セカイ(系)。「主人公の周囲の小さな問題と、〈世界の終わり〉のような大きな問題が短絡的に結びつけられる」作品に対して使われてきた言葉。そんなセカイ(系)の作品はかつて「中間にあるはずの〈社会〉が欠落している」と批判や揶揄の対象となっていました。しかし2020年代の今、スマートフォンゲームから音楽配信代行サービスにいたるまで、カタカナの「セカイ」という表記が再び存在感を増しています。
個人編集の「セカイ系」同人誌『ferne』が話題を呼んだ編集者・北出栞さんが、アニメや音楽、美術作品などに見られるイメージを横断しながら、「セカイ」という言葉に宿るリアリティの正体を探ります。
「動画」の可能性に重きを置く
前回はスマートフォンゲームのPVを起点に新海誠のデビュー作『ほしのこえ』のデジタル個人制作としてのエポックメイクに目を向けた。同作が象徴する、2000年代はじめにもたらされたデジタルツールによる制作環境の変化は、現在に至るまで影響がある。簡単に言えば映像や音声をデータ(素材)として簡単に加工・編集することのできるデジタルツールの普及は、「受け手」と「送り手」の境目をそれまでとは違ったものに変化させたのだ。
こうした着眼点を持つことは言うなれば、「映画(フィルム)」よりも「動画(ムービー)」の可能性に重きを置く、ということである。前回は言及できなかったが、そもそも新海はゲーム会社(日本ファルコム)に勤務していた。もともと新海が作っていたゲームのOPムービーは、ゲーム本編を通じてプレイヤーが体験する壮大な物語を、数分のミュージッククリップに圧縮して伝えるものである。複雑なストーリーテリングはできない代わりに、断片的なイメージとサウンドの化学反応によってプレイヤーに期待を抱かせる。こうした特性は、オーディオとビジュアルを別のタイムライン上で操作し、合成することができるデジタル編集と相性が良い。
「世界の複雑さが描かれていない」「個人的な出来事に終始している」といった〈セカイ系〉につきものの批判は、ゲームのOPムービーの特性にもそのまま当てはまる。しかしゲームのOPムービーの場合、その後にゲーム本編があるから「問題」になることはない。あくまで本編の導入という役割を忠実にこなしているに過ぎないと見なされるからだ。『ほしのこえ』はその手法によって「本編」が構成されているからこそ、(旧来の「映画」の基準から言って)「問題」になったといえる。
新海はゲーム会社の社員を経て『ほしのこえ』の制作に至ったきっかけについて、以下のように語っている。
(引用者註:自主制作のきっかけになった作品は)大学4年の時の『新世紀エヴァンゲリオン』(95)で、特にラスト2話ですね。まるで動かず声だけなのにものすごく緊張感があって、ショックを受けました。同時に「これなら手間的に自分も作れるんじゃないか」と(笑)。〔…〕劇場版『パトレイバー』も念頭にあって、レイアウトや風景だけで見せたり、動かさずに30秒の長台詞にするみたいな点で、「最低限の物語さえあれば、アニメっぽい映像ができるかも」と思いました。
動画配信サイト「バンダイチャンネル」掲載「クリエイターズ・セレクション アニメーション監督:新海誠インタビュー」(2014年9月25日公開)より。
あくまで「アニメっぽいもの」として作られたのが『ほしのこえ』なのだ(ここでいう「アニメ」とは絵が動くものという本来の意味での「アニメーション」というより、物語を伴っているものという意味だろう)。その作風について、アニメ評論家の氷川竜介は、近著『日本アニメの革新』で次のようにまとめている。
ドラマの基本となる「接触」よりも、人のいない風景、あるいは登場人物が見つめる風景のカットが多用されている。セリフにしても大半が弁証法的な「ダイアローグ(二者の会話)」ではなく「モノローグ(独白)」なのです。これは「物語」として特殊なことで、「ポエム(映像詩)」に近い印象はここから来ています。
光や雲の変化に動きをつけ、淡々としたモノローグを重ね、時に言葉を途絶させる。代わりに落ち着きのある音楽がカットの断層を貫きます。この積みかさねで、大きな情動が観客側で自発的に醸成されます。美術が「作品の世界観」を主張し、目立たない領域で心理の奥底深く作用する。だからクライマックスで観客は「風景と心情」を登場人物と自発的に共有し、カタルシスを覚える。
風景、独白、音楽……。すべて感性主体で、そこにロジカルな関係性や因果はありません。だから「映像詩」とも呼びました。しかし新海誠監督の意識としては、それこそが「物語を語るためのツール」です。
新海の「動画」的=個人制作的な感性を正確に捉えた記述と言えるだろう。
〈セカイ系〉=「中間排除」とすることの問題点
一方で氷川は〈セカイ系〉についても同じ本の中で言及している。「中間排除」というキーワードを梃子にして、インターネットの登場と結びつけているのだ。
動画配信は映画館や放送局を介せず、観客に直接作品を見せる。ある世代以後は生まれたときからその「中間排除」の環境で生まれ育ちました。ならば「社会」も中ヌキできるのではないか。そう考えるのは自然です。個に重点をおくネットの特質は「コミュニケーション=人の意思疎通」で顕在化します。SNSは音声も「中ヌキ」し、思考直結に近い文字を使う。「テレパシー的コミュニケーション」を重視するのが、現代の若者です。
こうした記述に対して、実のところ筆者もそれほど違和感はない。ただし、〈セカイ系〉の特徴を「中間排除」のように抽象化することは、『ほしのこえ』以降の新海誠の歩み――個人制作の短編がインターネット上の口コミで話題になりヒットした後、多数のスタッフに囲まれて作る(旧来型の)アニメ制作に進み、果ては「国民的作家」になった――を、他者=社会に揉まれるようになって「成長」した、という安直なストーリーに回収してしまう危うさもある(なお、著者の氷川が直接そうしたロジックを採っているわけではないことは断っておく)。
『ほしのこえ』を起点にした〈セカイ系〉は、断片的なイメージを、音楽や視覚効果を活用して「物語っぽい」ものに仕立て上げることに適した「デジタル環境での制作」を形容する言葉として機能する一方で、個を重視する「インターネット的な価値観」を表現する言葉としても機能する。しかし、この二つは本来別個のものだ(『ほしのこえ』当時はソフトウェアを使って作品を「作れる人」と個人サイトを開設して作品を「流通できる人」の大部分が「ギーク」という形で重なり合っていたが、現在では誰もがSNSのアカウントを持ち、「作れる人」ではなくても「流通できる人」ではある、というケースが多くなったということをイメージしてもらえばわかりやすいだろう)。
新海誠のフィルモグラフィについて、『ほしのこえ』『雲のむこう、約束の場所』『秒速5センチメートル』がその共通するトーンや作画のスタイルから「初期3部作」としてまとめられることは多い(※1)。しかし実際には、『雲のむこう、約束の場所』から多くのスタッフの手を借りて長編「映画」にトライしている。「動画」の手法によって「アニメ=物語っぽい」ものを作れることの可能性は、こうした新海誠の歩みも手伝って覆い隠されてきたところがある。〈セカイ系〉が未だに作家個人の態度を批判する意味合いで使われてしまうのは、映画や漫画、小説といった旧メディアを基準とした「作品」への評価基準が未だに支配的で、テクノロジーによってもたらされた、それ以前とは根本的に異なる「作品」のあり方への理解が進んでいないことの反映に思えてならないのだ。
そう考えるのであれば、筆者がすべきは『ほしのこえ』(動画)と『雲のむこう、約束の場所』(映画)の間に改めて切断線を引き、『ほしのこえ』から連なる「動画」の系譜について考えていくということになるだろう。
さて、現代において動画の最前線といえば、TikTokなどのショート動画プラットフォームである。『ほしのこえ』とTikTok……パッと聞いたかぎりではわかりづらいだろう両者を結ぶ線を見出すためには、デジタルテクノロジーがもたらした「制作」と「流通」、それぞれの変化について見ていく必要がある。
なお本連載はマーケティングの指南書でも情報社会論でもなく、あくまで〈セカイ系〉という概念が持つ、こう言ってよければ「文学的」あるいは「哲学的」な価値を明らかにしようとするものだ。ショート動画プラットフォームという土台の上で、連載の最初に示したような〈セカイ系〉の肯定的な価値――「いま、ここ」から断絶するということ、「どこでもない場所」への感性――がどのように表れているのか見ていくことが目的となることを、頭の隅に置いておいてほしい。
※1 3作に共通して関わる天門の劇伴の印象も大きいだろう。続く『星を追う子ども』の劇伴も天門だが、ファンタジー色が強く、スタジオジブリ作品を意識したと思しきキャラクターデザイン、中学生の女子を主人公に据えたジュブナイル的な作風など、前3作との間には明確に一線を引くことができる。
レフ・マノヴィッチ『ニューメディアの言語』
TikTokの話をする前に、前回の記事の最後でも予告した、デジタル環境において「作品」を取り扱う際の基本原理について確認したい。筆者が念頭に置いているのは、メディア理論家のレフ・マノヴィッチによる著作『ニューメディアの言語』だ。2013年に邦訳が出版され、その後長らく絶版状態が続いているがとても重要な一冊である。
マノヴィッチが言う「ニューメディア」とは、コンピュータ上で映画や絵画、その他もろもろの表現メディアが再現されたものである。たとえば、PCモニタの上で表示されている画像とキャンバスに描かれた油絵は、四角形の枠で切り取られた、平面的な視覚情報という意味では同じだが、その視覚情報を目に見えるようにしているテクノロジーはまったく異なる。煎じ詰めれば0−1の電子情報でしかない前者を、後者から区別する概念が「ニューメディア」だ。マノヴィッチは「ニューメディアの諸原則」として以下の5つを挙げている。
- 数字による表象
- モジュール性
- 自動化
- 可変性
- トランスコーディング
筆者なりに要約すれば、1は画像や音楽をピクセルやBPMといった数値で扱える量に変換できるということ、2はある範囲を切り出して順番を組み替えたりすることが容易なこと、3はプラグラミングによる処理が可能なこと、4は加工と復元の行き来が容易なこと、そして5はjpg→pngのように、別の形式に変換することが可能なことである。テキストにしても映像にしても音声にしても、受け手が楽しむ際には旧来のメディアを模したインターフェースを介することになる(Kindle 〈Paper〉writeといった名称にそれは表れている)。ゆえに表面的には単に持ち運びが容易になったとか、検索がしやすくなったとかの利便性の観点で説明されやすいのだが、実は深層で人間の文化にも影響を与えているのではないかとマノヴィッチは指摘している。
コンピュータが世界をモデル化し、データを表現し、私たちにそのデータを操作させるやり方や、あらゆるコンピュータ・プログラムの背後にある主要なオペレーション(検索、一致、並べ替え、フィルターなど)や、HCI(ヒューマン・コンピュータ・インターフェース)に付随する諸々の慣習――要するに、コンピュータの存在論、認識論、語用論とでも呼べるもの――は、ニューメディアの文化的レイヤー――ニューメディアをどのように組織化するか、どんなジャンルが現れつつあるのか、どんな内容があるのかといったこと――に、影響を及ぼしているのである。
コンピュータと、そこに内蔵されているアルゴリズムは、人間の入力に対して特定の結果を返す。ニューメディアを支えるこの「インタラクティブ」性が、それまでの――書籍や映画といったメディアで表現される作品における――送り手‐受け手モデルと異なるところだ。上記の文に噛み砕きにくいところがあるとすれば、翻訳の問題以上に、コンピュータと人間の関係を語る際に主体の位置をどこに定めればいいのかがそもそも難しいという点にある。
前回の記事で、新海誠は当初「作家」ではなく優れた「オペレーター」として世の中に発見されたのではないか、ということを述べた。「オペレーター」とは、コンピュータの「インタラクティブ」な性質と協働しながら、望む結果を実現させる人物のことである。マノヴィッチは「オペレーション」という概念について、次のように述べている。
オペレーションという概念を「道具」や「媒体」に還元してしまうのは間違いだろう。〔…〕オペレーションというものはたいてい、伝統的な道具とは違うやり方で自動化されている。他方で、オペレーションは、コンピュータのアルゴリズムと同じように、一連の言語として書き記すことができる――つまり、ハードウェアやソフトウェアに具現化される前に、概念として存在するのだ。実際、モーフィングからテクスチャー・マッピングまで、検索やマッチングからハイパーリンクまで、たいていのニューメディアのオペレーションは、コンピュータ・サイエンスの論文で公刊されたアルゴリズムとして始まっていて、それが最終的に標準的なソフトウェア・アプリケーションのコマンドになっている。したがって、たとえばユーザーがある画像に特定のPhotoshopのフィルターを当てると、Photoshopのメインプログラムはそのフィルターに対応する個別のプログラムを呼び出し、そのプログラムがピクセル値を読み出し、それに対して何らかのアクションを起こし、変更された値を画面に書き込むのである。
「(オペレーションは)ハードウェアやソフトウェアに具現化される前に、概念として存在する」……この点が重要である。まず人間がいて、その人間によって物事が「なされる」というモデルではない。オペレーターの中にあるのは、空中を漂っている抽象的な数理科学の言葉で記述される法則を、実現したいことに応じて掴んでくるようなイメージだ(※2)。法則を実際に掴む=人間に加工可能な形に整えるのはソフトウェアであり、しかしソフトウェアはそれを操作する人間がいなければ動作しない。当事者ではない人間にとっては、オペレーターが欲するイメージも、それが実現されるまでのプロセスもブラックボックス化しているがゆえに、魔法のように見えてしまう。優れたプログラマーのことを「ウィザード(魔法使い)」と呼ぶことがあるのも、これに通じているだろう。
※2 メディア技術に関する考察を深めたドイツ語圏の哲学者、ヴィレム・フルッサーがカメラについて語っていることを補助線にするとわかりやすいかもしれない。フルッサーは「道具」の時代、「機械」の時代、「装置」の時代という風に人類史を分ける。「道具」があくまで人間が主体となって扱う、鉛筆(書く)やハンマー(叩く)のような基本的にひとつの機能しかないもの、「機械」が人間の周りを取り巻いて、大量生産を自動化するものだとしたら、「装置」は人間がその機能の一部になるものだという。カメラは「装置」の代表的なもので、撮影した対象を光学的な仕組みによって画像として出力する。仕組み=プログラムはブラックボックス化されていて、撮影者はその全容を理解する必要はないが、カメラを持って対象の周りを動き回ったりするのは撮影者にしかできない。カメラそのものが勝手に動き回って撮影を完了するようには、普通のカメラはできていないのだ。(『写真の哲学のために テクノロジーとヴィジュアルカルチャー』、深川雅文訳、勁草書房、1999年参照)
インターフェースの進化が「自己」意識を増幅する?
しかし現在コンピュータを扱う上での主流は、直接的にソースコードを触るというよりも、ソフトウェアを駆使することになってきている。ソフトウェアというのは用途に応じてパッケージングされたコンピュータのサブシステムだ(ソフトウェア自体、もともとはプログラマーによって作られたものである)。ソフトウェアは現在では無数に「分業」化されており、その作動原理はブラックボックス化しているので、同じクリエイター同士でもお互いが「魔法使い」のように見える。異なるジャンルのクリエイター同士はもちろん、同じジャンル内で「まだ10代なのか……」と年長のクリエイターが年少のクリエイターに対して驚きを見せるようなSNS上の光景に、誰しも出会ったことがあるだろう。しかしそれは100パーセント個人の能力の話ではなく、一面ではソフトウェアの進化によるものなのだ。
一連のフィルターというメタファーで想定されているのは、生のデジタルデータから特定のメディア・オブジェクトに至るまでの各段階で、創造的な可能性がどんどん制限されていくということだ。したがって、各段階は徐々により多くのことを可能にしているともみなせるわけで、その点に注意することも重要だ。つまり、メモリに保存された二進法の値をじかに取り扱うようなプログラマーは、これ以上ないほど「機械のすぐそばに」いることになるとはいえ、コンピュータに何をやらせるのにも永遠の時間がかかってしまうだろう。実際、ソフトウェアの歴史は、しだいに抽象度が上がっていく歴史である。プログラマーとユーザーは、ソフトウェアによって機械からしだいに引き離されることで、より迅速に目的を果たすことができるようになる。
利便性の観点から、ソフトウェアは背後で作動しているデジタルの原理をどんどん意識させない(=「フィルター」をかける)方向に進化している。インターフェース研究者の渡邊恵太は「自己帰属感」というキーワードで昨今のインターフェースの特徴についてまとめている(※3)。「一時保存」のボタンが未だにフロッピーディスクの形を模しているように、かつては記号と機能が視覚的に一対一対応するようなものが目立っていた。しかし現在は「触る」「フリックする」といった身体的なアクションを、直感的に画面上に反映できることが正義とされる。スマホアプリを形容する際によく使われる「サクサク」「ヌルヌル」といった言葉にもそれは表れているだろう。「背後で動いている仕組みのことはよくわからないけど、とりあえず自分のアクションがこの結果を実現したんだ」という納得感さえ生まれればいい、という方向にインターフェースのトレンドは進んできている。
このようにしてデジタルの抽象性が「自己帰属感」に落とし込まれていく過程が、ソーシャルネットワークというもうひとつの(コミュニケーション面の)デジタルテクノロジーの進化と結びつくことで、「自己」という概念に対する意識をいたずらに増幅させている――本連載でもたびたび言及してきた、アイデンティティ・ポリティクスの時代の息苦しさを助長している――というのは考えすぎだろうか? かつてはコンピュータやソフトウェアが何をどのように実行しているか想像するための特別な能力が必要で、それを備えている人は「魔法使い」と呼ばれた。「魔法使い」同士は専門分野による分業が現在ほど進んでおらず、「コンピュータ言語に精通している」という共通のアイデンティティによって交流を持つことができた。しかしその「魔法」は時代が下るにつれソフトウェアそのものに内蔵されるようになり、わざわざコードについて議論を交わす必要もなくなった。その結果、相対的に表現者という「個人」の存在感がせり出すようになっている。
しかし繰り返すように現代の表現者は完全に自律的な「個人=作家」ではなく「ソフトウェアと協働して物事を成し遂げる人=オペレーター」なのであり、「完成度」の違いは、(少なくとも半分は)どの時点でテクノロジーにアクセスしたかの違いでしかない。それでも人間というものは根強い「作家」神話のバイアスによって、100パーセント「個人=作家」の「能力」の反映として表現物を捉えてしまうから、同業者内でも表面的な「完成度」とその到達年齢を比べて絶望感を覚えるといったことが起きがちなのである。
『ほしのこえ』的な表現――ソフトウェアを駆使して、ひとりきりで作品を作ること――は、映像の分野に限らず、現在すでにスタンダードになっている。たとえば音楽。ギター一本弾き語りのスタイルであっても、スマホの録音アプリすら使わないということは稀だろう。コンピュータと協働しながら望むイメージを手繰り寄せる「オペレーター」が、今や表現者の基本形なのだ。
逆に言えば、これ自体は新海誠の出現以降20年間変化のなかったところで、大きく変わったのは何かといえば、作品の「流通」に関する部分である。『ほしのこえ』は新海誠が自らのホームページにアップした予告編がインターネットを介して口コミで広まり、ミニシアターでのヒットにつながったという逸話が知られている。当時は個人サイトを持つ人も限られていて、送り手‐受け手の間の非対称性がまだぎりぎり存在していた。まずは予告編を見てもらって……という順番も、送り手である新海誠自身がコントロールすることができたのだ。一方、現在であればSNSを使うことが必須だ。「作る」人も発信のチャンネル=アカウントの総数も飛躍的に増えた中、「作る」ことは常に「まず興味を持ってもらう」こととセットで考えなくてはならない。作品よりも先に「あなたは何者か」が問われてしまう時代なのだ。
連載の初回で音楽ディストリビューター・TuneCore Japanの「あなたの音楽でセカイを紡ぐ」というキャッチコピーを紹介した。同社の提供する音楽配信代行サービスは、レコードレーベルに所属していない個人活動のミュージシャンが、SpotifyやApple Musicといったストリーミングサービスに向けて作品を配信することを可能にする。ミュージシャンがレコード会社に所属しなくてよくなったのは、ディストリビューターという業者の出現以前に、作曲・ミックス・マスタリングといった大規模なスタジオに所属しなくても、PC一台で制作を完結できるようになったデジタル制作環境が普及したことが大きい。ディストリビューター、まさに「流通」業者のキャッチコピーに「セカイ」という言葉が使われているのは、現在のデジタル環境において「制作」と「流通」とが一体化していることを象徴していると言えるだろう。
※3 渡邊恵太『融けるデザイン ハード×ソフト×ネット時代の新たな設計論』(ビー・エヌ・エヌ、2015年)
〈セカイ系〉の最低条件は
さて、ここまで整理した上でようやくTikTokの話ができる。ユーザーによる投稿の受け皿となりながら自前の加工機能も備えるTikTokは、「制作」と「流通」を直結させたプラットフォームの最前線だ。とはいえ、TikTokに投稿されるショート動画群が、現代における〈セカイ系〉の最前線なのかと問われたら、答えはNOである。思いのほか前提の説明が長くなってしまったため掲載を分けることにするが、次回の更新ではこの「制作」と「流通」が直結した状態において、「作品」の場所はどこにあるのかという話から始めたい。ある表現物が〈セカイ系〉と言えるかどうかの最低条件は、やはり「作品」=「物語っぽさ」を備えていることだと思うからだ。
第6回へつづく
【お知らせ】
当連載を収録した書籍『「世界の終わり」を紡ぐあなたへ デジタルテクノロジーと「切なさ」の編集術』が待望の書籍化! 全国書店やAmazonなどの通販サイトで、2024年4月23日より発売いたします。
筆者について
きたで・しおり 1988年生。神奈川県横浜市出身。1990年代半ばをドイツで過ごす。音楽雑誌の編集部員、音楽配信サイトの運営スタッフを経て、2010年代半ばより現名義で評論同人誌への寄稿を始める。2021年、〈セカイ系〉をキーワードにした評論アンソロジー『ferne』を自費出版。同人誌即売会「文学フリマ」を中心に話題となる。2024年4月、初単著となる『「世界の終わり」を紡ぐあなたへ――デジタルテクノロジーと「切なさ」の編集術』を刊行。