1950年代に入り、日本の民藝運動のなかに一種の「縄文ブーム」が起きた。その運動の中心にいた柳宗悦が自身の最晩年、最後にだどり着いた場所が「縄文」だった。そこではすべてが美しい。人間の計らいを超えた究極の世界。
イノセント・ワールド
日本の民藝運動を牽引してきた柳宗悦は、1949年3月に還暦を迎えた。彼は、これをきっかけに、自分の「美論」に「一つの整理を与えたい」と考え、「新たな発足として前に進みたい」と願った。そこで出版されたのが、代表作『美の法門』である。[柳2011:122-123]
執筆のきっかけは、前年の夏に遡る。柳は富山県南砺(なんと)市にある城端別院に滞在した。ここは真宗大谷派の寺院で、寺号を善德寺という。
彼は、滞在中に『大無量寿経(だいむりょうじゅきょう)』を紐解いた。そのとき、「第四願に至ってはたと想い当るところがあった」。[柳2011:123]
『大無量寿経』には、四十八願(しじゅうはちがん)という誓願が記されている。これは阿弥陀仏が法蔵菩薩であったとき立てたもので、すべての衆生を救済することが誓われている。そのなかの第四願で法蔵菩薩は、「もし浄土において美しいものと醜いものの差があるのであれば、自分は仏にはならない」と誓っている。
この第四願(=「無有好醜の願」)を目にしたときのことを、柳は次のように述べている。
何か釈然として結氷の解けゆく想いが心に流れた。この一願の上にこそ、美の法門が建てられてよい。そう忽然と自覚されるに至ったのである。
[柳2011:123]
柳は「美醜の分別を超えること」を模索した。法蔵菩薩は数々の修業を行い、誓願を立てたうえで阿弥陀仏となった。だとすれば、誓願はすでに叶えられている。第四願も当然、叶えられている。法蔵菩薩が仏になった以上、美しいものと醜いものの区別は本来存在しない。「凡てのものを美しさで迎えるという契り」は果たされている。[柳2011:110]
問題は人間の「自我」である。人間は美醜の「分別」に固執し、「二相の世界」の価値観に基づいて、美しいものを作ろうとする。しかし、美しいものを作ろうとすればするほど、そこに人間の計らいが現れ、本来の美しさから遠ざかっていく。人間が抱く「美醜の作為」こそが、美を退け、醜を生み出していく。[柳2011:111]
柳曰く、人間の能力によって、美しいものを作ることなどできない。美しいものはすべて、仏の顕われである。人間の計らいによって「美」が生まれるのではない。仏の計らいこそが「美」を生み出すのである。
人が美しいものを作るというが、そうではなく仏自らが美しく作っているのである。否、美しくすることが仏たることなのである。美しさとは仏が仏に成ることである。それは仏は仏に向かってなす行いである。それ故仏と仏との仕事なのである。
[柳2011:119]
柳はこの考えを、同年11月、京都相国寺で開催された「第2回日本民藝協会全国大会」で発表した。柳の話が佳境を迎え、高揚しはじめると、聴衆は興奮に包まれた。講演が終わると、客席にいた棟方志功が壇上に駆け寄り、涙を流して抱きついた。
この講演をまとめたものが『美の法門』である。
柳はここで「無垢」という概念にこだわっている。美醜の分別を行うのは、人間の表層的世界の認識に過ぎず、本質を突き詰めれば「無」に至る。「無」の境地においては、すべてが清らかな存在であって(=「畢竟浄〔ひっきょうじょう〕」)、醜いものなどない。「穢濁(えだく)は吾々が造作した罪の跡に過ぎ」ず、人間は「本分に於ては無垢」である。[柳2011:112]
では、いかなる存在が「無垢」を体現しているのか。
柳は、過去の宗教者たちが赤子を讃えてきたことに注目する。赤子には分別がなく、純真な存在である。確固たる自我や計らいは存在しない。その存在には「無心」そのものであり、「自在な境地」が現れている。[柳2011:112]
柳の意識は、美醜の分別が起る以前の世界へと向けられる。そこは「自然法爾(じねんほうに)」が具現化されたイノセント・ワールド。すべてが赤子のように無垢で、世界は透明につながっている。
美しく作ろうとするより、美しさと醜さとが未だない所に在ればよい。その時より深くは美しく作れぬ。本来美醜もない性が備っているのであるから、美しく成ろうとあせるより、本来の性に居れば、何ものも醜さに落ちはしない筈なのである。それ故拙くとも拙いままに皆美しくなるように仕組まれているのである。
[柳2011:109-110]
柳は、本連載第1回で論じたジャン=ジャック・ルソーと同様、自我を超えた「自然」回帰へと向かった。ルソーは、未開人や子ども、古代人にロマン主義的憧憬を抱き、自由意思を超えた一般意思の共有を目指した。「自我」や「計らい」の超克を指向した柳も、ルソーと同じ軌跡をたどり、作為を超えた世界を追い求めていく。
古丹波の「灰被」
1952年5月から1953年2月まで、柳は濱田庄司らとともに欧米各国を歴訪した。帰国するとまもなく、バーナード・リーチや河井寛次郎と共に兵庫県丹波地方を訪問した。
丹波の立杭には、柳が以前から注目していた丹波焼の窯(かま)があった。丹波焼の歴史は古く、その起源は平安時代までさかのぼる。丹波焼の主たる製品は生活雑器で、壺や甕が作られてきた。
丹波焼の特徴は、登り窯にある。概ね三日三晩もの間、最高温度約1300℃で焼き続ける。すると、途中で松の薪の灰が器に降りかかり、焼き物に思いがけない表情を生み出す。これが「灰被」(はいかずき)と呼ばれ、古丹波の特徴とされてきた。柳はこの「灰被」に、人間の作為を超えた「美」を見出した。
柳が強調するのは、窯の「原始性」である。「丹波の窯は、窯として最も原始的な様式のもので、日本中に現存する窯のうちで、朝鮮直伝の形式をそのまま今も継承している唯一の例であろう」(柳1989:98)。
この原始的な窯では、仕上がりをコントロールすることができない。
内部の勾配が一定しないから、炎も平均には渡らぬ。それに平の段ではなく、勾配のある坂のままである。呑気なことには、薪木を品物の上から投げこむので、よく灰がかかる。窯はさめ易くて、破損はとても多い。窯詰は甚だやりにくく、大ものは一々煙の出る上部(即ち「蜂の巣」と呼ぶ個所)をこわして入れる。何としても原始的で、こんな窯が今も余り改良されずに残っているのは、全くもって珍しいことだといえよう。
[柳1989:98-99]
しかし、この原始性こそが「美」を生み出す。人間の計らいを超え、火や灰が「無類に美しいものを生み出す」[柳1989:99]。人間の作為性が届かないところで、美が現出する。原始性こそが、人間の賢(さか)しらな意図を滅却させ、自然の世界へと導く。
柳は、丹波焼に用いられる土にも注目する。この土は、伸びの悪い不自由な土である。焼き物に向いているとは言い難い。
丹波の土は、駄土で、謂わば下の下の材料だと評されても仕方あるまい。上質の土の条件と言われる耐火度、ねばり、白さ等、そんな好条件は一つとして持ち合わせていない。謂わば作りにくい、うす暗い、見すぼらしい土なのである。
[柳1989:101]
しかし、この「駄土」こそが、無上の美を生み出す。土は人間の言いなりにならない。人間の作為性を拒み、自然の理を自在に発揮する。人間は土の性質に沿いつつ、形を整える。それしかできない。
そもそも土に上下などない。その基準はあくまでも人間の側の見方であり、身勝手なものである。土にはそれぞれ特色があり、性質がある。人間はそれを統御するのではなく、その性質に沿う方法を会得すべきである。どんな土でも、受け取り方がある。その受け取り方がうまくいったとき、そこに美が現れる。私が自然を用いるのではなく、私が自然に用いられる。「丹波焼の渋さは、全く貧しさの美しさだといってよい」[柳1989:101]。
浄土門では、自らの存在の「愚かさ」や「悪」を見つめることが重視された。人間はどうしようもない存在であり、自力には決定的な限界がある。人間はどれほど力を尽くしても、無謬(むびゅう)の存在になることはできない。誤謬にまみれ、無力をさらすしかできない存在である。
しかし、そんな煩悩具足の凡夫にこそ、阿弥陀仏は救いの手を差し伸べる。絶対的な無力に立ち尽くす人間にこそ、他力はやって来る。
<無能力な人間>と<見すぼらしい土>――――。
その両者が、計らいを超えたところで結びついたとき、そこに他力が舞い降り、美が現れる。美醜の二元を超えた真の美しさが花開く。
下品下生の人間の救いを契う他力門のあることを、忘れてはなるまい。丹波焼は余すところなくその他力美を示しているのである。
[柳1989:101]
柳は古丹波の「灰被(はいかつぎ)」に注目し、熱心に蒐集した。釉薬は人間がかけるのではない。薪木の灰が勝手に溶けて釉になる。窯の中で、自然釉が展開される。「灰被」は人間が作るのではなく、自然が作る。
「自然が作る」というのは、人工では達しもされぬ深みを生み出している品で、特に火の恵み、土の恵みの深々としたものを指すのである。つまり人間が定める美しさとか醜さとかの分別では、及びもつかぬ未知の深みなのである。人間が「吾が力」を誇るものが、力なきまでにされてしまうその自然の力を指すのである。
[柳1989:106]
柳の見るところ、丹波の名もなき工人たちは、自然に沿う態度を身につけている。彼らは、人間の能力を過信せず、自然に身をゆだねる。自らのアイディアや志向性などを誇示することなく、火や土に任せる。そのような態度は、近代の合理主義的観点では「愚か」で主体性の欠如と言われるだろう。しかし、その無心にこそ他力が宿るのである。
想ふに古丹波の驚くべき性質は、他力の恩澤に浴することが極めて大きい点にあらう。彼等が偉かつたといふより、彼等より偉い無量の他力に、彼等の身を任せたといふことにあらう。
[柳1982:350]
「灰被」は、「素直な工人達への自然からの返礼」である。それは人間の技ではない。「灰の技」である。これこそ「他力の妙技」であり、仏の大悲(だいひ)の表れである。
人間自らの技でないものを、芸術と云へるであらうかと反問する人もあらう。だが本当の芸術は、人間が自然に即する時に生まれてこよう。自らが作るといふより、何ものかがおのづから作るその時にあらう。芸術は自然への制御ではなくして、自然への讃仰にあるのである。人間の意識を誇る茶器と、自然への順応に生れる民器と、何れに多く美しさが確約されるであらうか。
[柳1982:351]
柳は、古丹波の美に潜む宗教的真理を見出した。1956年9月に『丹波の古陶』を出版するとともに、翌月からは日本民藝館の開設20周年記念として「古丹波展」を開催した。
しかし、このあと、柳を病魔が襲う。同年12月17日、彼は不整脈を伴う心不全で緊急入院し、左半身が麻痺した。年が明けて1957年2月に転院し、3月に退院したものの、5月に再入院。7月に退院できたものの、その後、1年以上もの間、療養生活が続いた。
岩偶
1957年秋、考古学者の芹沢長介は、岩手県岩泉町袰綿(ほろわた)出土の岩偶(がんぐう)と出会った。岩偶とは、縄文晩期に制作された石製の人形で、土偶と同じ用途だったと推測されている。この岩偶は東北地方のコレクターの収集品で、芹沢長介は東京に戻った折に、父・芹沢銈介に写真を見せた。
すると銈介は「これほど立派な岩偶があるのならぜひ譲ってもらいたい」と言い、「民藝館に展示して多くの人と喜びをともにすべきだ」と言った。
銈介は、この岩偶を借り受け、療養中の柳のもとを訪れた。すると、ひと目見た柳は「民藝館の全ての蔵品をこの一個に換えても良い」と激賞したという。この言葉を受け、銈介は岩偶をコレクターから買い受け、柳に譲渡した。すると、喜んだ柳は丸山太郎に収納箱(卵殻漆器)を作らせ、大切に納めた。
柳は、1960年3月の『民藝』87号で、「縄文土器」を特集した。ここで柳は岩偶について、次のように述べている。
先史時代の石彫として、その美しさを大いに発揮しているものと云へよう。乳房が大きいから女躰であろう。何か信仰的所産であるに違いない。紋様は宛ら巴紋の如くだが、必然の発生だろう。こういうものを見ると、縄文時代の作から字義通り「古くて新しい」感を受ける。而も彫像の技術は後代の方が遥かに進んでいるのに、表現の美に於ては殆んど進歩を見せないのは、どういうわけか。或人は粗野と評するかもしれぬが、粗野のままで美しいのだから、道は無限なのだということが分る。
[柳1960a:23]
この号には、芹沢長介の論考「縄文土器」と後藤守一の論考「縄文文化人の生活」が掲載されている。表紙は芹沢家所有の縄文土器の壺(縄文後期)で、掲載された図版写真を含めて、芹沢長介が撮影を担当した。
編集兼発行人の田中豊太郎が書いたと思われる「編集後記」では、縄文土器を「恐ろしいまでに生命力が充実している」と評し、「造型上の最も本質的なものを端的に示している」と絶賛している。
「美の浄土」としての縄文
柳は、「縄文土器」特集と同じ1960年3月、『美の浄土』を刊行した。これは病床で書いたもので、最晩年の論考にあたる。彼は民藝協会の第14回全国協議会であいさつをしたいと願っていたが、「病気のため、未だ発音に不自由を覚え」るため、代わりに小冊子にまとめた。[柳2011:212]
死を前に柳が訴えたのは、すべてが美しさに受け取られた世界のあり方である。そこでは「誰が何をどう作っても、悉くが美しくなって了う」。人々は「美醜の二元」から解放され、「美の浄土」が現れる。[柳2011:182]
ここで柳が注目したのが「原始民の作品」である。古代人の制作したものには、賢しらな作為性が存在しない。人々の間に美しいものを作ろうという計らいは存在せず、自在心に即してモノが誕生する。そこに現れているのは、人為から解放された「自在美」である。
では、なぜ古代人が、真の美を生み出すことができたのか。柳曰く、それは彼ら・彼女らが「本来人」として生活していたからである。
若し人間が、本来人として活き得ますなら、作るものに醜さは許されなくなってくると思われます。未開人としてさげすまれる原始人がどうしてもあんなに自由な見事なものを作り得たかの理由は、文化人ほどに人為的にそこなわれた暮しをしていない為だと考えてよいのであります。即ち原始民は、文化人よりずっと「天然人」として、即ち「本来人」として生活しておりますので、自由なものを安々と生めるのであります。
[柳2011:1992-193]
柳は古代人と同じ「本来人」のあり方を、子供に求める。子供は「本来人」として生きている間は、無邪気に美しい絵を描くことができる。しかし、教育を受け「人為人」になると、途端に美しい自由な絵が描けなくなる。
柳にとって、知的文化は人々から自由を奪うものである。知には決定的な限界があり、知に執着すればするほど、自由から見放されていく。しかし、私たちは原始生活に戻ることはできない。そんななか、私たちにできることは、「知の孕む愚かさ」について「賢く」あろうとすることである。理性や知性に対する過信を諫(いさ)め、私たちは真の自由を獲得し、美の受け取り手になることができる。美は人間が作り出すものではなく、仏が作り出すものである。私たちは彼方からやってくるものを受けとめる器にならなければならない。自我を超えた器になることで、私たちは「本来美」に包まれる。
この年の6月、芹沢長介は初の著作『石器時代の日本』(築地書館)を出版するが、そのパンフレットに、柳は「縄文美」と題した推薦文を寄せている。
どういふ命数なのか、暗い地下は日本の歴史のために大した宝庫の役割を果して、数々の文化財を固く守護してくれた。近年多くの品々がそこから開発されて、有為の学者達によって検討され、様々な真理が地上の明るみに出された。その学者達の中で最もよい仕事を見せてくれた一人が、この本の著者芹沢長介君なのである。その結果吾々に報らされたことは、先づ日本の歴史が如何に遼遠な古いものであるかといふことと、次には上代のその遺品が縄文土器等に示されてゐる限りは、実に日本独自の文化相を示してゐることであった。併し私共から見ると、更にその土器の美しさが、又世界的に素晴らしい内容を持つのである。何千年といふ後世の現代人である吾々は、なるほど素地に釉薬に絵附に、多大な進展を見せてはゐるが、美しさの点からはしかく大きな進歩とは考へられない。それ程上代の作には造形の面から見て素晴らしいものがあるのである。之を考へると、美の世界で吾々はどれだけ発達の跡を示してゐるのか、誠に覚束なく思へるほど、それ等縄文美は堂々たる立派さを見せてくれる。
[柳1960b]
縄文時代には釉薬などない。絵付けもない。土器は素焼きで、技術的には未発達なものである。しかし、そこには世界的な「縄文美」があらわれている。
超越的な力に自らを解き放ち、自在心に促されてモノが生み出される。すべての人は無垢な「本来人」であり、「自然人」である。そこではすべてが美しい。この計らいを超えた究極の世界こそが、民藝の極北である。これが最後の柳宗悦の到達した場所だった。
柳は絶対他力に包まれた原始の世界を幻視しながら、1961年5月3日に亡くなった。72年の生涯だった。
【参考文献】
佐々風太 2022 「無地の器の利他-柳宗悦の蒐集と思想を手がかりに」『コモンズ』第1号、東京工業大学未来の人類研究センター
柳宗悦 1960a 「岩偶」『民藝』87号(1960年3月)、日本民芸協会
___ 1960b 「縄文美」(芹沢長介著『石器時代の日本』パンフレット)、築地書館
___ 1982 『柳宗悦全集 第12巻』筑摩書房
___ 1989 『蒐集物語』中公文庫
___ 2011 『柳宗悦コレクション3 こころ』ちくま学芸文庫
筆者について
1975年大阪生まれ。大阪外国語大学卒業。京都大学大学院博士課程修了。なかじま・たけし。北海道大学大学院准教授を経て、現在は東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授。専攻は南アジア地域研究、近代日本政治思想。2005年、『中村屋のボース』で大仏次郎論壇賞、アジア・太平洋賞大賞受賞。著書に『パール判事』、『秋葉原事件』、『「リベラル保守」宣言』、『血盟団事件』、『岩波茂雄』、『アジア主義』、『下中彌三郎』、『親鸞と日本主義』、『保守と立憲』、『超国家主義』、『保守と大東亜戦争』、『自民党』、『思いがけず利他』などがある。