セカイ(系)。「主人公の周囲の小さな問題と、〈世界の終わり〉のような大きな問題が短絡的に結びつけられる」作品に対して使われてきた言葉。そんなセカイ(系)の作品はかつて「中間にあるはずの〈社会〉が欠落している」と批判や揶揄の対象となっていました。しかし2020年代の今、スマートフォンゲームから音楽配信代行サービスにいたるまで、カタカナの「セカイ」という表記が再び存在感を増しています。
個人編集の「セカイ系」同人誌『ferne』が話題を呼んだ文筆家・北出栞さんが、アニメや音楽、美術作品などに見られるイメージを横断しながら、「セカイ」という言葉に宿るリアリティの正体を探ります。
連載第1回の反省
「セカイ系」についての連載を始めたはいいものの、さっそく筆が止まってしまった。理由はいくつも思い浮かぶのだけれど、最も根本的なのは問題設定に体重が乗っておらず、「こいつはどの立場から話しているんだ」と、読み返してみて自分自身わからなくなってしまったことだ。
スマートフォンとソーシャルネットワークの普及による「情報的」距離の消失と、新型コロナウイルス感染症の流行下における「物理的」距離の回復。初回で取り上げたふたつの事柄が、筆者自身「セカイ系」と向き合うきっかけになったのは間違いない。しかし、そもそもここで言う「セカイ系」には筆者の独自解釈が多分に含まれていたし(脚注でやや強引に過去の「批評」シーンにおける議論をフォローしたものの、そこでは見過ごされてきた共通項をこそポジティブに捉えていきたいと思っているのが本音だ)、なにより当然のこととして、「情報的」距離≠「物理的」距離である(少し冷静になれば、「ロックダウン下でスマホに触る時間がむしろ増えたのではないか」といった反論は簡単に思いつく)。
「コロナの流行やスマホの普及なら客観的な事実だし、万人と前提を共有できるだろう」とそこから話を始めてしまったのは、自分の着想が単なる思い込みにすぎないのでは……という自信のなさの表れだった。それでも体重の乗った文章を書きたいのならば、せめてその思い込みが生まれるに至った来歴をさらけ出すことから始めなければならなかったと、今にして思う。
というわけで、この原稿が公開されるのは年明けということだし、仕切り直しの意味も込めて自己紹介からやり直してみたい。
ひとつだけ先に言っておくと、筆者はこれまで三十数年間生きてきて、「世界」と表記されるべき大文字のなにかを誰かと共有できた感覚にとぼしい人間だ。だからこそ「セカイ系」をはじめとして「セカイ」という表記を見つけるたびに、どこか安らぎを覚えるのである。
以下に続く文章は、どこかにいるかもしれない、同じような感覚を覚える人たちに向けて「こんな人間もいるよ」という思いを込めて書くものになる。
筆者のルーツについて
筆者は1988年生まれで、「出身地は?」と聞かれたら「横浜市」と答える。生まれてから5歳まで住んでいて、10歳からひとり暮らしをしている現在に至るまでずっと横浜市民だ。海に面していて、石造りの建物が随所に残り、清潔で区画整理された人工都市(みなとみらい地区)が現在進行形でその姿を変え続けている。水平線の向こう、「遠い」場所の存在を常に感じられる、風通しがいい街というのが一貫した筆者の印象だ。
では空白の5年間はどこにいたのかというと、父親の仕事の都合でドイツに住んでいた。この体験が、筆者が「距離」「イメージ」といったテーマや、それらが交わる場としての「メディア」「情報」といったトピックに関心を持つようになった一番の要因だと思う。
筆者が住んでいたのは、旧西ドイツのデュッセルドルフというところ。今にして思えば東西ドイツ統合から間もない時期だったわけだけれど、幼少の自分にはあまりその影響は感じられなかった。今でも鮮明に思い出せるのは、ケルンの大聖堂をはじめとする石造りの建物の威風と、一年を通じて変化のないカラッとして澄んだ空気、そして「ドイツ人」のパブリックイメージそのものと言える、現地の人々の寡黙さである。長期の休暇には車を走らせれば、オランダ・ベルギーといった近隣の国に行けるというのも大きかった。当時はちょうどEUが発足したばかりで、経済や行政の仕組み的にも「ひとつのヨーロッパ」が志向され始めた時期だったわけだけだが、それ以上に肌感覚でヨーロッパ的なるもの――自分なりに言語化すれば、石造りの文化とキリスト教的な信仰に支えられた「永遠的なもの」――の確かな実在を感じていた。
一方で、学校は日本人学校に通うことを選択したので、よくも悪くも上記の影響は言語的なものを介さず、「イメージ」の範疇にとどまっていた。……いや、今でもとどまっていると言ったほうがいいのかもしれない。記憶を言葉にするということは、トラウマ治療にも使われる対象化の作法だが、20年以上経っても上記のイメージは、言葉に変換することができないままだ。「世界」という言葉は、ときに「海外」の代替語として使われるが、そんな紋切型の言葉に自分のドイツでの経験を押し込めたくないという気持ちがあったのである。かと言って故郷と言い切れるほど、現地の生活に溶け込めていたわけでもない。そんな拠り所のない感覚を抱えて暮らすうちに、「セカイ」という表記へのシンパシーも大きくなっていった。会話の中で仕方なく「世界」と口にしなければいけないときにも、心の中では「セカイ」という表記に変換していたような気がする。
加えて、これは後になって気づかされたことだけれど、日本の同時代的なサブカルチャー言説との絶妙な距離の遠さも、この期間に形作られていた。計算するとわかる通り、筆者は「1995年」に日本にいなかったということになる。すなわち、阪神淡路大震災も、地下鉄サリン事件も、当事者でないどころか、マスメディアを通じてさえも体感していない。かと言ってその年に生まれていなかったわけでもなく、現地のニュース番組などを通じて断片的には見聞きしていたはずで、このなんとも言えない「半透明の膜によって隔てられている」感覚は、後にサブカルチャー批評に触れたときに大きく影を落とすことになる。なにを繙いても「1995年」を起点になにかが変わった、とされているからだ。
「1995年」と同じく文化のモードが変わったとされる年に、東日本大震災の起きた「2011年」がある。都市圏と沿岸部という違いはあれど、規模の大きさとメディア史的なインパクトという意味で「1995年」との対比で語られる部分がある。四季にしてもそうだが、自然現象が定期的に起きることに支えられた、周期性・同期性が日本的な時間感覚の核なのだろう。こうした感覚から常に「切れている」という感覚が筆者の中には強くある。天災とは無縁で、一年を通じて大きく気候の変わらないドイツでの5年間は、こうした馴染めなさを形作るのには十分だった。
そして当然、1995年にテレビ放送を開始した『新世紀エヴァンゲリオン』もリアルタイムで観ていない。夕方に放送されていた『エヴァ』をたまたま観て、幼心にショックを受けたという同世代の書き手は多いけれど、その経験が筆者にはない。終盤に向かうにつれて、作品の輪郭が(アニメーション表現の定石というレベルでも、キャラクターの内面描写のレベルでも)次々と壊れていく同作。後に時間差で鑑賞したとき、筆者にはよく言われる「『世紀末』の同時代的な不安の刻印された作品」としてではなく、遠くにある「すでに壊れたもの」として映った。確かに同時代に生きていながらアクセスすることは叶わなかったこの作品の存在自体が、「すでに壊れたもの」をただ眺めることしかできない経験についての寓話のように思えたのだ。
「セカイ系」という言葉に筆者がこだわるのには、『エヴァ』という作品に対するこの距離感もおそらく関係している。『セカイ系とは何か』著者の前島賢が、この言葉を生み出した「ぷるにえ」という人物の発言を引きつつ述べるところによると、「セカイ系」は2000年代初頭当時の作品に見られる精神的な共通項を指す言葉として、先行作品である「エヴァ」をリファレンスに生み出されたものだ(同書の新書版の副題は「ポスト・エヴァの文化史」である)。その起源からして同時代性と不可分な言葉だったわけだが、そんな「セカイ系」を「同時代的なものではない、普遍的なものだ」と言い張るパフォーマンスには、周期性・同期性を核とする(日本的)時間感覚への馴染めなさという筆者の実存が賭けられているというわけである。
「セカイ系」探求の目的
以上を踏まえると、「セカイ」という表記に相対したとき筆者の中に浮かぶ印象は、次のようなものとしてまとめられる。
「永遠的なもの」:周期性・同期性から「切れて」独立している
「すでに壊れたもの」:過去に属するものが文脈を離れて、ただ「壊れている」という(言語化以前の)状態として見て取れる
筆者が横浜、とりわけみなとみらい地区に強いシンパシーを覚えるのは、こうした感覚を受け止めてくれるような場所だと感じるという理由が大きいと思う。赤レンガ倉庫をはじめとする西洋由来の建物は、「みらい」を冠する現在進行形の都市計画プログラムに組み込まれる中で歴史的文脈から切り離され、その「石」の物質性=「永遠」性を前面に押し出している。駅から少し歩けば海が見えて、その先にはかつて暮らしたドイツの土地を思い浮かべることもできる。しかし、そのイメージは記憶の中で断片化され、文脈を失った=「壊れた」ままだ。先述の通り、この街では歴史性よりも都市計画プログラムのほうが優位になっており、たとえ石造りの建物を目にしても、ノスタルジーに浸る暇を与えてくれないのだ。
筆者が「セカイ系」にこだわる理由として、それにこだわること自体が(日本的)周期性・同期性への抗いとなっていることを前節の最後で見た。先ほどはごく個人的な話としてまとめたが、周期性・同期性とどう向き合うべきかというテーマ自体は、現代において万人に共通したものでもあるのではないだろうか。「SDGs」や「人新世」といったキーワードはグローバルにそうした感覚が共有され始めていることを示しているし、卑近な例では昨年の「今年の新語」にも選ばれた「タイパ(=タイムパフォーマンスの略)」という言葉がある。配信チャンネルの多様化に伴い、あまりに数多くなった映像コンテンツを効率よく視聴するひとつの手段として、「倍速視聴」というスタイルが広まっていることも指摘されている1。
こうした傾向を後押ししているのが、「リアルタイム・ウェブ」=ソーシャルメディアの発達であることは間違いないだろう。マスメディアが中心的に担っていた一方向的な情報流通のモデルが崩れ、各々が各々の当事者性に基づいて発信できるソーシャルメディア的=フラットな情報流通のモデルが主流になる中で、唯一共同性を立ち上げられるのが「現在」という時間的な単位なのだ。「倍速視聴」の例でいえば、同級生との話題作りのために、作品の概要を情報としてインプットしなければならない、という強迫観念に駆られるということである。かつては「昨日のテレビ観た?」が翌日の教室の会話の常套句だったが、マスメディアの地位が相対的に低下した現在、本来いつでも好きなタイミングで観ていいはずの配信映像を「明日までに」全部観ておかなければならない、といった事態が生じているのだ。
また、教室のような場所を共有していない場合でも、ソーシャルメディアで誰かと常時つながった状態の中では、話題の作品の感想をなにかしら書き込まなければならないという圧力を感じることになる。本来しなくてもいいはずの作品経験の言語化が、誰にとっても必要以上に求められてしまっているのだ。
「現実」や「現在」のオルタナティブ、脱出口を構想したい。しかしノスタルジーに出口を求めるやり方もまた別の危うさを抱えていることは、民族主義的イデオロギーと結びつくことで大衆を動員した、現代にまで続く戦争プロパガンダの事例にも表れている。
ノスタルジーに依拠せずに「現実」や「現在」から距離をとるためには、あらゆる歴史性から絶対的に「切れた」場所を確保し、言語化の圧力を逃れる方法を編み出す必要がある。「セカイ系」という言葉と、そう呼ばれてきた作品について考えることは、そのためのヒントを提供してくれると思うのだ。
「〈きみ〉と〈ぼく〉の関係性を中心とした小さな問題が、〈世界の終わり〉といった抽象的で大きな問題に直結してしまう作品群」といった定型の説明文には収まりきらない特徴を、「セカイ系」作品は共有している。言語化できない曖昧な共通項があることを示すタグとして、あくまで個人的に生み出された言葉が、批評家によって同時代的な文脈を見出される過程で、先述のような説明文を付け加えられたにすぎないのである。
なお、曖昧なものを「共有する」ことが大切だと言いたいわけではないことは明確にしておきたい。『君の名は。』公開以降、「新海誠っぽい」イラストが表紙に描かれた文庫小説が量産されている事態2や、Instagramの特定のフィルターが「エモい」気分を醸成する記号として流通している事態3、「チル」とか「リラックス」とかいった気分に応じたプレイリストが影響力を持つようになったストリーミングサービス以降の音楽文化といった例を見れば、言葉を使わずに曖昧なものを「共有する」ためのシステムはむしろ洗練され続けていると言えるからだ。
「セカイ系」がソーシャルメディア以降の言葉で、最初から誰かと「共有する」目的で作られたタグだったら、わざわざ筆者が注目する必要はなかっただろう。「セカイ系」が「シェア」機能を持たないスタンドアローンなテキストサイトから生まれた言葉だという事実は、ことのほか重要である。感情のシェアという、作品経験の外部にあるべき「タイムライン」への目配せありきで生み出されたのではなく、あくまで「タイムライン」とは切り離された、孤独な作品経験を記述するために生み出された言葉だったのだ(とはいえ、ウェブに公開した時点で不特定多数の誰かには見られることを想定していたわけで、完全に自分ひとりだけのための言葉ではないということも重要なポイントである)。
「シン・エヴァっぽい」作品としての「ポスト2020の〈セカイ〉系」
最後に具体的な作品を取り上げつつ、今回の記事を終えたい。初回の記事の最後に予告した、『シン・エヴァンゲリオン劇場版』についての話だ。『セカイ系とは何か』において「エヴァっぽい=ポスト・エヴァ」の作品群として整理されていた「セカイ系」は、2020年代において「シン・エヴァっぽい」性質を持つ作品群として整理し直す必要があるのではないかというのが筆者の考えである。
ただし、この「シン・エヴァっぽい」というのは巷で言われているような、主人公の碇シンジが「地域共同体に包摂されることで『社会化』した」とか「過ちを認めることで『大人』になった」とかいった点をピックアップしての意味ではない。先ほど「セカイ」という表記に対して筆者が抱くと書いた印象、「永遠的なもの」と「すでに壊れたもの」について、本作には典型的なモデルが示されているという意味である。
『シン・エヴァ』の解釈にあたって筆者が象徴的なものとして取り出したいのが、先日公開されたBlu-ray/DVDのCMスポットのラストにも映し出される、真っ青な空と海を見つめるシンジという構図だ。このシーンは最終盤に現れる、シンジがほかの主要キャラクターを『エヴァ』という舞台から送り出した直後のシーンである。
『シン・エヴァ』を鑑賞した往年の『エヴァ』ファンはシンジに対して、悟りを開いたようだとか、「こんなのシンジじゃない」だとかいった言葉を投げかけることが多い。それは本作のシンジの口数が少なく、自意識の悩みを語り続ける90年代の旧シリーズとの最も顕著な差異がそこに表れているからだろう。前島賢が『セカイ系とは何か』で整理した「セカイ系=エヴァっぽい」の図式においても、この「主人公によるモノローグの過剰」が主要因として挙げられていた。
本作のシンジからは、なぜ「悟ったような」印象を受けるのだろうか。『シン・エヴァ』序盤のシンジは、目の前で渚カヲルが惨死したショックと、自らが引き起こした大災害(ニアサードインパクト)の惨状を前にしたことでボロボロだ。そこからの回復の過程が、「第3村」のはずれにある旧ネルフ本部跡の廃墟で描かれる。と言っても、シンジはほとんど失語症に陥った状態で、基本的にただそこに座っているだけである。
廃墟とシンジの背中が同じ画角に収まっているとき、シンジは内面世界に閉じこもっているというよりも、自らの身体をただの「モノ」として、周りの廃墟に溶け込ませようと努めている印象を与える。旧シリーズではアヴァンギャルドなコラージュ映像によって示された、病的だが多彩な内面のイメージは見ることができない。
モノローグの過剰によって特徴づけられていた碇シンジというキャラクターはそこではじめて、沈黙の仕方を学んでいるように思える。アニメにおけるモノローグは、その主に視聴者を共振させる効果を持つ(このメカニズムが作中でSF的な現象として表現されたのが、いわゆる「人類補完計画」だったと言える)。旧シリーズを観ていた当時のファンに多かったとされる「シンジくんは僕/私だ」といった同一化は、シンジが沈黙を貫くキャラクターだったらあり得なかっただろう。
アヤナミレイ(仮称)との別れを経て心身を回復したシンジは、主要キャラクターたちを『エヴァ』という舞台から送り出すことに徹する。彼を前にして多弁になるのは、むしろ周りのキャラクターたちである。シンジはモノローグを抑制したまま、媒介者として彼ら彼女らの最後の言葉を視聴者に届ける。それは旧シリーズも含めた「すべての可能世界における僕/私」の未練をメタ的に昇華しようとするもので(綾波レイとの「ネオン・ジェネシス」シークエンスに顕著だ)、長年の商業展開や二次創作、ファン語りによってアイデンティティを引き裂かれたキャラクターたちが、統合的なアインデンティティを獲得しようとする最後のあがきのように見える(なお、そこで示された着地点――たとえば、アスカとケンスケの「カップリング」化など――が、少なくない視聴者の拒否反応を招いたことも忘れてはならない。映画という時間芸術の宿命でもあるのだが、全体尺の中で最後に描かれた「あがき」のあり方が、彼ら彼女らの存在にとっての「正解」のように映ってしまったのだった)。
最後まで役割を全うしたシンジは、誰もいない砂浜に座り、水平線を見つめる。主要キャラクターたちを「送り出す」過程で、これまで主人公として出演してきた『エヴァ』という作品の記憶とも向き合ったはずだ。直接言葉で説明はしないものの、「さようなら、すべてのエヴァンゲリオン」という台詞には万感の思いが込められている。彼が水平線の彼方に見ているのは、きっと壊れた「エヴァンゲリオン」(機体の名前であり、作品名でもある)たちの残骸だろう。現実と虚構の狭間にある「どこでもない」空間、いっさいの時間性から切断された永遠的な場所から、シンジはそれを眺めているのだ。
シンジは沈黙を保ったまま、色を失い、モノクロの線画になりかける。自分以外の人間がいるからこそ、彼の至った沈黙の境地はある種の倫理として意味をなすのであって、独りきりでは物言わぬ「モノ」に還っても違いはないと言わんばかりに。
そこでシンジを迎えに来るのが真希波・マリ・イラストリアスなのは、旧シリーズに存在しないがゆえにアイデンティティの引き裂かれを経験せず、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』での初登場から最後まで、一貫した視聴者からのイメージを保ち続けた唯一の主要キャラクターだからだろう。少なくともあの空間におけるマリは、アイデンティティ崩壊の恐怖からシンジが解き放たれたことを示す、彼自身の鏡像なのだ。
現実と虚構の狭間、「どこでもない」場所に座るシンジの視線の先にある空と海は、あの境地に達した彼が、自分以外のすべてから絶対的に隔てられている、ということを示す記号である。
シンジは最後まで沈黙を保ち、その心象風景も最後まで明かされないが、彼の視線の先にある空と海を見ることは視聴者にもできる。それは旧シリーズのシンジと視聴者が、モノローグを通じてお互いの境界を溶かしたのとは異なる。青い空や海のイメージは、特に宇宙から撮影した地球の写真が出回って以降、この惑星の外枠を規定する「世界」という概念の象徴となったと言える。一方でその青色は、太陽光が大気中の塵や水の粒子に乱反射して網膜の上に作り出すものにすぎない。「同じ空」「同じ海」を見ていると言っても、「同じ青」を見ているわけではない(作品外から「塗られた青」として見ているあなたと作品内のシンジの認識にギャップがあるのは当然として、たとえシンジとあなたが同じ空間にいたとしても、どちらかが色覚異常を抱えている場合を考えてみればいい)。
その青さを思い浮かべつつ口にする「同じ空/海を見ている」という言明は、隣にいる誰かと「同じ世界」を共有することはできないということ、絶対的な断絶が両者の間に横たわっていることを無自覚に表す一文なのだ。
この断絶を直視することが困難なゆえに、シンジを迎えに来たマリを「他者」のメタファーとして解釈し、手を取り合い実写映像の中を駆け出す最終パートの2人の姿を指して「マリ(とカップルになった)エンド」などと言う評価も生じるのではないだろうか。筆者の視点からすると、庵野秀明監督の地元・宇部新川を描いた最終パートは「どこでもない」場所と時間的に連続しておらず、そこから派生しうるひとつの可能性でしかない。そもそも、庵野監督は作品を自分の私小説にすることを嫌っており(NHKのドキュメンタリー「プロフェッショナル 仕事の流儀」には、広報スタッフなども含め徹底的に疑問点を提出させる姿が収められている)、旧シリーズにしても、苦手な「人間ドラマ」を描くために仕方なく自分の分身といえるキャラクター同士に会話させたことで、結果的に自閉的な作風になってしまったと語っているくらいだ。『シン・エヴァ』を経てなお各種グッズやコラボ展開をカラー社が容認していることからも、最終パートが『エヴァ』シリーズ全体の「最終解」ではないことは明らかだ(逆に言うと、『シン・エヴァ』という映画のそれまでの上映時間から切り離して、最終パートだけを単独で「庵野秀明の私小説」として見ることは許されると思う)。
『シン・エヴァ』という作品の核心は最終パートの描写ではなく、シンジの至った「どこでもない」場所にある。そこには自他の絶対的断絶を象徴する、青い空と海が広がっている。記憶や感情を伴うイメージを、100パーセント他者と共有することはできないと受け入れること。その具体的な方法としての「沈黙」が、水平線の向こうにあるはずの(視聴者には不可視の)「エヴァンゲリオン」の残骸を眺めるシンジの姿を通して表現されている。
筆者はこれを〈セカイ〉の原風景として位置づけたいのだ。「イメージの共有不可能性に直面させるイメージ」といういささかパラドックスめいた定義を、そこに与えることも可能だろう。この連載の副題につけた『「距離」の時代のイメージ学』についても、これで説明しやすくなった。そんな沈黙を生じさせるイメージ……あらゆるものから自らを切り離し、「現実」や「現在」から距離をとることを促すイメージ=〈セカイ〉を、さまざまな「セカイ系」作品の中から抽出し、並べ直すということである。
最後に繰り返しになるが、筆者はこのような〈セカイ〉について、「沈黙」の方法を必要とするこの時代に向けてという思いもありつつ、それ以上に今もどこかにいるかもしれない、自分と同じような気持ちを抱えている人たちに向けて考えていきたいと思っている。実存的不安、居場所のなさが他者とのイメージの共有できなさに起因する場合、無理やりに言語化を試みることで自分の一番大切なものを見失ってしまうということは、これまでの人生で何度も実感してきた。イメージを「壊れた」まま――むやみに既存の文脈に結びつけるのではなく――保存しつつ、かつ孤独に陥らないコミュニケーションの方法を模索すること。言葉の不自由さにとどまりつつ、それでも言葉を紡ぎ続けるための方法論を、「セカイ系」探求を通じて共有できたらと考えている。
1稲田豊史『映画を早送りで観る人たち ファスト映画・ネタバレ コンテンツ消費の現在形』(光文社新書、2022年)に詳しい。ちなみに同書籍には「セカイ系」について恣意的な用法が見られるのだが、それに対する筆者の応答はnoteに記載している。https://note.com/sr_ktd/n/nc6bdc174f03c
2筆者が作成したTogetterまとめも参考にしていただきたい。https://togetter.com/li/1719489 また、こうした作品群を「ブルーライト文芸」と名付け、その特徴を考察したテキストも存在する。大阪大学感傷マゾ研究会と早稲田大学負けヒロイン研究会の合同誌『負傷』(私家版、2022年)収録の「ブルーライト文芸座談会」など。少部数発行のため、出版元サークルの公式アカウントが投稿した紹介ツイートを貼っておく。https://twitter.com/kansyomazo/status/1589213149227778049
3ウェブマーケティング会社・トライバルメディアハウスの公式noteに掲載された以下の記事も参考になる。 / 今さら聞けない!「エモい写真」ってなんだろう? 解説&インスタで人気のハッシュタグ10選 https://note.com/spark_tmh/n/n9b98440d176d
第3回へつづく
【お知らせ】
当連載を収録した書籍『「世界の終わり」を紡ぐあなたへ デジタルテクノロジーと「切なさ」の編集術』が待望の書籍化! 全国書店やAmazonなどの通販サイトで、2024年4月23日より発売いたします。
筆者について
きたで・しおり 1988年生。神奈川県横浜市出身。1990年代半ばをドイツで過ごす。音楽雑誌の編集部員、音楽配信サイトの運営スタッフを経て、2010年代半ばより現名義で評論同人誌への寄稿を始める。2021年、〈セカイ系〉をキーワードにした評論アンソロジー『ferne』を自費出版。同人誌即売会「文学フリマ」を中心に話題となる。2024年4月、初単著となる『「世界の終わり」を紡ぐあなたへ――デジタルテクノロジーと「切なさ」の編集術』を刊行。