セカイ(系)。「主人公の周囲の小さな問題と、〈世界の終わり〉のような大きな問題が短絡的に結びつけられる」作品に対して使われてきた言葉。そんなセカイ(系)の作品はかつて「中間にあるはずの〈社会〉が欠落している」と批判や揶揄の対象となっていました。しかし2020年代の今、スマートフォンゲームから音楽配信代行サービスにいたるまで、カタカナの「セカイ」という表記が再び存在感を増しています。
個人編集の「セカイ系」同人誌『ferne』が話題を呼んだ編集者・北出栞さんが、アニメや音楽、美術作品などに見られるイメージを横断しながら、「セカイ」という言葉に宿るリアリティの正体を探ります。
Adobeによる最新の「クリエイター」の定義
『ほしのこえ』を起点にした〈セカイ系〉は、断片的なイメージを、音楽や視覚効果を活用して「物語っぽく」仕立て上げることに適した「デジタル環境での制作」を形容する言葉として機能する一方で、個を重視する「インターネット的な価値観」を表現する言葉としても機能する――前回の記事でこのように書いた。それに関係する話として、現在ではデジタルツールの普及とソーシャルネットワークの発達により、「制作」と「流通」が不可分となったということも。今回はこれを踏まえて、『ほしのこえ』が先取りしていた「動画」の可能性と、その最前線のプラットフォームであるTikTokでどのような「物語っぽい」ものが存在感を示しているのかを探っていく。
とはいえ、TikTokで流行するダンスやリップシンクなどの動画の大半は、単純に尺が短いこともあってどうしても「物語っぽさ」を志向するものにはなりにくいし、誰か/どこかに向けたメッセージを発するようなものにもなりにくい。そうした動画の投稿者は、流行っている動画と同じような動作をすることが純粋に「楽しい」からそれを真似るのであり、表面上「似ている」動画がどんどん増殖していく、というのがTikTokの基本的なメカニズムである。
マーケターの天野彬は、このメカニズムを哲学者、ジャン・ボードリヤール由来の「シミュラークル(模倣)」という言葉で説明する(※1)。TikTokで流行する動画は、最初の出所がもはやどこだかわからないことが多い。元となった動画を真似して、自分なりのアレンジを加えて加工して……という形で動画が増殖していくのである。この意味で、最初に話題となった投稿が起点となって、あくまでその投稿の内容自体が話題を呼んでいく「バズ」とは似て非なるものだ。Twitterで言えば、もともとのツイートを「コピペ」したものが伸びてしまったら、「パクツイ」の烙印を押されてしまうことを想像してもらえばいい。鶏が先か卵が先かという話だが、ダンスやリップシンクといった非言語的なものがTikTokで流行るのは、それだと模倣が即、著作権侵害ということにはなりにくいからだとも言える。
現在ではYouTubeもShortsを始めるなど、スマートフォンに特化したショート動画プラットフォームはTikTokに限らないのだが、TikTokの独自なところとして、顔面を簡単に「盛る」ことのできるエフェクトなど、加工ツールをアプリ内で備えているという点がある(もちろん、写真投稿プラットフォームではあるが、その前史としてInstagramがある)。従来であれば専用の加工ツールを用いなければならなかったところを撮影→投稿の流れの中にシームレスに組み込んだことで、「作る」と「流通」を直結させ、さらには「流通」への比重のシフトを促したのだ。
Adobeは2022年のレポート「Future of creativity」で「クリエイター」の定義を「創造的な活動(写真撮影、クリエイティブライティング、オリジナルSNSコンテンツ制作など)に従事し、SNSにおけるプレゼンスを高める目的で、これらの活動から生まれた作品を少なくとも毎月オンラインで投稿、共有、または宣伝している人」とした(※2)。新海誠に独立のきっかけを与えたPhotoshopやAfter Effectsなど、個人制作をエンパワーメントするツールを同社が提供してきたことを考えるとかなり衝撃的な話だが、こうした変化にTikTokやInstagramのような「加工と流通が一体化したプラットフォーム」の隆盛が関わっていることは間違いないだろう。
※1 SNSがもたらした情報の広がり方をモデル化する | ウェブ電通報 https://dentsu-ho.com/articles/7304(2023年4月12日最終閲覧)
※2 アドビ、「Future of Creativity」調査を実施|アドビ株式会社のプレスリリース https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000282.000041087.html(2023年4月12日最終閲覧)
「TikTok売れ」の秘密は音楽にあり
ショート動画は「物語っぽい」ものではない……つまりそれ単体で〈セカイ系〉的とは言えない。しかし、ここまでの文脈から見逃せない現象もあって、それがスターツ出版文庫という小説レーベルの「紙の本」が、TikTokをきっかけに次々ヒットしているという話である。同レーベルの公式TikTokアカウントに並んだ動画のサムネイルの並びを見ると、ある共通点に気づく。紹介されている文庫本の表紙に、どことなく「新海誠(作品のポスター)っぽさ」を感じるのである。具体的には、青ないしは橙色を基調とした(明け方もしくは夕暮れの)ぼんやりとハレーションのかかった空の下で、制服を着た男女(女性だけの場合もある)が立っているような構図だ。
TikTok社の日本法人による記事によると、スターツ出版では、2016年7月に刊行された既刊『あの花が咲く丘で君とまた出会えたら』が数年後の2020年に小説紹介動画の投稿者「けんご」の投稿をきっかけにリバイバルヒットし、それを受けて自社でもTikTokアカウントの運用を開始。2021年には再び「けんご」の投稿をきっかけに、2017年8月に刊行されたやはり既刊である『交換ウソ日記』がヒットしている(※3)。
この現象を受けて日本経済新聞のインタビューに答えたスターツ出版の社員によると、動画を投稿する際には運用を担当する若手社員(2021年の取材時点で入社3年目)が実際に作品を読んで、その世界観にマッチする楽曲を選んでいるという。TikTokはJASRACと提携しているので、著作権許諾を得た楽曲を公式に動画と組み合わせて投稿することができるのだ。
「彼(引用者註:上記の若手社員)はもともとTikTokユーザーで、スターツ出版文庫のターゲット層にも近い。また、TikTokを毎日見ているので、そのタイミングでどのような音楽が流行っているのかも分かっているんです。作品の世界観と音楽がマッチしていると、すでに読んでいる人は『これ!』と強く共感してもらえますし、逆にまだ読んでいない人には世界観を想像してもらえる。表紙を映しただけの『あの花』の紹介動画がバズったのも、まさに音楽の効果が大きかったと思います」
「『あの花』1作のヒットだけでは、こういう現象は起きなかった。スターツ出版文庫自体のコンセプトは『この1冊が、わたしを変える。』というもので、『何度も読み返してほしい』という思いで作っています。では、どのような本を読み返すかというと、『これを読んで昔泣いたな』だとか、『人生観が変わったな』という部分が必要になる。〔…〕このようなブランディングのもとでトーンを守っているので、どの本を読んでも同じメッセージが込められていると感じてもらえるはず。だからこそ、他の作品にもどんどん伝播し、レーベルを好きと感じていただけるようになったのではと思います」(※4)
時系列を整理すると、最初のTikTok発のヒット(『あの花が咲く~』)はユーザー投稿をきっかけとした偶発的なものだったが、その後社を挙げてTikTokを研究した結果、担当者が音楽の重要性に気づく。折しも2016年の『君の名は。』公開以降、他レーベルを含め「切ない」青春恋愛小説に「新海誠作品っぽい」表紙をあしらうトレンドが生まれており(※5)、レーベル2度目のヒットもその流れを汲んだ作品(『交換ウソ日記』)だった。「ブランディング」「トーンを守る」という意味でも、勢いそのままにその方向性を伸ばすことになった……ということになるだろう(2020年に刊行された『あの花が咲く~』の続編『あの星が降る丘で、君とまた出会いたい。』は、水彩調の絵柄にリアル系デザインの少女が描かれた第1作とは打って変わって、流星が降り注ぐ草原を描いた背景にアニメ調デザインの少女が小さく置かれる「新海誠作品っぽい」雰囲気になっている)。
動画に音楽を重ね合わせるという、ひと昔前であればそれこそ『ほしのこえ』よろしく、デスクトップPCを購入し専用のソフトを用いなければできなかったことが、今ではスマホひとつでできるようになっている。動画でメインに映されているのが「新海誠作品っぽい」=それ自体がデジタル的に複数のレイヤー(人物、背景、エフェクト、文字……)を重ねる形で作られたイラストなことも相まって、ひとつひとつの動画が新海誠作品の縮小された「シミュラークル」のようにも見えてくる。そこで起きているイラストと音楽の掛け合わせは、新海誠作品を鑑賞したときのそれに近い質感の情動を、TikTokユーザーに喚起しているのではないだろうか。
※3 3ヶ月で7.5万部増刷!なぜ4年前に発売された小説がTikTokきっかけで爆発的に売れたのか <スターツ出版さんインタビュー>|TikTok Japan【公式】ティックトック|note https://note.com/tiktok/n/ne56c59b26c94(2023年4月12日最終閲覧)
発売から3年後の小説が2.5万部増刷!奇跡のメガヒットを支えたのは大学4年生のTikTokクリエイターだった!<櫻いいよ先生×スターツ出版さん×けんごさんインタビュー>|TikTok Japan【公式】ティックトック|note https://note.com/tiktok/n/n66f524a6e3cb(2023年4月12日最終閲覧)
※4 TikTokで既刊がヒット スターツ出版、投稿法に秘密|NIKKEI STYLE https://style.nikkei.com/article/DGXZQOUC133ME0T11C21A2000000/(2023年4月12日最終閲覧)
※5 ジャンル名の候補として「ブルーライト文芸」「逆光系」などが挙げられているが、未だ確定には至っていないのが現状である(そう考えると、改めて「セカイ系」のネーミングセンスがいかに秀逸だったかがわかる)。筆者の知る限りではもっとも詳しくこのトレンドについて論じた記事がこちら。 https://note.com/hummm09/n/n125ebeb9f63b こちらのTogetterまとめも参照のこと(筆者が作成し、当時多少話題になった)。 https://togetter.com/li/1719489
「物理本を買う」ことのイベント性
ところで、スマホ=携帯通信端末とスターツ出版という社名の組み合わせで思い出すのが、同社が2000年代にケータイ小説『恋空』をヒットさせたという事実だ。情報社会学者の濱野智史は『アーキテクチャの生態系』(2008)で、『恋空』を「操作ログ的リアリズム」という概念を用いて分析した。それは普通の意味での描写力に乏しくとも、当時の携帯電話(ガラケー)の機能や操作についての描写が執拗に出てくる同作は、その物語自体をガラケーのディスプレイで読むという体験も込みで、独特の「リアリズム」をもって受け手に受容されるのではないかという議論である。『恋空』が投稿されていた「魔法のiらんど」を初めとした小説投稿プラットフォームはテキストしか投稿できず、かつガラケーは画面幅も狭く一度に多くの文字を読むのには適さなかった(この意味でスマートフォン時代以降に存在感を増した「小説家になろう」や「カクヨム」といったプラットフォームとは事情が異なる)。ライターの速水健朗はケータイ小説の表現に共通する特徴として「回想的モノローグ」「固有名詞の欠如」「情景描写の欠如」といったものを挙げ、それを少女漫画や浜崎あゆみの歌詞と関連付けて論じていたが(※6)、こうした極端な情報の切り詰め方は、ガラケーという、現在の基準からすればスペックの貧弱なデバイス上で楽しむという体験に即して進化したものだったとも考えられるだろう。
ケータイ小説はまず小説投稿サイトで読まれ人気を博し、ファンアイテムとして書籍化されるという順序をたどったのだが、現在TikTokをきっかけに売れている紙の本は、「そのプラットフォーム(=TikTok)上では読めない」ことが逆説的にバリューとなっている。当然のことだが、「小説を読む」ということ自体は、動画プラットフォームであるTikTokの中ではできない。物語への期待感を抱かせるのは、何よりビジュアルと音楽の醸し出す「切なさ」への予感なのだ。空気遠近法をデジタル的に再現した「思わず手に取りたくなる」イラストの質感と、紙の本の物理的な「重さ」は、アルゴリズムにしたがってユーザーの好みを先取りして見せる、現代の便利で窮屈なインターネットの外側に通じている(よく言われる「本屋にはインターネットにはない“偶然の出会い”がある」というやつだ)。大きな空に小さな人物という、いささか素朴すぎるロマン主義的構図は、物理媒体に「彼方」への憧れを仮留めするシンボルのようにも思える。わざわざ小銭を握りしめて書店で購入する、という普通すぎるようにも思える行動は、おそらく今では「手を伸ばしても届かない」とすら思える貴重な体験なのだ。
こうした構造を持つゆえに、小説の内容や文章の質をあげつらって稚拙だなどと批判するのはナンセンスだ。ユーザーが個々の作品に最初にTikTokで出会ったときから、広義の意味での「読書」体験は始まっている。そこで一緒に流れていた音楽や表紙のイラストのテイストも込みで、である。
かつて、〈セカイ系〉が文芸評論において話題になったときに並べて語られていたのは、電撃文庫や角川スニーカー文庫といったレーベルから刊行されていたライトノベルだった。『ブギーポップは笑わない』や『涼宮ハルヒの憂鬱』が様式化した「白背景+大きく描かれたキャラクター」という表紙のトレンド(※7)も手伝い、もっぱら「(近代文学的な)人間」ではなく「(漫画・アニメ的な)キャラクター」を描くことで小説を成立させるとはどういうことか、という文脈で〈セカイ系〉は語られていた(東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生』など)。
しかし現在のデジタル環境では背景イラストや音楽など、非言語的な要素の組み合わせが作り出す「ムード」「雰囲気」によって、直接〈セカイ系〉が典型的に醸し出すエモーションを再現することができる。それはこの言葉の提唱者である「ぷるにえ」が語っていた、「テーマでありストーリーでありキャラであり設定であり、そういった諸々から醸し出される独特の「っぽさ」」という定義にもつながるものだろう。TikTokのような編集機能を備えた動画プラットフォームの出現によってようやく、「っぽさ」を「っぽさ」のままに共有するインフラが整ったのだとも言えるかもしれない。
※6 速水健朗『ケータイ小説的。 “再ヤンキー化”時代の少女たち』(原書房、2008年)
※7 ライトノベルおよび隣接ジャンルにおける表紙イラストレーションについて(後編) – メディア芸術カレントコンテンツ https://mediag.bunka.go.jp/article/article-19239/(2023年4月12日最終閲覧)
現代における「余命」の意味
ところで、スターツ出版文庫作品のあらすじを見ていくと気づかされるのが、いわゆる「難病もの」の多さだ。タイトルからして『一瞬を生きる君を、僕は永遠に忘れない』『きみが明日、この世界から消える前に』『記憶喪失の君と、君だけを忘れてしまった僕』『あの夏、夢の終わりで恋をした。』『余命一年の君が僕に残してくれたもの』と、「限られた時間」を意識させるタイトルが並ぶ。
『ほしのこえ』と同時代の小説でいうと、2001年に刊行された『世界の中心で、愛をさけぶ』(片山恭一著、通称セカチュー)というヒット作品があった。白血病に侵された少女をヒロインとする同作は、普通〈セカイ系〉の文脈で語られることは少ないが、『エヴァ』のテレビシリーズ最終話(「世界の中心でアイを叫んだけもの」)と同じくSF作家ハーラン・エリスンの小説『世界の中心で愛を叫んだけもの』をタイトルの元ネタとするなど、シンクロする部分もある。何より恋愛というごく狭い範囲の出来事を「世界」という大きな主語で語りたがるところには、当時のメディア環境……ソーシャルネットワーク以前、インターネットが普及し始めた当時のメディア観が表れているようでもある。
当時と現在のメディア環境の違いは、「病」というモチーフの受け取り方に表れているのではないかと思う。『セカチュー』の時代における「病」は、それこそ〈セカイ系〉における「世界の終わり」に相当するような、理不尽で唐突に日常を断ち切るものとしてあった。現代においては突然の「病」の宣告によってショックを与えるというより、先に「余命」を提示し、その中でどう生きるか、ということに重点を置いた話が多いようだ。
現代における「難病もの」のヒットには、昨今の若者論でよく言われる「タイムパフォーマンス(タイパ)至上主義」も関係しているように思えてならない。SNSをはじめとした多くの情報に取り囲まれ、可処分時間が目減りしていく中、それでも友人や同僚と話を合わせるために映画やアニメの「倍速視聴」を行う若年層の姿が、稲田豊史『映画を早送りで観る人たち』(2022)では切り取られていた。そうした傾向を横に置いたとき対照的に、「余命」を主題とした作品は「終わり」から逆算する形で、残された時間をいかに使うかマネージメントしていかなければならない、という話を描く。「人生に無駄は許されない」という気持ちと、無為に時間を過ごしてしまうメディア環境(TikTokのレコメンドにしたがって動画を観続けてしまうことについて「時間が溶ける」という言い方がされることを思い出そう)に抵抗したいという気持ちに同時に答えてくれるのが、現代における「余命」という主題なのかもしれない。
「ジェネリック新海誠」の問題系
「新海誠っぽい」ビジュアルは「難病もの」というジャンルとの組み合わせによって、TikTok上で「物語っぽい」ものへの訴求力を生んでいる。しかしスターツ出版文庫の小説の表紙に引き継がれている「新海誠っぽさ」というのは、実のところエフェクトが醸し出す「雰囲気」のみなのではないか。物語内容を表す登場人物と背景のバランス、画角、モチーフの画面内における配置といった「構図」は異なっているのだ(さらに言えば、スターツ出版文庫の作品同士も、内容の細かな違いに応じてその「構図」は異なっている)。
『君の名は。』は、「新海誠のベスト盤」を目指して作られたという話がよく知られている。SF・ファンタジー的な道具立てを用い、かつ時間的な二者関係のすれ違いが中心的な主題になっていたという意味で、『君の名は。』は『ほしのこえ』以来の作品だった。『ほしのこえ』と『君の名は。』の間に共通しているのは、時間という主題に対する感性だ。宇宙と地上に引き離された恋人たちの間に存在する、時空間的隔たりのもたらす切なさ。それが一枚のビジュアルに見事に落とし込まれていたのが、彗星によって二分割された少年と少女が時空を超えて振り向きざまに視線を交わし合う、あのメインビジュアルだった。
2022年、『すずめの戸締まり』と同年に公開されたいくつかのアニメ映画のポスターが、「ジェネリック新海誠」として話題になった。たとえば『天気の子』と同じ2019年に公開された東宝系のオリジナルアニメ映画、『HELLO WORLD』『空の青さを知る人よ』も『君の名は。』を意識したと思しきプロモーションをされており(前者は仮想空間を舞台にしたハードSF、後者は歳の離れた姉妹の関係を中心とした地に足のついた人間ドラマという趣なのだが、予告編などでは「青春ラブストーリー」的な側面が強調されていた)、そういう意味では今回に始まった話ではないのだが、『すずめの戸締まり』と同年に公開された諸作品は、青春×時間SFをモチーフとした文庫小説をわざわざ原作として引っ張ってきている。原作小説の刊行年を見ると『僕が愛したすべての君へ/君を愛したひとりの僕へ』(2016年、以下『僕愛/君愛』)、『夏へのトンネル、さよならの出口』(2019年、以下『夏トン』)とそれぞれ『君の名は。』『天気の子』の公開年に刊行されており、必ずしも新海誠の近作に直接的な影響を受けて書かれたわけではない(なお、後者は『ほしのこえ』からピンポイントに影響を受けていることを作者が公言している(※8))。そのことに、ただプロモーションのスタイルを真似るだけではなく、青春×時間SFというモチーフそのものが重要だという製作サイドの気づきを見て取ることができる。
映像研究家の叶精二は上記2作品のアニメ版のポスターを『すずめの戸締まり』のポスターと並置しつつ、共通する特徴として以下の項目を挙げている(※9)。
・細明朝・楷書体のタイトル
・青空+白雲背景(全体的に青い)
・センターに夏制服の高校生全身
・黒ハイソックスのヒロイン
・センター奥にアイテムを配置し視線誘導
物語面での「新海誠っぽさ」=「『君の名は。』っぽさ」と特に関係があるのは、5つ目の「視線誘導」である。『すずめの戸締まり』における視線誘導の先にあるのは、物語で最も重要な「常世」につながる扉だ。連載の第3回で論じたように、同作品における「常世」とは過去の新海作品、もっと言えば『シン・エヴァンゲリオン劇場版』でシンジが終盤にたどり着いたのと同じく、この世のどこにも座標を持たない「すべての時間が溶け合ったような空」が広がる場所である。最終的にそこから背を向けて現実を歩き直し始める結末だったとはいえ、ポスタービジュアルからしてその重要性を強調するものにはなっていたわけだ。
『夏トン』は作中で「ウラシマトンネル」と呼ばれる、先へ進むほど現世との時間がずれていく不思議な洞窟で、過去に失った大切なものを取り戻そうとする(そして、今本当に大切なことに気づく)少年少女の話だ。また『僕愛/君愛』は2作で異なる並行世界を描くという意欲的な企画で(原作からして2冊同時刊行だった)、異なる運命をたどった主人公の少年が、それぞれ異なる少女に捧げた人生を、クライマックスで交差させるという作品である。これを反映するように『夏へのトンネル』の視線誘導はトンネルの先を向いているし(洞窟の入口はポスターで青空を切り取っているのと同じ三角形をしている)、『僕愛』のポスターは本来『君愛』のポスターと対になるもので、それゆえに一枚だけではパースが狂って感じられる(2つの世界の少年は鏡合わせのように背を向けており、ちょうど鏡がある部分=2枚のポスターのつなぎ目こそが真の視線誘導先である)。このように、各ポスターの視線誘導先は、各作品が向き合う時空間的な主題に対応している。
このように作品固有の内容に向き合って、各作品のポスターの構図は作られていることがわかる。エフェクトやモチーフだけを見れば確かに共通している「っぽさ」に気をとられずきちんと絵解きを行えば、それぞれ新海作品とは異なる主題を展開している可能性に思い至ることができるのだ。
※8 独占インタビュー「ラノベの素」 八目迷先生『夏へのトンネル、さよならの出口』 – ラノベニュースオンライン https://ln-news.com/articles/96177(2023年4月12日最終閲覧)
※9 叶精二(@seijikanoh)による2022年9月2日のツイート。 https://twitter.com/seijikanoh/status/1565510616353148928
物理媒体を介した「タイムライン」の交換
面白いのは『僕愛/君愛』の原作小説が、スターツ出版文庫の既刊ヒットの立役者となった動画投稿者「けんご」によって紹介され、やはりリバイバルヒットを飛ばしたという事実だ。
(「けんご」の動画)
最近TikTokで『僕が愛したすべての君へ』『君を愛したひとりの僕へ』がちょっと話題だそうで、久しぶりに重版がかかりました。おかげさまでAmazonのハヤカワ文庫カテゴリランキング1位と2位を奪い合うという大変ありがたいことになっております。来年は映画も公開予定なので、この機会にぜひどうぞ。 pic.twitter.com/2uhXDTnCy4
— 乙野四方字 (@yo_mo_G) March 7, 2021
(『僕愛/君愛』原作者・乙野四方字のツイート)
改めて確認しておくと、『僕が愛したすべての君へ/君を愛したひとりの僕へ』は2016年6月に早川書房から文庫書き下ろしの小説として刊行された。つまり原作自体は『君の名は。』(2016年8月公開)のヒットを受けて執筆されたものではない点を押さえておく必要がある。「けんご」の動画も、「映画化決定!」という枕詞は用いつつも、あくまで小説の紹介となっている。
「けんご」の動画内のテロップを起こしたのが以下だ。
「映画化決定!/読む順番で結末が大きく変わる作品を知ってますか??/この作品は、並行世界の恋人たちをめぐる2冊で1つの物語です!!/本当にすごい作品で/どちらから読んでも物語が繋がっているのですが/読む順番によって結末が大きく変わります!!/さらに面白いのが/結末どころか、セリフの感じ方すら変わってしまい/幸せに感じる人/切ないと感じる人/スパーンと2つに分かれてしまうんです!/なので、友達とそれぞれ違う方から読んでみて/語り合うなんてことも楽しいかもしれません!/2022年に映画化も決定している話題作!!/あなたはどちらから読みますか??」
この紹介では「読む順番によって結末が大きく変わる」と謳われているが実際にはそんなことはなく、(「けんご」本人が同じ動画の中で言っているのだが)最終的な「後味」が変わるかもしれないというだけのことである。つまりある順番の通りに受け取ること=物語だとする「映画」的な考え方に結局「けんご」も縛られているのだが、彼が推奨している「友達とそれぞれ違う方から読んでみて語り合う」という行為は、実は彼自身も与り知らぬところでずっとラディカルなことだ。
上の動画ではそうなっていないのだが(2冊を持ち替えながら撮影するのが工程的に難しいためだろう)、「けんご」は多くの場合、紙の書籍の実物を手に持ってレビューしている。それを踏まえると、「友達とそれぞれ違う方から読んでみて語り合う」というのは、それぞれ別の紙の本を買った友達と、物理的に交換して読むことが推奨されていると思われる。2冊の本に分かれた可能世界が、身近な誰かと物理的に「交換」される……その体験自体が、異なる時空間を生きる他者との、部分的な「人生の交換」になるわけだ。
時空間をテーマにした作品というのは、基本的には受け手-作品という一対一の関係の中で、受け手自身が生きる現在や人生を相対化する方向に機能する。しかし「けんご」の推奨する『僕愛/君愛』という作品の楽しみ方は、SNSの普及で物理媒体の価値が相対的に上がった中で、受け手-作品という図式に文庫本という物理媒体を介して「別の読者」という第三項を付け加えるものだ。「けんご」が動画上で語りかけているユーザーにとって「友達」とは多くの場合、そのTikTokを見ているのと同じスマートフォン(に入ったLINEやTwitter)でつながっている他人だろう。彼のパフォーマンスは、その呼びかけが当のSNS上で実践されているところにラディカルさがある。
SNSというのは、TikTokに限らず、他の誰かの人生(タイムライン)の存在を垣間見せるものである。「自分はその人の人生を生きることはできない」という無力感も同時に感じさせ、スワイプしているうちに「時間が溶ける」というネガティブなニュアンスを持つ比喩表現は、他人の人生の断片だけを見て、自分自身の人生をきちんと生きられていないことに対する自嘲の言葉でもあるだろう。しかし当たり前のこととして、自分とは異なる人生を生きている人との出会いというのは本来それだけで価値ある体験だ。物理媒体としての小説は、作者が形にした時空間と自分のペースで向き合うことを可能にし、さらにその体験を交換することで、他人と出会い直すこともできる。いつもは断片的な生活を垣間見ることで「出会った」ということにしている、SNSでつながった他人とも、だ。
今回のまとめ
本連載ではこれまで、主にアニメ映画に現れる「どこでもない場所」のイメージを〈セカイ系〉的なものとして、「いま、どこにいるのか」「あなたは何者か」を常に求めてくるSNS的な窮屈さから逃れさせてくれるものとして、繰り返し語ってきた。映画は「倍速視聴」で全体の速度を一気に上げたりすることはできても、手元で段階的に速度を変えたりすることはできない。一度始まってしまったら、物語に決着がつくまで観終えないと評価のしようがないのが「映画」の特性である。だからこそ、日々自らを取り巻くものとしてのSNS的な世界に対抗するための鍵となるのは、作品が終わった後も物語の直線的な流れとは独立して強い印象を残す、作品世界に亀裂を入れるようなイメージだと言ってきたわけだ。
対して「動画」はその「軽さ・短さ」によって、当のSNSの中でも流通することができる。表現方法によっては日常世界に亀裂を入れる――〈セカイ〉を垣間見せるようなイメージとしてSNS上に表れることにもなりうるのだ。アルゴリズムにしたがって次々流れてくる動画は、もちろん大半がだらりと続く日常を引き延ばすように働くものだが、その中においても「新海誠作品っぽい」イラストをフィーチャーした小説が求心力を持っているという事実は、筆者の構想もあながち間違いではないのではないかという希望を抱かせる。次回は積極的に動画作品単体で〈セカイ系〉的な――「どこでもなさ」や「何者でもなさ」を表現したような「動画」作品を見ていくことになるだろう。
そして小説というメディアは、映像と違って読者の手元で随時その進行速度を変えることができ、かつそれが紙の本であれば、物理的にスマートフォンから身を引き離す助けともなる。今回論じたような「動画ファースト」の読書体験は、つまるところ動画(映像)と小説(活字)という、異なる「速度」を持ったメディアを行き来する体験だ。時間を題材にしたSF的な設定と相性がよいのは必然的とも言え、これを洗練させていくことができれば、時間を取って長い物語に向き合うことが難しい現代における、ストーリーテリングの雛形ともなりうるように思う。「新海誠作品っぽい」をキーワードにメディアの生態系を見ていくことは、現代において「物語っぽさ」=〈セカイ系〉はいかにして成立するかを問うことと、確かに重なっているのである。
第7回へつづく
【お知らせ】
当連載を収録した書籍『「世界の終わり」を紡ぐあなたへ デジタルテクノロジーと「切なさ」の編集術』が待望の書籍化! 全国書店やAmazonなどの通販サイトで、2024年4月23日より発売いたします。
筆者について
きたで・しおり 1988年生。神奈川県横浜市出身。1990年代半ばをドイツで過ごす。音楽雑誌の編集部員、音楽配信サイトの運営スタッフを経て、2010年代半ばより現名義で評論同人誌への寄稿を始める。2021年、〈セカイ系〉をキーワードにした評論アンソロジー『ferne』を自費出版。同人誌即売会「文学フリマ」を中心に話題となる。2024年4月、初単著となる『「世界の終わり」を紡ぐあなたへ――デジタルテクノロジーと「切なさ」の編集術』を刊行。