2022年9月、衝撃的な事件とともに様々な場面で議題に上がるようになってきた”日本の宗教”。「日本人はほとんど無宗教でしょ?」「自分は無宗教だから関係ない」と思っていませんか? 日本の宗教、そして日本人について知っていくと、あながちそうでもないことが分かってくるのです。
2023年6月に発売された『図解でわかる 14歳から知る日本人の宗教と文化』(山折哲雄・監修、インフォビジュアル研究所・著)には、「信じる」より「感じる」、そんなゆるやかな宗教の時代へ向かう、日本の宗教とこれからについてまとめられた記事が満載。ここでは、その一部を抜粋し、紹介していきます。(全6回)
今回は、本書の監修をした宗教学者・山折哲雄による「まえがき」の全文を公開します。
日本人の意識の三層構造
かなり以前のこと、日本列島を眼下におさめる珍しい映像を見たことがあります。軽飛行機が、2,000メートル上空から地上の景観を撮影したものでした。
南の島から北上し、視界は大海原から始まり、やがて山岳と森林の連なりに変わる。それからは森また森、山また山。日本列島は、海洋国家と森林国家としか映らず、そこには稲作農耕社会の痕跡すら見えません。
やがて私はそれが高さのトリックのせいだと気づきました。飛行機が高度を下げて1,000メートル近くに降下すれば、眼下に広大な田園地帯が展開し、さらに500メートルまでくれば、近代都市と工業地帯が見えてきます。
私は、「ああっ」と思い当たったのです。
日本列島はまさに三層構造でできている。深層に山林地帯、中層に耕作地帯、上層に都市空間。とすれば当然のこと、この列島に住みついた人間たちの意識もまた三層構造でできあがっているにちがいない。
いってみれば、深層の縄文的世界観、中層の弥生的人間観、そして上層を覆う近代的合理的価値観の三層構造です。
私はもうひとつ大事なことに気づきます。それは、私たち日本人は、これら三層の価値観を持ち続け、他を排除したり否定したりすることがなかったこと。新しいものが古いものを壊していく進化の道をとらなかったことです。日本人は災害や戦争のような危機が迫るとき、いつも、この三層に積み重なった価値観を、それぞれ柔じ軟に選択してことに当たってきた。つまり、近代的な人間関係と前近代のそれと調和させようと努めてきたのです。
この行動様式は、一面で無原則、無責任の行動をみちびき出しましたが、その一方で、世界の歴史の中で比較すると、平穏な社会づくりに成功したとも言えるのではないでしょうか。
日本人の「こころ」と「心」の世界私は以前から、日本人の宗教文化を理解する上で、この意識の三層構造と同時に、この構造を支えるわれわれの「こころ」の世界に着目することが極めて重要であると考えてきました。それには漢語の「心」と和語の「こころ」の二つの領域があり、それはともにこの国の、千年もの言葉の大河だったといえます。
和語の「こころ」の岸辺には、われわれの日常的な喜怒哀楽の全ての姿が変幻きわまりない枝葉を茂らせて、花を咲かせてきました。『万葉集』に登場する恋の喜びや死の悲傷、『源氏物語』に現れる「もののあはれ」や「もののけ」、『平家物語』や『謡曲』を彩る死者や亡者たちの叫びなど、「こころ」の世界の動きや働きは無常と非情そのものです。
それにたいして「心」の岸辺にはどんな光景が眺められるでしょう。そこには漢字表記にみられるように、お隣の中国文明の風景が匂い立ち、日本と中国のあいだを行き来した知識人たちの活動が映し出されています。とくに仏教の導入にこころをくだいた留学僧たちの役割が大きかった。
比叡山に天台宗を開いた最澄(さいちょう)は「道心」という言葉をもち帰り、高野山に密教の道場を作った空海(くうかい)は「十住心(じゅうじゅうしん)」という新しい言葉をもたらしました。中世の法然(ほうねん)や親鸞(しんらん)は「信心」という言葉を大衆のあいだに広めています。道元(どうげん)は中国での修行によって「身心脱落(しんしんだつらく)」の新語を作り、日蓮もまた「観心」という瞑想作法を説きました。
この「心」探求の伝統が、やがて14世紀の世阿弥の時代になって美的に洗練され、「初心」という言葉の宇宙を生みます。世界でも稀な美意識をあらわす「こころ」の誕生でした。
「こころ」が「宗教」を包み込む
話がここまでくれば、先の「こころ」と「心」の問題が、日本人の宗教、道徳、芸術はもちろん、生活習慣や暮らしの作法にまで浸透している原理であることがみえてくるはずです。それこそが日本文化の核心をつらぬくキーワードであることがわかるでしょう。
そうであるならば、日本人の「宗教文化」を理解しようとするとき、「宗教」という言葉だけでは、日本文化の全体に浸透している「こころ」と「心」の全てを包み込むことはとてもできないと言わざるをえません。知られているように明治になって、西欧の近代語が次から次へと導入され、新しい日本語が作られるようになりました。「宗教」もそんな言葉のひとつです。
ところが明治の改元から150年もたてば、それらの新造語の移入にともなうほころびが目立つようになりました。日本人の一般的な感覚になじむ言葉もあれば、そうでない言葉もある。その近代的な日本語の中で、新造語の移植に成功した例として、「個人」「自由」「独立」などを挙げることができます。
けれどもそれにたいして失敗がもっとも際立っているのが「宗教」だったのではないでしょうか。
このコトバは英語の「レリジョン」を翻訳してつくられた新造語でした。この新造語「宗教」は、翻訳者たちによって、西洋語の「レリジョン=宗教」の領域はおろか、倫理や芸術、スポーツの分野までを含む広い領域の意識や観念を含むコトバとして誕生しました。つまり「こころ」と「心」の全領域にかかわる新造語だったのです。
ところが、日本人の「こころ」と「心」の世界は、西洋語のハート、スピリット、マインド、ソウルなどのどれにも還元することなどとてもできない、そのすべてを合わせても再現できない、つまりしっくりこないことが、しだいにわかってきたのです。
今回、本シリーズのこの第1巻に「日本の宗教」を含めるに際して、他の巻とは区別して、特に「日本人の宗教と文化」と表記して「日本人の宗教」という表記を避けたのそのことを意識したからです。
異質が同質化する日本
今日、世界は「コロナ禍か」と「ウクライナ・ロシア戦争」で受難のときを迎え、あらたな軍事侵攻や民族紛争が次々と発生しています。これからの時代の主役が、ますます民族と宗教という様相を呈してきているのです。抑圧された民族の怨念は鎮まりそうもなく、宗教の熱狂がそれと結びつく。そんな危機の時代に、「日本の宗教と文化」がどんな役割をはたしうるのでしょうか。それを明らかにするためにも、本書において、わが国の宗教事情をありのままに観察、分析してみようと考えたのです。
その結果わかったことは、わが国においては、異質にみえるものを次から次へと、ほとんど同質化してしまう傾向があるということでした。制度的には教団とか宗派とかいっていながら、またそれぞれの教義や教理を主張しながら、いつの間にか甲乙つけがたい同質の観念や心情を育てあげてきた、という事実です。
神道や仏教が近代的な新興宗教とともに、たがいに同質化の歴史を辿り、結局は「祖先崇拝」という同じ枠組みの中で共存してきたことなどは、その好例です。
ところが今日の国際社会では、この同質化による共存の関係を樹立することが、きわめて困難な仕事になっていることを知ります。
「信じる宗教」から「感じる宗教」へ
2005年12月中旬、パリのユネスコ本部でバチカン主催の「対話シンポジウム」がおこなわれ、それに私は参加する機会を得ました。テーマは「対話の可能性—パウロ6世と文化の多様性」というものでした。参加者は哲学、神学、宗教学、歴史学の専門家、それにバチカンから派遣されユネスコ大使と枢機卿(すうききょう)が加わり、筆者を含め8名で構成されていました。
そのころバチカンでは教皇が替わり、妊娠中絶や女性司祭任命などの問題をめぐって厳しい政策論争がまき起こっていたのですが、「宗教間対話」の必要性については、バチカンの態度は一貫していました。
ところがそのシンポジウムの流れをみていると、討議は一神教と多神教の議論に終始し、なかなか共存の岸辺にたどりつかない、肝心の「宗教間対話」が「宗教的共存」のテーマへと進んでいかないのです。
しかし、少し落着いて世界の諸宗教を俯瞰すれば、カトリックにおけるマリア信仰、仏教の観音信仰、ヒンドゥー教や道教における女神(母神)信仰など、そこには多神教的な原理や信仰が多様な信仰の中で息づいているのです。これらの信仰はそれぞれの居場所に安住し棲み分けていて、そもそも対話を試みたり、論争したりする必要がない。むしろそれ自体が「宗教的共存」のほんとうの姿をあらわしているのです。これこそが民衆宗教における「普遍性」であるといっていいでしょう。難解な議論を重ねる必要もなく、その答えはすでに、それぞれの前にあったのです。
このようなことを内省するとき、私たちの「宗教」とは、宇宙のかなたに絶対の一神教を想定する「信ずる宗教」であるよりは、むしろ天地万物の中にカミやホトケや先祖たちの霊の気配を感じて身を慎む、「感ずる宗教」だったことがわかるのです。ここに、私たちの次の世代にとっての宗教の、原型があるのではないでしょうか。
山折哲雄(やまおり・てつお)
1931 年生まれ。宗教学者。東北大学文学部印度哲学科卒業。同大学文学部助教授、国立歴史民俗博物館教授、国際日本文化研究センター教授、同センター所長などを歴任。著者は『死者と先祖の話』『勿体なや祖師は紙衣の九十年‐ 大谷句仏』『「ひとり」の哲学』『空海の企て』『天皇の宮中祭祀と日本人』『天皇と日本人』など多数。
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本書では、成り立ちから現代まで、日本の宗教とそれに関する情報を幅広くご紹介。縄文から続く日本人の宗教と文化をたどる1冊となっています。『図解でわかる 14歳から知る日本人の宗教と文化』(山折哲雄・監修、インフォビジュアル研究所・著)は全国書店・通販サイトや電子書店で発売中です。図版が多くわかりやすいと好評の書籍シリーズ「図解でわかる~」は、ごみ問題、水資源、気候変動などのSDGsに関する課題や、地政学、資本主義、民主主義、心のケア、LGBTQ+などなど、今だから学び直しておきたいワンテーマを1冊に凝縮して3~4カ月毎に刊行されています。
筆者について
2007年より代表の大嶋賢洋を中心に、編集、デザイン、CGスタッフにより活動を開始。ビジュアル・コンテンツを制作・出版。主な作品に『イラスト図解 イスラム世界』(日東書院本社)、『超図解 一番わかりやすいキリスト教入門』(東洋経済新報社)、「図解でわかる」シリーズ『ホモ・サピエンスの秘密』『14歳からのお金の説明書』『14歳から知っておきたいAI』『14歳からの天皇と皇室入門』『14歳から知る人類の脳科学、その現在と未来』『14歳からの地政学』『14歳からのプラスチックと環境問題』『14歳からの水と環境問題』『14歳から知る気候変動』『14歳から考える資本主義』『14歳から知る食べ物と人類の1万年史』『14歳からの脱炭素社会』『14歳からの宇宙活動計画』(いずれも太田出版)などがある。