではないし。嫌悪感でいっぱいだが、このまま見守ることにした。
そういえば、夫は浪人中に義母のすすめで改名していたのだった。知り合いの占い師に「悪い気を断ち切る」ため提案されたという。夫は二浪のあいだ、宗教家みたいな高貴な名前で暮らしていた。私と知り合った頃は元の名前に戻した直後だった。いま振り返ると笑ってしまうが、夫にとって「帰りたくない家」は、こうした積み重ねの結果だったのだろう。
会う前は病気であまり食べられなくなったという義父を心配していたが、帰りの車の中で「あんたの父さん最悪なことしか言わねえな、くそじじいじゃん」と夫に言った。昔のように両親と彼の関係を取り持つようなことはしなくなった。一緒に好き放題言っている。夫は「今頃気付いた?」と嬉しそうだった。
私は自分の実家が近いので、よく帰るし、親と旅行もする。お年玉も渡す。それなのに義理の両親とは疎遠で、滅多に会わない。この不平等さに長らく罪悪感があった。でも、この数年でその気持ちが薄れつつある。夫の実家がなくなったことが関係しているのかもしれない。家主のいない家を見て「もう帰らなくていい」と安堵したのは夫だけではない。私も義務から解放されたような気がした。親には親の、私たちには私たちの生活がある。無理せずそれぞれの暮らしを続けていく。無理のない範囲で顔を見に行く。それで充分ではないか。最初からそれで良かったのだ。
ストリートビューを開くと両親が暮らしていた頃の画像が残っている。雪国特有のガラス張りの玄関フードには、とある政党のポスターが何枚も貼ってある。義父は熱心な党員だった。ちなみに実家を挟んで左はごみ屋敷、右は怪しい宗教にはまっている家。両親はどちらの家とも揉めに揉めており、絶縁していた。主張強めのやばい三軒。近隣住民からそう思われていたに違いない。何気なく「他の日付を見る」をクリックすると過去の画像が数年分あり、庭木の手入れをする義母の小さな背中が写っていた。十年以上も前のものだった。いつか更地になり、新たな風景が更新されたとしても、この機能が続く限り何度も開き、拡大して眺めることになるだろう。
筆者について
エッセイスト、作家。デビュー作『夫のちんぽが入らない』でYahoo!検索大賞を2年連続で受賞(第3回、第4回)、『ここは、おしまいの地』は第34回講談社エッセイ賞を受賞。ほか『いまだ、おしまいの地』、『縁もゆかりもあったのだ』など。