1970年代、大きな転換点を迎えた日本の新左翼運動と縄文が交錯する。それぞれを繋いだのが八切止夫の「日本原住民論」である。八切の論考は70年代以降の左翼運動において、様々な形で影響を与える。一種の皇国史観である八切の議論と左翼運動の決定的なズレによって生じたものとは。
華青闘告発
日本の新左翼運動は、1970年代に入ると大きな転機を迎えることになった。重要なのは、これまで見過ごされて来たマイノリティへの視点が大きく導入されたことである。
文芸評論家の絓秀実は1970年7月の華青闘告発に注目する。華青闘とは「華僑青年闘争委員会」の略称で、日本在住の華僑を中心に結成された。彼らは毛沢東と中国共産党を支持し、日本政府による出入国管理法制定を阻止する運動を展開していた。
日本の新左翼運動は、彼らと入管闘争を共にしたが、それは「副次的な課題のなかにとどまっていた」[絓2006:164]。問題が一気に表面化したのが、1970年7月7日に開催された「盧溝橋事件三十三周年記念集会」を巡る対立だった。
華青闘は「入管闘争を主題化しえない新左翼諸党派には盧溝橋記念集会は担えない」と訴えたが、中核派の介入によってその要求は退けられた。当事者をないがしろにする行動に対し、華青闘は集会当日に新左翼各派に対して訣別宣言を出した。これが「華青闘告発」である。
ここで問われたのは、日本の新左翼運動の自民族中心主義だった。日本の左派は、自らの無自覚なナショナリズムによって排除してきた問題を、正面から突き付けられた。マイノリティ問題を主要なイシューと捉えず、自らの闘争の補完的勢力として利用してきた側面を、鋭く問われたのである。
日本の新左翼は、自らを世界革命や日本帝国主義打倒の闘いの「主体」であると自任してきた。しかし、それは「在日」をはじめとするマイノリティの問題を、従属的かつ利用主義的にあつかうことでもあったのである。
[絓2006:176]
この華青闘告発をターニングポイントとして、「在日」の闘争に注目が集まると同時に、マイノリティ問題全般への関心が高まった。
被差別部落民、アイヌ民族、琉球人、障害者、女性、性的マイノリティ……。
これまで脇に追いやられて来たマイノリティの闘いが、一気に重要な革命の主体として浮上してきたのである。
六〇年の安保ブント以来、日本の新左翼は、ソ連共産党(あるいは、中国共産党)に代わる、「歴史」の(つまり世界革命)の最前衛であり「主体」であることを自任してきたはずであった。それが日本の新左翼の、かけがえのないアイデンティティーであった。華青闘告発は、そのようなナルシシズムを完膚なきまでに打ち砕いてしまったのである。
それに代わって多種多様なマイノリティーあるいはサバルタンと呼ぶべき、不可視だった存在が「歴史」の「主体」として浮上してきた。日本という狭い領域に限っても、「在日」中国人・台湾人、「在日」韓国・朝鮮人は言うに及ばず、アイヌ、琉球人、被差別部落民、障害者、性的マイノリティー等々、そして何よりも女性が、それである。彼ら/彼女らが、七・七を契機として、一挙に歴史の「主体」として浮上してきたのだ。
[絓2006:193]
このような潮流のなかで注目を集めた歴史論があった。八切止夫の「日本原住民論」である。
八切止夫の原住民史観
八切止夫は、1960年代末から1980年代半ばまで、毎年10冊を超える著作を出版したベストセラー作家で、通説の引っくり返しや異説を得意とする歴史小説家だった。「織田信長を殺したのは明智光秀ではない」「上杉謙信は女だった」などの主張をモチーフに小説・歴史批評を書き、多くの読者を獲得した。サンカについての著作などが再評価されているものの、信憑性の乏しい「偽史」の書き手として、今日では忘れられた存在となっている。
「八切史観」とも言われる彼の歴史論は、権力者が中心の歴史観を懐疑的に扱うことに特徴がある。八切は、アイザリア・バーリンの言葉に寄りながら、次のように論じる。
ある一個の人間が何らかの理由で現実社会と摩擦を生じ打ちひしがれ、叩きのめされたとき、そこから立ち直るための手掛かりとして、真実とははたして有るものなのかと血みどろになって、つかもう、握ろうとするのが、歴史の解明でなくてなんであろう。つまり必死になって固定された過去の具象を追及してゆき、そして自分なりの解明してゆく努力を、挫折感に喘ぎながらもその中に打ちたてるのが、歴史学というものであることは、ようやく二十世紀の終りになって明らかにされてきた。つまりこれまでのように単なる個人個人を引っぱり出して、それらにフットライトを当てるような歴史というのは、昔のジョークフリード物語やそれはギリシャ神話でしかない。決して王侯貴族や英雄のお伽噺などが歴史であってはならないのである。
何故かなれば一般大衆にとってそれらの者らは、加害者であり敵であったのだから、平凡な人間が何も王や英雄の立場からみての、虚偽の歴史の幇間(たいこもち)になることはない。今やそれらを破壊し尽し真実の歴史とは何かと提起することである。
[八切1972:222]
八切にとって重要だったのは、「日本原住民」という概念だった。『日本意外史―われら日本原住民』(1970年)などの著作・論考のなかで、彼は「天孫民族」を渡来族と捉え、日本原住民と対立的な存在と捉える。
日本列島に人類が住みついて久しくたってから、まあ今日から逆に振り返ってみると、西暦五世紀から七世紀にかけ、のち天孫民族といわれる文化の高い民族が舶来して、当時としては文明開化であったかれらの文化をもってして、わが日本へ入りこむなりたちまち支配階級となってしまった。
[八切1970:176]
日本原住民は、縄文人である。この原住民によって構成されてきた社会に、「天孫民族といわれる文化の高い民族が舶来し」、原住民を支配していった。これによって縄文人は駆逐されたのかというと、そうではない。日本原住民は、現代社会においても生き続けている。
日本原住民系の人々も、とうの昔に滅ぼされて、いまではいないようにさえ思えるが、これはとんでもない錯覚で、まあ万邦無比の話だが、いまも全国民の半分以上が、かつての原住系の子孫で堂々と生き長らえている。
[八切1970:176]
八切は「大化の改新」に注目する。八切の見るところ、政変に敗れた蘇我氏が日本原住民で、支配者となっていく藤原氏が渡来人(漢人)である。
権力者は原住民を一方的に排除したわけではない。むしろ、柔軟な懐柔策によって、権力の僕(しもべ)として取り込み、服従させていったという。彼はこれを「御馳走政策」と呼び、「天孫系の奴隷になっていった連中」は百姓として労役を課され、農民になっていったとする[八切1971:33]。
しかし、この「御馳走政策」を拒絶し、権力に抵抗し続けた日本原住民も存在した。その代表が被差別部落民で、蘇我氏の末裔はこれに当たるという。権力に服従しなかった彼らは、社会のなかで差別的な地位を与えられ、苦しい環境に生きることを余儀なくされた。八切は、この被差別部落民の存在に、反権力の主体を見出し、「日本原住民」=「縄文人」の生き残りと捉える。
また、農耕から距離をとり、山の民となった人たちも、権力への不服従を貫いた日本原住民と見なし、心を寄せる。
土を耕さず自然発生的に育っている草や樹木、木の実。そして山繭とよばれる天然の糸や、蜂蜜。そして山に自然にある石や土。そして山野をかける獣や人間それ自体」に関しては、日本列島に以前から住んでいた地主として、ナチュラルなものは反抗原住民系の子孫が一手に押さえていた。
[八切1971:36]
八切の議論は、これまで日本史の中心から疎外されて来た集団を、真の「日本原住民」と見なした。そして、日本原住民こそが権力に抵抗してきた階級闘争の主体であるとすることで、革命指向の全共闘世代を読者としていった。
『日本原住民史』の出版
八切は1972年6月20日、『日本原住民史』を刊行する。これは彼の「原住民史」の集大成であり、代表作の一つにあげられる著作である。
しかし、この『日本原住民史』では、これまでの議論からの大きな変化がみられる。
八切は、これまで日本原住民=縄文人の世界に、渡来民族としての「天孫族」が侵入し、原住民を征服していったとの見方を示していたが、本書でこの見方を自ら退ける。
ともすれば私たちは、
「日本列島にいた原住民たちは縄文土器を用い、穴居生活をして各聚落ごとに分れて住まっていたのだが……そこへ優秀な弥生式土器を使用する文化の高い天孫族が入ってきて追われたのだ」
と、するような既成概念にとらわれがちである。
[八切1972:41]
日本原住民は縄文人で間違いない。それは揺らがない。しかし、彼は本書において、日本原住民が最初に作った王朝を「天の朝」と見なし、これこそ「天孫族」によって構成されたと主張する。つまり、「天孫族」は渡来の侵入者ではなく、日本原住民そのものに他ならないというのである。
では、異民族の侵入による支配はなかったのかというと、そうではない。渡来人によって大和政権は構成され、日本原住民は征服された。では、支配の主体は誰なのか。
ここに登場するのが、朝鮮系の騎馬民族である。彼らが日本列島に攻め入り、日本原住民=縄文日本人を征服し、崇神(すじん)朝を成立させたという。
しかし、崇神朝は日本原住民たる天孫族(てんそんぞく)を排除しなかった。彼らは、原住民との対立を避けるため、皇后は天孫族から選んだとする。これによって両者は共存することになったが、時と共に原住民は退けられ、次第に支配の対象になっていった。
その過程で、支配者たちは被支配者である「日本原住民=天孫族」を神として祭るようになった。
古代の日本では、神に祀り上げるというのは尊敬するのではなく、その祟りを怖れて、「さわらぬ神に祟りなし」とする風習だった。
[八切1972:14]
天孫族は敬意の対象として神に祀り上げられたのではない。その祟りを避けるために、神とされたのである。
ただ、ここで日本原住民=縄文日本人は一掃され、消え去ったわけではない。「天の朝」を構成していた「天孫族」の一部は、支配者に服従して百姓になっていった。
「天孫」と称された部族は、皇孫とよばれる崇神帝に天つ日嗣を譲った時から体制側から追われ、旧体制化し、時流にのれず反抗する族長は、賊首とか賊の張本人として殺掠されてしまい、その部族は農奴化されてしまっただけである。きわめて端的に表現するのであれば、「日本原住民とは、その第一号たるや天孫民族」に他ならないのである。
[八切1972:44]
八切は、伊沢部族や伊治族、伊具族、岩手族、石巻族、石背族、石城族といった「イ」のつく部族に注目する。八切によると、この部族は大和政権に反抗した末に奴隷化されて行った存在だという。
このイのつく部族は完全無欠ぐらいに反抗するものは討伐されてしまい、生存者も九段構えの柵内ではなんともならず、帰順降伏のやむなきに到り、北海道へ勇敢に海を渡って逃亡した一部以外の縄文人種の後裔は、脅かされて稲束を与えられ、所謂イの一番に彼らは奴隷百姓にされ集団コルホーズ化されたのであろう」
[八切1972:11]
一方、徹底抗戦した平地の民=原住民は、「『差別』という政策」に「押し流され」ながらも、被差別部落民として、今日まで生き続けているという[八切1972:259]。つまり。歴史の中で抑圧されて来た百姓や被差別部落民こそが、日本原住民=縄文日本人であり、天孫族につながる存在である。これが、『日本原住民史』の趣旨である。
八切の議論は、一転して皇国主義的な歴史観へと吸い寄せられていった。彼は、自らの研究を「われら日本原住民は天孫民族の末裔、であるという誇りを示す」ことにあると言い[八切1972:52]、「日本国は万世一系の国体をもって、今日まで連綿と続いている」とする[八切1972:261]。ただし、「会社が株式会社で役員の待遇をするごとく、勢力関係で王朝は交替して」おり、政治権力は変遷する[八切1972:261]。
しかし、日本原住民=縄文日本人から続く「天孫族」の血脈は、被抑圧民の中に受け継がれており、今日まで連続している。
日本原住民というのは、そのため淵源に溯れば、天の朝でなければ崇神王朝系、下って仁徳王朝系と、どこかで必ずその祖先はみないずれかの皇統に結びつくことになる。だから一朝ことがあると日本人はそれまでの確執を棄て一つにどこかで必ずその祖先は団結し得るのも、この理由によるからであろう。
[八切1972:69]
八切を研究する青木茂雄は、『日本原住民史』の議論を「皇国史観を徹底することにより皇国史観そのものを乗り超えて行こうとする、まことに意表をついた手法」[青木2002:66]と評しているが、ここには八切の議論の「揺れ」た「ブレ」が存在していることを指摘しなければならない。
八切も、自らの議論の一貫性のなさに自覚的だったようで、以下のような「言い訳」を書きしるしている。
私のこれまで発表のものでは解明にはこれだけの枚数がいる関係で、「天孫族対原住系」のような判りやすい書き方をしてきたものがあるが、真実はこれなので訂正をしておく。
[八切1972:52]
しかし、この八切の「ブレ」が、思わぬ展開を生み出していくことになる。
梅内恒夫「共産主義者同盟赤軍派より日帝打倒を志すすべての人々へ」
『日本原住民史』が出版された同じ年の6月、左翼運動に大きなインパクトを与える論考が登場した。『映画批評』7月号に掲載された梅内恒夫の「共産主義者同盟赤軍派より日帝打倒を志すすべての人々へ」である。この論考は、日本の帝国主義的側面を糾弾する革命運動の理論のひとつとなり、同年の東アジア反日武装戦線結成につながったとされる。
梅内は、赤軍派の「爆弾魔」として知られた人物で、1969年11月に全国指名手配された。赤軍派から押収された鉄パイプ爆弾は、仲間内で「梅内爆弾」と言われ、様々な赤軍派の事件の黒幕と見なされた。1970年3月に起きたよど号ハイジャック事件では、当初、主犯のひとりとみなされたが、のちに誤認だったことが判明する。
梅内が「共産主義者同盟赤軍派より日帝打倒を志すすべての人々へ」を発表した1972年6月は、あさま山荘事件からまだ4か月ほどしかたっていない時期で、赤軍派には事件への総括が求められていた。
梅内は、この論考の冒頭で、「日本赤軍の革命に対する犯罪行為」への「謝罪」を行った。
連合赤軍の血の粛清事件が、革命的に反日帝闘争を闘ってきたあらゆる組織・あらゆる個人の築き上げた成果に大きな損害を与えたこと。特に、武装闘争を開始し、あるいは世界革命戦争の押し進めている左翼に対する沖縄窮民、在日朝鮮人窮民、日帝本国の窮民、そして日帝に支配され収奪されてきたアジア窮民の支持と信頼を著しく失墜させ、階級闘争に大きなマイナスをもたらすであろうこと。これらの連合赤軍の革命に対する犯罪行為について、獄外の唯一の共産同赤軍派指導部たる我々は、次のことを未来の我々の見方に対して謝罪します。
梅内が反省点としてあげるのが、「人民がどこにいるのか、わからなくなったということ」である。本当に寄り添うべき「人民」を見失い、真に困窮する「人民」から遠ざかったために、インテリ左翼は暴走し敗北した。むしろ、敗北することに美学を見出し、「最後の死に花を咲かせること」を追及したことで、「人民」から背を向けられる結果となった。
問題は連合赤軍メンバーが極度に増幅させた「前衛主義」にある。自分たちだけが「唯一革命の利害を代表していると思いたが」り、「党」の建設を優先する。自己を特権化する前衛主義は単なる「思い上がり」であり、この精神から脱却しなければならない。
では、今後の左翼は、どこに目を向けなければならないのか。誰と連帯しなければならなのか。
それは「アジアの窮民」であり、「第三世界の窮民」である。そのなかには、日本国内で差別を受ける窮民も含まれる。日本の中心に居座り、経済的利益を手にする人間は、日本帝国主義のメンバーであり、窮民に対する加害者である。
これまでの赤軍派には、日本「人民」は加害者であるという視点は皆無であった。我々はこれを深く恥じる。我々自身の手で「日本」が犯してきたすべての犯罪を掘り起こすことによってしか、我々はアジアの窮民のところまで降りることができない。たとえ白白しくても、省略することはできない。我々が沖縄の窮民・アイヌの窮民、在日朝鮮人の窮民、未解放部落の窮民、そしてアジアの窮民と結合できなかったら、我々の自己批判と地獄への降り方が足らないのである。我々は、我我の見方と結合するために、一切の思い上がりを捨てる。
「沖縄の窮民・アイヌの窮民、在日朝鮮人の窮民、未解放部落の窮民、そしてアジアの窮民お結合」するためには、何が必要なのか。それは、マルクスを捨てることである。そして「原始共産制への回帰」を進めることである。「後れた者は切り捨て御免という社会進化の理論を当然の前提として肯定するマルクス主義を捨て、原始共産制社会を復権すること」に邁進しなければならない。
そこで梅垣が飛びついたのが八切止夫の「日本原住民論」である。
八切史観からの影響とズレ
梅内は、唐突に八切の議論を持ち出し、次のように述べる。
八切止夫は、部落民の差別の原点を大化改新に逆のぼっておく。彼は、中国と南鮮から高度の文明と武力を背景にして侵略してきた「漢人」藤原氏との闘いに敗れ追放された先住日本人「蘇我の民」の末裔として、未開放部落民をとらえるのである。
梅内が注目するのは、八切が「未解放部落民」を日本の先住民であると見なしている点である。被差別部落民と連帯することこそが、日本帝国主義の加害者との闘いになり、日本原住民として原始共産制へと接近することになる。渡来人による天皇制国家と対決し、真に平等な原初の世界へと回帰することにつながる。
彼は被差別部落民に呼びかける。
部落民のみなさん、あなたがたは征服者の弾圧と同化破棄に屈することなく、自分の宗教・生活様式を固く守り、征服され殺掠され差別され続けてきたことに対する怒りを持ち続けた、誇り高い人々の子孫なのだ。過去に埋れたあなたがたの「日本民族」に支配され続けた歴史を掘り起こせ。同一民族という幻想の軛(くびき)から自らを解放せよ。
梅内にとって八切史観が意味を持ったのは、天皇を中核とする「日本民族」こそ日本への侵略者であり、「土着の宗教・言語・生活様式の一切を破壊し、自分達のものを強制的に押し付けた」存在と見なした点である。これは沖縄においても同様で、「薩摩と日帝」による「皇民化運動」は、「『漢人』の子孫による、「蘇民」の子孫への自らの文化に対する強制的な服従の要求である」。被差別部落民や沖縄人と連帯することによってこそ、日本帝国主義を打倒し、アジアの窮民と繋がることができる。
しかし、この梅内の主張は、八切の『日本原住民史』で示された議論と、重要な部分でズレている。八切が『日本原住民史』で示したのは、天孫族こそが日本原住民であるという認識であり、「日本原住民は天孫民族の末裔、であるという誇りを示す」ことにあった。八切の『日本原住民史』は、皇国史観の一種であり、梅内の認識とは大きく異なる。梅内の議論は、『日本原住民史』以前に示された八切の議論をもとにしており、ここに決定的なズレが見られる。
梅内の論考には、1972年5月10日という脱稿の日付が付されている。これは『日本原住民史』が出版される直前の日付であり、『日本原住民史』はまだ書店の店頭に並んでいない。梅垣の論考が『映画評論』に掲載されたのとほぼ同じタイミングで『日本原住民史』が出版されたため、梅垣の論考はこの本との連関で論じられてきたが、梅垣が出版前の原稿を読んでいた可能性は低く、もし梅垣が『日本原住民史』を読んでいれば、八切を批判的にとらえた可能性が高い。梅垣の論考は、八切が「天孫族」を渡来系と見なし、「日本原住民=縄文日本人」と対立的に見ていた時期の論考に影響を受けていると言えよう。
八切の「日本原住民論」は、70年代以降の左翼運動において、様々な形で影響を与えることになるが、どの時期のどの論考をもとにするかによって、提示されるヴィジョンは大きく異なることになる。
三人の世界革命浪人(ゲバリスタ)へ
梅内は、この論考のなかで「三人の世界革命浪人(ゲバリスタ)」に大きな影響を受け、方針転換を行ったと言及する。
我々は「前衛」の利害ではなく、我々が結合するべき人民の利害を第一に考えてきた。ただし昨年十二月までは、日本「人民」に対する幻想と完全に決別することができなかった。太田竜と巡り会って目が覚めた。我々の味方はアジアの窮民、そしてすべての第三世界の窮民である。我々は窮民独裁の世界社会主義共和国の大義を獲得できたのである。鬼に金棒とはこのことだ。三人の世界革命浪人(ゲバリスタ)がいなければ我々は、現在彼らの到達した地獄に降りるのに、あと一年はかかったろう。
梅内の言う「三人の世界革命浪人(ゲバリスタ)」とは、太田竜、竹中労、平岡正明のことである。彼らは当時「窮民革命」という概念を提示し、新たな運動を展開しようとしていた。
なかでも梅内が強い影響を受けたのが、太田竜である。梅内は「世界革命浪人の一員」として「世界革命戦争」を開始することを宣言するが、「我々はこの大義を最も透徹した革命思想家である太田竜から学んだ」として、太田に最大級の賛辞を贈る。「世界革命浪人(ゲバリスタ)」という概念も太田が提示したもので、太田からの影響が大きいことがうかがえる。
日程本国におけるアジア・アラブの窮民の同志は、在日朝鮮人窮民、在日朝鮮人被爆者、在日中国人窮民、日帝からの独立を志す沖縄・アイヌ・未解放部落の窮民であり、山谷・釜ヶ崎などの最下層の流民であり、帝国主義者によって殺されたり生活を破壊された被爆者、水俣病患者に代表される人々、「日本革命をほろぼす」革命を志向する労働者・農民・学生出身の流民である。
我々は、太田の提起した「世界社会主義共和国」に忠誠を誓う。
太田竜とは、いったい何者なのか。
【引用文献】
青木茂雄 2002 「八切原住民史観と太田竜の「日本原住民」、歴史民俗学研究会編『歴史民俗学』21号、批評社
梅内恒夫 1972 「共産主義者同盟赤軍派より日帝打倒を志すすべての人々へ」『映画批評』1972年7月号
絓秀実 2006 『1968年』ちくま新書
八切止夫 1970 『日本意外史 われら日本原住民』新人物往来社
____ 1971 『八切日本史 わが腹は赤かりき』大和書房
____ 1972 『日本原住民史』朝日新聞社
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中島岳志『縄文 ナショナリズムとスピリチュアリズム』次回第17回は2023年7月28日(金)17時配信予定です。
筆者について
1975年大阪生まれ。大阪外国語大学卒業。京都大学大学院博士課程修了。なかじま・たけし。北海道大学大学院准教授を経て、現在は東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授。専攻は南アジア地域研究、近代日本政治思想。2005年、『中村屋のボース』で大仏次郎論壇賞、アジア・太平洋賞大賞受賞。著書に『パール判事』、『秋葉原事件』、『「リベラル保守」宣言』、『血盟団事件』、『岩波茂雄』、『アジア主義』、『下中彌三郎』、『親鸞と日本主義』、『保守と立憲』、『超国家主義』、『保守と大東亜戦争』、『自民党』、『思いがけず利他』などがある。