かつて猪苗代湖にはきれいな砂浜が広がっていた
野口英世記念館のすぐ南側に、猪苗代湖がある。
雪を踏みしめながら、湖の方向に向かって進んでゆくと、湖に程近い場所に、「猪苗代水環境センター」と書かれた建物があった。ガラス越しに展示が見えたので、なにか見学できる施設なのだろうかと、中に入ってみる。
「ここはね、福島県の環境創造センターの附属施設です」。そう教えてくれたのは、この施設に勤める鬼多見賢(きたみ・けん)さんだ。「設計の段階では倉庫になる予定だったんだけど、そんなの要らないって言ったわけ。なんのために倉庫を作んの、って。琵琶湖はじめ、全国の主な湖沼群はどこに行っても、自然が豊かな場所にはビジターセンターやネイチャーセンターがあるでしょう。猪苗代湖は全国で4番目に大きい湖だから、それにふさわしいものを作ってほしいとお願いしたところ、ようやく念願がかなってこの施設がオープンしたんです」
鬼多見さんはセンターのすぐ近く――猪苗代湖の北側の湖畔に生まれ育った。かつてこのあたりには、きれいな砂浜が広がっていたのだと聞かせてくれた。
「猪苗代湖の砂浜は、縄文土器が出ていた」のだと、鬼多見さんが教えてくれる。「野口清作少年が小学校時代に遊んだのもこのあたりだけど、俺が小さい頃もここが遊び場だった。夏休みになると、上級生は鍋や塩やジャガイモを持ってきて、下級生は小枝を拾ってきて、石でかまどを作る。そこで鍋を火にかけて、ジャガイモを茹でる。湖で泳いで遊んでるうちに茹だってるから、それをおやつに食べて喜んでいた。今は車を10分ほど走らせればスーパーに行けるけど、あの頃は何キロも歩っていかないとだめだったから、ジャガイモに塩つけて食ってた。そうやって一日中遊んでいたもんだ」
野口英世の生家がある集落は、三城潟(さんじょうがた)と呼ばれていた。この集落は宿場町でもあった。「町でねえ、村だから、『宿場村』だな」と、鬼多見さんは笑う。
「猪苗代湖は酸性湖だから、これだけ大きな湖だけど、漁獲高は全国でも少ないわけ。ただ、農業だけでは食えないから、魚捕りをして半農半漁でやっていた人もいた。三城潟は、シジミと“スズメ焼き”が名物だったみたい。“スズメ焼き”っつうのは、鮒(フナ)を背割れして炭で焼いたもんだけど、形がスズメに似てるってことで、そう呼ばれてたんだと。今はいろんな調味料があるけど、昔はなかったから、醤油で味付けして食ってた。あの、『一服』ってあんじゃないですか。10時とか3時に、仕事を休んで一杯やる。昔は大根に穴を開けて、そこにカラシを入れてお茶や酒飲んでたみたいよ。俺なんかの頃になると、大根を千切りにして、油で炒めて、それをカラシで味付けする。寒さを避けるために、カラシを入れて――韓国でキムチを食べるのと同じようにして、小さい頃はよくごはんのおかずに食べてたよ」
猪苗代湖には、かけがえのない自然があり、国の天然記念物にも指定されている。
天然記念物といえば、イリオモテヤマネコやオオサンショウウオといった希少な動物や、阿寒湖のマリモや屋久島スギ原生林といった植物を連想する。あるいは、北海道の昭和新山や山口県の秋芳洞(あきよしどう)のように、珍しい地質や鉱物もまた、天然記念物に指定されている。これらの他に、「保護すべき天然記念物に富んだ代表的一定の区域」もまた、国の天然記念物に登録されている。猪苗代湖の場合、そこに息づく自然が――具体的に記せば、昭和10(1935)年には「ミズスギゴケ群落」が、そして昭和47(1972)年には「猪苗代湖のハクチョウおよびその渡来地」として――国の天然記念物に指定されている。
「なんで保護が始まったかっていうと、白鳥がどんどん死んでいったの。それを不思議に思って、死んだ白鳥を北海道大学に送って原因を調べてもらったら、餓死だっていうわけ。胃袋の中に何にもなかった、って。これはまずいっつうことで、昭和40(1965)年に『猪苗代の白鳥を守る会』が立ち上がった。最初は明治41年生まれの古川美忠雄さんという人が、農家から余ったクズコメを集めて、給餌(きゅうじ)を始めたわけ」
「給餌」とは、食料の少ない冬の時期に、餌を与えることを指す。観光のために動物を呼び寄せる「餌付け」とは異なり、野生動物を保護するために必要となる最低限の量を与える。きまぐれに餌を与えるのではなく、どんなに寒い日でも、雪の降りしきる日でも、欠かさず給餌に従事する必要がある。
「この古川美忠雄さんが年取って給餌を続けらんなくなって、今度は古川一郎さんって人がやることになった。この浜から、湖にずっと歩っていって、そこで餌をあげていたわけ。古川さんだけじゃなくて、他の方も餌をあげていたんだけど、高齢のためもう歩けなくなったっつうことで、獣医の大森常三郎さんが給餌をやることになった。大森さんは、簡単にいうと学者だな。その大森さんが『こんなとこで餌やったって誰も見に来ないから駄目だ』と言って、ここより東に移転して、猪苗代町に餌場と倉庫を作ってもらって給餌を始めた。そこに『白鳥浜(はくちょうはま)』と名前をつけて、そう呼ばれるようになったんだ。そうするうちに、おらほでもやっか、おらほでもやっかと、いろんな場所で餌やりが始まったわけ」
ドライブイン湖柳にて
「おらほ」とは、わたしたちが住んでいるところを意味する会津のことばだ。「猪苗代湖のハクチョウおよびその渡来地」として国の天然記念物に登録されているのは、湖の北岸、高橋川から菱沼川までのあいだの水域だった。白鳥浜はその真んなかあたりに位置する。ここで給餌をはじめた大森さんが亡くなると、この白鳥浜にあったレストランに給餌をお願いすることになったが、寒い冬に朝早くから毎日給餌をするのは大変だということで、1年が経ったころに「もう続けられない」と申し出があった。かわりに手を上げたのが、保護区域の外側にある長浜だった。こうして長浜に飛来する白鳥が増えると、次第に観光客が集まるようになったのだそうだ。
ただ、鬼多見さんが小さい頃に比べると、猪苗代湖の環境は悪化しているのだという。外来魚が増えたことで、もともと猪苗代湖に生息していた生き物は数を減らしつつある。また、酸性湖だったはずの猪苗代湖も、水質が変化し中性になっていきているそうだ。
「そういった色々な異変が起きてきたのは、簡単に言うと昭和を境にだね」と鬼多見さん。「高度経済成長期に入ってきたあたりから、食べるものも変わってきたでしょう。だから赤ちゃんの大便は臭くないのに、大人になると臭くなる。昔の汲み取りの時代は大便も小便も、排泄物は肥料として畑に撒いてたけど、今は臭くて撒けないよ。昔は大根漬けで飯を食ってたのが、栄養価が高いものを食べるようになると、湖に流れる有機物もどんどん増えていくわけだよね。ただ、これはもう、抑えることができないと思う。今の人間に『明治時代の食べ物で生活しろ』って言ったら栄養失調になっちゃうし、炭で暖をとれといったら風邪引いちゃうよね。それは仕方ないんだ。だから、せめて雑草や外来種を駆除しないといけないよと言ってるんだよね」
昭和22年生まれの鬼多見さんは、二十歳の頃から猪苗代湖の自然を守る活動をおこなってきた。最初は妻とふたりで「猪苗代湖の自然を守る会」を立ち上げ、地道な活動を続けてきた。猪苗代湖に飛来する白鳥の数を数えているのも鬼多見さんだ。
「もう50年もやってるから、これが忙しいとか、これが大変というのはなくなってきたな」。活動を続ける原動力はと尋ねるぼくに、鬼多見さんはそう言って笑った。「もう日常生活になってるから、三度三度ごはんを食べるのとおんなじ。5年、10年ぐらいだったら、『あれは大変だった』とか、『これは忙しかった』ってこともあるんだろうけど、50年もやってると生活の一端だから、そういうのはなくなるな」
猪苗代水環境センターの窓から、猪苗代湖が見えている。今日はよく晴れていて、湖面は輝いている。ただ、その手前には雪が積もり、近くまで行くのは難しそうだった。野口英世記念館のほうに引き返すと、飲食店が軒を連ねている。そこには数軒のドライブインがあった。そのうちの一軒、「ドライブイン湖柳」に入ってみる。入り口には土産物が並んでいて、その先にテーブル席があり、奥は小上がりだ。ラジオから流れる『ラブ・ストーリーは突然に』が店内に響いている。店内の端っこの席に腰をかけると、「寒いから、ストーブのそばへどうぞ」と店主が声をかけてくれた。
壁にはずらりとメニューが貼り出されている。天麩羅定食にかつ丼、天ざるそばに山菜うどんにラーメンと幅広い。会津名物のソースカツ丼なんてのもある。寒い日にはやはり、温かい麺が啜りたいなとメニューを眺めていると、「まあ、このへんはラーメンだな」と店主が教えてくれた。このあたりでラーメンとなると喜多方ラーメンで、ちぢれ麺が特徴だ。せっかくおすすめしてもらったのだからと、チャーシューメンを注文する。しばらく経って、チャーシューメンの丼と、白菜漬けののった小鉢が運ばれてきた。ぼくがラーメンを啜っていると、店主は小上がりの席に腰をかけて新聞を読みはじめた。
「うちはね、昭和50年から」。もうお店をはじめられて長いんですかと尋ねるぼくに、店主がそう答えてくれた。「私の実家はこの向こっかわなんですけど、ここらは昔、みんな田んぼだったんです。ただ、野口英世記念館に見学にくるお客さんが増えてきて、田んぼを埋め立てて、こんな商売がはじまった。それまでは野口記念館があるだけで、何もなかったんだ。道路沿いに観光バスをとめてお客さんがきてたんだけど、そのうちに田んぼが駐車場になってね。このあたりの店のなかだと、うちがいちばん遅いの。他は昭和47年ごろにはじめてるけど、私は3年ぐらい遅れてはじめたんです」
現在はご夫婦で切り盛りされているが、ドライブインをはじめようと思い立った段階では、飲食の経験はなかったのだと店主は笑う。
「私は三男坊だから、居場所がなくって、小田原に20年ぐらい行ってたの。東名だの新幹線だのを作っていた時代に、ダンプの運転手をやってた。こんな商売とは正反対。でも、こっちに帰ってきて、ドライブインをやることに決めて、磐梯山のスキー場さ見習い行ったわけ。ただ、見習いといっても、板前さんの使った鍋を洗うとか、そんなのばっかりで。鯉(コイ)の刺身ぐらいは切れるようになったけど、見習いらしい見習いもできないまま2か月で辞めて、ここをはじめたんだよ」
チャーシューメンを啜りながら話を伺っていると、「これからご予定あるんでしょ?」と店主が言う。いえ、このあとはもう宿にチェックインしてのんびりするつもりですと伝えると、「軽トラでもよかったら送ってくよ」と言ってくださる。チャーシューメンを食べるわずかな時間に話を伺っただけではあるけれど、写真を一枚撮っておきたくなって、ご夫婦の姿を写真に収める。
リゾートゾーンとしての猪苗代
この日予約していたのは「レイクサイドホテルみなとや」だ。時計を確認すると、まだ15時になったばかりで、チェックイン時刻まではあと1時間ある。ちょっと早く着きすぎてしまったなと思っていると、マオカラーを身にまとった男性が声をかけてくれた。その男性というのは、このホテルの代表取締役社長を務める渡部英一(わたべ・ひでいち)さんだった。猪苗代の昔のことを知りたくて、旅行にやってきたのだと伝えると、まだ営業準備中のレストランに案内してくれて、話を聞かせてくれた。
「レイクサイドホテルみなとや」の歴史は古く、創業は明治10(1877)年に遡る。野口英世が15年ぶりの帰郷を果たしたときには、翁島村の人々が「みなとや」で歓迎会を開いたのだそうだ。
「猪苗代湖は、湖上交通が盛んな場所だったんです。メインの港は隣だったんですけど、この近くの翁島港もサブ港として利用されていて、明治32年に磐越西線が開通するまでは会津と郡山を結ぶ物流の拠点になっていたんですね。港のそばにあるから、みなとや旅館という名前で船宿をはじめたそうです。うち以外にも、この近所だけで何軒か船宿があったみたいですね。うちの両親で3代目なんですけど、その頃はまだ昔ながらの旅館という感じで、お昼の団体客で両親が忙しくしていたのはおぼえてます」
渡部英一さんは1951年生まれ。小さい頃だと、冬季はほとんど旅行客が訪れず、旅館を休んでいたのだという。5月の連休の頃から忙しくなり、夏は湖水浴、秋は紅葉を目指して行楽客がやってきたそうだ。
「すぐ近くに、天鏡閣(てんきょうかく)という皇室の別荘があるんです。そこは明治41年に有栖川宮が建てられたもので、皇室が別荘を建てるということは、それほどの景勝地である、と。そこから福島県の観光が始まったんじゃないかと思います。最初は有栖川宮が建てられたんですけども、のちに高松宮家に引き継がれていて、私が小さい頃は高松宮様がよくいらしてましたよ。そういうときにうちに料理の注文が入ることもあって、卵料理を作ってよく運んでましたね」
この地に別荘を建てた「有栖川宮」とは、有栖川宮威仁親王(ありすがわのみや・たけひとしんのう)だ。ただ、この地を初めて訪れた「有栖川宮」は、異母兄にあたる有栖川宮熾仁(たるひと)親王だ。明治維新ののち、新政府の威光を示すべく、天皇は各地を勢力的に巡幸している。そのうち、東北を訪れたのは明治9(1876)年と明治14(1881)年の巡幸だ。戊辰戦争の記憶も生々しく残る明治9年の巡幸では須賀川から福島、そして仙台へというルートが選ばれ、薩長に対する反感の残る会津はコースから外れている。その5年後の巡幸でも、往路は同じルートが採用されている。ただ、会津士族から嘆願書が出され、明治天皇に代わって有栖川宮熾仁親王が会津へと“代巡”したのだ。戊辰戦争で東征大総督をつとめた有栖川宮熾仁親王が会津を代巡するのも、不思議な巡り合わせだが、このとき小休止をとったのが、現在「天鏡閣」がある翁沢(おきなざわ)だったという。その26年後、明治40(1907)年に東北を旅行中だった有栖川宮威仁親王がこの地を訪れ、翁沢から猪苗代湖を眺望し、その風光の美しさに感銘を受けて別荘を建てた。かつて「朝敵(ちょうてき)」とされた会津の人たちにとって、汚名が注がれるような思いがあったのではないかと想像する。
「みなとや」の前には、道路一本挟んですぐ、湖が広がっている。渡部さんにとって、この光景は「生まれたときから当たり前」のもので、「よそに行くと、せせこましく感じていた」という。上にふたりの姉がいるものの、渡部さんは長男だったこともあり、祖父は「これで跡取りができた」と喜んだそうだ。
「小さい頃からもう、『お前は跡取りだ』と言われて育ったんですよ」。渡部さんは笑う。「それに反発した時期もありましたし、大学も東京に進学して、見聞を広めよう、と。就職も向こうで決まっていたんですけど、旅館がだんだん老朽化して、消防法的にも改善する必要があるということになって、建て直すことになったんです。そこで親からも『早く帰ってきて手伝ってくれ』と言われて、こっちに帰ってきたんです」
猪苗代では、大正時代にはすでにスキーの県大会が開催され、早稲田大学スキー部の合宿もおこなわれていた。終戦後の昭和23(1948)年には、「猪苗代スキー場」が県営スキー場として運営がはじまっている。昭和46(1971)年には町営リフトも開設され、翌年には猪苗代町に「観光課」が立ち上げられた。渡部さんが猪苗代に戻ってきた1970年代は、冬のスキー客が増えはじめた時代でもあり、猪苗代町が観光による町おこしに踏みだした時代でもあった。その頃から「みなとや」でもスキー客の送迎がはじまっている。
昭和54(1979)年12月号の『財界ふくしま』に、猪苗代町長をはじめ地元の農協や商工会関係者、青年会議所などの人たちが参加した座談会が開催されている。「磐梯朝日国立公園の表玄関」と見出しが躍り、湖畔に飛来する無数の白鳥が写真に収められている。
座談会の冒頭で、山本秀雄町長は「猪苗代町は、農業と観光が主体の町」だと語っている。ただ、磐梯山と猪苗代湖を中心に「年間三百五十万人の観光客が訪れ」るものの、「大部分の人が県外からの観光客で、ここは通過地となっているのが現状」だ、と。また、この頃になると冬のスキー客の比重が増えていたが、昨年は「暖冬の影響で損害が十五億円」も出たといい、これからは雪にだけ頼る観光ではなく、「地方の特色を出し、リゾートゾーンとしての猪苗代町を考えなければなりません」と、猪苗代町商工会副会長の酒井寿(さかい・ひさし)は発言している。ここで早くも「リゾートゾーン」という言葉が用いられているのに、少し驚く。