おしまい定期便
第15回

あの光のひとつ

暮らし
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大自然に囲まれ、娯楽も何もない“おしまいの地”に生まれ育ったこだまさん。そんな”おしまいの地”から不定期に届くこだまさんから読者のみなさんへのお便りを掲載します。

今回は、こだまさんとこだまさんのお母さんによる母子東京旅行記が届きました。

 色鮮やかだった庭の花が散り、ハウスのミニトマトがとうとう最後の一個になった。初霜が降りた十月のその日、私は実家に泊まっていた。窓の外には麻布や藁でぐるぐる巻きにされた庭木が藁人形のようにいくつも直立している。樹木を風雪から守る「冬囲い」だ。

 宗教的儀式の始まりみたいに見える。

 「もう庭や畑に出る楽しみがなくなっちゃった」と残念がる母にとっては別れの儀式である。夜明けとともに庭へ出て草むしりや剪定をするのが生き甲斐になっている。父が死んでからは「もうご飯の準備のために家に戻らなくていい」と気が済むまで外で過ごしていた。だから冬になると魂が抜ける。暖房の効いた居間でテレビを見ているうちに一日が終わるらしい。溜息をつく母に「どこか遠くに出掛けようか」と誘ってみた。

「お母さんどこに行ってみたい?」

「やっぱ東京かな。行ったことないんだよ」

 意外である。てっきり温泉地かと思った。

「東京のどこに行きたい?」

「詳しくわかんないけどね、とりあえず高い所にのぼって大都会を見下ろしてみたいね。お父さん高所恐怖症だからタワー系全部だめだったんだよ。ついでに大都会を歩いてみたいね」

 初めて東京に行く人の回答だ。東京を「大都会」と呼ぶのもよい。スカイツリーと東京タワーは確定である。もうこの勢いで行ってしまおう。平日でもお構いなしに動けるふたりだ。飛行機が最安値の日を選んで予約した。

 父の退職後は夫婦で格安ツアーに参加して各地に出掛けていたが、関東は乗り換えのために羽田や成田に降りた程度だという。私も以前はそんな感じだった。東京で何をすればいいかわからなかったし、ひとりで散策できる自信もなかった。

 この十年くらいの間で合同誌を作って文学フリマで売ったり、商業誌に載せてもらったり、書籍化されたりした。東京のことはよくわからないけど、行く理由ができた。はじめはイベント会場や出版社に辿り着くだけでいっぱいいっぱいで、どの路線に乗り、どこを歩いているのかもわからなかった。ひとりで店を探して立ち寄る心の余裕もない。だけど数年後には行ってみたい喫茶店や書店が増え、一度の旅ではとてもまわり切れなくなった。この変化に自分が一番驚いている。

 家族には作家活動を伏せているので、頻繁に遠出していることも話していない。この十年で少しだけ詳しくなった東京を母に案内する。これまでそんな機会がなかったので、わくわくした。

 そう思っていたのだが、うまくいかない。行きの飛行機でまず失敗した。見晴らしのよい窓側席を取ったのが間違いだった。母のトイレ事情を失念していたのだ。もともと頻尿気味ではあったが、この数年で腎臓の病が進み、食事も制限している。ほぼ満席で三列シートの通路側は埋まっていた。「一、二時間なら我慢できる」と本人は言っていたが、私たちの座席の通路側に座ったのは大柄な男性で、トイレへの道を塞がれたような気持ちになり、その不安から尿意が爆速したらしい。飛行中、二度トイレに立った。空港で買ったエビアンのミニボトルのキャップを外し「飲んでるわけじゃないよ、ちょっと口を濡らすだけ」と、いらぬ言い訳までさせてしまった。頻尿のことは重々承知してます、配慮して飲んでます、というポーズなのだろう。

 東京は冷え込み、小雨が降っていた。電車、トイレ、電車、トイレ。母の頻尿が本領発揮する。ひとりで何も考えずに歩くのとは大違いだ。トイレの位置を確認しつつ、できるだけ階段のないコースを探す。体力差のある人を案内するって意外と大変なのだと思い知る。私はいつも編集の方々の後ろを付いて行くだけだったのでわからなかった。

 寒さに身を縮めながら外国人観光客で賑わう浅草周辺を歩いた。高い所といえばスカイツリーである。私もまだ行ったことがない。母の一言がなければこの先も訪れることはなかっただろう。ガラス張りの回廊から薄曇りの東京の街を眺める。雲間から光が射し込み、新宿のビル群の辺りを照らしていた。母は富士山が見えないことを残念がっていたが、やはり高い所はテンションが上がるらしく、子どもみたいに「皇居だっ」「東京ドームだっ」と指を差してはしゃいでいた。

 はじめに高いほうへ連れて行ったせいか、東京タワーでの反応は薄かった。血管みたいに入り組んだ赤い鉄骨を真下から見上げて「ここはのぼらなくてもいいかな」などと言う。せっかく来たのだから上まで連れて行く。乗り気ではない母を撮影スポットの前に立たせてカメラを構えると、いきなり両手を上に広げて「パワー!!!」と叫んだ。やめてほしい。感情の起伏どうなってるんだ。なかやまきんに君を知らないのに掛け声が被ることあるんだ。修学旅行で訪れていた小学生の集団が恐ろしいものを見る目でこちらを見た。

  旅のメインは日光東照宮や華厳の滝を巡るバスツアーだった。ここでもやはりトイレ問題が発生した。乗車する前に最寄り駅で「トイレ行っておいたら?」と声を掛けたが「大丈夫、出ない」と言い張った。少し歩いてバス停に着いた途端「やっぱりトイレ行きたい」と言う。小学生かよ、と思ったが、これも不安による尿意かもしれない。怒ってはいけない。駅まで戻る時間はない。目の前のコンビニはトイレ使用不可。少し離れたファストフード店で飲み物を買い、トイレを使わせてもらった。走ってバス停に戻ると、ちょうど乗車の時間だった。

 ああ、間に合ってよかった。そう安堵していたら「若い人ってほんと時間を守らないもんね。三分とか五分前には着席するものでしょ」と、バスに駆け込むカップルを見て母が小声でねちねち言い始めた。いや、人のこと言えないだろ。棚に上げすぎである。吹き出しそうになった。「集合時間ぴったりだから別にいいじゃん。何十分も遅れたわけじゃないんだから」とスマホの時刻を見せて教えるも不満げだった。他人に憤ることで自分の失敗を帳消しにしようとしているのだろうか。

 こういう母の仕草をこの先もたくさん目にするような気がする。この旅に限らず、もっと老いて、介護が必要になったときにも。なんでそうなるんだよ、とむかつくものの、私は昔ほど母の言動に傷付いたり、苛立ったりしなくなった。母の狭量さや幼さを目にすると、かえって冷静になる。冷静でいようと思える。母の意見がすべてだった時代は確実に終わった。考えが違っていてもかまわないし、言いなりにもならない。

 母のよいところは怒りと喜びの転換の早さだ。私はそのバスツアーに真っ先に申し込んだので一番前の座席だった。正面の大きな窓から景色がよく見える。走り出すなり「なんて素敵な眺めなの。都会の中を走ってる。大きな川が見える。大きなマンションがたくさん並んでる。スカイツリーだっ」と母のおしゃべりが止まらない。見たもの全部言う。大きな声で言う。本当に小学生の引率みたいだ。エビアンのミニボトルにホテルで買った麦茶を詰め、やはり「口を濡らすだけ」と言って飲む。だから、それなんなんだよ。言わなくていいよ。のちに添乗員からサービスエリアでトイレ休憩があると聞き、堂々と飲むようになった。

 ツアーに組み込まれていた昼食の御膳を「なんだか地味だね」と毒づき、境内を歩きながら「ほんとは神社とか興味ないんだよね」と罰当たりなことを言う。上野動物園も候補に入れていたが「動物は好きじゃない」と断られた。もう絶対どこにも連れて行かねえ。母と出掛けるたび、そんな気持ちがふっと湧く瞬間があるが、一言多いだけで本人は楽しんでいるようなので最終的には「まあいいか」となる。悔しいことに、どこへ行ったかよりも、母がこぼす不平不満や怪しい言動のほうが記憶に残る。

 バスが東京へ戻る頃にはすっかり日が沈んでいた。目の前に夜景が広がる。このままずっと乗っていたいと思う。平井大橋という標識が見えた。昨年、祖父母の営んでいた銭湯の跡地を探しに訪れた地域だ。母にも教えたくなった。

「じいちゃんたちが昔住んでたのってこの辺だよ」

「そうだっけ。葛飾区じゃなかった?」

「葛飾区はじいちゃんが生まれたところ。ばあちゃんと住んでいたのは江戸川区の平井という街だよ」

「あんたやけに詳しいね」

「お母さんが持ってた戸籍謄本に書いてあったよ」

 父の死後、相続の手続きのために取り寄せた祖父の出生地や結婚後の住所を私はこっそり写真に収めていた。書類を作成した母以上にその土地を調べていたことも、実際に歩いて祖父母の家の跡地を見つけたことも家族に話していない。夜の静かな住宅街の一角で嬉しさのあまり飛び跳ねたことも。内緒になんかしないで、家族みんなであの地を訪れてもよかったんだよな。十字路の角にある三角形のちょっと変わった土地だった。見せてあげたかった。

 あの日の夜、新小岩と平井を結ぶ総武本線の橋梁から見た光の帯が忘れられない。首都高の照明とその下を走る車のライトがきらきら輝いていた。いま私もその光のひとつになっているのだ。そう思うと跡地を見つけた興奮がよみがえり、胸が熱くなった。

 母は私が祖父母の住まいに詳しかったことを不審に思っているだろうか。そっと隣を窺うと、夜景を映す窓に身を寄せ、ぽかんと口を開けながら眠っていた。

筆者について

こだま

エッセイスト、作家。デビュー作『夫のちんぽが入らない』でYahoo!検索大賞を2年連続で受賞(第3回、第4回)、『ここは、おしまいの地』は第34回講談社エッセイ賞を受賞。ほか『いまだ、おしまいの地』、『縁もゆかりもあったのだ』など。

  1. 第1回 : 父の終活
  2. 第2回 : 直角くん
  3. 第3回 : あの時の私です
  4. 第4回 : ぺら草
  5. 第5回 : ほのぼの喫茶店
  6. 第6回 : 私の特殊能力
  7. 第7回 : せいちゃんの下北沢
  8. 第8回 : 父と母の文明開化
  9. 第8回 : 新規ファンの斉藤
  10. 第9回 : 新規ファン斉藤、再び
  11. 第10回 : 祖父母の銭湯を求めて
  12. 第11回 : 春の副産物
  13. 第12回 : 一周忌という名の祭典
  14. 第13回 : ルンバ地獄とケチおじさん
  15. 第14回 : 私はどこにでも行ける
  16. 第15回 : あの光のひとつ
連載「おしまい定期便」
  1. 第1回 : 父の終活
  2. 第2回 : 直角くん
  3. 第3回 : あの時の私です
  4. 第4回 : ぺら草
  5. 第5回 : ほのぼの喫茶店
  6. 第6回 : 私の特殊能力
  7. 第7回 : せいちゃんの下北沢
  8. 第8回 : 父と母の文明開化
  9. 第8回 : 新規ファンの斉藤
  10. 第9回 : 新規ファン斉藤、再び
  11. 第10回 : 祖父母の銭湯を求めて
  12. 第11回 : 春の副産物
  13. 第12回 : 一周忌という名の祭典
  14. 第13回 : ルンバ地獄とケチおじさん
  15. 第14回 : 私はどこにでも行ける
  16. 第15回 : あの光のひとつ
  17. 連載「おしまい定期便」記事一覧
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