大自然に囲まれ、娯楽も何もない“おしまいの地”で育ったこだま。人も自然もまっすぐ生きるこの場所で起きた、悲喜こもごもの出来事をお届けします。今回で最終回。(短期連載:隔週月曜日更新)
私にはどうしても確かめておきたいことがあった。大学時代に働いていた居酒屋の料理人に「あんたは教員なんかより、こっちの仕事が合っている。長年働いてきた俺にはわかる」と言われたのだ。教員を続けられなくなってからは、ますます信憑性が増した。だけど「あっちの道を選んでいたら」なんて言い訳じみている。うまくいっていたかもしれない自分を折に触れ思い浮かべるような私は、別の選択をしても同じように考えていたかもしれない。
その人は気難しい料理人だった。飲み屋街にある老舗の小料理店で、一階は店主が和食を、二階はその気難しい料理人が洋食を提供していた。階段で行き来できるひとつの店だけど、ふたりの料理人の関係が決裂し、その抗争にパートやバイトもしばしば巻き込まれた。大学生のバイトは一階にふたり、二階にひとり。バイトの配置は二階の気難しい料理人が決める。その日の学生三人を見比べて「おまえらは一階へ行け」と忌々しいものを忌々しい地へ追いやるように割り振る。バイトの入れ替わりは激しく、頻繁に新入りがやって来たが、彼のいる二階には容姿の良い女子大生ばかりが指名された。ああ、こんなにわかりやすく選別されるのか。くそみたいな形で選ばれたくなんてないのに、一階へと続く階段を降りながらなぜだか屈辱的な気分を味わうのだった。
一階行きを命じられること数ヶ月。ある日、じじいのお気に入りが早退し、私が急遽二階を手伝う羽目になった。バイト同士のじゃんけんで負けたのだ。二階はパートのおばさんまでとんでもなく意地悪で、指名されるのもまた地獄だった。心の準備もないまま二階へ上がった。宴会用の小鉢を並べる私をじっと眺めていた料理人が「ずいぶん下半身ががっしりしてるな。胸に肉が付けばいいのに」と言ったので、くそのくそ、人間の底辺、と思いながら「部活やってるんで」と短く答えた。意地悪なおばさんと「昨日の子は化粧をしたらAランク」「胸の形も良かった」「あれは男がいる」などとバイトの容姿や私生活を詮索する声が聞こえた。こんな大人にはなりたくないと唇を噛んだ。時給の良いこの店で働きたかっただけなのに。悔しい。見返したい。容姿で価値を決められたくない。内側から怒りが静かに押し寄せてくるのを感じた。
料理人の動きを盗み見ながら、この品にはこの器、盛り付けの量や位置、洗い物をするタイミングなどを頭に叩き込む。どう動けばふたりの邪魔にならず、役割を果たせるのか。嫌な相手に質問しなくて済むようにとにかく仕事を覚える。黙々とやる。無駄なくやる。その日の帰り、料理人に呼び止められ「次から二階に入ってもらう」と不愛想に言われた。意地悪なおばさんは「初めてにしては、いいんじゃない」と意地悪な表情のまま言った。華がなくとも仕事ぶりを見てもらえたことにささやかな手ごたえを感じた。その店に二年ほど勤めた。料理人からは、特に教えなくても見て覚えていたこと、接客が丁寧だったこと、下品な話題に乗らなかった点が評価された。三つ目は意外だった。軽蔑して正解だったのだ。冒頭の一言は店を辞める日に言われた。
いつか確かめたい。私に素質があるのか。ただのお世辞だったのか。そのタイミングを探っていたこの春、山の中の喫茶店で従業員募集の貼り紙を見つけた。年齢も経験も不問。採用期間は半年。終わりが見えているのもいい。これだ。はやる気持ちを抑えて電話を掛けた。
「バイトの募集ってまだ間に合いますか?」「大丈夫ですよ。誰からも連絡きてません」店主の声は明るかった。よかった。もう採用だろ、これは。安堵しかけた私だったが、次の一言で固まる。「失礼ですけど、年齢を聞いてもいいですか?」びっくりした。いきなりそんなことを聞く店主に対してではない。年齢不問を額面通りに受け取り、当然働けるものだと思っていた自分に。大学時代を思い返し、気分だけ十代に戻っていた自分に。当時と同じように身体が動くと思い込んでいた自分に。ネットのやりとりばかりを続け、年齢に無自覚だった自分に。現実を一気に突き付けられた。私は急に弱気になり、わかりやすく声が萎んでいった。「本当は若い人がいいんだよね。歳を取ると変にこだわりがあって、こっちのやり方を受け入れてくれない人が多いんだよね。とりあえず会ってから決めます」そうですね。ごめんなさい。どんどん声が小さくなる。山の喫茶店だからといって誰でも受け入れるわけではないのだ。
店主は電話の印象通り、よく言えばざっくばらん、悪く言えば遠慮がなかった。過去のバイトの文句も言う。がんがん言う。「とんでもねえのがいてさ、アイスコーヒーを頼んだ客にアイスティー出したり、平気でやらかすの。店の裏に呼び出して説教だから」わかります、その感じ伝わってきます。
大自然に囲まれた白い壁のほのぼのとした喫茶店。目の前の畑で採れた野菜を使った季節の料理。手作りのケーキにパン。挽きたてのコーヒーの香り。その厨房を仕切るのは鋭い眼光を放つ元ヤンキーだった。その設定、漫画みたいで面白いけれども、働くには強めの心臓が必要だ。
今ならまだ引き返せる。断れ。頭を下げて店を出ろ。警告音が鳴り続ける。アイスコーヒーとアイスティーを間違うようなミス、私も絶対やるだろ。やる未来しか見えない。辞退の言葉を必死に探す私に、元ヤンキーは「これ試作品なんだけど」と苺のロールケーキを出してくれた。これがとんでもなく美味かった。現役で金属バットを振り回していそうなのに、なぜこんなに繊細なお味を出せるのでしょう。思わず「ケーキ屋さんのよりずっと美味しい」と言ったら、元ヤンキーは「でしょ!」と目を見開いた。
「そういや、もう一件バイトの連絡あったんだよね」「でしたら、私は歳なので、その方を優先させてください」状況が変わった。渡りに船とばかりに声を上げた。「そんなさみしいこと言わないでよ。一緒に働こうよ。ふたりとも採用するよ。それに、あなたより年上の人だったよ」まさかの答えが返ってきた。元ヤンキーも年上だ。三人の中で私が一番の若者だった。
「来週から喫茶店で働くから」と夫に告げた。事後報告はいつものことだ。迷っている段階で相談すると「無理に決まってる、できるわけない」と否定的なことを言われる。頭ごなしに決め付けているわけではなく、私は働きに出ると限度ぎりぎりまでやり過ぎて心身が弱ってしまうのだ。ちょうどよい加減で働くことができない。夫の一言で気持ちが揺らいでしまいそうだから、やると決めたら即ひとりで走り出す。夫は今回も「またか。知らんぞ」と呆れていた。
バイト一日目で夫の言う通りになった。元ヤンキーは「働きながら覚えていけばいいから」と簡単に言ったが、そんな余裕はなかった。どんどん客が来る。席がすべて埋まる。厨房ひとり、ホールひとり。熱の逃げ場のないガス台でフライパンを振る元ヤンキーの目は開店十五分ですでに血走っていた。
「冷蔵庫のサラダを出して」「はいっ」「え、サラダどこ?」「お客様に出しました」「おいっ! こっちに持って来いってこと! 調理前のもん出してどうする!」「はいっ」「回収! 早く!」「はいっ」「わかるだろ!」「はいっ」文字に起こすと恥ずかしさが鮮明によみがえる。なぜあれを完成品だと思ったのだろう。皿に雑然と載せただけの素材を堂々と客席に運んでしまった。ダッシュでテーブルに向かうと女性ふたり組が首を傾げながら写真を撮っていた。「申し訳ありませんでしたっ。まだでしたっ」と謎の言葉とともにサラダを奪還した。「間に合いました。まだ手を付ける前でした」「間に合ってないですよね」口調が冷静になっていた。ぶち切れが頂点に達した人に訪れる静けさだ。私はきょう一日でどれだけのミスをするのだろう。店の裏に連行確定だ。
いきなり走ったせいで息切れしている。マスクでうまく呼吸ができない。注文が立て込んで何が何だかわからない。厨房が暑すぎる。スニーカーの紐を結び直そうと屈んだ瞬間、とつぜん寒気に襲われ目の前が薄暗くなった。胃が激しく収縮し、嘔吐しそう。ふくらはぎがつっている。いっぺんにいろんなことが起き過ぎだ。厨房から「コーヒー運んで」と声がする。ゆっくり、落ち着いて。そう言い聞かせ、ソーサーを持ち上げようとしたけれど指が動かず、床にぶちまけてしまった。謝りたいが呂律が回らない。熱中症だった。「いいよ、淹れ直すから。大丈夫?」元ヤンキーが急に優しくなった。どういう変化だろう。それを考える余裕もない。水を飲み、外の風に当たっているうちに呼吸が楽になった。失敗だらけのまま賄いの時間を迎えた。「さっきはきつく言い過ぎた。初日だからわからなくて当然だよね」と元ヤンキーが謝る。「わからないとはいえ、サラダの件すみませんでした」「そうだよ、あれはありえねえから」元ヤンキーが笑っている。「このパスタ美味しいです」「でしょ!」元ヤンキーの急に怒り出すポイントがわからない。優しくなるタイミングもわからない。勤務を重ねたらそれがわかるのだろうか。客に向かって「まだでした」って何だよと思いながら家路についた。
夫が朝の連続ドラマを観ていた。沖縄から上京した少女がイタリア料理店で修業するも、皿を割ったり接客がおかしかったりして先輩から怒鳴られている。画面と私を交互に見比べ「これ、あんたを見ているようだ。怖くて目を向けられない」と言った。なぜわかるのだろう。私も同じことを考えて苦しくなっていたが「んなわけない。私が失敗するわけない」と強がった。散々やらかしてよく言えたものである。
もうひとりのバイトは数日で店主と派手に喧嘩をして辞めた。その人から「話を聞いてほしい」と連絡があり、パフェを食べに行った。物静かな印象を抱いていたが「私、短気なんだよね。喧嘩売られたら黙ってないから」と番長気質を剥き出しにしたので笑った。その喧嘩をこっそり見学したかった。「つらくなったら無理しないですぐ辞めるんだよ。辞めるのなんて簡単だよ。また代わりを探すだけなんだから。私もうハローワーク行ってるよ」実行した人の言葉は説得力がある。すごいな。私の中に存在しない考えだった。「もう少し続けてから決めますね。動けるようになったら楽しくなるかもしれないし」と答えると「うん、それぞれやりたいようにやろう」とその人は言った。つい先日まで全く知らない人だったのに、あの店で働くことに関しては一番の理解者だ。店の悪口を言い足りないらしく何度もごはんに誘われている。あまりにも連絡が来るのでマルチの人かと警戒していたが、単純に距離感がおかしいだけだった。
店はいつも忙しい。相変わらず何らかの失敗をしている。珍しくお客さんが来ないなと思ったら一時間くらいCLOSEDの札を下げっぱなしだった。もちろん私だ。トイレの鍵を直してほしいと客に頼まれ、ドライバーでいじっていたらドアノブごと破壊してしまった。ぽろりと落ちた。常連さんと談笑する余裕も生まれた。これでうまいものでも食べて帰りな、とおじいさんが五百円くれた。ピノを買って帰った。店主はたまに裏に呼び出す時の顔になるが、初日のような恐怖は感じない。私は思ったよりも図太いのかもしれない。
この前、店主が私のことを「招き猫みたいな人だ」と言った。特に何をするでもないし、どちらかというと足を引っ張っているけれど、開店以来の売り上げを更新しているという。「私、猫すきです」と喜んだら「そういう意味じゃねえし」と困った顔をされた。向いているかは、まだわからない。でも意外とやれている。
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筆者について
エッセイスト、作家。デビュー作『夫のちんぽが入らない』でYahoo!検索大賞を2年連続で受賞(第3回、第4回)、『ここは、おしまいの地』は第34回講談社エッセイ賞を受賞。ほか『いまだ、おしまいの地』、『縁もゆかりもあったのだ』など。