「革命思想家」太田竜の「アイヌ革命論」に感化された集団による暴力事件が、1970年代前半北海道で相次いで起こり、テロの連鎖が続く。一方で、太田自身は思想的変転を繰り返し、体調不良から自然食に傾倒、やがて陰謀論に接近していく。
体調不良と「自然観の革命」
アイヌ革命運動の展開、北海道と東京の往復、同志との離反、大量の原稿執筆、影響を受けた者による連続テロ事件、公安からのマーク、そして逮捕・拘留・裁判。
1960年代後半から1970年代の太田竜は、多忙かつ精神をすり減らす生活を送っていた。毎日、大量の砂糖とコーヒーを摂取するようになり、歯が痛んだ。その結果、食べ物を十分にかむことができなくなり、食事を飲み込むようになった。
水虫や痔が治らなくなり、年中、体のどこかが具合悪い状態になった。視力も遠視が進み、気力・体力も衰えていった。1970年代後半になると肝臓・膀胱・尿道が悪くなり、頻繁にトイレに行くようになった。体重も安定せず、40歳を超えると肥満が著しくなり、体の動きが鈍くなった。
そういうわけで、私の感じでは、一九七八年ごろの私の身心の状態は、二十歳台、三十歳台はじめごろと比べて、せいぜい二十分の一ていどの活動しかしていないように思われたのである。
その他、この頃には、私は呼吸が大変息苦しく感じるようになっていた。年中、咳がとまらなくなった。根気が続かなくなり、終始、精神的重圧を感じ、くたびれ易く、完全に半病人の状態であった。」
[太田1980a:Ⅱ-Ⅲ]
太田は、現代文明の問題を指摘し、原始共産制への回帰を訴えながら、「西欧的自然科学」の「中毒」になっていることを反省した。
私は、一九六七年頃から、辺境最深部から出撃する、という立場からマルクス・レーニン主義を批判し、克服する努力をつづけているが、この過程をみずから反省してみるのに、最近まで、マルクス・レーニン主義の自然観を根底的に克服し切っていないことから生ずる多くの欠陥、未熟さ、誤謬があったといわなければならない。
[太田・柴谷1980:Ⅳ]
太田は「自然観の革命」が必要だと考え、理論的研究に打ち込んだ。1978年後半には福岡正信『自然農法』、橋本敬三『からだの設計にミスはない』、野口三千三『野口体操、からだに貞く』などを読み、近代的自然観からの脱却を試みた。[太田・柴谷1980:Ⅰ―Ⅱ]
彼が特に注目したのは、福岡正信の「自然農法」だった。福岡の主張は「農業は自然が育てるのをやるから、耕す必要はない、農薬もやるべきじゃないし、肥料もやるべきじゃない、自然が耕してくれる」というものだった。福岡の農業論は「農業というひとつの産業の問題ではなくて、農業と食と医学と政治、経済全部含まれて」おり、その中核には「老子の無の哲学、無為の哲学」が据えられていた。[太田・柴田1980:172-173]
太田は福岡の農業論を通じて、食の問題に強い関心を持った。そんなときに出会ったのが、マクロビオティックの世界だった。
自然食=マクロビオティックへの傾倒
1978年1月のはじめ、太田は桜沢如一の著作と出会い、マクロビオティックの「玄米正食」を始めた。
一九七九年の一月になって、友人から桜沢如一の『自然医学』を見せられ、それをパラパラとめくってみて、非常な興味をそそられ、さっそく、この年の一月四日、日本CI協会を訪れ、『自然医学』、『東洋医学の哲学』『石塚左玄伝』、『食生活の革命児』、『新しき世界へ』(一九七九年一月号)などを購入し、その日のうちにこれらの文献を通読し、おおいに共感するところあり、一月五日から玄米正食を実行し始めた。
[太田1980a:234-235]
マクロビオティックとは、玄米を主食、野菜や漬物や乾物などを副食とし、独自の陰陽論を元に食材や調理法のバランスを考える食事法である。創始者は桜沢如一(さくらざわゆきかず:1893-1966年)。病弱な幼少期を経験した彼は、石塚左玄の食養によって健康を回復し、食養会に入会。やがて代表的指導者になり、1927年に『日本精神の生理学』を出版した。
桜沢は、「生態環境にふさわしい食事」のあり方を説いた。彼の思想は「身土不二」を中核としており、自らが生活する風土に基づいた食事をとることを原則とした。その土地のものを使った料理は、文化的伝統が精密に実現されており、その食事を続けることが健康の秘訣とされた。また、季節のものをとることが原則とされ、主食と副食の割合を定めると共に、陰陽のバランスをとる(=無双原理)ことにも注意が向けられた。
このような桜沢の思想は、次第にナショナリズムの色彩を濃くしていった。1936年に出版された『自然医学としての神道:祝詞の生理学』では、神道こそが国民の精神と肉体を救済する生活原理であり、世界国家実現の指導原理であるとされた。[桜沢1936a]
桜沢の自然食の理論は、日本優位の世界観へと接続し、皇国主義に基づく八紘一宇の理想へと横滑りしていった。日本の風土に基づく食生活を送ることが、天皇の大御心の実行となり、「神話的な生活原理」を取り戻すことになる。この日々の生活実践が、日本原理に基づく世界統一につながる。そう説かれた。
太田は桜沢の教えを生活に取り入れ、「玄米正食」を始めた。一日一合五勺の玄米を一口百回かみ、水分を少なくする。コーヒー・砂糖はとらない。肉・魚・乳製品は摂取せず、果物も食べない。調味料は自然のものに限定する。おかずは野菜を少々食べるだけ。この食生活を続けていると、「いろいろな都市文明中毒の症状の多くの部分が消え失せた」[太田1980a:61]。
以前は、アイスクリームや甘い菓子などが無性に食べたくなったが、そのような衝動もなくなった。頭痛や神経の苛立ち、息苦しさに悩まされていたが、これも消えた。呼吸はスムーズになり、平静な気分が回復した。体重も元に戻り、目立って根気が続くようになった。気力も回復し、活動量も増えた。「私の心身は奇跡のようによみがえり、二十歳代、三十歳代の若さがもどってきた」ように感じられた。[太田1980a:Ⅲ、61-62]
なによりも、ごましお玄米ごはんを、よくかんで食べると、まるで、全身の血がよろこんで食べものをむかえ入れているかのように、感じる。
この感じは、白砂糖を使った菓子のように舌先に触れたときにおいしいと感ずる味覚と、まるで違う。
[太田1980a:61-62]
太田は、玄米正食を始めたことで健康を取り戻した。彼にとって、この自然食の実践は、原始共産制を探究し、近代文明の超克を目指したこれまでの歩みの延長上として捉えられた。思想活動と日常的実践の接点が、ここに見いだされたのである。
私は一九七九年の初め、桜沢の思想に行き当たり、私の視野には三十余年の間、まったく入ってこなかったけれども、まさに私の探求してきたことを、桜沢はすでに大正時代から世界を舞台として実行していることに気づいたわけである。
[太田1980b:151]
太田にとって、自然食の実践は、西洋文明・近代文明・都市文明を解体する「第一歩」と捉えられた。「家畜の肉をはじめとする邪食」こそが現代人を蝕む根本的病理であり、自然食への回帰こそが、革命の原点となると考えられた。
「原始の食」を取り戻す
太田にとって、自然食への回帰は「原始的な食生活をとりもどす」ことに他ならなかった[太田1980b:151]。自然食の実践は、単に健康によいという理由だけでない。「原始」において実現されていた真の共産制へ回帰するための思想運動である。西洋由来の「邪食」は、自然を征服する思想に基づいており、真の革命実現のためには、何としても乗り越えなければならない。その食生活を続けている限り、権力的搾取の病から抜け出すことができない。
現代は、西洋による世界支配の時代であり、西洋的食の支配の時代である。それでは、「西洋的食」とは一体なにか、一言で言えば、それは自然征服思想にもとづく食である。すなわち、食(すなわち地上の生きもの)を、征服、支配、搾取、統制、管理の対象とみるのである。際限もなく人工を加えた食をより価値あるものとみなすのである。すべての生きものは、唯一の神によって、人間の食べ物となるためにつくられた(旧約聖書、創世記)、という、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教のドグマ(それをマルクス主義は受けついでいる)が、その根底にひかえている。
[太田1980b:152]
西洋食の代表は「コーヒー、ココア、白砂糖、白パン、バター、チーズ、牛乳、コーラ飲料、牛肉、ブタ肉」などである。このような「悪食」から距離をとり、自然食に回帰しなければ、「西洋文明批判を云々し、マルクス主義批判を云々しても、底のないバケツで水をくむようなもので、まったく徒労である」。食の革命がない限り、西洋の「自然征服思想」を乗り越えることはできない。[太田1980b:153]
桜沢が提示する東洋思想は「無為自然の道」であり、「国家形成以前の古代人、原始人の世界観」を提示している[太田1980b:154]。国家形成以前の人間社会に回帰することが、自然への回帰であり、真の共産制の実現につながる。
太田は、国家権力の出現を人類の大きな転機と見なす。歴史のなかで、国家権力が誕生することによって人間の本能は抑圧され、コントロールされてきた。国家制度は否応なく自然を支配し、征服しようとする。人は権力によって統制され、羊や山羊、牛、豚などの草食動物は家畜化される。自然食は廃止され、自然の秩序に反した食事が広がる。すると、人間は生物として退化し続け、自然の秩序を踏み外す。これによって、人間は自滅の道を歩む。
この悪循環を断つことこそが、太田にとっての「真の革命」である。革命とは「命」を「革め」、新しくすることである。では、いま何をなすべきか。
自然食にかえること、原始の食をとりもどし、この正食の実践によって、日々、いのちをあらため、気を養い、本能をよみがえらせ、精神を、絶対の陰なるものに近づけてゆくのである。これが桜沢の言う「世界革命」である。
[太田1980b:156-157]
自然食の実践によって「気を養」い、「太古の人類の宇宙観をよみがえらせることができる」。これによって、天地と一体になり、絶対へと溶け込むことができる。人間は自然へと回帰し、宇宙と合一することができる。[太田1980b:157]
正食を通じて人類社会を宇宙の秩序にかなったものにつくり直していくということである。これをマクロビオティックといい、また、生理学的、生物学的世界革命と名づけるのである。
[太田1980a:254]
太田の思想は、マクロビオティックとの出会いを通じて、以前にも増してアニミズム的なスピリチュアリズムへと傾斜していった。そして、その志向性が「原始」への憧憬を強め、プリミティブな霊性への志向性を加速させていった。
原始人は、人に惚れるのみではなく、一本一本の草木にも、動物にも、すべての生きものに、惚れる。彼は、山、川、丘、雲、空、太陽、月、星に惚れる。すなわち彼は万物、万有を信ずるのである。自己の生命を信ずるのである。
[太田1980b:158]
国家形成以前の原始社会は、自然と一体化した<霊的な共産制>として理想化される。原始共産制へ到達するためには、政治体制を変えるだけでは不十分であり、根本的な解決にならない。まずは現代人の食のあり方を「自然食」に切り替えることから始めなければならない。そのことによって、私たち一人ひとりの身体が革命を起こし、それと連動して魂の霊的革命が起こる。現代人の多くが、自然食の導入を通じて革命主体となれば、自ずと世界は原始共産制に近づいていく。「無為自然」の中に包まれ、真の平等が成し遂げられる。スピリチュアルなユートピア社会が立ち現れてくる。
食を変えること。自然征服思想の実践としての文明人の悪食を廃し、宇宙の秩序にかなった自然食によって、文字どおり、日々、一人一人の人間が自分の腸の中で血をきよめ、細胞をよみがえらせ、革命を実行し、むさぼり(どん欲)を弱め、人間本来の霊的能力をとりもどすのである。すべての生きものと共存し、自分のふるさととしての草木をうやまい、無為自然の大道に立ちかえるのである。
[太田1980b:159]
この「自然観の革命」に基づくスピリチュアリズムこそが桜沢の哲学であり、太田が「一九七一年に探究し始めた原始共産制社会の宇宙観、世界観の今日的よみがえりそのものであ」ると捉えられた[太田1980b:154]。
桜沢如一の皇国主義をどう超えるか
問題は、戦前の桜沢が強調した皇国主義的ナショナリズムである。太田にとって、天皇を核とする国家主義は、容認できるものではない。この矛盾をどう考え、乗り越えるかが、重要な課題となった。
太田は、日本古来の伝統をめぐって、次の三つの立場があると分析する。
第一、日本列島に始原の国家権力が形成される以前の日本原住民の伝統に立ち返り、それを今日的によみがえらせようとする立場。
[太田1980a:237]
第二、天孫族による日本列島侵略と武力征服以前に日本に形成された始原の祭祀権力国家(これを菊地山哉は「天ノ朝」と呼んでいる)の伝統に立ち返り、これをよみがえらせようとする立場。
[太田1980a:237]
第三、古事記、日本書紀を金科玉条とし、ここに書かれていることを額面どおり受け入れ、ここに日本古来の文化の出発点を求め、それを今日によみがえらせようとする立場。
[太田1980a:238]
太田の見るところ、桜沢は「第三の立場から出発しつつも、これを脱皮して第二の立場へ到達し、そしてこれをも脱皮して最後には第一の立場を志向しつつあった」[太田1980a:238]。しかし、桜沢は第一の立場に基づく歴史認識に到達することはなかった。そのため、彼の思想には皇国主義が残存している。
太田にとって、桜沢の限界は「日本原住民史」の研究を欠いていた点にあった。人類の食の乱れは国家権力の誕生に端を発しており、自然食への回帰を果たすためには、国家以前の原始社会に回帰しなければならない。桜沢は「祭祀国家権力の本質」を理解しておらず、その制度を批判し切っていない。ここに大きな問題がある。[太田1980a:238]
太田は、「祭祀権力」を「人間が道具、武器を以て、特定の動植物を飼育、栽培する制度的権力」と定義する。これは農業革命や牧畜革命と言われるが、ここにこそ<いのちの生殖>に介入する国家権力の誕生が見られる。[太田1980a:241]
太田にとっての課題は、桜沢の学説を発展させるために、その思想体系に「日本原住民史」を組み込むことだった。
私は、日本列島の国家形成以前の日本原住民の歴史に学びその文化をよみがえらせるという仕事こそ、桜沢学説の創造的発展のための第一の任務であると考える。
[太田1980a:256]
重要なことは、人類が原始意識に目覚めることで国家権力を相対化し、原始共産制に回帰することである。そのためには日本原住民との歴史的つながりを取り戻し、食の始原へと回帰しなければならない。この地点において、国家は揚棄され、真の無支配が誕生する。
万人がこのように原始的な食生活にもどり、正食を実行すると、そこに出現する人類の社会はそのようなものになるか。それは無政府主義の社会である。
[太田1980a:253]
太田にとって、縄文日本は「無政府主義の社会」である。天皇以前の支配者なき平等社会であり、自然と融合する霊的なコミュニティである。
太田は、その実現のために自然食生活協同組合(イサキ会)の設立を宣言する。彼は、組合の設立目的を次のように説明する。
我々は、日本原住民史に良く学び、日本原住民史の魂の復活のために努力するのであって、日本原住民の十万年、ないし数万年にわたる歴史を継承し、よみがえらせようとするのである。
この点から、我々は、たかだか千五百年来の、外からの侵略・征服者の一族、天皇族の支配を解体し、消滅させることを必須のものと考える。
さらに我々の自然食生活協同組合の実践は、自然食ということから出発しつつも、究極的には、一切の国家権力、国家制度の病毒を消滅させ、天然の理に奉仕し、献身すること、天然自然の人間の生活のよみがえりと創造を目標とするものである。
[太田1980a:264-265]
ここで太田は再び、八切止夫の「日本原住民」論と向かい合うことになる。
再び日本原住民論へ
太田は1981年に『日本原住民史序説』を出版し、翌1982年に『日本原住民と天皇制』を出版した。
彼は、「懸案となっていた日本原住民史の研究と著述を再開する時機が熟した」と考え[太田1981b:10]、再び八切止夫の著作を手に取った。太田の見るところ、日本原住民の探究は八切によって創始されたもので、八切の「不滅の功績」である。これを「継承、深化、発展」させなければならない[太田1981b:20]。
太田はここで、八切の変化に気づく。前述の通り、八切は1972年に出版した『日本原住民史』を境に、日本原住民である縄文人が「天孫族」であり、日本原住民と天皇の存在は連続していると主張した。この議論は、天皇を「外からの侵略者・征服者」と見なす太田にとって、受け入れがたい議論だった。太田にとっての「日本原住民」は、あくまでも国家権力が誕生する以前の人間であり、国家権力の中枢を担ってきた外来の天皇とは断絶した存在だった。
ここでいう「原住民」とは何か。それは、国家権力形成以前の本来の、本源的、根源的な、土着の人間を意味する。
『日本列島原住民』とは何か。それは、国家権力形成以前から日本列島に土着していた人々を意味する。
私にとって『日本列島原住民史』とは何か。それは、約二千二、三百年前、日本に国家権力が登場してから、圧迫され、次第に表舞台から姿を消して行った日本原住民の魂を今日によみがえらせる実践とたたかいを意味する。
[太田1981b:5]
太田は、八切が日本原住民と天皇の連続性を説く点を「八切日本原住民史の弱点」「欠陥」と批判する[太田1981b:77]。太田にとっての日本原住民は、あくまでも天皇以前の縄文人であり、天皇の権力によって抹殺されてきた存在である。天皇権力は「古事記、日本書紀を出発点とする歴史の偽造」を繰り返し、「日本原住民の歴史の完全な抹殺」を行ってきた[太田1981b:55]。しかし、日本原住民は徹底的に迫害されながらも、各地で生き延び続け、時に天皇権力に抵抗してきた。その代表的な武装蜂起が「アテルイの蜂起」であり、「シャクシャインの蜂起」である[太田1981b:83]。
アテルイとは、平安時代初期の蝦夷の族長とされ、朝廷に服従せず、「巣伏の戦い」で朝廷軍と交戦したとされる。太田は、八切が「アテルイの蜂起」を日本原住民の残党による国家権力への反逆と見なしている点を高く評価する。一方、アイヌの存在を日本原住民と分離し、シャクシャインの蜂起を軽視するあり方を、「八切説の欠陥」と指摘する。「八切日本原住民史を継承発展させようとする我々の日本原住民史は、この点で、八切説の限界を超えなければならない」[太田1981b:83]。
八切は「「権力的農業」に組み込まれることを拒否した人々」を「純粋日本列島原住民」と見なした。太田はこの点を「八切日本住民史」の核心部分として重視する。天皇国家は、「民を権力的農耕制度の中に組み入れ」、支配していった。この体制を拒否し、山地などでサンカとして暮らした人々こそが、日本原住民である。この「権力的農耕制度」を拒絶した日本原住民の魂を回復することこそ、原始共産制への回帰につながる。
しかし、サンカのような日本原住民の直系子孫は、もはやわずかしか存在しない。現在の日本人は、そのほとんどが「天皇と征夷大将軍によって奴隷とされた日本原住民の子孫」である。奴隷となることを拒否したアテルイのような人たちは、天皇権力によって殺戮の対象とされ、「血筋は根絶やしにされた」。[太田1981b:8-9]
では、日本原住民との連続性を取り戻すには、何をすればよいか。我々はどうすれば日本原住民へと回帰できるのか。
それは「アイヌ独立」と「沖縄独立」というふたつの革命戦線に加わり、日本帝国主義を打倒するしかない。「アテルイに象徴される日本原住民の抵抗と反逆の伝統を今日によみがえらせる」ためには、「それを可能とする場」がなければならない。「この場は、一つの共同体社会としては今ではアイヌと沖縄の中にのみ、生きている」[太田1981b:9]。アイヌと共に戦い、沖縄を独立させることこそが、日本原住民への回帰となり、原始共産制の再生へと発展する。
そして、「権力的農耕制度」を乗り越えるためには、自然食・自然農法の実践が必要である。
権力的農業そのものを否定しなければならないのである。
それゆえ、我々が八切日本住民史を発展させなければならない、というとき、我々はまず第一に、自然食を実践し、自然農法を実践し、自然医学を実践することから始めるのである。この行、この修行を通じてのみ、我々は、縄文人、及び農耕奴隷となることを拒否して、山や海辺に逃げた天ノ朝の残党たちの歴史を今日によみがえらせることができよう。
[太田1981b:99-100]
自然を支配し、管理する農業から脱却し、自然農業を復興させること。そして、自然食に回帰し、自然医学を取り戻すこと。この日常的実践の積み重ねこそが、静かな革命となり、縄文人=「日本原住民」の歴史を蘇られることになる。太田は、そう確信した。
権藤成卿の社稷
ここで太田が注目するのが、権藤成卿である。権藤は近代日本を代表する農本主義者で、若き日には日韓合邦運動に参画した。『自治民範』をはじめとする著書は昭和維新を志向する国家主義者や青年将校に広く読まれ、血盟団事件や5・15事件を起こした若者たちに、大きな影響を与えた。
権藤の思想において重要なのが「社稷(しゃしょく)」という概念である。これは古代中国で生まれたもので、土地の神の祭壇(=社)と穀物の神の祭壇(=稷)の総称である。古代中国では土地と穀物が神聖視され、村ごとに祭壇を設けて祭ったが、やがて古代王朝が誕生すると、為政者は国家祭祀として社稷を祭り、次第に国家そのものを意味するようになった。権藤は、日本の記紀神話における「アメツチノカミ」に社稷の原型を見出し、日本国家の根本伝統と見なした。
権藤思想の特徴は、社稷が民衆の自治によって成り立ってきたことを強調する点にある。権藤にとって、社稷は国家に先行するものであり、民衆社会の社稷こそが重要だった。国家が消滅しても、社稷は永遠に存続する。風土気象に依拠した自然的秩序形成こそが社稷の原理であり、それは民衆の生活世界の中から生まれてくる。
権藤は、近代日本を「社稷の危機」と見なした。日本の風土や伝統、慣習を無視して導入した近代的諸制度こそ、まさに日本を行き詰まりに導いた元凶だった。彼は明治国家の制度設計によって社稷が解体され、人民の暮らしに危機が到来していると考えた。
太田は、権藤の「社稷自治論」の中に、国家を超える原理を見出す。
この社稷自治というのは、国家が形成される以前の社会の基礎であって、国家が形成された時代においても、人間の共同体の基礎的な構造であって、国家はその社稷に対しては、非本質的な、余分なものに過ぎないという考えです。
つまり、社稷というものは、人間と自然が、ひとつの単位として、祭りを通じて、結びついているという、そういうひとつの単位であり、その社稷という組織の中で、人間の集団は、おのずから、治まっているんだという考えです。だから、社稷があれば、それ以外のものは別に何も必要ない。国家は、余分なものとして、いわば病的なものとして、たまたま、あるとき、くっついているだけで、これは将来なくなるべきものであると。
[太田・柴谷1980:140-141]
太田にとって権藤の思想が魅力的だったのは、「官治」ではなく「自治」を強調する点だった。国家の存在は、本質的なものではない。国家に先行する「社稷」こそが自治の論理であり、民衆世界の自然的秩序である。この「社稷」が土台となって、「世界一民大同の世」が実現する。すべての国家が消滅し、すべての階級がなくなる。
太田は、権藤が土地私有権の廃止を訴えた点を高く評価する。
土地は財産であることをやめなければならない。土地は貨幣によって売り買いされることをやめなければならない。つまり、土地は「所有」の対象であることをやめるのである。土地制度について、明治太政官政府の行なったすべての措置を、無効とするのである。
[太田1980b:91]
権藤は、昭和維新運動に大きな影響を与えたことから「右翼思想家」と見なされてきたが、太田はこれを強く否定する。戦後を代表する政治学者の丸山眞男が権藤を「国家主義者」と見なしたことを「誤謬」と断罪し、そのような見方を「この辺ですっぱりと清算しておかねばならない」と訴える。[太田1980b:99]
しかし、太田は権藤のすべてを受け入れたわけではない。権藤は「神武天皇から崇神天皇までの時代」を「社稷自治を基礎とした祭祀国家」と捉え「君民共治」が成立していたと見なしているが、太田の見るところ、これは誤りである。[太田1981b:101]
権藤は、天皇の存在を外来の侵略者とは見なしていない。天孫族はあくまでも縄文人のなかから生まれてきた支配勢力と見なしている。太田はここに最大の問題があると指摘する。
権藤の神武天皇論に、彼の欠陥、弱点が集中していると云うべきであろう。
「我日本は、古来未だ曾て他の占領を受けたこともなく、征服を受けたこともない、只だ民衆が此国土に安着し天統を奉戴して、自然に治まり、漸次に蕃殖し発育し漸化し、現代を迎へしものである」(『制度の研究』一九三五年十二月号、六頁)、と権藤は云うが、これは間違っている。
神武天皇、天孫族は海外からの侵略者、武力征服者である。
[太田1981b:111]
太田は、権藤が縄文人と天皇の存在を連続的に捉える見方に対して、厳しい批判を行った。太田にとって、「神武天皇の一党」は「大陸からのごろつき流民の切り取り強盗の徒党集団」であり、日本原住民と真っ向から対立する集団だった。[太田1981b:110]
しかし、このあと、太田の見方は一転する。彼は日本原住民と神武天皇の連続性を強調する皇国主義ナショナリストへと変貌し、世界における日本人の優位性を説くようになる。その転換のきっかっけとなったのが、陰謀論への傾斜だった。
【引用文献】
太田竜 1980a 『いのちの革命』、現代書館
___ 1980b 『革命思想の扉を開く』、流動出版
___ 1981a 『何から始めるべきか』、風濤社
___ 1981b 『日本原住民史序説』、新泉社
___ 1982 『日本原住民と天皇制』、新泉社
太田竜・柴谷篤弘 1980 『自然観の革命』、現代書館
桜沢一如 1936 『自然医学としての神道 : 祝詞の生理学』、食養会
* * *
中島岳志『縄文 ナショナリズムとスピリチュアリズム』次回第20回は2023年10月27日(金)17時配信予定です。
筆者について
1975年大阪生まれ。大阪外国語大学卒業。京都大学大学院博士課程修了。なかじま・たけし。北海道大学大学院准教授を経て、現在は東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授。専攻は南アジア地域研究、近代日本政治思想。2005年、『中村屋のボース』で大仏次郎論壇賞、アジア・太平洋賞大賞受賞。著書に『パール判事』、『秋葉原事件』、『「リベラル保守」宣言』、『血盟団事件』、『岩波茂雄』、『アジア主義』、『下中彌三郎』、『親鸞と日本主義』、『保守と立憲』、『超国家主義』、『保守と大東亜戦争』、『自民党』、『思いがけず利他』などがある。