『ドライブイン探訪』の著書による新作ルポルタージュ連載。日本各地の「観光地」をぶらりと旅しながら、そこで暮らす人たちの声を拾い、その土地の今昔の切断面を描く。石垣島の離島ターミナルからフェリーで竹富島へ向かう。島の観光の曙、1960年代の「カニ族」、リゾート化の波。今、島の未来を継ぐ者たち。
楽園のような光景
12月だというのに、石垣島は真夏のような暖かさだ。沖縄には何度となく足を運んでいるから、「沖縄だって冬は寒いのだ」と知ったような顔をして上着を羽織ってきたけれど、少し歩いただけで汗ばんでくる。今日は一日雨の予報だったのに、青空が広がっている。
石垣島の離島ターミナルからは、竹富島、西表島、黒島、小浜島、鳩間島など八重山諸島への船が運航している。竹富島へは八重山観光フェリーと安栄観光が船を出しており、どちらも往復1340円だ。昔ながらの立て看板に惹かれて、八重山観光フェリーできっぷを買い求める。鋭い眼光が光る具志堅用高の銅像を写真に収めていると、ツアーの旗を掲げた添乗員を先頭にして団体客がフェリーに乗り込んでいく。定員217名の「あやぱに」はみっしり乗客で埋まっていて、2階のデッキで過ごすことにする。「あやぱに」とは、八重山方言でカンムリワシを指す。
出発時刻の9時半を迎えると、八重山観光フェリーのスタッフが指笛を吹き、指で合図をする。それを受けて、同じ時刻に出港する安栄観光の船が先に動き出し、港を出ていく。それを追って、あやぱにも出港する。先を行く船にも観光客が乗っている。それを眺めていると、船に揺られている自分の姿を見ているようで、不思議な感じがする。
竹富島を目指す旅行客は、豊かな自然や昔ながらの景観を求めて旅に出たのだろう。ただ、石垣港を出港してしばらくは無骨な風景が続く。埠頭にはコンテナが無数に積み上がり、スクラップとなった自動車を曳航(えいこう)する船が通り過ぎていく。岸壁には海上保安庁の船が停泊している。席に座って海を眺めている旅行客は、何を思っているだろう。
「しもうた、酔い止めを置いてきたわ」
「ええ? お父さん、酔うたん?」
「ちょっと酔うたわ」
「釣りをする人が、なんでフェリーで酔うんね」
「いや、酔わんように、普段は外海には出んのよ」
今日は風速8メートルの風が吹いていて、それなりに波がある。このご夫婦は団体ツアーの参加者で、2泊3日の旅程だそうだ。宿は2日とも石垣島のリゾートホテルで、竹富島は日帰りで滞在するとのことだった。
しばらくすると、前方に真っ平らな島が見えてくる。竹富島だ。15分ほどでフェリーは桟橋に到着する。あやぱには15分ほどで竹富港に到着する。水牛車観光にグラスボード、レンタサイクルにリゾートホテルと、桟橋にはボードを掲げる観光業者の姿があった。団体客は用意されていたマイクロバスに分乗し、次々とどこかに運ばれていく。あっという間に誰もいなくなって、僕はのんびり集落まで歩くことにする。アスファルトで舗装された道の両脇には原野のような風景が広がっている。どこかで牛の鳴き声がする。ゆるやかな坂道をぼんやりした心地で歩いていると、大きな牛の糞が落ちていた。
10分ほど歩くと、大きなガジュマルの樹が見えてくる。樹は石垣で囲われていて、正面には「石敢當(いしがんとう)」の文字が刻まれている。沖縄ではよく見かける魔除けで、まっすぐ進んできた魔物を打ち砕くとされている。このガジュマルの樹を迂回するように、道は左右に分かれている。ここが集落の入り口だ。竹富島の集落の入り口には「スンマシャー」がある。集落に凶事や病魔が入ってこないようにと、それぞれの集落の入り口には樹木が植えられ、石垣が築かれている。そこから先には、楽園のような光景が広がっている。
屋敷はそれぞれ石垣で囲われている。石垣と言っても珊瑚の石灰岩を積んだだけのものだから、ぶつかると崩れてしまう。屋根には赤瓦が張られ、その上にシーサーが鎮座している。道路はアスファルトではなく、白い砂の道だ。観光客を乗せた水牛車が行き交い、御者は三線を弾きながら民謡を歌っている。
学校でも家庭でもない、地域のなかで過ごす時間
今から65年前、1957年に竹富島を訪れた倉敷民藝館の初代館長・外村吉之介(とのむら・きちのすけ)は、島の印象をこう記している。
竹富島の部落は、世にも美しく純粋な姿をしています。琉球の元の姿はもはや沖縄本島にはなく、八重山にしか見られないと聞きましたけれども、八重山でも、町場は怪しげな洋館が出来て、目をおおわせるものが混じり出しましたが、竹富島は全く純粋です。ことに此処は家並や石垣が整い、掃除の行き届いたことで模範になつているのだそうです。村全体がさながら公園です。
竹富島を訪れた外村は、昔ながらの町並みと文化が息づく島の存在を広く伝え、研究者たちが竹富島を訪れるようになった。当時は島に旅館が一軒あるだけで、島を訪れた人たちは誰かの自宅に宿泊させてもらうこともあったという。観光客が増えるにつれて民宿が生まれ、現在では8軒の民宿がある。そのうちの一軒が「泉屋」だ。
宿の入り口にはアーチがあり、ブーゲンビリアの花が咲いている。ブーゲンビリアは秋の台風シーズンに花を落としたあと、冬にまた見頃を迎える。民宿を創業したときに植えられたもので、すっかり老木になっているけれど、今も綺麗に花を咲かせている。
アーチをくぐると、軒先で上勢頭巧(うえせど・たくみ)さんが出迎えてくれた。「今日は昼から天気が崩れちゃうんで、雨が降る前に散歩しましょうか」と誘われて、巧さんと一緒に散歩に出る。砂の道は、多くの観光客が自転車で島を巡っているせいかタイヤの跡だらけになっている。12月でもこんなに観光客がいるとは思わなかったと伝えると、「これでも12月に入って落ち着いたほうで、先週はもっとお客さんで溢れてました」と巧さんが教えれてくれる。集落を歩いていると、「いんのた会館」という真新しい建物が見えてくる。
「ここは前年度に建て替えたんですけど、踊りの練習場なんです」と巧さん。「竹富島には種子取祭(タナドゥイ)というお祭りがあって、そこで男性は狂言(キョンギン)という劇をやって、女性は踊りを奉納するんですけど、こどもたちも踊りをおどるんです。僕も10歳の頃からここで踊りを習って——それが学校とも家庭とも違う、“地域”のなかで過ごす時間になっていたので、良い学びの場だったなと思います」
竹富島には年間で20もの祭りがある。なかでも最大の祭りが種子取祭で、祓(はら)い清めた土地に種子を蒔き、豊作を祈願する。このお祭りに向け、1か月以上にわたって連日稽古を重ね、芸能が奉納される。コロナ禍前だと、島を離れた人や旅行客も種子取祭に向けて来島し、人口三百数十名の島に3000名もの人で賑わったという。
「種子取祭は舞台を囲むように三方に客席があって、正面の前のほうは神様が座るところで、そのうしろに島の長老たちがいて、舞台の右手が若い世代が座る席になっているから、同級生たちもそこで見てるわけです。小学生だから、やっぱりちょっと調子に乗っちゃうんですよね。でも、踊りの師匠に言われたのは、『まずは心の間違いがないように』と。『あなたたち小学生が踊れば、大人は皆褒めてくれるよ。でも、この踊りは神様に奉納するものだから、゛いつもありがとうございます”って気持ちで奉納するんだよ』って言われたんです。竹富島は公民館でお祝い事をすることも多くて、そこで何かやるときは人を喜ばせるためなんですけど、種子取祭は自分と神様が繋がる瞬間なんだってことで、ちょっと特別な時間でした」
竹富島の祭事は、「世迎い(ユーンカイ)」に始まり、「結願祭(キツィガン)」に終わる。
かつてニライカナイから来訪した神々は、コンドイ浜のニーラン神石に綱を結んで上陸した。船には五穀の種子が積まれており、竹富島の神はこれを八重山の島々に配ったとされている。それ以来旧暦8月8日には、ニーラン神石の前で神々を迎える「世迎い」の儀式がおこなわれる。清めた土地にこの種子を蒔き、無事に作物が実ることを成就して芸能を奉納するのが「種子取祭」だ。そして、作物が無事に実ったことを神に感謝する行事が「結願祭」である。このように、竹富島の祭事は農耕と深く結びついている。こうした祭りが現在に至るまで受け継がれてきたのは、生活の厳しさと無縁ではないだろう。
竹富島観光の曙、「カニ族」と呼ばれる若者たち
竹富島の土地は浅く、珊瑚礁の岩盤の上にわずかに堆積する貴重な土壌を耕し、農業がおこなわれてきた。山のない竹富島は水資源に乏しく、たびたび旱魃(かんばつ)に見舞われてきた。平らな島だと、強い風が吹けば遮るものはなく、作物にも影響を及ぼす。そうした厳しい環境におかれているからこそ、ひとびとは五穀豊穣を切に願い、神に対する祈りを受け継いできた。現在でこそ観光の島となっているけれど、数十年前までは農業の島だったのだ。当時はこどもも貴重な労働力とされ、遊ぶ暇もなく農業に駆り出されていた。その例外が、巧さんの祖父・上勢頭亨さんだ。
明治43(1910)年生まれの亨さんは、幼い頃からぜんそくを患っており、農業を手伝わされることがなかった。同世代のこどもたちは働きに出ており、亨さんは有り余った時間で古老たちを訪ねて歩き、民話や古謡を聞いてまわった。小学校の教師に言われた「古いものは宝だ」という言葉を胸に刻み、古物や民具を収集し、古老たちに聞いた話を記録として書き残した。その存在を伝え聞いた研究者たちが竹富島を訪れたことが、竹富島の観光の曙だ。
亨さんは25歳のとき、浄土真宗本願寺派の僧侶のもとで修行をした。西表島(いりおもてじま)に炭鉱ができると、八重山本願寺の元住職が西表に移り住み、その方からも仏教の教えを学んだ。昭和23(1948)年に浄土真宗の布教所開設を許され、自宅の一番座に阿弥陀像を安置して「喜宝院」をひらく。蒐集した竹富の民具は自宅に保管されており、研究者が来島した際には自宅でもあるお寺に招き、披露した。おそらく外村吉之介からの助言もあったのだろう、外村が来島した翌年からは拝観者名簿が残されている。資料が増えたことで、昭和44(1969)年には「喜宝院蒐集館」という私設の民族資料館も開設している。
「聞いた話だと、大学の先生や研究者の方が喜宝院まで見学にきたときに、泊まるとこがなかったから、亨さんがうちの祖父に『昇、泊めれ!』と言って、うちに泊まってもらってたみたいなんです。その頃はまだ観光のお客さんはほとんどいなくて、半農半漁の島だったそうなんです。この島は石がゴロゴロしてるし、水がないからお米も作れなくて。サトウキビを作っても、石垣の製糖所まで運ぶのも手間がかかるし、あんまりお金にならなかったみたいなんです。それまで竹富島は、自分たちで食べるぶんだけ畑で育てたり、海で魚を獲ったり——貧しかったんですよね。どうにか現金収入を得るために、観光客が増え始めた時代に民宿を始めたおうちが多いんです」
竹富島に観光客が増え始めたのは、沖縄が日本に復帰を果たした頃のこと。その時代に竹富島を訪れたのは「カニ族」と呼ばれた若者たちだった。当時の若者たちは、有効期限が最大で20日間にも及ぶお得な周遊券を利用し、キスリング型の横長リュックサックを背負って日本各地を旅した。大きな荷物を背負いったまま通れるようにと、列車の通路を横向きになって行き交う姿から、「カニ族」という名前が生まれた。昭和36(1961)年には海外を放浪した小田実(おだ・まこと)の『何でも見てやろう』がベストセラーとなり、昭和45(1970)年には国鉄が「ディスカバー・ジャパン」と銘打ったキャンペーンを展開する。そんな時代にあって、若者たちは著名な景勝地ではなく、“さいはて”を目指して旅に出た。カニ族のメッカとなったのは北海道だったが、周遊券が利用できない沖縄・竹富島にまでカニ族は押し寄せたのだ。
「その時代は大学生なんかが多くて、大きなリュックサックを背負って、コンドイ浜や西桟橋でキャンプを始めたそうなんです。その時代には海に行って投網をやっている人もいたから、『竹富島はキャンプ禁止だよ』と。治安を守るためにも民宿を始めることになったみたいですね」
集落を歩いていると井戸があった。仲筋井戸(ナージ・カー)と呼ばれる、竹富島で最大の井戸だ。昭和51(1976)年に石垣島から竹富島に海底送水が引かれるまでは、この井戸の水が生活用水として使われていた。
「じいちゃんが民宿を始めた頃は、ここから水を汲んできてごはんを炊いて、お風呂を沸かしてたんです。でも、内地からきた旅行客の人たちは水道がある生活に慣れてるから、自分が入ったあとにお風呂の栓を抜いちゃうんですって。それでばあちゃんがよく怒ってたみたいです」
水の問題というのも、観光と関係があるんです。巧さんが話を続ける。
「海底送水されてる水も、一日何トンって決まってるんです。送られてきた水は水道タンクに流れて、そこから高低差を利用して各家庭に送られてるんですね。これは貯水タンクじゃなくて、あくまで水道タンクだから、一日に必要な資料量の4分の1くらいしか容量がないんです。だから断水しちゃうと生活できなくなるから、大きいタンクを作ってるところなんですけど、どっちにしても一日の使用量は決まってるから、リゾートホテルがたくさん建っちゃうと、生活ができなくなる」