「あの服も、この服も納得がいかない……私がほんとうに着たい服ってなに?」
世間は色々な問題を投げかけてくるけど、どれもこれも肝心なこと、漠然とした問いかけの先にある根本的な問題には触れていないような気もする。今のファッションが退屈でしっくりこない、悩めるすべてのみなさまへ。
こちらは、まだ誰も言葉にしていない違和感を親切に言語化する“ポップ思想家”の水野しずさんによる、トレンドを追うよりも、納得のいくスタイルを発見していくためのファッション論考の連載です。「着るという行為」について、一緒に考えていきましょう。
明日着る服がわからない
明日着る服がわからない。
今着る服だったらなんとかなるけど、明日、となると途端にさっぱりわからなくなる。だって、明日の自分がなんだったら着られるのか、今の自分にはわからないから。今日の自分も明日の自分も同じ「自分」ということになっているのに、同じ服装を同じように装えるかどうかはわからない。だましだまし着たって、決定的にしっくりこないことがある。
そういうとき、私は「ギャンブルだな」と考えて一応のコーデを決めておく。ギャンブルの結果がどうなるのかについては翌日の自分に全て任せる。だから今日の苦心が台無しになるんじゃないか、という予感が苦心の中には含まれている。
外に出るときは、いつも慌ただしくて、大抵バタバタと家を出ることになるから前日の苦心なんて完全に忘れてしまう。それでも帰宅して電気をつけると、朝、置き去りにした服がそこにある。これは一体、誰なんだよ。自分が選んだということははっきり覚えている。それに、どういった理屈でそのような選びになったのかもわかる。思考や感覚をなぞって苦心の過程を追体験することもやろうと思えばできる。そのくせ「これがあなたですか」と言われたら、「それは違う、明らかに違う」と返したくなる横たわり心地がそのコーデには備わっている。なんだか、他人の家のベランダにぶら下がっているお洗濯ものを見た気分になる。
外から見える場所にお洗濯ものを干すのは常識的な行為ということになっているけど、他人の着心地や、あり心地、存在心地のようなものが宿った衣類、脱皮のような痕跡がぶら下がっている様を目撃するときに、常識外のものを見せられている気分になることがある。人は肉体そのものよりも、肉体が設置している空間や地面や光や衣服との関わりの中に最も表れ方の手がかりを残しているからだと思う。古着屋にいくと、ほとんど人がいない空間にも関わらず、人が人が人が空間にひしめき合っているように感じて、すぐ外に出たくなってしまうことがある。外に出るとガラガラなのでもう一度入店をするんだけど、そうするとまた隅田川花火大会の帰宅路くらいの人間的なものの密集を感じて「ウワッ」となる。そういうことを言うと「感受性が強い」ということになる場面もあるけど、そうだろうか。そういう部分もまあ、あるにしろ、ほんとうにそれだけだろうか。
人間は関係の中にしか存在していないという話がある。それはつまり、関係の痕跡、あるいは痕跡の残響との関わりも人間との関わりと言えるということで、そう考えると世の中全体が「人間のスープ」みたいに見えてくる。すこし注意深く意識をしていると、全体が常にざわめき、予感に満ちていることがわかるし、無数の残像や残響が浮かび上がってくる。
一体、なにを言っているんだ、という話になるかもしれないが、私はSNSのタイムラインを見ているときに、誰かが間違って口に含んだ液体洗剤の味の残響を感じたことがある。なんだか言葉で説明をすると、オカルトの領域みたいな話だ。でもオカルティックだなとは思わなかった。単に、ああ、生活だなあと思った。そういうことは結構ある。無視するかしないかの差でしかないと思う。その意味で、この世は人間のスープだと感じる。あらゆる空間はゆるやかに、そして幾重にも繋がっていて、それが心地として関係の残響として、訳のわからない届き方をしてしまうことって、全然ある。いくらでもある。
ただ、こんなものを前提にすると、社会が、つまり個人の所有権を前提とした支配構造は成り立たなくなってしまう。だから日頃は頑張って、個別のものとしてあるべき個々の活動が孤立し、関係を逸脱したどこかの(バーチャルな)地平にあるのだという想像に「すさまじい努力」を支払い続けているのではないか。「関係から孤立した自我」という夢を「すさまじい努力」で見続け信じ続けている。全員が継続してやっているからそこまで努力している感はなくなっている。その結果としての現れが日頃「自分」と信じているものではないかと私は思う。
「だませない」自分
ある連続性の中で変化し続けるものしか継続して存在することはできない。装う、とは関係の痕跡を重ねていくことで、変化の総体の中にひとつの実相を見出していく試みだから、ある瞬間のストリートスナップには、「それ以外の瞬間に着ていた全ての服との関係」が写っている。この関係の蓄積のことを「こなれ感」と言うこともある。散々派手な服を着てファッションを突き詰めた人の服装がその後どんどんシンプルになっていく現象をしばしば見るけど、それが成立するのは今まで着てきた全ての服との関係や装いが連続的なものとして蓄積されて宿っているからだ。蓄積のない人がこのようなスタイルを模倣しても、なんだか表面が妙にツルッとした、シンプルというよりは貧相な、乏しく白けたいいようのない、いわゆる「無課金アバター」的なものになってしまう。装うとは、関係を築く経験や能力を発揮することでしか実現しない。ある瞬間の関係の築き方が「わからなさ」を通過した新鮮なものであったかがそこでは問われる。鮮度とは、常に新しいものを買えば手に入るのではなくて、関係の中にどれほど誠実な「問い直しの態度」があったのか、という部分に現れる。だから、ものすごくオシャレな人はある部分では厳しく、ある部分ではものすごく誠実である、そういう人が多いように感じる。
“わかられない”努力
ひるがえって、姿見の前に立った私は。
そこで着るものを考えながら、どうやって「わからなく」なるかで、そこはかとなく苦心をする。惨憺たる戦いの果てに、大成功に近似した大失敗を手探りで試みる。ばかですか。違います。だって命は、ひとつしかないのだから。一体、それがどれだけ儚い幻想であったとしても、今日の私が昨日の私と連続性を持たない、まったく新しいものとして現れる余地を保つためのすさまじい努力だって、やっぱりかけがえのないものだ。
断崖絶壁が欲しい。
ひとつながりのものとして、連続性をもって記述される意識体の中に、鋭い断裂がわたしは欲しい。それをきっと、多くの人もまた願っているのではないか。だから、ワレワレはいつまでたっても、明日着る服がわからない。本日における当座の衣装はどうにかなっても、明日のことになると手がつけられない。この切実な祈りは一体、夜を超えるのか。そんなことは、明日になってみなければ知ることがない。誰にとっても予測できない。
マーガレットハウエルのワンピースを着た上高地や軽井沢が似合いそうなおじょうさまの指先にアームリングが光っていたときのあの感じ。光っている。切れている。絶たれている。連続性が絶たれ、焼け落ち、絶命した先の。燃え尽きた地図のその先に再び命が宿っている。ひまわり畑に連続殺人犯が逃げ込んで、痛快な日差しを割いて揺れる背の高いひまわりが気だるい空気をまとってざわめいている。全部のが一箇所に溶け合って行く中に、ずっと不安の地平線が光っている。そういう感じ。ただのひまわり畑になってしまったら死ぬという感じ。不穏な光の所在だけが私の意識の連続性の中に超越的な覚悟をもたらしてくれるのだという途方もないよろこび。
それがなければ到底生きていかれないという態度でありつづけることは、贅沢な話だろうか。もしかしたら人類が農耕という技術を獲得しないまま、あの薄暗い洞窟の中で、明日の生存を夢に見ながら荒野をかける日を暮らしているのであれば、今日というこの日のわからなさ、根本的な苦心からは自由でいられたのかもしれない。それは所有から始まったのかもしれない。わたしはわたしである。しかし、お前らがそう思って油断しているほど、そんなにわたしではないからな。
壁よりも、断崖絶壁
断崖絶壁ってなんですか。より踏み込んだ話をするために、まずは「壁」というメタファーについて考えたい。冷戦時代ヨーロッパには鉄のカーテンが引かれた。中国共産党は自国内から諸外国へのインターネットアクセスに制限をかけている。国境。権威主義国家による情報の検閲。カルト的な性質をもった集団によって行われる、より普遍的な社会通念や常識の遮蔽。伝統や権威による価値基準の独占的態度。あるいはイデオロギーによる対立構造を観念の仮住まいとする姿勢。カイシャやガッコーの中で通じる常識が、あるときには法律や国際秩序に照らし合わせてもより強大なものと判断される「社会通念」への適応能力。「不揃いバウム」という商品名のもと、厳密に規格化された「不揃い」。フェアトレードにおける「フェア」の概念。数十年に一度しか公開されない国宝。一子相伝。あなただけに特別なサービスがあります。
そういったもの、生活というすさまじい労力を支払って行われる連続性という幻想の中にメタファーとして隠蔽される、決して平板な生き方では手が届かない価値。価値基準そのもの。その構造。またはその構造自体の中に編まれる特権的なもの。効能が隠蔽され続けることで有効で有り得る価値の幻想を織りなす集団秩序。これらを醸造させるに足る人構造をもたらす遮蔽装置を、私は「壁」と呼ぶことにする。
伝統芸能「壁」歌舞伎
ハッキリ言って、現代の人類に対して「壁」が醸造できる夢、憧れ、価値そのもの、生きる希望、世の中の全容を包摂してなお余るほどの狂おしい輝きは急速に枯渇しつつある。なぜならば、現代のワレワレの生活実感とは個人間のレベルで贈与のエネルギーが蠢く中に暗喩が機能しないくらいに極めて高い、過剰なまでの透明性が担保され、生活動線の中で薄暗い洞窟に通じる機能をすでに喪失してしまっているのだから。
壁自体が失われたのではない。壁は以前として至る所に建立されてあるし、限定的な範囲で人々をある秩序から遮蔽し、集団的な自我を担保する役割を依然として担っている。あるんだけどそれ自体は幻想を醸造する機能を失い半透明になってしまったから、もうぜんぜんおもしろくない。その中に価値のメタファーを浴びに行っても、内輪ノリにしかならなくて超常的な領域で全てを内包しながら憧れる様な、存在のレイヤーをひとまとめにしながら貫く様な、猛烈な感動にはもう今は浸ることができない。だから、自ずから崖をやりにいくしかない。決定的な拒絶によって、内面に崖を志向するしかない。崖というより、それは断崖絶壁だ。
予定調和の中に明日の私を予感できないから服を選ぶのは難しい。明日の私が今日のわたしを全否定してくれたら嬉しい。そう思いながら眠りにつくとき、予想がつかない明日の自分への予兆はもうすでに高なっている。
次回は、2月13日(火)17時更新予定。
筆者について
みずの・しず バイキングでなにも食べなかったことがある。著書『親切人間論』他